呉越春秋勾踐陰謀外伝第九

越王句踐十年二月、越王は深く念じ遠く思いやった。呉に侵略されたが、天の幸いを蒙り、越国を回復することができた。群臣は教え諭し、それぞれが一策を謀り、言葉は合致し意は同じで、句踐は敬い従い、その国はそれにより富んだ。国へ帰って五年、未だ命を投げ出す仲間がいると聞かなかった。諸大夫がその身を惜しみ、その体を惜しんでいる者がいた。そこで漸台に登って、その群臣に憂いがあるかどうかを見た。相国范蠡、大夫種、句如らは、厳然と列座し、憂いを抱いていたが、顔には出さなかった。越王はそこで鍾を鳴らして檄を戒め、群臣を召してこれと誓って言った
「私は恥を受け、上は周王に恥じ、下は晋・楚に恥じた。幸いにも諸大夫の策を蒙り、国に帰って政治を修め、民を富ませ士を養うことができた。しかし五年たって未だ命を投げ出す士や仇を取ろうとする臣がいると聞かない、どうやって成功できようか」
群臣は黙然として答える者はなかった。越王は天を仰いで嘆いて言った
「私は、主が憂えれば臣は恥じ、主が恥を受ければ臣は死ぬと聞いている。今、私は自ら奴隷となる災難に遭い、囚え破られる恥を受け、自ら助けることができないので、賢者を用い仁者を任じ、その後呉を伐ち、重く諸臣に負うものであるのに、大夫はどうして得るにたやすく使うに難いのか」
このとき計研は年は若く官は卑く、後ろに列座していたが、手を上げて走り出て、席を越えて前進して言った
「まちがっております、君王の言葉は。大夫が得るにたやすく使うに難いのではなく、君王が使うことができないのです」
越王は言った
「どういうことか」
計研は言った
「官位・財幣・賞金は、君が軽んじるところです。鉾を手に取り刃物を履み、命を断ちきり死に投じるのは、士が重んじるところです。今、王は財の軽んじるところを惜しんで士の重んじるところを責めておられる、なんと危ういことでしょうか」
ここで越王は黙然として喜ばず、顔には恥の色が浮かび、ぞこで群臣に辞去し、計研を進ませてこれに問うて言った
「わたしが士の心を得られるものはなんだろうか」
計研は答えて言った
「君がその仁義ある者を尊ぶのは、治世の入り口です。士民は、君の根本です。入り口が開き根本が固まるには、身を正しくするにこしたことはありません。身を正しくする道は、左右の者に慎み深くすることです。左右の者は、君が盛衰する手段です。どうか大王は左右の者を明らかに選び、賢人を得ていただきたいのみです。昔、太公は九種の音楽に精通した磻溪の飢えた人でしたが、西伯はこれを任じて王としました。管仲は、魯の亡囚、商売の取り分を貪ったという欠点があるが、斉桓公はこれを得て覇者となりました。故に伝に『士を喪う者は亡び、士を得るものは栄える』というのです。どうか王は左右の者を慎重に選んでくだされば、どうして群臣の使えないことを患いましょうか」
越王は言った
「私は賢人を使い能力のある者を任じ、各々その仕事を異にしている。私は虚心で高い望みを持ち、報復の計画を聞くのをこいねがっているのにいま、皆は声を隠して姿を隠し、その言葉を聞かないが、どこに間違いがあるのだろうか」
計研は言った
「賢実の士を選ぶには、それぞれやり方があり、難事を与えて誠を試します。4ひそかに隠し事を告げ、その信を知ります。これと事を論じ、その智をみます。これに酒を飲ませ、その乱れ方を見ます。これに事を示し、その能力を察します。これに色を示し、その状態を知ります。五色を設ければ、士はその実を尽くし、人はその智を尽くします。その智を知り、実を尽くせば、君臣になんの憂いがありましょうか」
越王は言った
「私は士を謀って実を尽くさせ、人はその智をつくしがたが、士には私に有益な言葉を進めてはいない者がある」
計研は言った
「范蠡は内を明察し、文種は遠く外を見ます。どうか大王は大夫種を召してともに深く議ってください、そうすれば霸王の術がみられるでしょう」
越王はそこで大夫種を召してこれに問うて言った
「私は昔、あなたの言葉を受け、自ら困窮、災厄の立場を免れた。いま、すぐれた計略を受けて、私の宿敵に恥を雪ぎたいと思うのだが、どうすれば成功するだろうか」
大夫種は言った
