呉越春秋闔閭内伝第四
闔閭元年、初めて賢人を任用し有能な者を用いた。恩を施し恵みを行い、仁をもって諸侯に聞こえた。仁が未だ施されず、恩が未だ行われないうちは、国人を恐れてつき従わず、諸侯は信用しなかった。そこで伍子胥を行人として客礼をもってこれを用い、共に国政を謀った。闔閭は子胥に言った
「私は国を強くし覇業と王業をなしたいと思う。どうすればできるだろうか」
伍子胥は膝で進み出て涙を流しながら頓首して言った
「私は楚国の亡虜です。父兄は捨てられ骸骨は葬ることができず、魂は祀ることができず、罪を被り辱めを受けました。呉に来て大王の命に帰しましたとろ、王は幸いにも殺戮を加えられません、どうしてあえて政事に与りましょうか」
闔閭は言った
「あなたがいなければ、私は縶禦の使になることを免れなかった。いま幸いにも一言の教えをうけたまわったので、こうなるに至ったのである。どうして途中で退こうという気持ちをおこすのか」
子胥は言った
「私が聞きますに、謀義の臣は、どうして危うく滅びそうな地にいるだけで足りましょうか。しかし、憂いが除かれ事が定まりますと、必ずや君主の親しむところとはなりません」
闔閭は言った
「そんなことはない。私はあなたでなければ議論を尽くす者はいない。どうして辞退することができるのか。我が国は遠い僻地にあり、見回してみるに東西の地にあり、険阻にして湿潤、また江海の害があり、君主は守るすべがなく、民は依るところがなく、倉庫は設けられていず、田地は開墾されていない。これをどうしたらいいだろうか」
子胥はやや久しくして答えた
「私が聞きますに、治国の道は、君を安んじ民をおさめる、これがその上です」
闔閭は言った
「君を安んじ民を治める、その術はどういうものか」
子胥は言った
「およそ君を安んじ民を治め、覇業を興し王道をなし、近くによって遠きを制するには、必ずまず城郭を作り、守備を設け、米倉を充たし、兵庫を治める、これがその術です」
闔閭は言った
「よろしい。城郭を築いたり倉庫を作るのは、地に因って宜しきに適うようにするのである。どうして天空の気の定めで隣國を威圧するものがあるのか」
子胥は言った
「ございます」
闔閭は言った
「私は計画をあなたに委ねよう」
子胥はそこで土壌を見て水脈を調べさせ、天を象り地にのっとり、大城を造築し、周囲は四十七里であった。陸門は八つあり、天の八風を象り、水門は八つあり、地の八聰に法った。小城を築き、周囲は十里、陸門は三つあり、東面に開いていないのは、越の神霊を断とうとしたのである。閶門を建てたのは、天門を象り閶閭風に通じようとしたのである。蛇門を建てたのは、地の門を象ったのである。闔閭は西のかた楚を破ろうとしていて、楚は西北にあった。故に閶門を建てて天の気を通じた。そのためまたの名を破楚門というのである。東のかた大越を併合しようとし、越は東南にあった。故に蛇門を建て、敵国を制したのである。呉は辰にあって、その位は龍であった。ゆえに小城の南門の上の反り返った軒に二つの鯢鱙を作り、龍の角を象った。越は巳の地にあって、その位は蛇であった。故に南大門の上に木蛇があり、北を向いて首は内側を向き、越が呉に属することを示した。
城郭ができ、倉庫が具わると、闔閭はまた子胥に蓋餘、燭傭を屈せしめ、戦術、騎馬、射御の技を訓練させたが、いまだに用いるものがなく、干将に名剣を二本作るをもとめた。干将は、呉人であり、欧冶子と師を同じくし、ともによく剣を作った。越が先に来て三本の剣を献じ、闔閭はこれを宝とし、そこで剣匠に二本の剣を作らせ、一本は干将といい、二本目は莫耶といった。莫耶は干将の妻であった。干将は剣を作るのに五山の鉄を採り、六合の銅を精製した。天をうかがい地をうかがい、太陽と月が同時に照り、百神が臨みみて、天の気が降りてきたが、金鉄のもとは溶けて沈み流れなかった。ここにおいて干将はその理由がわからなかった。莫耶は言った
「あなたはよく剣を作ることで王に知られています。あなたが剣を作ろうとして三日たつのに、できないのは、お考えがあるのですか」 干将は言った 「私はその理由がわからない」 莫耶は言った 「神仏の化合というものは、人があってはじめてできるものです。今あなたが剣を作るには、人を得てから後にできるのではないですか」
