呉越春秋夫差内伝第五

十一年、夫差は斉を伐った。斉は大夫高氏を使わして呉軍に謝罪させて言った
「斉は国に孤立し、倉庫は空で、人民は離散しています。斉は呉を強大な輔けとしていますが、いまだ行って危急を告げていないのに、呉に伐たれようとしています。どうか国人を郊外で平伏させ、あえて戦争の辞を述べさせないでください。呉が斉を哀れんで常軌を逸しないことを思います」
呉軍はすぐに還った。
十二年、夫差はまた北方の斉を伐った。越王はこれを聞き、衆を率いて呉に朝見し、貴重な財宝を厚く太宰嚭に献じた。嚭は喜んで越の賂を受け、越を愛し信じること殊に甚だしく、日夜呉王に語り、王は嚭の計を信じて用いた。伍胥は大いに懼れて言った
「これは天が我々を見棄てるのだ」
そこで進んで諫めて言った
「越の存在は体内の病です。先にその病を除かずに、今うわべだけの言葉や偽りを信じて斉を手に入れようとしています。斉を破るのは譬えるなら岩石だらけの農地を手に入れるようなもので、苗を植えることはできません。どうか王は斉を赦して越を先にしてください。そうしなければ、悔やんでも及ばないでしょう」
呉王は聴かず、子胥を斉に使わして戦いの期日を述べさせた。
子胥はその子に言った
「私はしばしば王を諌めたが、王は私を用いず、いま呉の滅びるのを見ようとしている。お前が私とともに死ねば、死んでも何にもならない」
そこでその子を斉の鮑氏に託して還った。太宰嚭はすでに子胥と溝ができていたので、これを讒言して言った
「子胥は強暴な斉のために一心に諫めています。どうか王はこれをすこし手厚くなさいませ」
王は言った
「わかっている」
いまだ軍隊を興さないうちに、たまたま魯は子貢を呉に訪れさせた。
十三年、斉の大夫陳成恒は簡公を弑逆しようとしたが、ひそかに高氏・国氏・鮑氏・晏氏を恐れ、そこで先に軍隊を興して魯を伐ち、魯君はこれを憂えた。孔子はこれを患い、門人を召してこれに言った
「諸侯がお互い伐ちあっているのは、私は常にこれを恥としている。魯は、父母の国であり、墳墓はここにある。今斉はまさにこれを伐とうとしている。おまえたちは一たび出でようと思わないか」
子路がいとまごいして出ようとしたが、孔子はこれを止めた。子張・子石が行くことを請うたが孔子は許さなかった。子貢がいとまごいをして出ようとすると、孔子はこれを使わした。 子貢は北方の斉に行き、成恒に会い、そこで言った
「魯は、伐ちがたい国ですのに、君が伐つのは誤りです」
成恒は言った
「魯はどうして伐ちがたいのか」
子貢は言った
「その城壁は薄く低く、その池は狭く浅く、その君は不仁で、大臣は役に立たず、士は戦争を憎んでおり、戦うべきではありません。あなたは呉を伐つにこしたことはありません。呉の城は厚く高く、池は広く深く、鎧は堅固で士は選び抜かれており、兵器は十分で弓は強力で、賢明な大夫にこれを守らせています。これは攻めやすい国です」
成恒は怒って色をなして言った
「あなたが難しいとするものは、人が易しいとするものだ。あなたが易しいとするものは、人が難しいとするものだ。あなたがそれで私に教えるのはどうしてか」
子貢は言った
「私は、あなたが三たび封じられたが三たび成功しなかったのは、大臣が聴かなかったためと聞いております。今あなたは魯を破って斉を広げようとし、魯を破って自らを高めようとしていますが、あなたの功はこれとかかわりありません。上は〔主君の心を〕驕り高ぶらせ、下は群臣を好き勝手にさせては、大事を成そうとしても、難しいでしょう。そのうえ、上が驕り高ぶれば法を破り、臣が驕り高ぶれば争います。これではあなたは上は主君と間隙があり、下は大臣と相い争うことになります。このようであればあなたが斉に立つのは、危うきこと積み重ねた卵のようなものです。ゆえに呉を伐つにこしたことはないと言ったのです。それに呉王は剛猛で猛々しく、よくその命令を行うことができ、人民は戦いと守りに習熟し、法律や禁令に明るく、斉が敵対すれば擒となることは必定です。今あなたが四境の兵をことごとく用い、大臣を出兵させ鎧兜を身につけさせれば、人民は外に死し、大臣は内に空です。これはあなたには上に強敵の臣がなく、下に人民の士がないのであり、主君を孤立させ斉を制するのはあなたでしょう」
陳恒は言った
「よろしい。だがわが兵はすでに魯の城下にあり、私が去って呉に行けば大臣はまさに私の心に疑いを懐くだろう。これをどうすればいいか」
子貢は言った
「あなたは軍隊を按じて伐たないで下さい。どうか、あなたのために南方に行き、呉王に見えさせてください、これに魯を救って呉を伐たせ、あなたはそこで軍隊を率いてこれを迎え撃って下さい」
陳恒は許諾した。子貢は南に行き呉王に言った
「私は王は世継ぎを絶やさず、覇者は敵を強くしないと聞いております。千鈞の重量も、銖を加えれば秤の目盛りが動きます。いま万乗の斉は千乗の魯を我がものとし、呉と強さを争っています。私はひそかに君のためにこれを恐れています。そのうえ、魯を救えば名を上げることになり、斉を伐つのは大きな利があります。義は亡びそうな魯を保存し、暴虐な斉を害して強国の晋を威圧することにあることは、王は疑われないでしょう」
呉王は言った
「よろしい。だが私はかつて越と戦い、會稽山に立てこもらせ、呉に入臣させたが、すぐにはこれを誅さず、三年して帰国させた。越君は賢主で、身を苦しめ労働をし、昼夜兼行して、内はその政をただし、外は諸侯に事え、必ずまさに私に報復しようという気持ちでいるだろう。あなたは私が越を伐つのを待て、そのあとであなたのいうことを聞こう」
子貢は言った