「私は、高く飛ぶ鳥は美食すると死に、深い泉の魚はおいしい餌を食べると死ぬと聞いております。いま呉を撃ちたいのなら、必ず先にその好むところを求め、その願うところを調べ、その後にその実を得ることができます」
越王は言った
「人の好むところはその願いであるが、どうやって確定して死地に制するのか」
夫種は言った
「仇に怨みを報復、呉を破り敵を滅ぼしたいのなら、九術がありますので、君王はこれをお察しください」
越王は言った「私は恥じを被り憂いを抱き、内は朝臣に恥じ、外は諸侯に恥じ、心中は困惑し、精神は空虚である。九術があるといってもどうやってこれを知ることができようか」
大夫種は言った
「九術とは、湯王文王はこれを得て王となり、桓公穆公はこれを得て覇者となりました。城を攻め邑を奪取するのは、靴を脱ぐより容易いことです。どうか王はこれを鑑みて下さい」
種は言った
「一つ目は天を尊び鬼神に仕えその福を求めることです。二つ目は金銭物品を手厚くしてその君に贈り、金銭物品を多くしてその臣を喜ばすことです。三つ目は、穀物や藁を高く買い入れてその国を虚ろにし、欲するところを利用してその民を疲れさせることです。四つ目は、美女を贈ってその心を惑わしその謀を乱すことです。五つ目は、これに巧みな工人と良材を贈り、これに宮室を建てさせその財を尽くさせることです。六つ目はこれに諂う臣下を遣わし、これを伐ちやすくさせることです。七つ目はその諫臣を糾弾してこれを自殺させることです。八つ目は君王の国が富んで鋭い武器を備えることです。九つ目は、鎧武器を鋭くしてその疲弊に乗じることです。およそこの九術は、君王は口を閉じて伝えず、神を敬うようにこれを堅守すれば、天下を取るのも難しくありません、ましてや呉はどうでしょうか」
越王は言った
「よろしい」
そこで第一の術を行い、東郊に祠を建てて陽を祭り名づけて東皇公といい、西郊に祠を建てて陰を祭りづけて西王母といった。禹陵を会稽に祭り、水神を江の中州に祀った。鬼神に事えること一年、国は災厄を被らなかった。越王は言った
「よいことだ、大夫の術は。どうかそのほかのことも論じてほしい」
種は言った
「呉王は宮室を建てるのを好み、工人を用いてやめません。王は名山の神材を選んで、これを献上して下さい」
越王はそこで木工人に山に入らせ木を切らせたが、一年、工人たちは愛しまれなかった。士は帰ることを思いはじめ、みな怨みの心を抱き、木客の吟を歌った。一夜にして天は神木一そろいを生じ、大きさは二十囲、長さは五十尋であった。陽を文梓とし、陰を楩柟とし、巧みな工人が計測し、ぶんまわしと墨縄で断ち、彫刻して回転させ、削ってすり磨き、丹砂と雘青で分かち、模様を磨いて描き、白璧をつらね、黄金をちりばめ、その姿は龍蛇のようで、模様は光を生じた。そこで大夫種にこれを呉王に献じさせ、言った
「東海の使われる臣下、私句踐は、臣下の種に、あえて下吏を通じて左右にお聞かせします。大王の力を頼み、ひそかに小さな宮殿を作りましたが、余材がでましたので、謹んで再拝してこれを献上いたします」
呉王は大いに喜んだ。子胥は諫めて言った
「王は受け取ってはなりません。昔、桀は霊台を建て、紂は鹿台を建て、陰陽は調和せず、寒暑は時期に合わず、五穀は実らず、天は災いを与え、民は虚ろになり国は変じ、ついに滅亡することになりました。大王がこれを受け取れば、必ず越王に殺されることになります」
呉王は聴かず、ついに受け取って姑蘇の台を建てた。三年、材を集め、五年してやっと完成し、遠く二百里を見渡した。
道行く人は、道に死し巷で泣き、怨み嘆く声が絶えず、民は疲れ士は苦しみ、人は安心して生活できなかった。越王は言った
「素晴らしいことだ、第二の術は」
十一年、越王が深く念じ久しく思うのは、ただ越を伐ちたいということであった。そこで計研を招いて問うて言った
「私は呉を撃ちたいと思うが、破ることができないことを恐れている。早急に軍を興したいと思うので、ただあなたに教えを請いたい」
計研は答えて言った
「軍を興し兵を挙げるには、必ず内に五穀を蓄え、金銀を充実させ、国庫を満たし、兵士を激励します。およそこの四者は、必ず天地の気を察し、陰陽をたずね、方位日時を明らかにし、存亡を審らかにしてはじめて敵を量ることができます」
