呉越春秋句踐伐呉外伝第十

句踐十五年、越王は呉を伐つことを謀り、大夫種に言った
「私はあなたの策を用い、天天誅を免れ、国に帰ってきた。私は実にすでに国人に呉を伐つことを説いたところ、国人は喜んだ。そしてあなたは昔、上天の気があればすぐに来てこれを述べると言った。いま天のしるしがあるのではないか」
種は言った
「呉が強い理由は、伍子胥がいたからです。いま伍子胥は真心をこめて諫言して死にました。これは天の気が先に現れたのであり、亡国の証です。どうか君は心を尽くし意を尽くし、国人に説いてください」
越王は言った
「私が国人に説く言葉を聞け、私は自分の力不足を知らずに、大国に復讐し、人民の骨を中原に曝した。これはすなわち私の罪である。私はまことにそのやり方を改めた。そこで死者を葬り怪我人を見舞い、憂いがあれば弔問し、喜びがあれば祝賀し、往く者を送り来る者を迎え、民の害となるものを除き、しかるのちへりくだって夫差に仕え、官吏士人三百人を呉に行かせた。呉は私を数百里の地に封じ、そこで父兄昆弟に約してこれに誓って言った『私は、古の賢君は、四方の民が水のように帰順していたと聞いている。私は政をなすことができないが、まさに二三子や夫婦を率いて人口を増やし輔佐としたい。若者が老いた妻を娶ることをなくさせ、老いたものが若い妻を娶ることをなくさせる。女子が十七歳で嫁がなければ、その父母は有罪である。男が二十歳で娶らなければ、その父母は有罪である。分娩しようとするものは私に告げれば、医者にこれを保護させる。男子二人を産めば、これに壺酒と一頭の犬を与え、女子を二人産めば、壺酒と一頭の豚を与える。子を三人産めば、私は乳母を与え、子を二人産めば、私は一食を与える。長子が死ねば、三年我々の賦税を免除し、末子が死ねば、三月我々の賦税を免除し、必ず私の子のように哭泣してこれを埋葬する。鰥、寡婦、病人、貧窮はその子を仕官させた。仕えようとすれば、その住居を計測し、その衣服を美しくし、その食事を十分にしてこれをえり抜き鍛錬する。およそ四方の士で来たる者は、必ず朝見してこれを礼遇する。飯と羹を載せて国中を周遊し、国中の若者が遊んで私に会えば、私はこれに食べさせ飲ませ愛をもって施し、その名を問う。私の作った飯でなければ食べず、夫人の作った服でなければ着ない。七年国から徴収せず、民家は三年分の蓄えを持った。男は歌い楽しみ、女は集まり笑った。今、国の父兄は日々私に請うて言った『昔、夫差は我が君王を諸侯に辱め、長く天下に恥をかかされました。今、越国は富み豊かになり、君王は倹約しておられます。どうか恥に報いさせてください』私はこれに言った『昔、我々が恥をかいたのは、お前たちの罪ではない。私のようなものが、どうして我が国の人を労り、我々の宿敵を絶やせるだろうか』父兄はまた請うて言った『誠に四封の内は、ことごとく吾が君の子であり、子は父の仇に報い、臣下は君主の仇に報復するものです。どうして力を尽くさない者がおりましょうか。私はまた戦い、君王の宿敵を除きたいと願います』私は喜んでこれを許した。
大夫種は言った
「私が見たところ、呉王は斉・晋に対し願いをかなえ、まさに我々の領土を通過し、軍隊を率いて国境に臨もうとしていると思われます。今、軍隊は疲れて兵卒を休め、一年のあいだ試行せず、我々を忘れたかのようですが、我々は怠ってはなりません。私はまさにこれを天に占いますと、呉の民は戦に疲れ、戦闘に苦しみ、市には赤米の蓄積はなく、国倉は空虚で、その民には必ずや移動する気持ちがあり、寒くなれば東海の浜でがまや蛤を採るでしょう。天の占いは現れており、人事もまた卜筮に現れています。今、もし軍隊を起こしてこれと会戦する利益があり、呉の辺境のまちを侵犯するとしても、いまだ往くべきではありません。呉王に我々を撃つ気持ちがないといっても、またこれを煽動してして怒らせるのも難しいです。その間に依って、その意を知るにこしたことはありません」
越王は言った
「私は、征伐の気持ちを持とうとは思わなかったが、国人で戦いを請うことが三年、私は人民の要望に従わざるを得ない。いま大夫種が諫め非難するのを聞こう」
越の父兄もまた諫めて言った
「呉を伐つべきです。勝てばその国を滅ぼし、勝たなくてもその軍隊を苦しめることになります。呉国が兵を求めてきたら、王はこれと盟約を結んで下さい。功名は諸侯に聞こえるでしょう」