「なりません。越の強さは魯以上ではなく、呉の強さは斉以上ではありません。越を伐つことで私の言うことを聴かないなら、斉もまたすでに魯を我がものとしてしまうでしょう。かつ小国の越を恐れて強国の斉をにくむのは、勇ではありません。小利を見て大害を忘れるのは、智ではありません。私は、仁者は人を苦しめずにその徳を広め、智者は時機を失わずその功を挙げ、王者は世継ぎを絶やさず、その義を立てると聞いております。越を恐れるのがこのようであれば、私はまことに東に行き越王に会い、出兵させて下吏に従えさせましょう」
呉王は大いに喜んだ。 子貢は東に行き越王に会おうとした。王はこれを聞き、道を掃除して郊外で出迎え、自ら車を御して宿舎に至り、問うて言った
「ここは辺鄙な狹い国、蛮夷の民であるのに、大夫はどうして涙を流して恥じともしない様子でここに至ったのですか」 子貢は言った
「あなたがおられるので来ました」
越王句踐は再拝して頭を地面につけて言った
「私は、禍と福は隣り合わせだと聞いている。今大夫が哀れむのは、私にとっての福である。私は敢えてその説を問わないことがあろうか」
子貢は言った
「私はいま呉王に会って、魯を救って斉を伐つことを告げましたが、その心は越を恐れています。それに、人に報復する志がないのに人にこれを疑わせるのは、稚拙です。人に報復する意があるのに人にこれを報せるのはあやういことです。事が未だ起こらないのにこれを漏れ聞こえさせるのは危険です。この三つは、事を行うのに大いに避けるべきです」
越王は再拝して言った
「私は若くして父を失い、内に自らの度量をはからず、呉人と戦い軍は敗れ身は辱められ、逃亡して上は會稽山に立てこもり、下は海浜を守り、ただ魚やすっぽんを見ています。今大夫はかたじけなくもあわれんで自らこれに見え、また玉声を発して私に教えようとしています。私は天の賜り物をさいわいに敢えて教えを受けないことがありましょうか」
子貢は言った
「私は聞いております、明主は人を任じてその能力を埋もれさせませんが、行いの正しい人が賢人を推挙しても世に受け入れられません。故に財を扱い利を分かつには仁者を使い、禍を乗り切り困難をしのぐには勇者を使い、智を用いて国を図るには賢者を使い、天下を正し諸侯を定めるには聖人を使います。軍隊が強いのにその威勢を行うことができず、上位に立つ者がその政令を下の者に施すことができない、そのような国君がどれだけいるか、むずかしくなるでしょう。私はひそかに自らともに成功し王となることができる方を選びましたが、このようなものがどれだけいるでしょうか。今呉王は斉・晋を伐つ意思がありますから、君は貴重な宝を惜しむことなくその心を喜ばせ、辞を卑くすることをいとわずその礼を尽くしてください。そして斉を伐って、斉が必ず勝ち、呉がかたなければ、君の福です。彼らが戦って勝てば、必ずその兵をひきいて晋に臨むでしょう。騎士鋭兵は斉との戦いに疲れ、重宝車騎羽毛は晉との戦いで尽き、君はその残余を制するでしょう」
越王は再拝して言った
「昔呉王はその民の多くを分ちて吾が国をそこない、わが民を殺し、わが人民をいやしみ、わが宗廟を平らげ、国はいばらだらけの廃墟となり、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。私の呉を怨むことは骨髄に深く、私が呉に事えることは子が父を畏れ弟が兄を敬うようなものです。これは私の死言です。いま大夫の教えの賜りがありましたので、私は敢えて内情をお知らせしました。私の身は重ねた敷物に安座することなく、口はうまいものを味わわず、目は美しい色を見ず、耳は雅やかな音を聞かないことすでに三年です。唇を焦がし舌を乾かし、身を苦しめ力をつとめ、上は群臣に事え、下は人民を養い、願わくば一たび呉と天下の平原の野で交戦し、身と腕を正して呉越の士を奮い立たせ、踵を継いで次々と死に、肝脳地にまみれるのが、私の願いです。これを思うこと三年、成すことはできませんでした。今、内に我が国を量るに、呉を傷つけるのに不足であり、外は諸侯に事えることができず、国を空位にして群臣を捨て、容貌を変え姓名を易え、ちりとりと箒を手に取り、牛馬を養い呉王に事えたいと願いました。私は腰と首が切り離され、手足がばらばらになり、四肢が散らばりならび、郷邑の笑いものになるとわかっていても、気持ちは定まっています。今大夫の教えを賜り、亡国を保存し、死人を起こし、私は天の恩賜を頼み、どうして敢えて令を待たないことがありましょうか」
子貢は言った
「呉王の人となりは、功名をむさぼりあえて利害を知りません」
越王は誠実に席を離れた。子貢は言った
「私が呉王を観ますに、しばしば戦いをして、士卒に恩なく、大臣は内に引退し、人を讒言することがますます多いです。子胥の人となりは誠意があり潔く、外に明るく時期を知っていたが、自らの死を以て君主の過ちを隠すことはできませんでした。直言するに君への忠義をもってし、正しい行いをするのに国のためにもってしましたが、その身は死しても聴かれませんでした。太宰嚭の人となりは智にして愚、強にして弱、たくみなうまい言葉でその身を入れ、よくいつわりをなしてその君に事え、その前を知りその後を知らず、君の過ちに順って自分を安んじ、これは国をそこない君をそこなう佞臣です」
越王は大いに喜んだ。子貢は越を去り、越王はこれに金百鎰と宝剣を一本、良馬二を与えたが、子貢は受けなかった。
呉にいたり、呉王に言った