越王は言った
天地・存亡とは、その要点はどういうことか」
計研は言った
「天地の気とは、物には死生があるということです。陰陽をたずねるとは、物には貴賤があるということです。方位日時を明らかにするとは、時機を知るということです。存亡を審らかにするとは、真偽を区別するということです。越王は言った
「死生・真偽とはどういういことか」
計研は言った
「春には八穀を播き、夏には成長して培養し、秋には成熟して収穫し、冬には貯蔵します。天の時が春の穀物が生じるときに種を播かなければ、これは1つめの死です。夏の成長する時に苗がなければ、二つめの死です。秋の成熟するときに収穫しなければ、三つめの死です。冬の貯蔵するときに蓄えなければ、4つめの死です。尭・舜の徳があっても、これをどうすることもできません。天の時の穀物が生ずるときに、老人が勤労し、若者が耕作すれば、気数に対応して、その理を失わないのが、一つめの生です。留意省察し、つつしんで苗の雜草を取り除き、雜草が除かれれば苗は盛んになるのは、二つめの生です。時に先んじて備えをし、穀物が成熟してから収穫すれば、国は未収の税がなく、民は糧食を失うことがないのは、三つめの生です。倉がすでに塗り固められ、古いものを除き新しいものを入れ、新しい物を入れ、君は楽しみ臣が喜び、男女がともに信じるのは、四つめの生です。陰陽は、太陰がいるところの歳に三年留まり休めば、貴賤が現れます。方位日時とは、天門地戸のことを言います。存亡は、君主の道徳です」
越王は言った
「どうしてあなたは年が若いのに、物事に長じているのか」
計研は言った
「美点を持つ士に、若いか年長かは関係ありません」
越王は言った
「あなたの道はすばらしい」
天文を仰ぎ見て、緯宿を集積して観察し、四時の暦を作った。地上のことを天上と対応させ、八つの倉を空のまま造り、陰に従って蓄積し、陽を望んで穀物を売り、最高の計画を謀り、三年で五倍になり、越国は盛んに富んだ。句踐は感歎して言った。
「私は覇業をなした。素晴らしいことだ、計研の謀は」
十二年、越王は大夫種に言った
「私は、呉王は淫蕩で色を好み、迷い乱れて酒色におぼれ、政治を治めないと聞いている。このことによって謀ることはできるだろうか」
種は言った
「破ることができます。呉王は淫蕩で色を好み、太宰伯嚭はへつらって気を惹こうとしているので、行って美女を献上すれば、必ずこれを受け取ります。どうか王は、美女二人を選んでこれにすすめてください」
越王は言った
「よろしい」
そこで人を見る者を国中に使わして、苧蘿山で薪を売っていた、西施・鄭旦という女を得た。薄物の綾織りで着飾らせ、立ち居振る舞いを教え、都の近くの土城で習わせた。三年学んでから呉に献じた。そこで相国范蠡に進めさせて言った
「越王ひそかに天から二人の女を賜りましたが、越国は地位が低く困窮しておりますので、あえて留めず、謹んで臣蠡にこれを献上させます。大王は田舎びた風采の上がらない者を用いたりしないでしょうが、どうか納れてともに掃除をさせてください」
呉王は大いに喜んで言った
「越は二人の女を献上してきた、つまり句踐が呉に忠誠を尽くしている証拠だ」
子胥は諫めて言った
「なりません、王は受け取らないでください。私は、五色は人の目を盲にし、五音は人の耳を聾にすると聞いております。昔、桀は湯を侮って亡び、紂は文王を侮って亡びました。大王がこれを受け取れば、後に必ず災いとなります。私は、越王は朝には書を読んで倦かず、一晩中暗誦し、かつ決死の士数万人を集めていると聞いております。この人は死ななければ、必ずその願いを叶えるでしょう。越王は誠に従い仁を行い、諫言を聴いて賢者を任用しております。この人は死ななければ、必ずそのを上げるでしょう。越王は、夏に皮衣を着て、冬に葛布を用いております。この人は死ななければ、必ず仇を取るでしょう。私は、賢士は国の宝、美女は国の災いと聞いております。夏は妹喜のために亡び、殷は妲己のために亡び、周は褒姒のために亡びました」
呉王は聴かず、ついにその女を受け取った。
越王は言った
