呉越春秋勾践入臣外伝第七

越王勾践五年五月、大夫種・范蠡と呉に入って奴隷となることになり、群臣は皆送って浙江のほとりに至った。河に臨んで餞の祭りをし、軍は固陵に陣をしいた。大夫文種は進んで祝いをなし、その言葉に言った

「大いなる天の助けは、先に沈み後に上がる。災いは徳の根本となり、憂いは福堂となる。人を威圧するものは滅び、服従するものは栄える。王は災禍を引きよせ致すといえども、その後は災いはない。君臣は生きながら離れ、上皇の心を動かす。民衆は悲しみ、痛みを感じないものはいない。私にどうか乾肉を薦めさせ、酒二杯をつがせてください」
越王は天を仰いでため息をついて、杯を挙げて涙を流し、黙して何も言わなかった。 種はまた進んで祝って言った
「大王の徳はひさしく限りなく、天地は霊を授け、天地の神が手助けする。吾が王はこれを厚くし、幸いが側にある。徳は百の災いを消し、利はその福を受ける。かの呉の宮廷を去って、来たりて越国に帰す。酒をすでについだので、万歳を称えさせてください」
越王は言った
「私は前王の余徳を受け、国を辺境に守り、幸いに諸大夫の謀をうけ、ついに前王の墳墓を保った。今、恥辱に遭い天下の笑いものになったのは、はた私の罪であろうか、諸大夫の責任であろうか。私はその咎を知らないので、お前たちはその考えを論ぜよ」
大夫扶同は言った
「どうしてこれを言うのを恥じましょうか。昔、成湯は夏の朝廷に繋がれましたが、伊尹はその側を離れませんでした。文王は石室に囚われましたが、太公はその国を捨てませんでした。盛衰は天によるものですが、存亡は人にかかっています。湯は表情を変えて桀にへつらい、文王は服従して紂に寵愛されました。夏殷は武力を恃んで二聖人を虐げましたが、二人は己を屈して天道を得たのです。故に湯王は困窮してもみずから傷まず、周文王は困窮しても気にしませんでした」
越王は言った
「昔尭は舜・禹を任じて天下は治まり、洪水の害があったとしても、人の災いとならなかった。変異は民に及ばないのだから、ましてや人君に及ぶだろうか」
大夫若成は言った
「大王の言葉のとおりではありません。天には運命があり、徳には薄厚があります。黄帝は禅譲せず、尭が天子の位を伝えました。三王のころは臣がその君を弑逆し、五覇ころは子がその父を弑逆しました。徳には広狭があり、気には高低があります。今の世はなお人の市で、品物を置いて詐欺をするようなもので、謀を抱いて敵を待つのです。不幸にして厄に陥いれば、伸びることを求めるのみです。大王はこれをご覧にならずに喜怒を懐かれるのですか」
越王は言った
「人を任じるものは身を辱めず、自ら用いる者はその国を危うくする。大夫は皆先に未然の端緒を図り、敵を傾け仇を破り、坐して泰山の福を招くのである。今、私はこのように守って急迫しているあるが、それで成湯や文王が困厄のあとに必ず覇を成し遂げたというのは、どうしてこれを言うことが礼儀に違おうか。君子は寸時を奪いあって珠玉を捨てるものだが、今私は軍旅の憂いを免じられることをこいねがうも、またかえって敵の手に捕らえられ、自身は奴隷となり、妻は僕妾となり、往って帰らず、敵國に客死する。もし魂魄が知るなら、前君に恥じ入り、知らなければ、体と骨は捨てられる。どうして大夫の言が私の意に合致しないだろうか」
ここで大夫種・范蠡は言った