干将は言った
「昔、私の師が冶金をするのに、金鉄の類が溶けず、夫妻がともに冶爐に入って、そののち物を成すことができた。その子孫は山に行って冶金をするのに、麻の帯に香草を佩びて、しかる後あえて山で鑄金した。今私が剣を作ろうとして変化しないのは、このようなことではないのか」
莫邪は言った
「師は身を溶かして鋳造物を成すことを知りました、私たちはなんの難しいことがありましょうか」
そこで干将の妻は髪を切り爪を切って爐の中に投じ、童女童男三百人にふいごで火をおして炭をしかけさせると、金鉄はうるおい、ついに剣をつくることができ、陽を干将といい、陰を莫耶といった。陽は亀甲の文様、陰はちらばったすじ模様があった。干将はその陽をかくし、陰を出してこれを献じた。闔閭は甚だ重んじた。すでに宝剣を得て、たまたま魯の使者の季孫が呉に招かれており、闔閭は掌剣大夫に莫邪を献じさせた。季孫は剣を抜くと、刃に欠けているところがあり大きさは黍粒ぐらいであった。感嘆して言った
「美しい剣だ。中国の軍といえどもこれ以上の物があるだろうか。剣ができたということは、呉の覇業をあらわしている。欠けているところがあれば、滅びる。私はこれを好みはするが、受け取るべきであろうか」
受けずに去った。
闔閭はすでに莫邪を宝とし、また国中に金鈎を作るように命じて言った 「よい鈎を作ることができた物には、百金を褒美として与える」 呉で鈎を作る物は甚だ多かった。そして、ある人は王の手厚い褒美をむさぼり、二子を殺してその血を金に塗り、ついに二つの鉤を作り闔閭に献じ、宮門に至って褒美を求めた。王は言った 「鈎を作る者は多いが、おまえはひとり恩賞を求めてきた、おまえの鈎は他のものとどう異なるのか」 鈎を作る者は言った 「私の作る鈎は、恩賞をむさぼってふたりの子を殺し、血を塗って二つの鈎を作ったのです。」
王はそこでたくさんの鈎を挙げてその者に示し
「どれがそうなのか」
王の鈎は甚だ多く、形態は似ていて、どこにあるか分からなかった。ここにおいて鈎師は鈎に向かって二人の子の名を呼び、
「呉鴻、扈稽、私はここにいる、王はおまえたちの霊妙を知らない」
声が口から絶えると、二つの鈎はともに飛んできて父の胸に付いた。呉王は大いに驚いて言った 「ああ、私はまことにあなたに償おう」 そこで百金を恩賞として与えた。ついに身につけて離さなかった。
六月、軍隊を用いようとし、たまたま楚の白喜が来奔した。呉王は子胥に問うて言った
「白喜というのはどういう人か」
子胥は言った
「白喜は、楚の白州犂の孫です。平王は州犂を誅殺し、喜はそのために出奔しました。私が呉にいると聞いて来たのです」
闔閭は言った
「州犂はどんな罪があったのか」
子胥は言った
「白州犂は楚の左尹で、号して郄宛といいました。平王に事え、平王はこれを寵愛して、常にともに一日中語り、朝になってから食事をしました。費無忌はこれを見てねたみ、よって平王に言いました
『王が宛を寵愛されているのは、国中が知っています。どうして酒の席を設けて宛の家に行き、群臣に宛を厚遇していることを示さないのですか』
平王は言いました
『よろしい』
そこで郄宛の家で酒の席を用意しました。無忌は宛に教えて言いました
『平王は甚だ猛々しく武器を好みます。あなたは必ず先に武器を堂下・門庭に並べなさい』
宛はその言葉を信じ、よってそうしました。平王が往くに及んで大いに驚き、言いました
『宛はどうしたのだ』
無忌は言いました
『ほとんどまさに簒奪され殺される憂いがあります、王は急いでここを去って下さい。何がおこるか分かりません』
平王は大いに怒り、ついに郄宛を誅殺しました。諸侯はこれを聞いて、嘆息しないものはありませんでした。喜は私が呉にいると聞き、ゆえに来たのです。どうかこれに会って下さい」
闔閭は白喜に会って問うて言った
「私の国は辺鄙で、東は浜海に臨んでいる。あなたの親は楚の暴怒、費無忌の讒言にあったとうわさに聞くが、我が国を遠いとせずにここへ来て、私に何を教えようというのか」