越王は言った
「よろしい」
そこで大いに群臣を集めてこれに命令して言った
「あえて呉を伐つことを諫める者があれば、罪は許されない」
范蠡と大夫種は互いに言った
「我々の諫言はすでに状況と合致しないが、それでもなお君王の命令をきこう」
越王は軍を集めて兵士を並ばせ、大いに人々に戒めこれに誓って言った
「私は、古の賢君は、その兵士の足りないことを憂えず、その志と行いが恥知らずなことを憂えたと聞いている。今、夫差には水犀の鎧を着るものが十三万人おり、その志と行いが恥知らずなのを憂えず、その兵の足りないことを憂えている。いま、私はまさに天の威光を助けようとしている。私は匹夫の小勇を欲せず、士卒が進めば恩賞のことを思い、退けば刑を免れることを欲する」
ここで、越の民は父はその子を励まし、兄はその弟に勧めて言った
「呉を伐つべきである」
越王はまた范蠡を召して言った
「呉王はすでに伍子胥を殺し、へつらうものが多い。我が国の民はまた、私に呉を伐つことを勧める。伐ってもよいだろうか」
范蠡は言った
「まだなりません。明くる年の春を待ち、そのあとなら伐つことができます」
王は行った
「どうしてか」
「私は、呉王が北上して諸侯と黄池で会盟したのを見ますと、精兵が王に從い、国中が空虚になり、老人弱者が後に残って、太子が留守を守っています。軍が国境を出てまだ遠くに行かないうちは、越がその空虚を不意に襲ったと聞いても、軍が戻ってくるのは難しいことではありません。次の春に伐つにこしたことはありません」
その夏六月丙子に、句踐がまた問うと、范蠡は言った
「伐つことができます」
そこで水戦に習熟した者二千人、俊英の兵士四万、親近者六千、各種政務官千人を発動した。乙酉に呉と戦い、丙戌についに太子を捕らえて殺し、丁亥に呉に入城し、姑胥台を妬いた。呉は危急を夫差に告げ、夫差はまさに黄池で諸侯と会盟していたが、天下にこれが知れ渡る野恐れ、秘密にして漏れないようにした。すでに黄池で会盟したので、そこで人を使わして越に和平を請うた。句踐は今の自分ではまだ滅ぼすことができないと考え、そこで呉と和平した。二十一年七月、越王はまた国中の士卒をことごとく動員して呉を伐ち、たまたま楚は申包胥に越を訪問させた。越王はそこで包胥に問うて言った
「呉を伐つことはできるだろうか」
申包胥は言った
「私は策謀に疎く、占うことは出来ません。越王は言った
「呉は道に外れ、我々の社稷を破壞し、我々の宗廟を滅ぼして平原とし、先祖の祀りができないようにした。私はこれと天のまことを求め 車馬・武器と鎧・兵士はすでに具わっているが、これを行っていない。どのようにしたら戦うことができるか聞かせてほしい」
申包胥は言った
「私のような愚か者にはわかりません」
越王が強く問うと、そこで包胥は言った
「呉は良国であり、すぐれていることは諸侯に伝わっています。あえて君王がこれとどうやって戦うのかを問わせていただきたい。
越王は言った
「私のそばにいる者で、酒や肉を分け与えない者はなく、私が飲食するときはその味を贅沢にせず、音楽を聴くにもその声を尽くさず、呉に報復しようとしている。これで戦いたいと願っている」
包胥は言った
「善いには善いが、いまだ戦うことはできません」
王は言った
「越国の中で、富む者を私は安んじ、貧しい者に私は与え、その不足を救済し、剰余を減らし、貧しい者も富む者もその利を失わないようにして、呉に報復しようとしている。これで戦いたいと願っている」
包胥は言った
「善いには善いが、いまだ戦うことはできません」
王は言った
「国の南は楚に至り、西は晋に迫り、北は斉を望み、春秋に幣玉帛子女を奉って貢獻すること、未だ嘗てあえて絶やしたことはなく、呉に報復しようとしている。これで戦いたいと願っている」
包胥は言った
「よろしいでしょう、これに加えることはありません。しかし、なおいまだ戦うことはできません。戦の道は、知を第一とし、仁がこれに次、勇をもってこれを断ちます。君将が知らなければ臨機応変に多寡を区別することができません。仁でなければ、三軍と飢えや寒さのときを同じくし、苦楽の喜びを等しくすることができません。勇でなければ去就の疑いを断って可否の議を決することができません」