「昔の人はこう言ったと聞いております、『居所が奥深くなければ、志は広がっていかない。顔に憂いがなければ、思いは深淵にならない。』聖王・賢主は、皆困厄の難に遭い、赦されない恥を蒙りました。身は囚われても名は尊く、体は辱められても名声は栄えました。卑きあっても悪とせず、危うきにあっても恵まれないとしませんでした。五帝は徳が厚く窮厄の恨みはありませんでしたが、しかしなお氾濫の憂いがありました。三度たちまち囚われる恥辱を受け、三度監獄の囚人となるも逃れず、涕泣して冤罪を受け、行き哭して奴隷となり、周易を増やして卦を作り、天道はこれを助けました。時期を過ぎ、閉塞が終われば安泰になり、諸侯は並び立って救い、王命は朱鬣・玄狐といった吉兆に現れました。輔臣は結髪して監獄を破り枷を壊し、国に帰って徳を治め、ついにその仇を討ちました。悩みを海内より除き、手や背を覆すようにして、天下はこれを宗主とし、功は万世に垂れました。大王が災厄に屈すれば、臣下はまことに謀を尽くします。骨を断ちきる剣には、削る利はありません。鉄に穴を開ける矛には髪を分かつ便はなく、建策の士にはたちまち勃興する説はありません。今私が天文をきわめ、地籍を案じましたところ、二つの気が共に萌え、存亡は居るところを異にし、彼らが興れば我らは辱められ、我らが覇業を成せば彼らは滅びます。二国が争う道は、未だ行き着くところを知りません。君王の危難は、天道の巡り合わせであり、どうして必ず自ら傷むことがありましょうか。吉は凶の門であり、福は災いの根です。今、大王は危困の際にいるといえども、だれがその権勢が盛んになる兆しでないことを知りましょうか」
大夫計研は言った
「今、君王は会稽に国をおくも、呉に入るという困窮に遭い、悲しみを言い苦しみを語り、群臣はこれを嘆いています。恨み悲しむ心にのっとるといっても、心を動かさないことがありましょうか。しかし君王はどうしてでたらめの言葉や偽りの言葉をなし、用いて相欺くのですか。私はまことに取り入れません」 越王は言った 「私はまさに去って呉に入り、国を諸侯大夫に強いて頼もうとしている、どうか各々自ら述べて欲しい、私はまさにこれに委ねよう」
大夫皋如は言った
「私は、大夫種は忠にしてよく慮り、民はその知に親しみ、士は喜んで用いられると聞いております。いま国を一人に委ね、その道は必ず守られているのに、どうして心にしたがい大いに群臣を命じるのですか」 大夫曳庸は言った
「大夫文種は、国の梁と棟木、君の爪牙です。すぐれた馬はつれだって馳せることはできず、日月は並んで照らすことはできません。君王が国を種に委ねれば、千万の国家を治める術で挙がらないものはありません」
越王は言った
「国は、前王の国である。私の力は弱く勢いは劣り、社稷を守り、宗廟を奉って受けつぐことができなかった。私は、父が死ぬと子が代わり、君が行けば臣が親政すると聞いている。このたびは諸大夫を棄て、呉に客として隷臣となるので、国を委ね民を帰しお前たちに頼む。 わたしが屈辱を受ける経緯は、またお前の憂いでもある。君臣が道を同じくし、父子が気を共にするのは、天性自然のことである。どうして残る者が忠義を尽くし、行く者が信用できないといえようか。どうして諸大夫は事を論じるのに、或いは合い或いは離れ、私に不定の心を懐かせようとするのか。国をいただいて賢人を任じ、功績をはかり成績を考慮するのは、君の使命である。教えを奉り理に順い、分を失わないのは、臣の職責である。私は諸大夫を顧みるにその能力をもってし、死節を君に示すことを言うのみである。ああ、悲しいことだ」
計研は言った
「君王が述べるところは、もとより理にかなっています。昔、成湯が夏に入ったとき、国を文祀に付し、西伯が殷に行ったときは、国を二老に委ねました。今夏に至ってまさに行こうとするも、志は帰ることにあります。市に行く妻は、子に掃除をいいつけ、出て行く君主は、臣下に守ることを命令します。子が問うには事を以てし、臣下が謀るには能力を以てします。今君王は士の志向を知りたいと思い、各々その事情を述べ、その能力を挙げるのは、その適正を議ることです」
越王は言った
「大夫のいうことは正しい。私はまさに行こうとしている。どうかお前たちの風諭を聞かせてほしい」 大夫種は言った