「よろしい、第三の策である」
十三年、越王は大夫種に言った
「私はあなたの術を受けて、画策したことは吉で、いまだ符合しないことはない。いま私はまた呉に対し謀ろうと思うが、どうだろうか」
種は言った
「君王は自ら越国は辺鄙な小国で、今年は穀物が実らなかったと言ってください。どうか王は穀物を買い入れることを請い、呉王の意を判断してください。天がもし呉を見棄てるなら、必ず王の要求を許可するでしょう」
越王はそこで大夫種を呉に使いさせ、太宰嚭を通して呉王に見えることを求めた。辞して言った
「越国は土地が窪んで低く、大水と日照りが調和せず、今年は穀物が実らず、人民は飢えて貧しく、道ばたでしきりに飢えております。どうか大王から穀物を買わせていだだき、来年になりましたら倉庫に戻すようにさせて下さい、どうか大王は窮地をお救い下さい」
呉王は言った
「越王は誠を信じ道を守り、二心を抱かず、今窮して赴き訴えている。私はどうして財宝を惜しんで、その願いを奪うことがあろうか」
子胥は言った
「なりません。呉が越を占有するのでなければ、越が必ず呉を占有することになります。吉が往けば凶が来ます。これは賊を養って国家を破壊することです。これに穀物を与えても仲間とすることはできませんが、与えなければ未だ災いとはとならないでしょう。かつ、越には聖臣范蠡がおり、勇猛で謀に長け、まさに修め謹んで攻め戦おうとし、我々の隙をうかがっています。越王の使いが穀物の買い入れを請いに来させた者を見ますと、国は貧しく民は困窮していないのに穀物の買い入れを請うており、我が国に入って吾が王の隙を伺おうとしています」
呉王は言った
「私は越王を卑しめ服従させその人民を所有し、その社稷を包囲し句踐を辱めた。句踐は心から屈服し御者となり馬前で後ろ向きに歩いたことは、諸侯で聞き知らない者はいない。今、私はこれを帰国させ、その宗廟を奉り、その社稷を復興した。どうして私に反する心があろうか」
子胥は言った
「私は、士は窮すると心を抑え人に下るのは難しくなく、その後人に怒る様子を見せると聞いております。私は、越王の飢餓、民の困窮があって、破ることができると聞いております。今、天の道を用いず、地の利に順って、かえってこれに食糧を輸送するのは、もとより君の命令が、狐と雉の相互の戯れのようなものです。狐が体を低くすると雉はこれを信じ、ゆえに狐はその意志をとげることができ、雉は必ず死にます。慎まなくてよいことでしょうか」
呉王は言った
「句踐の国は憂えており、わたしはこれに穀物を与える、恩が行き義が来たり、その徳は明らかで、また何の憂いがあろうか」
子胥は言った
「私は、『狼の子には手なづけがたい心があり、仇の人は親しむことはできないない』と聞いております。虎は食べ物で飼い慣らすことはできず、まむしは思い通りにはなりません。今、大王は国家の幸福を捨て、無益な仇敵を豊かにし、忠臣の言葉を棄て、敵の欲にしたがっておられます。私は必ずや越が呉を破り、猪や鹿が姑胥の台に遊び、宮殿の門に荊と榛がはびこるのを見るでしょう。どうか王は武王が紂を伐ったことをかんがみてください」
太宰嚭は傍らより答えて言った
「武王は紂王の臣ではなかったですか。諸侯を率いてその君を伐ったのは、殷に勝ったといっても、義と言えましょうか」
子胥は言った
「武王はすぐに名声を成した」
太宰嚭は言った
「自ら主を殺して名声を成すのは、私は許せません」
子胥は言った
「国を盜む者は侯に封じられ、金を盜む者は誅せられる。もし武王にその理を失わせれば、周はどうして三家の表を為したであろうか」
太宰嚭は言った
「子胥は人臣でありながら、いたずらに君の好むところに背き、君の心に違い、自ら驕り高ぶっています、君はどうして過ちを知らないだろうか」
子胥は言った
「太宰嚭はもとより越王との親交を求め、先に石室の囚人のことをそそのかし、その宝物や美女の贈りものを受け取りました。外には敵國と交わり、内には君を惑わしています。大王はこれを察し、群小に侮られることのないようにしてください。今、大王はたとえるなら赤子を湯浴みさせるようなものです。泣いたとしても、太宰嚭の言葉を聞かないで下さい」