喜は言った
「私は楚国から逃げた捕虜です。父は罪無くして、道理に合わず暴虐に誅殺されました。私は大王が伍子胥の困窮を受け入れられたと聞き、千里の道を遠いとせずに来て命に帰すのです。どうか大王は私に死をたまわってください」
闔閭はこれを哀れみ、大夫とし、ともに国事を謀った。
呉の大夫被離は宴席に乗じて伍子胥に問うて言った
「どうして一目見て喜を信じるのですか」
子胥は言った
「私の怨みは喜びと同じだ。あなたは河上の歌を聞きませんでしたか。
『同病相憐れみ、同憂相救う』
驚いて飛び立つ鳥はお互いによりそって集まり、瀬の下を流れる水は、元通りになってともに流れます。胡馬は北風を望んで立ち、越の燕は日に向かって戯れます。いったい誰がその近いところを愛しまず、その思うところを悲しまないでしょうか」
被離は言った
「あなたの言葉は、外面だけを言っています。まさか内に意があって疑いを解決しようと言うのですか」
子胥は言った
「私はそうは思わない」
「私が白喜の人となりを観ますに、鷹のような目つきに虎のような足どり、功を独り占めにしほしいままに殺す性質です。親しんではなりません」
子胥はその言葉に納得せず、これとともに呉王に仕えた。
二年、呉王は先にすでに王僚を殺し、また慶忌が隣國にいるのを憂い、諸侯を合して伐ちに来ることを恐れ、子胥に問うて言った
「昔、専諸が私にしてくれたことは手厚かった。今、公子慶忌が諸侯にはかりごとをめぐらしていると聞き、私は食事をしても旨いと感じず、安心して寝ることもできないので、あなたにまかせたい」
子胥は言った
「私は不忠で善行がないのに、大王と王僚のことを私室の中に図りました。いままたその子を討とうとするのは、天帝の意にあらざることを恐れます」
闔閭は言った
「昔武王が紂王を討ち、そののちに武庚を殺したが、周人は怨む気色がなかった。いまこのように議るのは、どうして天に反しようか」
子胥は言った
「わたしは君王に事え、まさに呉の国統を護ろうとしています。またどうしてこれを恐れるでしょうか。私が重視する人は、細人です。どうか謀に従って下さい」
呉王は言った
「私の憂いは、その敵が万人の力を持つものである。どうして細人に謀ることができようか」
子胥は言った
「細人の謀には、万人の力があるのです」
王は言った
「それは誰か。言ってみよ」
子胥は言った
「姓は要、名は離といいます。私は以前壮士椒丘訢を辱めるのを見ました」
王は言った
「どのように辱めたのか」
胥は言った
「椒丘訢は、東海上の人です。斉王のために呉に使いし、淮の津を過ぎり馬に津で水を飲ませようとしました。津の役人は言いました
『水中には神がいて、馬を見ればすぐに出てきて、その馬を害してしまう。あなたは飲ませてはいけない』
訢は言いました
『壮士に対して、何の神が干渉しようというのか』
そこで従者に津で馬に水を飲ませさせると、水神が果たしてその馬を取り、馬は没しました。椒丘訢は大いに怒って、上着を脱ぎ剣を持ち、水に入って神に決戦を求め、幾日もしてから出てくるとその片目が見えなくなっていました。ついに呉に行き、友人の葬式に出ました。友人の葬式の席において、訢はその水神と戦った武勇を恃み、士大夫を侮り驕りたかぶって不遜な言葉遣いをし、人を侮る気色がありました。要離はこれと対座していましたが、座中の者はその力に驕ることに耐えられませんでした。時に要離は訢をはずかしめて言いました
『私はこう聞いている、勇士の戦いは、日と戦うのに日時計が移るのを待たず、神鬼と戦うのに踵を動かさず、人と戦うのに声を出さず、生きては往き死して還り、その辱めを受けないという。今あなたは神と水中で戦い、馬と御者を失い、また片目に傷害を負った。形は勇を名のるのをそこなっており、勇士の恥じるところだ。そこで敵に命を失わなわずにその生を惜しみ、なおわたしに傲慢な態度をとるのか』
ここにおいて訢はにわかに責めなじられたので、怨みと怒りが同時にわき起こり、日が暮れてから要離を攻めに行こうとしました。ここにおいて要理は葬式の席が終わると家に帰り、その妻に誡めて言いました