「内は国境の兵役を修め、外は耕作と戦争の備えを修め、荒れて土地を棄てることはなく、人民は親しみ付き従う、これは私の事情です」
大夫范蠡は言った
「危難に遭った君主を助け、亡国を存続させ、屈み苦しむ危難を恥じず、辱められた土地を安んじて守り、行って必ず帰り、君主と復讐するのは、私の事情です」
大夫苦成は言った
「君の命令を発布し、君の徳を明らかにし、窮すれば災厄を共にし、進めば覇業を共にし、煩いを統べて乱をおさめ、民に分を知らしめるのは、私の事情です」
大夫曳庸は言った
「命令を奉り使者を受け入れ、和を諸侯と結び、命令を通達させ、往く者に賂い来る者に贈り、憂や患いを解きほぐし、疑うところをなくさせ、出でれば命を忘れることなく、入ればとがめられることがない。これは私の事情です」
大夫皓進は言った
「心を一つにし志を等しくし、上は共にこれを等しくし、下は命令に違わず、動けば君命に従う。徳を修め義を行い、信を守り故きを温ね、間違いに臨めば疑惑を解決し、君が誤れば臣が諫め、心をまっすぐにして乱れず、過ちを挙げて公平をおさめ、親戚におもねらず、外に私せず、身を推して君につくし、終始分を一つにする、これは私の事情です」
大夫諸稽郢は言った
「敵を望んで陣を設け、矢を飛ばし武器を挙げ、敵の腹を踏んで屍をまたぎ、血をさかんに流し、進むことを貪って退かず、二軍が敵対すれば、敵を破って兵を攻め、威は百国を凌ぐ、これは私の事情です」
大夫皋如は言った
「徳を修め恩惠を行い、人民を慰撫し、自ら憂慮と苦労に臨み、動けばすなわち自ら行う。死者を弔問し病人を生かし、民の命を救い活かし、古いものと新しいものを蓄え、食事は贅沢にせず、国は富み民は栄え、君のために才能を養う。これは私の事情です」
大夫計研は言った
「天地や暦、陰陽を考察し、変を観て禍を調べ、妖祥を分別する。日月が色を帯びれば、五精が次々に入れ替わり、福を見れば吉を知り、妖が出れば凶を知る、これは私の事情です」
越王は言った
「私が北の国に入り、呉の不遇な奴僕となるといえども、諸大夫が徳を懐き術を抱き、各々一分を守り、社稷を保つのであれば、私はどうしてこれを憂えようか」
ついに浙江のほとりで別れた。群臣は涙を流し、悲しみを感じないものはなかった。越王は天を仰いで嘆いて言った
「死は、人の恐れるところである。もし私が死のことを聞けば、その胸中でなんと恐れることがないだろうか」
ついに舟に乗ってただちに去り、ついに振り返らなかった。 越王夫人はそこで船に寄りかかって泣き、烏や鵲が河のみぎわで蝦をついばみ、飛び去ってはまたやってくるのを顧みて、そこで泣いてこれを歌って曰く、 「飛鳥を仰ぎ見るや烏や鳶が、大空を凌ぐや翩翩と、中州に集まってほしいままに戯れ、蝦をついばみ羽の根元を上げる雲の間、気ままに行ったり戻ったりする。私は罪がないのに地に背き、何の罪があって天に罪を負うのか。帆を上げてひとり西へ行き、だれが帰るのを知ろうか何れの年に。心は憂えて割けるがごとく、涙は流れ両頬にかかる」
また哀吟して言った
「かの飛鳥は鳶や烏、すでに旋回して飛び集まって休む。心が専らにするのは白い蝦、どこに食べ物があるのか江湖に。旋回してまた飛び、去ってはまた帰る、ああ。はじめ君に事えて家を去り、我が命を終えるのは君の都。ついに来たり遭遇するのは何の罪か、我が国を離れて呉に去る。妻は粗末な衣服を着て婢となり、夫はかんむりを外して奴となる。歳月は遙か遠く困難は極まり、恨みは悲痛で心はいたむ。腸は千に結ばれて心にきざまれ、ああ悲しいかな食を忘れる。願わくば我が身は鳥のごとく、身は高く飛び回って翼をもたげる。我が国を去って心は揺れ、心は憤り怨むのを誰が知ろうか」