ここで越王は言った
「つつしんで教えに従おう」
冬十月、越王は八大夫を召して言った
「昔、呉は不道をなし、我々の宗廟をそこない、我々の社稷を破壞して平原となし、先祖の祀りをさせないようにした。私は天の正しさを求めようとし、軍備はすでに備わったが、これを行うことはなかった。私は申包胥に問うたところ、既に私に教えた。あえて諸大夫に告げるが、どのようにすればいいだろうか」
大夫曳庸は言った
「褒賞を審らかにすれば戦うことができます。その褒賞を審らかにし、その忠信を明らかにして、功が有れば必ず恩賞を加えるようにすれば、士卒は怠りません」
王は言った
「聖明である」
大夫苦成は言った
「罰を審らかにすれば戦うことができます。罰を審らかにすれば、士卒はこれを見て恐れ、あえて命に違わないでしょう」
越王は言った
「勇猛である」
大夫文種は言った
「旗の彩りを審らかにすれば戦うことができます。旗の彩りを審らかにすれば是非の区別がつき、是非がはっきりすれば、人は惑うことがなくなります」
王は言った
「わきまえている」
大夫范蠡は言った
「守備を審らかにすれば戦うことができます。守備を審らかにしつつしんで守り予期せぬ事態を待ち受け、守備が備わり守りが固ければ、必ず困難に対応することができます。」
王は言った
「用心深い」
大夫皋如は言った
「音声を審らかにすれば戦うことができます。音声が審らかであれば清濁の区別がつきます。清濁とは、吾が国君の名が周室に聞こえ、外では諸侯に怨まれないということです」
王は言った
「適っている」
大夫扶同は言った
「恩恵を広め本分を知れば戦うことができます。恩恵を広めて広く施し、本文を知れば道から外れません」
王は言った
「すぐれている」
大夫計研は言った
「天をうかがい地を観察し、こもごもその変化に応じれば戦うことができます。天が変化し地が応じ、人道が勝手よい、三者の前兆が現れれば戦うことができます」
王は言った
「明らかである」
大夫計研は言った
「天をうかがい地を観察し、こもごもその変化に応じれば戦うことができます。天が変化し地が応じ、人道が勝手よい、三者の前兆が現れれば戦うことができます」
王は言った
「明らかである」
ここで句踐は退いて斎戒して国人に命じて言った
「わたしにはまさに思いがけないりごとがある。近くから遠くに及ぶまで、聞かないものはないように」
そこでまた官吏と国人に命じて言った
「命を受けて褒賞のあるものはみな国門の外に至れ。命に従わない者があれば、私はまさに見せしめの刑に処するだろう。」
句踐は民が信じないのを恐れ、不義を征伐すると周室に聞かせ、諸侯が外に怨みを懐かないようにした。国中に命令して言った
「五日の内に門に至れば良い民であるが、五日を過ぎれば吾が民ではなく、またこれに誅殺を加えよう」
命令がすでに行われると、そこで宮殿に入り夫人に命じた。王は塀を背にして立ち、夫人は塀に向かって立った。
「今日から後は、内政が出ることはなく、外政が入ることはなく、各々がその職務を守り、その信義を尽くせ。内に恥を受ければお前の責任であり、境外千里に恥を受ければ私の責任である。私はお前にここで会い、明らかに戒めとする」
王は宮殿を出て、夫人は王を送って塀を越えなかった。王はそこでその門の扉を反対側から閉め、これを土で埋めた。夫人は簪を取り、一つの座席だけ設けて座り、心を安んじて飾らず、三月のあいだ掃除をしなかった。王は出てまた垣を背にして立ち、大夫は垣に向かって敬い、王はそこで大夫に命令して言った
「士を養うのに公平でなく、土壌が開墾されず、国内で私に恥をかかせるのは、お前たちの罪である。敵に臨んで戦わず、軍士が死を恐れ、諸侯に対し恥をかき、功績が天下に損なわれるのは、私の責任である。今より先は、内政は出ることなく、外政は入る事がない。私は固くお前を戒める」
大夫は言った
「つつしんで命令を受けます」
王がそこで出て、大夫は垣から送り出すと、外宮の門を反対側から閉め、これを土で埋めた。大夫は一つの座席だけ設けて座り、贅沢な食事を進めず、勧められても答えなかった。句踐は夫人・大夫に命じて言った
「国を守るように」
そして露天の壇上に座り、鼓を並べてこれを鳴らした。軍が行列を成すと、すぐに罪のある者三人を斬って軍にとなえ、命令して言った