「私が下吏の言を以て越王に告げましたところ、越王は大いに恐れて言いました『昔私は不幸にも若くして父親を亡くし、内に自らの度量をわきまえず、呉に罪を得ました。軍は敗れ身は辱められ、逃げ隠れて會稽山の上に立てこもり、国は荒れ果てうち捨てられ、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。大王の恩賜を頼み、俎とたかつきを奉り祭祀を修めることができましたことは、死んでも敢えて忘れることはありません。どうして敢えてはかりごとなどするでしょう』その心は大いに恐れ、まさに使者を来させて王に謝罪させようとしています」
子貢が館におること五日、越の使者が果たしてやってきて、言った
「東海の役臣句踐の使者臣種はあえて大王の下吏をうやまい、少しく左右の側近にお聞かせします『昔私は不幸にして若くして父親を亡くし、内に自らの度量をわきまえず、罪を上国に得て、軍は敗れ身は辱められ、會稽に逃げ隠れましたが、大王の恩賜を頼 み、祭祀を奉ずるを得ましたことは、死んでも忘れません。今ひそかに大王は大義を興し、強きを誅し弱きを救い、暴虐な斉を苦しめ、周室を安んじると聞き、故に賤臣である文種に前王が所蔵していた鎧二十そろい、屈盧の矛、歩光の剣を奉らせ、軍吏を祝賀します。もしまさに大義を興そうというのなら、我が国は小国ではありますが、どうか悉く四方の内の士卒三千人は下吏に従わせて下さい。どうか自らは堅固な鎧を着て鋭利な武器を手に取り、先に矢石を受けさせて下さい。君臣死しても怨むところはありません』」
呉王は大いに喜び、そこで子貢を召して言った
「越の使者が果たしてやってきて、士卒三千人を出して、その君はこれに従い、私とともに斉を伐ちたいと請うてきた。これを許してよいだろうか」
子貢は言った
「なりません。人の国を空にし、人の衆を悉く徴発し、その君を従えるのは、不仁です。貢物を受け、その軍隊を許可し、その君が従うのは辞退なさって下さい。それならよろしいでしょう」
呉王は許諾した。子貢は晋に去って定公に会って言った
「私は、思慮があらかじめ定まっていなければ急な事態に対応することができず、軍備があらかじめ備わっていなければ敵に勝つことはできないと聞いております。いま呉と斉はまさに戦おうとしています。戦って勝たなければ越がこれを乱すのは必定です。ともに戦って勝てば、必ずその兵を率いて晋に臨んでくるでしょう。君はこれどうなさますか」
定公は言った
「どうやってこれを待てばよいだろうか」
子貢は言った
「軍備を整え卒を待ち伏せさせてこれをお待ちください」
晋君はこれを許した。子貢が魯に帰ると、呉王は果たして九郡の兵を率いてまさに斉と戦おうとした。道は胥門より出て、そこで姑胥の台を過ぎると、にわかに昼間に姑胥の台で仮寝をし、夢を見た。目が覚めて起きるに及び、その心は静かに憂い嘆いていた。そこで太宰嚭に命じて告げて言った
「私は昼寝をして夢を見て、起きると心静かに憂い嘆いていた。どうかこれを占い、心配することないといえないだろうか。夢で章明宮に入り、二つの鬲があり穀物を蒸していたが火は炊かれておらず、二頭の黒犬が一頭は南に吠え一頭は北に吠え、二本のすきが吾が宮の垣に立っており、流水はさかんに流れ吾が宮を越え、後ろの部屋には鼓が鳴り響き狭く長く鍜工があり、前園には横にあおぎりが生えていた。お前は私のためにこれを占え」
太宰嚭は言った
「すばらしいです、王の軍を興して斉を伐つことは。私は聞いております、章とは徳の高いことです。明とは敵を破り名声が聞こえ、功があきらかなことです。二つのかなえが穀物を蒸しているのに火が炊かれていなかったのは、大王の聖なる徳気があまりあるということです、二頭の黒犬が一頭は南に吠え一頭は北に吠えていたのは、四夷がすでに服し諸侯が朝することです。二本の鋤が宮殿の垣に立っていたのは、農夫が実りをなし、田夫が耕すことです。水がさかんに流れ宮堂を越えるのは、隣国が貢献する財があまりあると言うことです。後房が狭く長く鼓が鳴り響き金細工があるということは、宮女が悦楽し、琴瑟が調和するということです。前園にあおぎりが横に生えていたのは、楽府の鼓の音です」
呉王は大いに喜んだが、その心は癒えず、王孫駱を召してこれに問うて言った
「私はにわかに昼の夢を見た、私のためにこれを述べよ」
王孫駱は言った
「私は道に賤しく浅はかであり、たいしたことはできません。今王のご覧になった夢を私は占うことができません。知人に東掖門の亭長で長城公の弟の公孫聖というものがおります。聖のひととなりは、若くして好んで遊び、長じては好んで学び、博覧強記、鬼神の情状を知っています。どうか王はこれに問うてください」
王はそこで王孫駱を往かせて公孫聖に請わせて言った
「呉王は姑胥の台で昼寝をし、にわかに夢を見て、目が覚めると憂い嘆いていた。あなたはこれを占い、急いで姑胥の台に行くように」
公孫聖は血に伏して泣き、しばらくしてから起き上がった。その妻は傍らより聖に言った
「あなたはなんと賤しいたちなのでしょう。主君に見えることを望み、にわかに急ぎ召されることができたのに、雨のように泣くとは」
公孫聖は天を仰ぎ嘆いて言った
「悲しいことだ、おまえはわかっていないのだ。今日は壬午で、時は南方に加わり、命は上天に属し、逃亡することはできない。ただ自ら哀れむだけでなはない。まことに呉王を傷むのだ」
妻は言った
「あなたは道を王に薦めてください、道があればまさに行われ、上は王を諌め、下は自身を慎み深くするべきです。今急に召されたと聞いて、憂い惑いて混乱するとは、賢人がよいとするべきところではありません」
公孫聖は言った
「愚かなことよ、女子の言うことだ。私は道を受けること十年、身を隠して害を避け、寿命をつなぎたいと思っていたが、不意ににわかに急に召され、人生の半ばにして自ら自分を捨てることになった、故にお前と離れるのを悲しむのだ」
遂に去って姑胥台に行った。呉王は言った