越王は夫人の怨歌を聞いて、心の中で嘆いたが、かえって言った 「私は何を憂えるのか。私の六枚の羽莖は備わっている」
ここで呉に入り、夫差に見えて稽首再拝して臣と称し、曰く
「東海の賤臣句踐、上は天の神に恥じ、下は土地神にそむき、功力を見分けず、王の軍士を汚辱し、辺境で罪に触れました。大王はその深い罪をお許しになり、裁いて役臣にあて、箒とちりとりをとらせました。まことに厚恩を蒙り、少しの間の命を保たせていただき、仰いで感じ入り俯いて恥じるにたえません。私句踐は叩頭頓首いたします」
呉王夫差は言った
「私はそなたについてまた過っていた。そなたは先君の仇を討とうと思わないのか」
越王は言った
「私が死ぬならそのときは死にます。どうか王はこれをお赦しください」
伍胥は傍らにいて、目は火の粉のよう、声は雷のようで、そして進み出て言った
「飛ぶ鳥が青雲の上にいて、なおいぐるみの糸を結びつけた小さな矢でこれを射ようとすれば、どうしてますます近寄って華池に臥し、庭の回廊に集まりましょうか。今、越王は南山の中に放たれ、保つことのできない地に遊んでいたのに、幸いにも来たりて我が土地に渡り、我が駒寄に入りました。これはすなわち料理人が作り上げた食事です。どうしてこれを失ってよいでしょうか」
呉王は言った
「私は、降伏した者を誅殺すれば、禍は三世に及ぶと聞いている。私は越をおしんで殺さないのではない、天の咎めや誡めを恐れてこれを赦すのだ」
太宰嚭は言った
「子胥は一時の計には明るいですが、国を安んずる道に通じていません。どうか大王は句踐が箒を執ることを成し遂げ、つまらぬ者の意見にかかわることがございませんように」
夫差はついに越王を誅さず、車を御し馬を養わせ、宮室のなかに隠した。 三月、呉王は越王を宮中に召して見えた。越王は前に伏し、范蠡は後ろに立った。呉王は范蠡に言った
「私は、貞婦はやぶれ滅びる家には嫁がず、仁者賢人は絶滅の国で官にならないと聞いている。今、越王は無道で、国はすでにまさに滅びようとし、社稷は崩壊し、身は死して血筋は絶え、天下の笑いものとなった。しかし、お前は主とともに奴僕となり、呉に来て帰順するとは、どうして愚かでないことがあろうか。私はお前の罪を許したいと思う。お前は心を改め自身を新たにし、越を棄てて呉に帰順できるか」
范蠡は答えて言った
「私は、亡国の臣は、あえて政治を語らず、敗軍の将は、あえて勇を語らないと聞いております。私は越にあって不忠不信であり、今越王は大王の命令を奉らず、軍隊を用いて大王と対峙し、今罪を得ることになり、君臣ともに降りました。大王の大きな恵みを蒙り、君臣ともに命を保つことができました。どうか内に入っては掃除にあて、外に出ては使い走りにあててください、それが私の願いです」
この時越王は地に伏して涙を流し、自ら遂に范蠡を失うと思った。呉王は范蠡が臣となり得ないと知り、言った
「お前はもはやその志を変えない。私はまたお前を石室の中に置くことにする」
范蠡は言った
「私は命令のとおりにさせてください」
呉王は立って宮中に入り、越王と范蠡は石室に走り入った。越王は前掛けを身につけ、頭巾をかぶり、夫人は縁取りのない裳を着て、左前の肌着を着た。夫はまぐさを切って馬を養い、妻は水を与え、馬糞を掃除し、清掃をした。呉王が遠見の台に登って越王と夫人を望見すると、范蠡は馬糞の傍らに坐しており、君臣の礼は存在し、夫婦の儀は備わっていた。王は太宰嚭を顧みて言った
「あの越王は、一貫した操の人であり、范蠡は、かたくなな士であり、困難で苦しい地にあるといえども、君臣の礼を失わない。私はこれを哀れむ」
太宰嚭は言った
「どうか大王は聖人の心をもって、貧しく身寄りのない士を哀れんでください」
呉王は言った
「お前のためにこれを許そう」