「私の命令に従わない者は、このようになる」
王はそこで国中の戦争に行かない者を召し、これと決別して告げて言った
「お前たちは国土を安んじ職分を守れ、我々はまさに我が宗廟の仇を征伐しにいくところであり、お前たちに感謝する」
国人に各々その子弟を郊外まで送らせ、軍士はそれぞれ父兄昆弟と決別した。国人は悲しみ、みな離別して去る詞を作って言った
「急いで動き長期にわたる恥を退け、戟を引き抜き殳をあやつり、災難に遭遇しても降服せず、我が王の気を発すれば蘇る。三軍がひとたび飛び降りれば、向かうところはみな死ぬ。一人の士が決死の覚悟で、百人を相手にする。天道は徳のある者を助け、呉の兵は自滅する。我が王の長年の恥を雪ぎ、威は八都に振るう。軍伍は代えがたく、勢いは猛獣のようだ。行って各々努めよ、ああ、ああ」ここで、見て悲しまない者はなかった。明くる日、また軍を国境に移動させ、罪のある者三人を斬って軍にとなえて言った
「命令に従わない者は、このようになる」
三日後、また軍を檇李に移して、罪のある者三人を斬って軍にとなえて言った
「心や行動が正しくなく、敵に当たらない者は、このようになる」
句踐は官吏にに命じ、大いに軍にとなえて言った
「父母がいて兄弟がいない者は、来て私に告げよ。私には大事があり、子は父母の養育、年長者の愛を愛を離れ、国家の危急に赴くのである。子が出征中に、父母兄弟に疾病があれば、私は自分の父母兄弟が病気になったときように面倒を見る。死亡する者があれば、私は自分の父母兄弟が死んで埋葬するときのように、これを葬送する。明くる日、また軍にとなえて言った
「兵士で疾病があり、従軍して戦に出ることができない者があれば、私は医者と薬を与え、粥を与え、これと食事を同じにする」
明くる日、また軍にとなえて言った
「筋力が足らず鎧や兵器の重量に耐えられない者、志と行いが足らず王命を聴けない者は、私はその負担を軽くし、その任務をゆるめよう」
明くる日、軍を江南に還し、さらに厳しい法を述べ、また罪のある者五人を誅殺してとなえて言った
「私は士を愛しており、我が子といえどもそれを超えることはない。罪を犯し誅殺されるときは、我が子といえどもまた逃れることはできない」
句踐は兵士が法を恐れて役に立たなくなることを恐れ、自ら士の死力を得ることができないと思い、道で蛙が腹を膨らませて怒り、まさに戦いの鋭気を有しているの見ると、そこで両手をしきみかけてこれに敬礼した。士卒で王に問う者があり、言った
「君はどうして蛙を敬ってこれに敬礼するのですか」
句踐は言った
「私は士卒が久しく怒っているが、いまだ私の意に適う者がないことを思ったのだ」
いま、蛙は無知の動物ではあるが、敵を見て怒気を持っている、故に両手をしきみかけてこれに敬礼したのだ」
軍士はこれを聞き、心に喜んで死ぬことを懐かない者はなく、人々はその命をかけた。官吏や将軍は大いに軍中にとなえて言った
「隊は各自その部に命令し、部は各自その士に命令する。行けと言って行かず、止まれ言って止まらず、進めといって進まず、退けてと言って退かず、左向けと言って左を向かず、右向けと言って右を向かず、命令に従わない者は斬る」 
此処で呉は兵をすべて江北に駐屯し、越軍は江南に駐屯した。越王はその軍隊を中分して左右の軍に分け、みな兕の革で作った鎧を 身につけ、また安広の人に石碣の矢をたせ、盧生の弩を張らせた。自ら君子の軍六千人を率い、中陣とした。明くる日、まさに江で戦おうとし、そこで日暮れになって左軍に枚を銜えさせ江を遡らせて五里上流に行かせ、呉の兵を待たせた。また右軍に枚を加えて江を十里越えさせ、また呉の兵を待たせた。夜半に、左軍に江を渡らせ、鼓を鳴らし、江の中ほどで呉軍が出兵するのを待たせた。呉軍はこれを聞き、内部で大いにおどろき、互いに言い合った
「今、越軍は二軍に分かれ、まさに我々をさしはさんで攻めようとしている」