『わたしは大家の葬式で勇士椒丘訢を辱めた。後まで残る怨みをもち非常に怒っているので、日が暮れれば必ず来るだろう。決して我が家の門を閉じることがないように』
夜になって、椒丘訢は果たしてやってきました。見ると、その門は閉じられておらず、登っていくとその堂には鍵かかかっておらず、入っていくとその部屋は守備されておらず、要離は髪をほどいて横になって寝ており、恐れるところがありませんでした。訢はそこで剣を手にとって要離の髪をつかんで言いました
『あなたには死すべき三つの過ちがある。あなたはこれを知っているか』
要離は言いました
『知らない』
訢は言いました
『あなたは私をおおぜいの前で辱めた、これが一つ目の死である。帰宅して門を閉じなかった、これが二つ目の死である。寝ていて防がなかった、これが三つ目の死である。恨まないでほしい』
要離は言いました
『私には三つの死の過ちはない。あなたには三つの不肖の恥がある。あなたはこれを知っているか』
訢は言いました
『知らない』
要離は言いました
『私はあなたを千人の衆の前で辱めたが、あなたはあえて報復しなかった。これが一つ目の不肖である。門に入るのに咳払いせず、堂に登るのに声を出さなかった、これが二つ目の不肖である。先にあなたの剣を抜いて、手で押さえつけて私の頭髪をつかんでから、あえて大げさな言葉を言った、これが三つ目の不肖である。あなたは三つの不肖がありながら私を脅かしている、どうしていやしくないことがあろうか』
ここにおいて椒丘訢は剣を投げ捨て、嘆いて言った
『私の勇は、人はあえてうかがい見る者はなかった。離は私のさらに上だ、これこそ天下の壮士である』
わたしは、要離はこのようであると聴いております。まことにこれをお聞かせいたします」
王は言った
「どうか宴席を設けてこれを接待してほしい」
子胥はそこで要離に会って言った
「呉王はあなたの高い徳義を聞いている。一度会ってほしい」
そこで子胥とともに呉王に会った。王は言った
「あなたはなにをするのか」
要離は言った
「私は国の東千里の者です。私は細小で力がなく、風に向かえば倒れ、風に背を向ければうつぶせになりますが、大王の命がありましたらあえて力を尽くさないことがあるでしょうか」
呉王は心中で子胥がこの人を進めたことを非とし、やや久しく黙然として言葉を発しなかった。要離はそこで進み出て言った
「大王は慶忌のことを心配しておられますか。わたしは彼を殺すことができます」
王は言った
「慶忌の勇は、世に聞こえている。体力があり勇気と決断力があり、万人でもかなわない。走っている獣に走って追いつき、飛んでいる鳥を手で捕らえ、骨がおどり肉が飛び、膝を打って数百里を走る。私はかつてこれを江に追い、四頭立ての馬車を馳せたが追いつかず、闇に近づいてこれを射たが当たらなかった。今あなたの力はかなわない」
要離は言った
「王にお考えがあれば、私は彼を殺すことができます」
王は言った
「慶忌は、明智の人である。窮地に陥り諸侯に帰したが、諸侯の士より下ではない」
要離は言った
「私が聞くところでは、その妻子の楽しみを安んじ、君に事える義を盡くさないのは、忠ではありません。家室の愛を懐き、君の憂いを除かないのは、義ではありません。私は詐って罪を負い出奔します。どうか王は私の妻子を殺し、私の右手を断ち切って下さい。慶忌は必ず私を信じるでしょう」
王は言った
「わかった」
要離はそこで詐って罪を得て出奔し、呉王はそこでその妻子を捕らえ市で焼き殺した。要離はそこで諸侯のもとへ奔り、恨み言を言い、罪がないことは天下に聞こえた。ついに衛に行き、慶忌に会うことを求めて言った
「闔閭が無道であることは王子はご存じでしょう。いま私の妻子は市で焼き殺され、罪なくして誅せられました。呉国のことは、私はその事情を知っております。どうか、王子の勇によって闔閭をとらえてください。どうして私とともに東に向かい呉に行かないのですか」