その後三月して、吉日を選んでこれを赦そうとし、太宰嚭を召して謀って言った
「越は呉にとって、土地を同じくし地域を連ねている。句踐は愚かでわるがしこく、自ら秩序を破ろうとした。私は天の神霊、前王の遺した徳を承けつぎ、越の侵攻を討伐し、これを石室に捕らえた。私の心は見るに忍びず、これを赦そうと思う。お前はどう思うか」
太宰嚭は言った
「私は、徳は報いないことはないと聞いております。大王は越に仁を垂れ恩を加えました。越はどうして報いないことがありましょうか。どうか大王はその意を完成させてください」
越王はこれを聞き、范蠡を召してこれに告げて言った
「私は外より聴いて、心はただこれを喜ぶが、またその完成しないことを恐れる」
范蠡は言った
「大王は心を落ち着けて下さい、事はこれ意味があると、『玉門』の第一に書いてあります。今年の十二月、時は日の出の時にあります。戊は、囚日であり、寅は、陰後の辰です。庚辰を合し歲後に会します。戊寅の日は喜びを聞き、その罪を罰しない日です。時が卯にあると戊を害し、功曹は騰蛇となり戊に臨み、利を謀る事は青竜にあり、青竜は勝先にあり、酉に臨み、死気となります。そして寅に制圧、この時その日を制圧し、用いてまたこれを助けます。我々が求めることには、上下に憂いがあります。これはどうして天網が四方に張り、万物がことごとく傷つかないことでありましょうか。王はどうしてこれを喜ぶのですか」
果たして子胥が呉王を諫めて言った
「昔、桀は湯を捕らえて誅さず、紂は文王を捕らえて殺さず、天道はめぐり返って、禍は転じて福となりました。故に、夏は湯に誅せられ、殷は周に滅ぼされたのです。今、大王はすでに越君を捕らえているのに誅殺を行わないとは、私は大王がこれに惑うことが深刻だと思います。 殷・夏の災い無きことを得られましょうか 」
呉王は遂に越王を召したが、長い間会わなかった。范蠡と文種は憂えてこれを占い、言った
「呉王はわれらを擒にする」
しばらくして太宰嚭が出でて大夫種・范蠡に会い、越王がまた石室にとらわれたと言った。伍子胥はまた呉王を諫めて言った
「私は、王者は敵國を攻めこれに勝てば誅殺を加え、故に後に報復の憂いがなく、遂に子孫の患いを免れると聞いております。 今越王はすでに石室に入っています。よろしく早くこれを処理するべきです。後に必ず呉の患いとなるでしょう」
太宰嚭は言った
「昔、斉の桓公は燕が至った地を割いて燕公に賜り、そして斉君はその美名を獲得しました。宋の襄公は楚軍が河を渡ってから戦い、『春秋』はその義を多としました。功は立ち名は称えられ、軍が敗れても徳がありました。今、大王がまことに越王を赦せば、功は五覇で一番となり、名は先の古人を越えます。呉王は言った 「私の病気が癒えるのを待ち、まさに太宰のためにこれを赦そう」
後一月して、越王は石室を出て、范蠡を召して言った
「呉王は病気になり、三ヶ月癒えない。私は、人臣の道は、主が病めば臣は憂うものだと聞いている。かつ、呉王が私を待遇する恩は甚だ厚い。病の癒えることはないのか、あなたはこれを占ってみよ」
范蠡は言った
「呉王が死なないことは明らかです。己巳の日に至ればまさに癒えるでしょう、どうか大王は留意なさってください」
越王は言った
「私が窮しても死なないのは、あなたの策によるのみである。中途で猶予することが、どうして私の志であろうか。できるかできないか、ただあなたにこれを図ってほしい 」
范蠡は言った
「私がひそかに呉王を見ますと、まことに正しくない人です。しばしば成湯の義を口にしますが、これを行いません。どうか大王は病を見舞うことを求め、会うことができたら、そこでその糞便を求めてこれを嘗め、その顔色を見て、これに拜賀し、呉王が死なないことを言い、回復する日を約束するべきです。すでにその言葉が証明された後ならば、大王は何を憂えることがありましょうか」