またすぐに夜暗くなると、その軍を半分に分け、越を囲んだ。越王は密かに左右の軍に呉と戦いを望ませ、大いに鼓を鳴らし互いに聞かせた。その私兵六千人を潜伏させ、枚を銜えさせ鼓を鳴らさずに呉を攻めた。呉軍は大いに敗れた。越の左右の軍はそこでついにこれを伐ち、大いにこれを囿で破り、またこれを郊で破り、またこれを津で破り、このように三度戦い三度敗北し、急ぎ呉に至り、呉を西城で囲んだ。呉王は大いに恐れ、夜に逃げた。越王は追いかけて呉を攻め、軍は江陽・松陵に入り、胥門に入ろうとし、来たり至ること六、七里、呉の南城を見ると、伍子胥の頭が車輪のような大きさで、目はひらめく稲妻のようで、髭と髪は四方に広がり、十里を射ぬいているのが見えた。越軍は大いに恐れ、軍を通り道に留めた。その日の夜半、暴風雨となり、雷電が激しく、石が飛び砂が舞い上がり、弓矢よりも早かった。越軍は敗れ、松陵を退き、兵士は倒れ死に、人々は散り散りになり、救いとどめることができなかった。范蠡・文種はそこで地面に頭をつけて肩脱ぎし、子胥に謹んで礼をしめし、通らせてもらうように願った。子胥はそこで文種・范蠡の夢に出てきて言った
「私は越が必ず呉に侵入することを知っていた。ゆえに私の頭を南門に置くことを求め、お前たちが呉を破るのを見ようとしたのだ。ただ夫差を苦しめたいだけである。お前たちは我が国に侵入するのが決まって、私の心はまた忍びず、故に風雨をなしてお前たちの軍を帰らせた。しかし越が呉を伐つのは、おのずから天意であり、私がどうして止めることができようか。越がもし侵入したいのなら、あらためて東門から入れば、私はお前たちのために道を開いて、城を貫いてお前たちに道を開けよう」
ここで越軍は明くる日あらためて江より出て海陽に入り、三道の翟水で、そこで東南の隅を穿って達し、越軍はついに呉を囲んだ。守ること一年、呉軍は重ねて敗れた。ついに呉王は姑胥の山に立てこもった。呉王は王孫駱に肩脱ぎし膝で進めさせ、越王に和平を請うて、言った
「私、臣夫差は、あえて真心を述べさせていただく、かつて罪を會稽に得ましたが、夫差は敢えて命令に逆らわず、君王と和平を結んで帰ることができました。今、君王は挙兵して私を誅し、私は命令に服従いたします。思うに今日の姑胥は、過日の會稽のようです。もし天の恵みがあり、大罪を許していだだけるなら、呉はどうか永らく奴隷となりましょう」
句踐はその言葉に忍びず、これに和平を許そうとした。范蠡は言った
「會稽でのことは、天が越を呉に賜ったのに、呉が受け取らなかったのです。今、天が呉を越に賜るというのに、越が天命に逆らうべきでしょうか。かつ、君王は早く朝廷に出て遅く朝廷を退き、歯を食いしばり骨に刻み、これを謀ること二十余年、どうしてこの一日のためではないことがあるでしょうか。今日、呉を得られるのにこれを棄てるのようなことをするべきでしょうか。天が与えても受け取らず、かえってその咎を受けるでしょう。君は會稽の災厄をお忘れになったのですか」
句踐は言った
「私はお前の言葉を聴きたいが、使者に答えるのに忍びないのだ」
范蠡はついに鼓を鳴らして軍を進めて言った
「王はすでに執事に政を託された、使者は急いで去れ、随時罪を得るぞ」
呉の使者は涙を流して泣いて去った。句踐はこれを憐れみ、使者を呉王につかわして言った
「私はあなたを甬東に配置し、あなた方夫婦に三百余の家を与え、王の一生を終えさせようと思うが、どうか」 
呉王は辞退して言った
「天は災いを呉国に降し、前代でも後代でもなく、まさに私のときに、宗廟社稷を失いました。呉の土地、臣民は、すでに越のものです。私は年老いて、王の臣下となることはできません」
遂に剣に伏して自殺した。句踐は呉を滅ぼし、そこで兵を率いて長江、淮水を渡り、斉、晋らの諸侯と徐州で会盟し、周に朝貢した。周の元王は人を句踐に使わし、天子の封号を受けたあと去り、江南に帰り、淮水流域の地を呉に与え、呉の侵略した宋の地を返し、魯に泗水の東方百里を与えた。このとき、越軍は長江淮河の流域を遍く巡り、諸侯はことごとく祝賀し、号して覇王と称した。
越王は呉に帰ろうとし、帰るにあたって范蠡に問うて言った
「どうしてあなたの言葉が天意に合致したのか」
范蠡は素女の道であり、一言がすなわち合致します。大王のことは、「玉門」が実質をなし、「金櫃」の要点は、上下相対するところにあります」
越王は言った
「よろしい。私が王を称さなかったらこまかに知り尽くすことができたか」
范蠡は言った
「できません。昔、呉は王を称し、天子の号を僭号しました。天変があり、日蝕がおこりました。今、君が僭号して帰国しなければ、おそらく天変がまた現れるでしょう」
