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覇者と會盟についての漫画を更新しました。

2枚目の1コマ目、最初は絵の配置だけ考えてこういう絵で投稿してしまったのですが、

元になった2014年のペーパーではこうでした。


たしか耳の向きをちゃんと意識して描いた気がするなあ…と、投稿した後で思い出して、画像を修正しました。

ただソースがいまちょっとわからないので、わかったらまた書きたいと思います。

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2012年から刊行して参りました春秋時代の呉越を舞台にした歴史創作漫画「霸王の輔」ですが、このたび2025年より、再構成したうえで新たに再始動させていただきたいと思います。
これまでの作品(以降「旧作」といいます)は中断し、リメイク版として新作を発表する形になります。
この考えに至った経緯を簡単にご説明させていただきます。

 

「霸王の輔」は、父親からの圧迫で自分の意志を無くしていた范蠡という青年が、呉越の争いの中に身を置きながら、少しずつ自分を取り戻していくというテーマで描き始めました。

当時は私自身もこのテーマに対する解釈を模索しながらの執筆となり、試行錯誤しながら描いていました。

その後、私生活面で家族構成に変化があり、解放感と同時に混乱や喪失感を抱えることになりました。加えて、少し前のブログでpixivでちょっと面倒なコメントを書かれたことについて言及しましたが、そういったことも重なり、しばらくの間歴史創作から離れていました。さらに2019年より商業連載のお仕事をいただいていたこともあり、なかなかこの作品に向き合えない時期が続きました。

その間、親の支配からの解放、という作品の根本的なテーマについては、時間をかけて自分なりに整理ができてきたように思います。

2025年より歴史創作を再開するにあたり、これまでの作品の続きを描くことも当然考えましたが、最初の刊行から10年以上経ち絵柄がかなり変わっていること、上記の作品テーマに対する考えが変わってきたことなどを踏まえ、いったん旧作はリセットして、あらたに再構成して一から新作として描き直すことを選択させていただきました。

 

これまで「霸王の輔」を追い続け、応援してくださった皆さまには心から感謝申し上げます。その上で、旧作を中断させていただくことをお詫び申し上げます。

今後はよりよい作品をお届けできるよう精進して参りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

2025年1月1日 白川祐
白川祐

 

考察

越絶書 巻十五

原文「當明王天下太平~」

ここの「當」は「儻」と同じで「もし」の意です。

考察

呉越春秋巻第九 勾踐陰謀外外伝

祭陵山於會稽祀水澤於江州事鬼神一年國不被災

徐天祜の注では「陵山」は「禹陵の山」となっています。
ただ、ここは「陵山」と「水澤」が対になっているという解釈(張覚『呉越春秋校注』岳麓書社2006)に従い、山神、水神と訳しました。

また、「新訳呉越春秋」(三民書局)所載の原文、および佐藤氏の日本語訳(平凡社東洋文庫)では「二年」となっていますが、私が持っている四部叢刊の影印本は「一年」となっています。

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呉越春秋 巻第九 句踐陰謀外伝

原文 「昔太公九聲而足磻溪之餓人也」

越絶書外伝計倪に「太公九十而不伐磻溪之餓人也」という記載があるので、「九聲而足」は誤りで、ここも「九十而不伐」に置き換えて読むという解釈もあるようです。

ここでは原文通り、九声(古代音律の九つの声)で満足している、と訳しておきました。

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越絶書巻十四

觀乎請糴能知【欠字】人之使敵邦賢不肖

知と人の間に1文字欠けています。ここでは「越」を補って、

「請糴内伝」の記述を見れば、越人がどのようにして敵国の賢人と不肖の人を利用したのかを知ることができ

のように訳しました。

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Twitter で少しずつ読んでいる「呉越春秋」では、范蠡や伍子胥が「相國」として出てきます。
「相國」というのは、すごく雑に説明すると、「総理大臣」みたいなものです。
実際に、范蠡や伍子胥が越や呉の相國だったかというと、そういうわけではありません。この時代、まだ「相國」という官はありませんでした。

「呉越春秋」というのは後漢時代に成立したと言われる文献ですので、当時の人が編纂するにあたって、范蠡や伍子胥を「こいつら総理大臣ぐらい偉かっただろう」という感じで「相國」としたんじゃないかと。
ちなみに「越絶書」では「相國」は使われていません。

私の漫画でも、作中で伍子胥を「相國」として出したんですが、描いたときは、他の人より偉いということを表現するためにそういう用語もいいかなー、呉越春秋で使ってるし…と思ってました。今考えてみると、ちょっと悩むところですね。でも「総理大臣」も変だし…。

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呉越春秋巻第八 句踐帰国外伝

大夫浩の発言

外有侵境之敵、内有爭臣之震、其可攻也

「争臣」には「君主を諌める臣下」(=諍臣)という意味があります。また、「震」には「怒り」という意味があります。

そこで、ここは「内には諫臣の怒りがあり」と訳しました。

 

しかし「争臣」を「臣下が争っている」、「震」を「威」と解釈し、

「内に臣下の争いという脅威があり」のようにも読めそうです。

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越絶書 越絶巻第十四 越絶徳序外伝記第十八

子胥賜劍將自殺歎曰嗟乎眾曲矯直一人固不能獨立

ここの「眾曲矯直」なんですが、「多くの曲がったことが正しいことをまげてしまい」と訳しています。前後の文脈からこのように訳しました。「こと」は「者」でもいいかもしれません。

ただ、「曲」と「直」が対になっているので、「眾」と「矯」も対になるように読めればすっきりしそうな気がします。

ただ、意味が通りません。ちなみに「矯直」で「ためて直くする」という熟語とすることもあるようです。(大漢和辞典)

この訳のような読み方でいいのか、どこか原文がおかしくなっているのか、今のところはわかりません。

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越絶書 越絶巻第十四 越絶徳序外伝記第十八

易曰知幾其神乎道以不害為左

とありますが、易経繫辭下では

子曰知幾其神乎君子上交不諂下交不瀆其知幾乎幾者動之微吉之先見者也君子見幾而作不俟終日

となっており、「道以不害為左」は見られません。

では「知幾其神乎」部分のみが易からの引用として書かれているのか?というと、ここの越絶書の文の構成が

易曰知幾其神乎道以不害為左傳曰知始無終厥道必窮此之謂也

なので、「易曰」以下と「傳曰」以下が対になって、「此之謂也」にかかっていくように思えます。つまりここの越絶書の文としては「知幾其神乎道以不害為左」を易からの引用として扱っているようにも思えます。

「道以不害為左」ですが、三民書局の新訳越絶書という本では、ここは易からの引用とはしておらず「古人認為『左』属陽、陽主生、吉利」としてここを「遠離災禍為上策」と訳してます。

ただ「左」を上策としていいのか、私は「道は害さないことをもとるとする」と逆に訳してしまいましたが、ちょっとここわからないので保留にしておきます。