「私はまさに北方の斉・魯を伐とうとし、道中に胥門を出て、姑胥の台を過ぎると、にわかに昼の夢をみた。お前はこれを占い吉凶を述べよ」
公孫聖は言った
「私が言わなければ、身と名は全うできるでしょう。これを言えば、必ず王の前で百片に切り刻まれるでしょう。しかし忠臣はその体を顧みないものです」
そこで天を仰いで歎いて言った
「私は、船を好むものは必ず溺れ、戦を好むものは必ず亡びると聞いております。私は直言を好み、命を顧みません。どうか王はこれをわかってください。私は聞いております、章とは戦って勝たず、敗走して慌てふためくことです。明とは明るさから遠ざかり暗さに近づくということです。門に入り鼎で穀物を蒸しているのに火が炊かれていないのを見たのは、大王が火でものを煮て食べることができないということです。二頭の黒犬が南に吠え北に吠えていたのは、黒は陰るということ、北は隠れるということです。鋤が宮の垣に立っていたのは、越軍が呉国に入り宗廟を伐ち社稷を掘り起こすということです。流水が広々と流れ宮堂を越えていたのは、宮が空虚だということです。後ろの部屋で鼓が鳴り響き狭く長くなっていたのは、坐してため息をつくということです。前園にあおぎりが横に生えていたのは、あおぎりの中心が空虚で、器に用いることができず、ただ木偶を作り死人と共に葬ることです。どうか大王は軍をとどめて徳を修め、斉を伐たないで下さい、そうすれば災いを消し去ることができるでしょう。下吏の太宰嚭・王孫駱をつかわし、冠と頭巾を脱ぎ肩脱ぎして裸足になり、地に頭をつけて句踐に謝罪させれば、国は安泰となり、ご自身は死ななくてすむでしょう」
呉王はこれを聞き、面白くなさそうにして怒りを発し、そして言った
「私は天が生んだものであり、神が使わしたものである」
力士の石番をかえりみて、鉄槌でこれを撃ち殺させた。聖はそこで頭を仰向けて天に向かって言った
「ああ、天は私が無実の罪だということを知っていようか。忠義であったのに罪を得て、身は無罪なのに死して葬られる。私が思うに直言する者は、互いに寄り添って柱となるは及ばず、私の体を運び深山にいたれば、後世まで相連なって音声をなすであろう」
ここにおいて呉王は門人にこれを蒸丘に運ばせた。
「山犬や狼がお前の肉を食い、野火がお前の肉を焼き、東風がしばしば至ってお前の骸骨を飛び散らし、肉が糜爛すれば、どうやって声を響かせられるというのか」
太宰嚭は足早に進み出て言った
「大王のお喜びをお祝いいたします。災いはすでに消滅しました。ですから杯をあげて、戦争をすることができます」
呉王はそこで太宰嚭を右校司馬に、王孫駱を左校にし、さらに句踐の軍を従えて斉を伐った。伍子胥ははこれを聞き、諫めて言った
「私は、十万の兵が、千里を行軍すれば、人民の費用、国家の支出は、一日に数千金かかると聞いております。士民の死を思わずに一日の勝ちを争うのは、私が思うに国を危うくし身を滅ぼすこと甚だしい。かつ賊とともにいてその災いを知らず、外にまた怨恨を求め、他国に幸せを求めているのは、瘡を治して心臓や腹の病を捨ておくようなもので、発すればまさに死ぬでしょう。瘡は皮膚の病であり、患うには足りません。今斉は千里の外へだんだんと低くなっており、さらに楚・趙との境界を越えており、斉の病は瘡であるのみです。越の病は、心腹のものです。発しなくても傷つき、動けば死にます。どうか君王は越を定めた後に斉のことを図ってください。私の言は定まりました、あえて忠を尽くさないでしょうか。私はいま年老いて、耳目は聞こえず、狂って道理がわからない心で、国に益することができません。ひそかに『金匱』第八を観ますに、傷つくことになるでしょう」
呉王は言った
「どのように言っているのか」
子胥は言った
「今年の七月、辛亥の夜明けに、大王は事を始めます。辛は、歳星の位置であり、亥は、陰前の辰です。壬子に合するのは歳前の合であり、武力を行使するのに利があり、武を行えば必ず勝利します。しかし徳は斗と合し丑を撃ちます。丑は、辛の本です。大吉は白虎と辛に臨み、功曹は太常と亥に臨むところ、大吉は辛を得て九醜となり、また白虎と並び重なります。人がもしこれをもって事を始めれば、先に小さな勝利を得ても、後で必ず大敗します。天地はわざわいをなし、災禍は遠くないでしょう」
呉王は聴かず、ついに九月に太宰嚭に斉を伐たせた。軍が北郊に臨むと、呉王は嚭に言った
「行け、功が有った者を忘れることなく、罪有る者を赦すことなく、民を愛し士を養い、いたわること赤子のごとくせよ。智者と謀り、仁者と交友せよ」
太宰嚭は命を受け、遂に行った。呉王は大夫被離を召して問うて言った
「お前は常に子胥と心を同じくし志を合わせ、思いを併せて謀を一つにしている。私が軍隊を興して斉を伐つと、子胥はただ何と言ったか」
被離は言った
「子胥は前王に誠を尽くしたいと思い、自ら老いて狂い耳目は聞こえず、今の世で行うところを知らず、呉国に益することはないと言っています」
呉王は遂に斉を伐ち、斉は呉と艾陵のかたわらで戦った。斉軍は敗績した。呉王はすでに勝ち、そこで行人をつかわし斉と講和しようとして言った
「呉王は、斉に水没するおそれがあると聞き、軍を率いてやってきて見ると、斉は軍隊をがまの中に興しており、呉は安んじる方法がわからず、陣を設営して備えたのであり、斉軍を頗る傷つけようと思っているのではない。どうか和親を結んで去りたい」
斉王は言った
「私はこの北辺にいて、境を出ようとするつもりはありません。今、呉は江淮を渡り千里を越えて我々の土地にやってきて、我々の民を殺しましたが、幸いに上帝の哀れみがあり、国はなお亡びるには至っていません。今、王が譲るのに和親を以てするならば、あえて命のごとくしないことがありましょうか」