越王は聴かず、呉に帰り、酒の席を文台にもうけ、群臣と宴会をし、楽師に命じて呉を伐つ曲を作らせた。
楽師は言った
「私は即時には琴の曲を作り、成功すると音楽を作ると聞いております。君王は徳を尊び、道義のある国を教化し、義のない人を誅殺し、復讐して恥を返し、諸侯を威服し、霸王の功績を受けました。功績は図画に描くことができ、徳は金石に刻むことができ、評判は琴と笛に託すことができ、名声は竹簡や帛に留めることができます。
どうか私に琴を弾いてこれを鼓うたせて下さい」
ついに「章暢」の辞を作って言った
「悩ましいことだ、今、呉を伐ちたいがいまだできないだろうか」
大夫種、范蠡は言った
「呉は忠臣伍子胥を殺しました。いま呉人を伐たずにどうして待つことがありましょうか」
大夫種は祝いの酒を進め、その辞に言った
「天の助けがあり、吾が王は福を授かった。良臣が集い謀るのは、吾が王の徳である。宗廟は政を輔け、鬼神は輔佐する。君主は臣下を忘れず、臣下はその力を尽くす。上天は青々として、覆い塞ぐことがができない、酒を二升を進め、万福は限りがない」
ここで越王は黙然として何も言わなかった。
大夫種は言った
「吾が王は賢明で仁徳があり、道理を懐き徳を抱く。仇敵を滅ぼし呉を破り、国へ帰るのを忘れなかった。賞を与えて惜しむところはなく、群れをなす邪悪は塞がれた。君臣は心を同じくして調和し、幸いは千億である。酒を二升を進め、長寿を祝う言葉は限りがない」
台上の群臣は大いに喜び笑ったが、越王の顔には喜びの表情はなかった。
范蠡は句踐が国土を愛し、群臣の死を惜しまず、策謀が成功し国が定まれば、必ず群臣の功績を待たずに国へ帰ることを知っていたので、故に顔面に憂いの表情を浮かべ喜ばなかった。范蠡は呉より去ろうとしたが、句踐が未だ帰らないので、人臣の義を失うのを恐れ、そこで従って越に入った。行くときに、文種に言った
「あなたは立ち去るべきだ。越王は必ずやあなたを誅殺するでしょう」
文種はその言葉に納得しなかった。范蠡はまた書簡をしたため文種にやって言った
「私は、天には四季があり、春には植物が生え冬には伐採される、人には盛衰があり、幸運が終われば必ず不運になると聞いております。進退存亡を知ってその正しさを失わないのは、これは賢人といえましょう。私范蠡は不才といえども、進退を明確に知っています。高く飛ぶ鳥がすでに打ち落とされれば、よい弓はまさにしまわれようとし、すばしこい兎がすで狩り尽くされれば、よい猟犬はすぐに煮られます。もしあなたが去らなければ、あなたを害そうとすることは明らかです」
文種はその言葉を信じなかった。越王はひそかに謀り、范蠡が去ろうとはかったのは僥倖であった。二十四年九月丁未、范蠡は王に挨拶して言った
「私は、主が憂えれば臣は疲れ、主が辱めを受ければ臣は死に、その道義は同一だと聞いております。今、私は大王に仕え、事前にはいまだ生じていない端緒を消滅させることができず、事後にはすでに発生した災いから救済することができませんでした。そうはいっても、私はどうしても君を成功させ国に覇権を取らせようとし、ゆえに生死も避けませんでした。私はひそかにこう思い呉に使いしました。王の受けた恥のため、私は死ぬことなく、誠に太宰嚭を讒言し、伍子胥の言うことを成し遂げるのを恐れました。故に敢えて先に死なず、しばらくの間生きていました。恥辱の心は長くなってはならず、汗を流すような恥は、忍ぶことができません。幸いに宗廟の神霊、大王の威徳のおかげで、失敗を成功とすることができ、これは湯王・武王がが夏・商に勝ち、王業を成したようなものです。功績を定め恥を雪ぐために、私は久しく地位に就いておりました。私はこれより辞去させて下さい」
そこで小舟に乗り、三江を出て五湖に入り、行き先を知るものはなかった。
范蠡がすでに去ると、越王は顔色を変え、大夫種を召して言った
「范蠡は追うことができるだろうか」
種は言った
「追いつかないでしょう」
王は言った
「どうしてか」
種は言った
「范蠡が去るとき、陰爻は六画、陽爻は三画で、日の前の神を制することができる者はありませんでした。玄武・天空は威く行進し、誰が敢えて止めるでしょうか。天関を渡り、天梁を渡り、のちに天一に入ります。前面に神光を覆い、これを語る者は死に、これを見る者は狂います。どうか王はまた追わないで下さい、范蠡は結局帰らないでしょう」