呉王は言った
「太宰嚭が正しい。お前は私の言葉を聞かず、忠臣の道ではなく、媚びへつらう人のようではないか」
太宰嚭は言った
私は、「隣國に危急のことがあれば、千里を馳せて救う」と聞いております。これはつまり王は亡国の子孫を封じ、五覇は滅亡した末裔を助けるということです」
呉王はそこで越に穀物一万石を与え、これに命じて言った
「私は群臣の建議に逆らって越に輸送した、実りが豊作になれば私に返せ」
大夫種は言った
「私は使命を遂行して越に帰り、豊作になればきっと呉に借りたものをお返しします」
大夫種は越に帰り、越国の群臣はみな万歳を唱えた。そこで穀物を群臣に賞賜し、万民に及ぼした。
二年、越王の穀物は実り、すぐれた穀物をわかち選んで蒸して呉に返し、借りた斗升の数を返し、また大夫種にこれを呉王に返させた。王は越の穀物を得ると長く息をついて太宰嚭に言った
「越の地は肥沃で、その種子は甚だすぐれている。留めて我が民にこれを植えさせるべきだ」
そこで呉は越の穀物をまいたが、穀物の種子は殺されており生えてくるものはなく、呉の民は大いに飢えた。越王は言った
「彼らは困窮している、攻めてもよいだろうか」たいたい
大夫種は言った
「まだなりません、国は貧しくなりはじめただけで、忠臣はまだ存在し、天の気もいまだ現れません。時期を待つべきです」
越王はまた相国范蠡に問うて言った
「私には報復の謀があり、水戦であれば舟に乗り、陸の行軍であれば車に乗るが、車と船の利があると、兵器と弓に苦しむものだ。いまあなたは私のために謀をしているが、誤ちでないことはなかろうか」
范蠡は答えて言った
「わたしは、古の聖君は、作戦して兵を用いることに通暁しないものはなく、そして隊伍を組み鼓を打ち鳴らすことが吉とでるか凶とでるかは、その巧みさにより決まりました。いま越には南林出身の処女がいて、国人はすばらしいと称えていると聞いております。どうか王はこれを召し、ただちにお会いになって下さい」
越王はそこで使者にこれを招かせ、剣や戟の術を問うた。処女が北に向かい王に会おうとすると、道中で一人自ら袁公と称する一人の老人と出会った。老人は処女に問うた
「私はあなたが剣術に長けていると聞いている、どうかひとたびこれを見せてほしい」
娘は言った
「私はあえて隠すことはありません、ご老人はこれを試してください」
そこで袁はすぐさま箖箊竹を抜いたが、竹の枝の枯れたところが、未だ折れて地に落ちないうちに、娘はただちに末端を受けた。袁公はただちに飛び上がって木に上り、白猿に変じた。ついに別れて去った。越王に見えると、越王は問うて言った
「剣の道はどのようなものか」
娘は言った
「私は深林の中で生まれ、無人の野で成長し、剣の道で習得していないものはありませんが、諸侯には知られておりません。ひそかに撃剣の道を好み、これを読んで休むことはありませんでした。私の剣術は人から授かったものではなく、忽然と自ら得たものです」
「その道はどのようなものか」
娘は言った
「その道は甚だ微小で易しいものですが、その意は甚だ奧深いものです。道には門戸があり、また陰陽があります。門を開け戸を閉め、陰気は衰え陽気は興ります。およそ手で武器を操って戦う道は、内に精神を充実させ、外におだやかな振る舞いを示し、見た目は美しい婦人のようですが、撃ち取るのは恐ろしい虎のようです。形を連ね気を待ち、神とともに行きます。暗くても日が出ているようで、兎のように飛び跳ねます。形を追い影を追うのは、光がはっきりと見えにくいようです。呼吸は行き来し、法規禁令に及びません。縦横逆順に、まっすぐ行って戻るのに音は聞こえません。この道は、一人が百人に当たり、百人が万人に当たるものです。王がこれを試したいと思えば、そのしるしはすぐ現れるでしょう」
越王は大いに喜び、そこで娘に号を加え、号して「越女」と言った。そこで部隊長や達人に命じてこれに習わせ、軍士に教えた。この時皆越女の剣を称えた。
ここで范蠡はまた射術が得意な陳音という者を進めた。音は、楚人であった。越王は音を招いて問うて言った
「私は、お前が射術が得意だと聞いているが、その道はのように学んできたのか」
音は言った