呉と斉はついに盟して去った。呉王は帰り、そこで子胥を責めて言った
「私の前王は徳名を行い、上帝に達した。功をほどこし力を用い、お前のために西方に国境をつらね楚に敵対した。今前王はたとえるなら農夫が四方のよもぎを刈るようなもので、名を荊蛮に立てたのは、これはまた大夫の力である。いま大夫は老いぼれて自ら満足せず、変を生じ偽りをおこし、怨み憎んで出でて、出でればわが兵士民衆をとがめ、わが法度を乱し、災いをもってわが軍を挫いた。天が哀れみを降したおかげで、斉軍は降服を受け入れた。私は敢えてその功績を自らに帰するだろうか、それは前王の残した徳であり、神霊の与える幸いである。お前は呉に対してなんの力があるのか」
伍子胥は腕まくりをして大いに怒り、剣をほどいて答えて言った
「むかし、わが前王に服従しない臣がいれば、疑わしきをだだし計って、大難に陥りませんでした。いま王は患うところを放棄し、外にこの子供の謀を憂えないの は、覇王の事業ではありません。天はいまだ呉を見棄ててはいませんが、必ずその小喜に向かわせ、その大憂を近づけています。王がもし目を覚ませば、呉国は世々続くでしょう。もし目を覚まさなければ、呉国の命運がこのように短くなるでしょう。私は狂疾を病んだと称して王が擒となるのを見るに忍びません。私がもし先に死んだら、私の目を門に懸け、呉国が亡びるのを見られるようにしてください」
呉王は聴かず、殿上に坐していると、ひとり呉王だけが四人が庭に向かって互いに背を向けて寄りかかっているのを見た。王が怪しんでこれを見ていると、群臣は問うて言った
「王は何を見ているのですか」
王は言った
「私は四人が互いに背中を向けて寄りかかっており、人の言葉を聞くと四つに分かれて走ったのを見た」
子胥は言った
「王の言葉のごとくであれば、まさに人民を失おうとしているのです」
呉王は怒って言った
「お前の言葉は不祥だ」
子胥は言った
「ただ不祥だというのではなく、王もまた亡びるでしょう」
のち五日して、呉王はまた殿上に座り、二人の人が相対し、北向きの人が南向きの人を殺すのを見た。王は群臣に問うた
「見たか」
〔群臣は〕言った
「何も見えません」
子胥は言った
「王は何を見たのですか」
王は言った
「先日四人を見たが、今日もまた二人が相対して、北向きの人が南向きの人を殺すのを見た」
子胥は言った
「私は聞いております、四人が走るのは叛くということです。北向きの人が南向きの人を殺すのは、臣下が君を殺すということです」
王は答えなかった。
呉王は文台の上に酒席を設け、群臣はことごとくおり、太宰嚭は政を執り行い、越王が侍り坐し、子胥はここにいた。王は言った
「私はこう聞いている、君は有功の臣を賤しまず、父は有力の子を憎まず、と。今太宰嚭は私のために功があったのでこれに最上の爵位を与えよう。越王は情け深く真心があり、私に仕えている。私はふたたびその国土を増し、討伐を助けた功をつぐなおう。皆はどう思うか」
群臣は祝賀して言った
「大王は自ら至徳を行い、公平無私な心で士を養い、群臣はみな仕え、危難を見れば争って死ぬでしょう。名声は顕著となり、威は四海を奮わせます。功が有るものは賞を受け、滅びた国もまた存在します。覇者の功績、王の事業は、ことごとく群臣に及んでいます」
ここにおいて子胥は地にうずくまって涙を流して言った
「ああ、哀しいことだ、このような沈黙に遭うとは。忠臣は口をおおい、讒言する者が側にいる。政は敗れ道は壞れ、疑いとへつらいは極まりなく、邪説や偽の言葉は、曲がっているものをまっすぐであるとし、讒言する者をゆるし忠臣を攻め、まさに呉国は滅びようとしている。宗廟はすでに壊れ、社稷は祭られず、城郭は荒れ果て、宮殿には茨が生じている」
呉王は大いに怒って言った
「老臣は多く偽りをなし、呉の災いである。そして権力を専らにし威をほしいままにし、ひとり吾が国を傾けようとしている。私は前王がお前を信任していた故に、いまだ法を行うに忍びない。今退いて自らよく考え、呉を妨げる謀をしないように」
子胥は言った
「今私が不忠不信であったら、前王の臣たりえませんでした。私はあえて身をおしまず、吾が国が滅びるのを恐れます。昔、桀は関龍逢を殺し、紂は王子比干を殺しました。今、大王が私を誅殺するのは、桀紂と三つに立ち並ぶことです。王はどうか励んでください、私はおいとましましょう」
子胥は帰って、被離に言った
「私は鄭・楚の境界に弓を引き矢を射て、江淮を渡って自らここに至った。前王は私の計を聴き従い、楚を破り父兄が虐げられた仇を取り、前王の恩に報いたいと思ってここに至ったのである。私は自らを惜しんではいないが、災いがまさにあなたに及ぼうとしている」
被離は言った
「いまだ諫めて聴かれないのに、自殺するのはなんの益があるのか。逃げるのはどうですか」
子胥は言った
「逃げて私はどこへ行くというのか」
呉王は子胥が怨んでいるのを聞いて、人を使わして属鏤の剣を賜らせた。子胥は剣を受け取ると裸足になり裳をかかげて、堂から中庭へ下りていき、天を仰いで怒りを叫んで言った
「私ははじめお前の父の忠臣となり呉に立たせ、謀を設けて楚を破り、南方の強力な越を征服し、威は諸侯に及び、覇王の功があった。今、お前は私の言を用いず、かえって私に剣を賜った。私が今日死ねば、呉の宮殿は廃墟となり、庭には蔓草が生じ、越人がお前の社稷を掘り起こすだろう。どうして私を忘られようか。昔、前王はお前を立てようとは思わなかったが、私は死をかけてこれを争い、ついにお前の願いをかなえ、公子は多く私を怨んだ。私はひとり呉に功があったのに、今私が国を定めた恩を忘れて、かえって私に死を賜うとは、どうしてまちがいでないことがあろうか」