越王はそこで范蠡の妻子を引き取り、百里の地に封じ、敢えてこれを侵す者があれば、上天の禍が下るとした。ここで越王は腕のいい工人に范蠡をかたどった金の象を鋳造させ、これをそばに置き、朝夕政治を論じた。これより後、計研は狂人を装い、大夫曳庸・扶同・皋如たちは、日ごとに疎遠となり、朝廷に親しまなくなった。大夫種はひそかに憂いて参朝せず、ある人はこれを王に讒言して言った
「文種は宰相の位を捨て、君王に諸侯に覇を称えさせました。今、官職は上昇せず、爵位は封を増加されません。そこで怨みの心を懐き、内では憤りを発し、外では顔色を変え、ゆえに朝参しないのです」
別の日、種は諫めて言った
「私が早くに朝参して遅く帰り、苦心して耕作したのは、ただ呉のためです。今、すでにこれを滅ぼしたのに、王はどうして憂えるのですか」
越王は黙然とした。当時魯の哀公は三桓に悩み、諸侯の力によってこれを伐とうとしていた。三桓もまた哀公の怒りに悩み、そのため君臣が争った。哀公は陘に奔り、三桓は哀公を攻め、公は衛に奔り、また越に奔った。魯国は空虚となり、国人はこれを悲しみ、越に来て哀公を迎え、これとともに帰った。句踐は文種がの思いがけない行動を憂い、故に哀公のために三桓を伐たなかった。二十五年、丙午の夜明けに、越王は相国大夫種を召してこれに問うた
「私は、他人を知るのはたやすいが、自己を知るのは難しいと聞いている。相国は自分がどのような人か知っているか」
種は言った
「悲しいことだ。大王は私の勇を知っていても、私の仁を知らない。私の忠誠を知っているが、私の信義を知らない。私はまことにしばしば音楽や女色を遠ざけ、淫楽や奇怪な説、怪しい論をなくし、言葉を尽くして忠義を尽くしてきたが、それは大王に逆らい、心に逆らい耳に違うものだったので、必ず罪を獲るだろう。私はあえて死を惜しんで言わないのではなく、言って後に死のう。昔、呉において伍子胥が夫差に誅殺されるとき、私に言った
『すばしこい兎が死ぬと、良い猟犬は煮られ、敵国が滅ぶと、謀臣は亡ぶ』
范蠡もまたこのことを言っていた。どうして大王は『玉門』の第八に違犯することを問うのか。私には王の志がわかった」
越王は黙然として答えなかった。大夫もまた帰った。食べ物を口に含んで、人糞のようなものを成した。その妻は言った
「あなたはいやしくも一国の相であるのに、王の俸禄は少ないではありませんか。食に臨んて供用せず、人糞のようなものを口に含んでいるとはどういうことですか。+妻子がそばにいるということぐらいは、匹夫でも自らできることなのですから、相国であればなおどんなことを望みましょうか。かえって貪欲になるのではありませんか。どうしてその志がこのようにぼんやりとしているのですか。種は言った
「悲しいことだ。お前は知らないのだ。吾が王はすでに難儀を免れ、呉に恥を雪いだ。私はことごとく住居を移してみずから自ら死亡の地である越に投じ、九術の謀を尽くし、彼の地において邪となるも、君主の前にあっては忠義を為したが、王は察せず、そこで言った
『他人を知るのはたやすいが、自己を知るのは難しい』私はこれに答え、また他に語ることはなかったが、これは不吉の証である。私がもしまた宮中に入れば、おそらく二度と帰らず、お前と永らく決別し、互いに玄冥の下で探し訪ねることになろう」妻は言った
「どうしてそれがわかるのですか」
種は言った
「私が王に会った時に、ちょうど『玉門』の第八を犯しており、時辰が日を制圧し、上が下に損害を受け、これは混乱醜悪をなし、必ず良臣を害するということである。今、日は時辰を制圧し、上は下に損害を与えて下の命運は尽き、私の命はあとわずかである」
越王はまた相国を召して、言った
「あなたは陰謀兵法を有しており、敵国を傾け国を取った。九術の策のうち、いま三つを用いてすでに呉を破り、のこり六つはなおあなたの胸中にある。どうかその残りの術を使って、わたしの前王のために地下で呉の祖先を謀るようにしてほしい」
ここで種は天を仰いで嘆いて言った
「ああ、私は大恩は報われず、大功は償われないと聞いているが、それはこのことだろうか。私は范蠡の策に従わず、越王に殺されるのを悔やんでいる。私は良い言葉が耳に入らず、ゆえに人糞を口に含んだのである」
越王は遂に文種に属盧の剣を賜い、種は剣を受け取りまた嘆いて言った