越王は翌日太宰嚭に言った
「囚われの臣が一度病気を見舞いたい」
太宰嚭はそこで入って呉王に言い、王は召してこれに会った。たまたま呉王の排便に遭い、太宰嚭は糞便を奉って出て、扉の中で会った。越王はそこで挨拶した
「どうか大王の糞便を嘗め、吉凶を判断させてください」
そしてその糞尿を手に取りこれを嘗めた。そして入室して言った
「囚われの臣句踐が大王にご挨拶いたします、王の病は己巳の日に至って回復しはじめ、三月三月壬申に至れば病は癒えます」
呉王は言った
「どうしてそれがわかるのか」
越王は言った
「私はかつて師に仕え、糞便は穀物の味に従い、時候の気に逆らう者は死に、時候の気に従う者は生きると聞きました。今、私はひそかに大王の糞便を嘗めましたところ、その便の味は苦くかつ辛酸なものでした。この味は、春夏の気に応じます。私はこれでわかったのです」
呉王は大いに喜び、言った
「仁者である」
そこで越王を赦して石室から離れさせ、去って宮室に赴かせ、元のように家畜の世話をさせた。越王は糞便を嘗めてから後、ついに口臭を病んだ。范蠡はそこで左右の者に皆どくだみを食べさせ、その気を乱した。 その後、呉王は越王の約束した日に病が癒え、内心でその忠義を思い、政治に臨んだ後、おいに文台に酒の席を設けた。呉王は令を出して言った
「今日は越王をのために北面の座を並べた、群臣は客礼をもってこれに事えよ」
伍子胥は走り出して家に至り、席に着かなかった。酒宴が酣になり、太宰嚭は言った
「おかしなことだ。今日出席者はそれぞれ祝詞を述べるのに、不仁な者は逃走しげ、仁者は留まっている。私は、声を同じくする者はお互い調和し、心を同じくする者はお互い求め合うと聞いている。今、相国は剛勇の人ですが、その意は仁を極めた人がいることに内心恥じて、席に着かないとは、正しいことでしょうか」
呉王は言った
「そのとおりだ」
ここで范蠡は越王とともに起ち上がって呉王への寿をなした。その辞に言う
「下臣句踐とそれに従う小臣范蠡は、杯を奉って千歳の寿を奉ります、辞にいわく、皇天は上にあって命令し、四時を明らかに照らし、心を専らにし仁慈を明察する、仁者とは大王のことです。自ら大きく恵み、義を立てて仁を行う。九徳は四方に広がり、群臣を威服する。ああ幸いなるかな、徳を伝えて極まりなく、上は太陽を感動させ、たくさんの瑞祥を降します。大王の寿命は万歳に延び、長く呉国を保ちます。四海はあまねく従い、諸侯は賓服します。杯の酒を飲み干し、永く万福をお受けください」
ここで呉王は大いに喜んだ。翌日、伍子胥は宮中に入って諫めて言った
「昨日、大王は何をご覧になったのですか。私は、内に虎狼の心を抱き、外には美辞麗句を用いるのは、ただ外側の情でその身を保身するためと聞いております。山犬は清廉を語ることはできず、狼は親しむことができません。今、大王は暫時の言説を聞き、万歳の患を慮らず、忠直の言を放棄し、讒夫の言葉を用いています。血を注いで必ず討ち取ると誓った仇を滅ぼさず、懐いた怨みを絶やしていません。なお毛を爐の炭の上に放って幸いに焦げず、卵を千金の重りの下に投げて壞れないのを臨むようなもので、どうして危うくないことがありましょうか。私は、桀は高所に登って自ら危険を知ったが、自ら安んずる方法を知らなかったときいております。自分の前に白刃があることにより自ら死ぬことを知っても、自らを存続させる方法を知りません。惑った人が返ることを知れば、迷った道は遠くはありません。どうか大王はこれをお察しください」
呉王は言った