呉王はこれを聞き、大いに怒って言った
「お前は不忠不信で、私のために斉に使いしたとき、お前の子を斉の鮑氏に託した。私を疎んじる心があるのだ」
急ぎ自裁せしめた。
「私はお前が何も見えないようにしてやろう」
子胥は剣を手に取り、天を仰いで嘆いて言った
「私が死んでから後、世は必ず私を忠臣となすであろう。上は配夏・殷の世に並び、また龍逢・比干と友となれるであろう」
ついに剣に伏して死んだ。呉王は子胥の屍を取り、革袋の容器に入れ、これを江の中に投じ、言った
「胥よ、お前がひとたび死んで後、何を知ることができようか」
そしてその頭を断ち、高楼の上に置いて、これに言った
「日月がお前の肉を焼き、つむじ風がお前の目に吹き付け、炎の光がお前の骨を焼き、魚とすっぽんがお前の肉を食らい、お前の骨が変じて灰となれば、何を見ることができようか」
そこでその体を棄てて江中に投じた。子胥はそこで流れにしたがって波を立て、潮流によって行き来し、激しく揺るがして岸を崩した。ここにおいて、呉王は被離に言った
「お前は子胥と私の欠点を論じた」
そこで被離の髪をそり落としてこれを刑した。王孫駱はこれを聞いて参朝しなかった。王は召して問うて言った
「お前はどうして私を非として参朝しないのか」
駱は言った
「私は恐れているだけです」
〔呉王は〕言った
「お前は私が子胥を殺したのを重いとするのか」
駱は言った
「大王の気は高く、子胥の位は下であり、王はこれを誅しました。私の命がどうして子胥と異なることがありましょうか。私はこのために恐れているのです」
王は言った
「太宰嚭の言うことを聴いて子胥を殺したのではない。子胥は私に対して図ったのだ」
駱は言った
「私は、人に君たる物には必ず敢えて諫める臣がおり、上位にある者にはかならず敢えて言う友人がいると聞いております。子胥は先王の老臣です。不忠不信であれば、 前王の臣たりえましょうか」
王は心の中で悲しんで子胥を殺したことを悔い
「太宰嚭が子胥を讒言したのではないだろうか」
そしてこれを殺そうとしたが、駱は言った
「なりません。王がもし嚭を殺せば、これは二人の子胥となります」
そこで誅さなかった。
十四年、夫差はすでに申胥を殺し、連年穀物が実らず、民は多く怨んだ。呉王はまた斉を伐ち、商・魯の間に闌溝を掘り、北は蘄に属し、西は済に属した。魯・晋と黄池のほとりで合して攻めようとし、群臣がまた諫めるのを恐れて、国中に命令して言った
「私は斉を伐つ、あえて諫める者は死刑にする」
太子友は子胥が忠義なのに用いられず、太宰嚭がへつらって政を専らにしているのを知り、ただしてこれに言おうとしたが、とがめに遭うのを恐れ、そこで遠回しに諫めて王を励ませようとした。清い朝、弾丸を懐きはじき弓を持ち、後園より服と履き物を濡らして来た。呉王は怪しんでこれに問うた
「お前はどうして服と履き物を濡らし、体はこのようなのか」
太子友は言った
「後園に行って遊び、秋蝉の声を聞き、行ってこれを見ますと、秋蝉は高い木に登り、清露を飲もうとしており、風にしたがって振り乱れ、哀れな鳴き声を長く上げ、自ら安全と思っており、蜥蜴が枝を越えて枝に沿って腰を引きをけづめをそばだててその形態を傾けているのを知りませんでした。とかげは集中して進み、利があることだけを考えていましたが、雀が緑林に満ち枝の影を徘徊し、歩幅を短くし軽々としてこっそりと進み、とかげをついばもうとしているのを知りませんでした。雀はただ蜥蜴のおいしさをうかがうのを知っているだけで、私が弾を差し挟んで高く投げつけ、飛ぶ玉をさまよわせ、その背に集まるのを知りませんでした。今、私は心を空にして気持ちがただ雀にあり、穴が側にあるのを知らず、穴の中は暗くてはっきりせず、深い井戸に落ちてしまったのです。故に体と履き物が濡れているのです。ほとんど王に笑われるところです」
王は言った
「天下の愚でこれに過ぎる者はない。ただ前の利を貪り後の患いを見ないとは」
太子は言った
「天下の愚でさらに甚だしいものがございます。魯は周公の子孫を受け継ぎ、公子の教えがあり、仁を守り徳を懐き、隣國を欲することはありませんでした。しかし斉は兵を挙げてこれを伐ち、民の命をおしまず、ただ獲得するだけでした。斉はただ挙兵し魯を伐ちましたが、呉が国内の士を集め、府庫の財をつくし、軍を野にさらして千里を行軍し、これを攻めるのを知りませんでした。呉はただ国境を越えて我々に背く国を征伐することを知るだけで、越王が死士を選んで三江の口を出て五湖の中に入り、わが呉国を屠りわが呉の宮殿を滅ぼすのを知りませんでした。天下の危うきはこれに過ぎるものはありません」
呉王は太子の諫めを聞かず、ついに北方の斉を伐った。越王は呉王が斉を伐ったと聞き、范蠡・洩庸に軍を率いて海に従い江に通じ、呉の退路を断たせた。太子友を始熊夷に破り、江を通り転じて呉を破り、ついに呉国に入り姑胥台を焼き、大舟を取った。呉は斉軍を艾陵のほとりで破り、軍を還して晋に臨み、定公と長を争い、いまだ合意しないうちに、国境の早馬がきた。
呉王夫差は大いに恐れ、諸侯を合して謀って言った
「我々の道は遠い。會盟しないのと前進するのとどちらが利があるだろうか。
王孫駱は言った
「前進するにこしたことはありません。そうすれば諸侯の權力を握り、その志を求めることができるでしょう。どうか王は士に告げて、その命令を明らかにし、これを励ますのに好意をもってし、これを辱めるのに従わないことをもってし、おのおのその死力を尽くすようにさせてください」