「私は、楚の田舎者で、かつて射術をおしはかりましたが、未だその道を知り尽くすことができません」
越王は言った
「だがどうかひとつふたつ述べてほしい」
音は言った
「私は、弩は弓より生じ、弓は彈より生じ、彈は古の老子に始まったと聞いております」
越王は言った
「老子の彈とはどういうことか」
音は言った
「昔は、人民は質朴で、腹が減れば鳥獣を食べ、喉が渇けば霧露を飲み、死ねば白茅で包み、野に投じられました。老子は、父母が禽獣に食べられるのに忍びず、ゆえに彈を作ってこれを守り、鳥獣の害を絶やしました。黄帝の後、楚には弧父がいました。弧父は、楚の荊山に生まれ、生まれて父母がなく、子供の時、弓矢を習い、射て外すことはありませんでした。その道を羿に伝え、羿は逄蒙に伝え、逄蒙は楚の琴氏に伝えましたが、琴氏は弓矢は天下を威服するのに足りないと思いました。この時、諸侯は互いに撃ち合い、兵刃は交錯し、弓矢の威力では征服することはできませんでした。琴氏はそこで弓を横にし肘に付け、引き金を設けて、これに力を加え、そののち諸侯を征服することができました。琴氏はこれを楚の三侯につたえ、いわゆる亶、鄂、章であり、人は麋侯、翼侯、魏侯と号しました。楚の三侯から霊王に至るまで、自ら楚に代々伝わるものだと称し、思うに桃弓棘矢で隣國に備えたのです。霊王より後は、射道は流派が分かれ、百家の名手がその正統に到達することはできませんでした。私の先祖はこれを楚で受け継ぎ、私に至るまで五代です。私はその道に明るくはありませんが、どうか王は試問してください」
越王は言った
「弩の形状は何に法っているのか」
陳音は言った
「郭は方城であり、臣民を守ります。教は人君であり、命が発せられるところです。牙は執法であり、吏卒を守ります。牛は中将であり、宮殿をつかさどります。関は守禦であり、出入りを取り締まります。錡は侍従であり、君主の命を聞きます。臂は道路であり、使者を通行させます。弓は将軍であり、重大な責任をつかさどります。弦は軍師であり、戦士を守ります。矢は飛客であり、教えをつかさどります。金は敵を防ぐものであり、行って留まりません。衛は副使であり、路を治めます。又は命を受けるものであり、可否を知ります。縹は都尉であり、侍従を指揮します。敵は生命がきわめて危ういことであり、騒ぐことはできません。鳥は飛ぶに及ばず、獣は逃げる暇がなく、弩の向かうところは、死なないものがありません。私は愚劣な者ですが、道はこのように知りつくしています」
越王は言った
「どうか正射の道を聞かせてほしい」
音は言った
「私は、正射の道は、道は多いがかすかで小さいと聞いております。昔の聖人が射ると、弩がいまだ発せられなくても先にその当たるところを言いました。私はいまだ古の聖人には及びませんが、どうかその要点を言い尽くさせてください。射の道は、身体は載せた板のように、頭部は激しく奮い立たせるように、左足は縦にし、右足は横にし、左手は枝を掴むように、右手は子供を抱くように、弩を上げて敵を望み、集中して息を止めます。気とともに発し、和らぎおだやかになることを得て、精神は定まり意思は離れ、離れるのと留まるのが分離します。右手で機器を発しますが、左手は関知しません。一つの身体でことなる命令を受けるのですから、ましてや雌雄はどうでしょうか。これが正しく射る弩を持つ道です」
「どうか敵の外見を見て、志を合わせて矢を飛ばす道を聞かせてほしい」
音は言った
「矢を射る道は、志にしたがって敵を望み、合して三連射するものです。弩の張力には斗石の差があり、矢には軽重があり、一石の弩は一両の矢を取り、その数量は平衡し、矢の飛ぶ遠近高下は、重さに求められます。道の要点はここにあります、言い残したことはありません」
越王は言った
「よろしい。あなたの道は言い尽くされた、どうかあなたは残らず我が国人に教えてほしい」
音は言った
「道は天より出で、事は人にあり、人の習うところは、霊妙でないものはありません」
そこで陳音に北郊の外で士に弓を教えさせ、三ヶ月して、軍士はみな弓弩をうまく使えるようになった。陳音が死ぬと、越王は心を痛め、国の西に葬り、その墓所を号して陳音山と言った。