「私は病に伏すこと三月、かつて相国の一言も聞かなかった。これは相国の慈愛のなさである。また私の口が好ものを進めず、心は相手を思わなかった、これは相国の不仁である。人臣が不仁不慈であれば、どうしてその忠信を知ることができようか。越王は道に迷ったが、国境守備のことを棄て、自らその臣民を率いて私に帰順した、これは義である。自らは虜となり、妻は自ら妾となり、私を怨まず、私が病気になると、自ら私の溲便を嘗めた、これはその慈愛である。その府庫を空にし、その財宝を尽くし、昔のことを思わなかった、これはその忠信である。義、慈、忠の三者がすでにそろい、私に仕えた。私はかつて相国のいうことを聞いてこれを誅したが、これは私の不知であり、相国が私心を喜ばしていたのである。どうして皇天に負わないことがあろうか」
子胥は言った
「どうして大王の言葉が道理に反するのでしょうか。虎が姿勢を低くするのは、まさに打ちかかろうとしているのです。狸が身を低くするのは、獲物を捕らえようとしているのです。雉は目やにで目がくらんで網に捉えられ、魚は喜ぶものに釣られて餌にかかって死にます。かつ、大王がはじめて政治に臨まれましたのは、『玉門』の第九に背いており、それは事の失敗を戒めとすれば、咎めはないということです。今年三月甲戌、時は鶏鳴の時刻です。甲戌は、太歳の位置が将と会します。青竜が酉にあり、徳は上にあり、刑は金にある、この日はその徳を害します。父に従わない子がおり、君に逆節の臣があることがわかります。大王は越王が呉に帰したことを義となし、糞便を嘗めたことを慈となし、府庫を空にしたことを仁となしていますが、これはもとより人に対して愛がなく、親しむべきではありません。うわべをとりつくろってその身を保身するのです。今越王は呉に入臣しましたが、これはその謀が深いと言うことです。その府庫を空にし、怨みの様子を見せませんが、これは吾が王を欺いているのです。下では王の糞尿を飲み、上では王の心を食っているのです。下では王の糞便を嘗め、上では王の肝を食っているのです。重大なことです、越王は呉を終わらせ、呉はまさに擒となろうとしているのです。ただ大王は留意してこれを察して下さい、私はあえて死を逃れて前王に背こうとは思いません。ひとたび社稷が廃墟となり、宗廟は荊だらけになれば、後から後悔して間に合うでしょうか」
呉王は言った
「相国はこのことを捨ておき、また言うことのないように。私はまた聞くに忍びない」
ここでついに越王を許して国に帰らせ、蛇門の外に送り、群臣は餞行した。呉王は言った
「私は君を赦して国に帰らせるのであり、必ず始めから終わりまで覚えておくように。王は勉励せよ」
越王は稽首して言った
「いま大王は私のよるべない困窮を哀れみ、生きて国に帰らせてくださり、文種・范蠡らとどうか車の下で死なせていただきたい。上天は蒼蒼として、私は敢えて背きません」
呉王は言った
「ああ、私は君子は一度言えば再び言わないと聞いている。今お前はすでに行く、王は勉励せよ」
越王は跪き地に伏して再拝し、呉王はそこで越王を引いて車に上らせ、范蠡が御者となり、ついに去った。三津のほとりに至り、天を仰いで嘆いて言った
「ああ、私は災厄に悩み、誰がまた行きてこの津を渡ると思っただろうか」
范蠡に言った
「この三月甲辰、時は日昳にあり、私は上天の命を受け、故郷に帰還するが、後の患いを無くすことができるだろうか」
范蠡は言った
「大王はお疑いにならず、まっすぐ前を見て道を進んで下さい。 越にはまさに福がもたらされ、呉にはまさに憂いがあります」
浙江のほとりにいたり、大越の山川が重なり秀麗で、天地が再び清明であるのを望見した。 王と夫人は嘆いて言った
「私はすでに絶望し、万民に永遠の別れを告げた、どうしてまた帰って、故郷の国を復興すると思っただろうか」
言い終わると顔を覆い、まぶたに涕泣した。このとき万民はみな感歎し、群臣は畢賀した。