夫差は日暮れに馬に飼い葉を与え士に食べさせた。武器を取り鎧を身につけ、馬をおさえて牧を銜え、火を竈から出し、闇中を行軍した。呉軍はみな模様のついた犀皮の長盾、扁諸の剣を持ち、方陣を作って行軍した。中軍は皆白い衣裳に白い旄、白い鎧に白羽の矢で、これを見ると茅のようであった。王はみずから鉞を握り旗を戴き陣をひきいて立った。左軍はみな赤い衣裳に赤い旄、丹の鎧に朱羽の矢で、これを見ると火のようであった。右軍はみな黒い衣裳に黒い車、黒い鎧に烏の羽の矢で、 を見ると墨のようであった。鎧を身につけた兵士が三万六千、鶏が鳴くころに定まり、すでに陣をつくり、晋軍からの距離は一里であった。空がまだ明けないうちに、王はみずから金鼓を鳴らし、三軍はかまびすしく叫んで兵を整え、その声は天地を動かした。晋は大いに驚き出でず、反復して防いで塁を堅くした。そこで童褐に軍に請わせて言った
「両軍は戦いを止めてよしみを交えるのに正午を期限とした。いま大国は順序を越えて、我々の軍塁に至りました。敢えてその理由をうかがいたい」
呉王はみずから答えて言った
「天子の命があり、周室は衰えて、諸侯に貢献を約するも、王府に入るものはなく、上帝鬼神は告祭することができず、姫姓の助けはなく、おそれて使者をつかわして来たり告げさせ、その冠と車蓋は道に絶えることがない。始め、周は晋に頼って、夷狄を軽んじていた。晋がいまこのように反したのを見て、我々はそこで匍匐して晋君の下へやってくると、君は長弟の序列を肯んぜず、いたずらに強さを争っている。私は進んで敢えて去らず、君が盟の長に命じなければ、諸侯の笑いものとなろう。私が君に事えるのも今日のことであり、君に事えることができないのも今日のことである。あえて使者の往来を煩わせ、私はみずから命を籬の外で聞こう」
童褐がまさに帰ろうとすると、呉王は左足を踏んで褐と決別した。報告して、諸侯・大夫と晋定公の前に列座した。すでに晋君に命を伝えたので、そこで趙鞅に告げて言った
「私が呉王の顔色を見ますと、大きな心配事があるようでした。小さな心配ならば、寵愛している妾や嫡子が死んだのであり、そうでなければ呉国に災難があったのでしょう。大きな心配事なら、越人が侵入したのに帰れないということでしょう。その意は憂い傷んでおり、進むも退くも災難に対して軽く、ともに戦うことはできません。主君はこれに前の決め事を許し、長幼の順序を争って国を危うくなさらないべきです。しかしいたずらにこれを許すべきではありません。必ず呉王がその信を守ることを明らかにしてください」
趙鞅は許諾した。宮中に入って定公に謁見して言った
「周における姫姓は、呉は先輩長老であり、盟の長とすべきであり、そうして国礼を尽くして下さい」
定公は許諾し、童褐に命じて復命させた。ここにおいて呉王は晋の義を恥かしく思い、そこで帳の中に退いて会盟した。二国の君臣が並び、呉王は公と称して前になり、晋は侯としてこれに次いだ。群臣は盟を終えた。
呉王はすでに晋にたいし長となって帰ったが、いまだ黄池を越えていなかった。越は呉王が久しく留まっていまだ帰らないのを聞き、兵士をことごとく発しまさに章山を越え三江をわたりこれを伐とうとした。呉はまた斉・宋が害をなすのを恐れて、王孫駱に命じ功労を周に告げさせて言った
「昔、楚は天子への貢物をささげず、兄弟の国を避けて遠ざけました。我々の先君闔閭はその悪行を忍びず、剣を帯びつるぎを抜き、楚の昭王と互いに中原に争いました。天はその善をほどこし、楚の軍は敗績しました。いま斉は楚にかんがみず、王命をうやまわず、兄弟の国を遠ざけました。夫差はその悪行を忍びず、鎧を着て剣を帯び、ただちに艾陵に至ると、天は呉に幸いし、斉軍は鋒を還して退きました。夫差はどうしてみずから功多しとするでしょうか、これは文王・武王の徳が助けたのです。呉に帰っていまだ收穫が熟さないうちに、ついに江に沿って淮をさかのぼり、溝を開鑿し川を深くし、商・魯の間に出て、帰って天子の執事に告げます」
周王は答えて言った
「伯父はお前に来させた。盟国は、私一人が依るものである。伯父がもし私一人を助けるのならば、かねて永らくの福を受け、周室は何を憂うことがあろうか」
そこで弓弩と王の胙を賜い、おくりなを加えた。呉王は黄池より帰って、民を休めて軍を解散した。
二十年、越王は軍隊を興して呉を伐った。呉は越と檇李に戦い、呉軍は大いに敗れ、軍は散じて死者は数えることができないほどだった。越は追って呉を破った。呉王は行き詰まって急ぎ王孫駱に稽首して和平を請わせたが、その様子は越が呉に使者に來たようであった。越王は答えて言った
「むかし、天が越を呉に賜ったのに、呉は受けなかった。今、天が呉を越に賜わったのだ、逆らうことができようか。私は句章・甬東の地を献じ、私は君と二人の君主とさせてほしい」
呉王は言った
「我々は周室にあって、周は前王を一杯の飯の分だけ礼遇しました。もし越王が周室の義を忘れず、我々を付属の国とさせるならば、それはまた私の願いでもあります。行人は列国の義を成そうと請います、ただ君王はこれをお考え下さい」
大夫種は言った
「呉は無道をなしましたが、今幸いにこれを擒としました。どうか王は命を断ってください」
越王は言った
「私はまさにお前の社稷を壊し、宗廟を壊そう」
呉王は黙った。和平を請い、七たび来て帰ったが、越王はゆるさなかった。
二十三年十月、越王はまた呉を伐った。呉国は困窮して戦わず、士卒は分散して城門は守られず、ついに呉を屠った。呉王は群臣を率いて逃げ去り、日夜走ること三日三晩、秦餘杭山に達した。胸中には憂いがあり、見るものはぼんやりとし、歩みは狂人のようで、腹は減り口は渇き、顧みて生稲を得てこれを食べ、地に伏して水を飲んだ。左右の者を顧みて言った
「これは何という名か」
答えて言った
「これは生稲でございます」
呉王は言った