「南陽の長官であったのが、越王の擒となった」
自らを笑って言った
「この後百世の末まで、忠臣は必ず私を例えとするだろう」
ついに剣に伏して死んだ。
越王は種を国の西山に葬り、楼舟の兵士三千人余りは、鼎足の形の墓道を造り、墓道は三峰の下に入るものもあった。葬ってから七年して、伍子胥は海上より山腰を穿ち種の体を持って去り、これとともに海に浮かんだ。ゆえに前方の潮が渦を巻いて待っているのが伍子胥であり、後方で重なる潮水が大夫種である。越王はすでに忠臣を誅殺し、関東に覇をとなえ、瑯邪に遷都し、観台を建造し、周囲は七里で、東海を望んだ。決死の士は三千人、軍船は三百艘あった。しばらく経たないうちに、賢士を狙い求め、孔子はこれを聞き、弟子を従えて周の先王の雅琴礼楽を奉って越で演奏した。越王はそこで唐夷の鎧を着て、歩光の剣をたずさえ、屈盧の矛を持ち、決死の士を出して、三百人で関下に陣取った。孔子はしばらくして到着し、越王は言った
「さあ、先生は何を教えて下さるのですか」
孔子は言った
「わたしは五帝三王の道を述べることができます。ゆえに雅琴を演奏してこれを大王に献じたのです」
越王はため息をついて嘆いて言った
「越人の性質は脆くて愚かであり、水上を行き来し山におり、舟を車とし、楫を馬とし、行くにはひるがえるようで、去れば従い難く、戦を喜び敢えて死のうとするのは、越人の常です。先生は何を説いて我々に教えようと言うのですか」
孔子は答えず、そこで辞退して去った。
越王は人を使わし木客山に行かせ允常の棺を取り出し、琅邪に移して葬ろうとした。三たび允常の墓を穿つも、墓の中から激しい風が生じ、砂石が飛んで人を射たので、中に入れる者はいなかった。
句踐は言った
「私の前君は移らないのですか」
遂にそのままにして去った。
句踐はそこで使者を遣わし斉・楚・秦・晋に号令させ、皆で周室を輔け、血盟して帰った。秦の厲共公は越王の命に従わず、句踐はそこで呉越の将兵を選抜して西方に向かい河を渡って秦を攻めようとした。軍士はこれを苦としたが、たまたま秦が恐れ、前もって自ら咎を負ったので、越はそこで軍を還した。兵士たちは喜び、ついに「河梁の詩」を作った。曰く、「河の橋梁を渡り、河の橋梁を渡り、兵を挙げて秦王を征伐する。初冬十月は雪や霜が多く、道路は厳しい寒さでまことに対応しがたい。軍隊を陣取って未だ河を渡らないのに秦軍は降服し、諸侯は皆恐れている。名声は海内に伝わり遠方を威圧し、秦の穆公・斉の桓公・楚の荘王に覇をとなえ、天下は安寧になり長生きする。帰るのを悲しみ、どうして橋梁を渡らなかったのか」
越が呉を滅ぼしてから、中国は皆これを恐れた。二十六年、越王は邾子が無道なため捕らえて帰り、その太子何を立てた。冬、魯の哀公が三桓氏の圧迫に遭い逃げてきた。越王は三桓氏を伐とうとしたが、諸侯大夫が命に従わないかったため果たせなかった。二十七年冬、句踐は病床に伏し死に臨んで、太子興夷に言った
「私は禹の後より、允常の徳を受けつぎ、天霊の助け、天地の神の福を蒙り、窮地にあった越の家柄、楚の前鋒を従え、呉王の軍を滅ぼした。不揚が卒し、子の無彊が立った。無彊が卒し、子の玉が立った。玉が卒し、子の尊が立った。尊が卒し、子の親が立った。句踐から親に至るまで、歴代の八人の君主は、みな覇をとなえること二百二十四年間であった。親の人民はみな失われ、琅邪を去り、呉に移った。黄帝から少康に至るまで十世であった。禹が禅譲を受けてから少康が即位するまで六世は百四十四年であり、少康の即位は顓頊が即位してから四百二十四年であった。越王の系譜は黄帝・昌意・顓頊・鯀・禹・啟・太康・仲廬・相・少康・無余であった。無壬は無余から十世離れており、無擇・夫譚・元常・勾踐・興夷・不寿・不揚・無彊と続き、魯穆柳は幽公を名とし、王侯は自ら君と称した。尊・親と続いて、琅邪を失い、楚に滅ぼされた。句踐から王親に至るまで、歴代の八人の君主は、覇を称えること二百二十四年であった。無余が越国に初めて封じられ、餘善が越国に帰り滅んで空位になるまで、凡そ一千九百二十二年であった。句踐から王親に至るまで、歴代の八人の君主は、覇を称えること二百二十四年であった。無余が越国に初めて封じられ、餘善が越国に帰り滅んで空位になるまで、凡そ一千九百二十二年であった。