「これは公孫聖が言ったところの、火でものを煮て食べることができず、敗走してあわてふためくということだ」
王孫駱は言った
「十分に食べたら行きましょう、先には胥山があり、西の坂の中は隠れとどまることができます」
王は行き、しばらくして、生瓜のすでに熟しているのを得たので、取ってこれを食べた。左右の者に言った
「どうして冬に瓜がなっているのか、道に近い人が食べないのはどうしてか」
左右の者は言った
「糞種の物といいまして、人は食べません」
呉王は言った
「どうして糞種というのか」
左右の者は言った
「盛夏の時、人が生瓜を食べ、道ばたで大便をすると、実がまた秋霜に生じますが、これを嫌い、食べないのです」
呉王は嘆いていった
「子胥の言うところの朝食である」
太宰嚭に言った
「私は公孫聖を頃して胥山の頂に投じた。私は天下の恥となることを恐れ、私の足は進むことができず、心をむけることができない。
太宰嚭は言った
「死と生、失敗と成功は、もとより避けられましょうか」
王は言った
「しかしかつて知るところはなかったであろうか。お前が試しに前方にこれを呼んでみよ。聖がいればまさにすぐに応答があるはずだ」
呉王は秦餘杭山に止まり呼んで言った
「公孫聖」
三度呼ぶと、聖は山中より応えて言った枹
「公孫聖」
三度呼んで三度応えた。呉王は天を仰いで叫んで言った
「私はどうして帰ることができようか。私は代々国を得れば聖に事えよう」
しばらくして越軍が至り、三度呉を圍んだ。范蠡は中軍にいて、左手で鼓をひっさげ、右手でばちをとり、これを打ち鳴らした。呉王はその矢に書して種・蠡の軍に射て、辞して言った
「私はすばしこい兎が死ぬと良犬は煮られると聞いております。敵国がもし滅べば、謀臣は必ず亡びます。今呉は病んでおります。大夫はどう考慮されますか」
大夫種と相国蠡は急いで攻めた。大夫種は矢に書してこれを射て言った
「天は青々として、あるいは存しあるいは亡ぶ。越君勾践の下臣種はあえてこれを申し上げる;昔、天が越を呉に賜ったのに、呉は受けようとしなかった、これは天の反するところです。勾践は天を敬って功があり、すでに国に帰ることができました。今、天は越の功に報い〔呉を越に賜ったので〕、敬してこれを受け、敢えて〔天の恩惠を〕忘れません。かつ呉には大いなる過ちが六つあり、それで国が滅びたのです。王はそれをご存じですか。忠臣伍子胥が真心を込めて諫めたのに、その身は死した、これが大いなる過ちの一つ目です。公孫聖が直言を説いたのに功がなかった、これが大いなる過ちの二つ目です。太宰嚭は愚かで口がうまく、言葉は軽薄で他人の悪口を言ってへつらい、出まかせの言葉が口をついて出たのに、聴いてこれを用いた、これが大いなる過ちの三つ目です。斉晋は反逆の行いがなく、分を越えたおごりの過ちがなかったが、呉は二国を伐ち、君臣を辱め、社稷を破壞した、これが大いなる過ちの四つ目です。かつ、呉と越は音を同じくし律を共にし、上は星宿を合し、下は一つの理を共にするのに、呉は侵伐した、これが大いなる過ちの五つ目です。昔越王は自ら呉の前王を傷つけ、その罪はこれより大きいということはなく、幸いにこれを伐ったが、天命に従わずその仇を放っておき、後に大患となった、これが大いなる過ちの六つ目です。越王はつつしんで上は青天をおさめ、あえて命のごとくしないことがありましょうか」
大夫種は越王に言った
「仲冬の気は定まり、天はまさに殺戮しようとしています。天の殺意を行わなければ、かえってその災いを受けます」
越王は拝して言った
「わかった。今、呉王のことを図るに、どうしたらよいだろうか」
大夫種は言った
「君は五勝の衣を着て、歩先の剣を帯び、屈盧の矛を持ち、目をいからし声を大にして、これを捕らえてください」
越王は言った
「わかった」
そこで大夫種の言うとおり呉王に辞して言った。
「まことに今日に命を聞け」
言ってしばらくしても呉王は自殺しなかった。越王はまた使者をやって言った
「どうして王が恥を忍んで厚顔無恥なのか。世に万世の君なく、生死は同じである。今あなたはなお栄誉を残しているのに、どうして必ずわが兵士に王に刃を向けさせるのか。呉王はなお自殺することを肯んぜなかった。句踐は文種と范蠡に言った
「二人はどうしてこれを誅殺しないのか」
文種と范蠡は言った
「私たちは、人臣の位ですので、あえて人主に誅殺を加えません。どうか主君は急ぎこれに命じて下さい。天誅はまさに行われるべきであり、久しく留めるべきではありません」
越王はまた目をいからせ、怒って言った
「死は、人が憎むところであるが、憎しみは天に罪がなく、人に負わない。今、君は六つの過ちの罪を抱えているのに、恥を知らず生きることを求めるのは、どうして卑しくないといえようか」
呉王は深くため息をつき、四方を顧みて言った
「わかった」
そこで剣を引き抜いてこれに伏して死んだ。越王は太宰嚭に言った
「お前の臣としてのありようは、不忠で信が無く、国を亡ぼし君を滅ぼした」
そこで嚭を妻子と共に誅した。呉王は剣に伏して死のうとするにあたり、左右を顧みて言った
「私は生きていてすでに恥をさらし、死んでもまた恥をさらす。死者に知らせるならば、私は前君に地下で恥じ、忠臣伍子胥及び公孫聖を見るに忍びない。知らせることがなければ、生者に恥じる。死んだら必ず組みひもを連ねて私の目を覆え。その蔽わないことを恐れるので、どうかまた縫い取りしたあやぎぬ三幅を重ねて光明を掩い、生きているときは私を明るくせず、死んだら私の姿を見ることないようにしてほしい。私はどうするべきか」
越王はそこで呉王を礼をもって秦餘杭山の卑猶に葬った。越王は戦争の功があった軍士に。人ごとに一握りの土を累ねてこれを葬らせた。太宰嚭もまた卑猶の傍らに葬った。