慶忌はその謀事を信じた。のち三か月して、士卒を選んで訓練し、ついに呉に行った。まさに江を流れの中央で渡ろうとすると、要離の力は弱いので、風上に座り、風の勢いに乗って矛鈎でその冠をとらえ、風に順って慶忌を刺した。慶忌は顧みてこれを振り払うこと三回、その頭をつかんで水中に入れ、そして膝の上に乗せた。
「ああ、天下の勇士だ、あえて武器の刃を私に向けるとは」
左右の者がこれを殺そうとしたが、慶忌はこれを止めて言った
「これは天下の勇士である。どうして一日に天下の勇士を二人殺すことができようか」
そこで左右に誡めて言った
「呉に還してその忠義を明らかにさせよ」
ここにおいて慶忌は死んだ。
要離は渡って江陵に至り、不憫に思って行かなかった。従者が言った
「あなたはどうして行かないのですか」
要離は言った
「吾が妻子を殺して吾が君に事えるのは仁ではない。新君のために故の君の子を殺すのは、義ではない。その死を重視するのは、貴くなく義ではない。今私が生に執着し行いを棄てるのは義ではない。人に三悪があって世に立つなどと、私は何の面目があって天下の士に顔向けできようか」
言い終えると、ついに身を江に投げたが、いまだ絶命しないうちに、従者がこれを引き上げた。要離は言った
「私はどうして死ぬことができないのか」
従者は言った
「あなたは死なないで、爵禄を待ってください」
要離はそこで自ら手足を断ち、剣に伏して死んだ。
三年、呉はまさに楚を伐とうとしていたが、いまだ行わなかった。伍子胥と白喜はお互いに言った
「我々は王の養うところの士となり、はかりごとをめぐらして国に利があり、故に王は楚を伐とうとし命令を出したが、それにかこつけて軍を興こす意がないのは、どうしてだろうか」
しばらくして、呉王は子胥と白喜に問うて言った
「私は出兵しようと思うが、あなた方二人はどう思うか」
子胥と白喜は答えて言った
「私たちはどうか王の命に従わせて下さい」
呉王は二人とも楚を怨んでいるのを内心でおしはかり、兵を率いて行って楚を破滅させるのみであることを深く恐れた。台に上って南風に向かってうたい、しばらくして溜息をついた。群臣で王の意を悟る者はなかったが、子胥は王の気持ちが定まらないのを深く知り、そこで孫子を王に推薦した。
孫子は名を武といい、呉の人である。よく兵法をなした。奥深いところに退き隠れていたので、世の人はその能力を知らなかった。子胥はよく人を見分けることができたので、孫子が敵の攻撃を防ぎ、敵をそこなうことができるのを知った。そこである日呉王と軍事について論じ、七たび孫子を推薦した。呉王は言った
「子胥は士を進めると言って、自ら納れたいのだ」
そして孫子を召してこれに兵法を問うた。一篇を述べるごとに、王は思わず口で善しと称え、その意は大いに喜び、問うて言った
「兵法を少し試すことができるか」
孫子は言った
「できます。後宮の女で試すことができます」
王は言った
「わかった」
孫子は言った
「大王の寵姫二人を出していただき軍隊長とし、各々一隊を率いさせます」
三百人に皆鎧兜を身につけさせ、剣と盾を手にとり立たせ、軍法を告げ、鼓にしたがって進退し、左右に旋回させ、その禁令を知らせた。 そして命令して言った
「一たび鼓を鳴らしたらみな奮い立ち、二回鳴らしたら武器を手に取り進み、三回鳴らしたら戦型を作るように」
ここにおいて宮女は皆口を覆って笑った。孫子は自らばちを持って鼓を打ち、再三訓令を出し誡め告げたが、宮女はそのまま笑っていた。孫子は女たちを顧みたが、笑い続けて止まなかった。孫子は大いに怒り、両目をたちまち見開き、声は驚いた虎のごとく、髪は冠を突き上げ、首のわきの冠の紐が切れた。顧みて執法に言った
「斧と胴切りの台を持て」
孫子は言った
「約束が明らかでなく、命令が明らかでないのは、将の罪である。すでに約束し、再三訓令を出し誡め告げたのに、卒が拒んで行わないのは、士の過ちである。軍法はどうなっているか」
執法は言った
「斬刑です」
武はそこで隊長二人を切らせようとした。それはすなわち呉王の寵姫であった。呉王は台に登ってまさに二人の愛姫が斬られようとするのを見て、使いを走らせてこれに命令を下して言った
「私はすでに将軍が兵を用いるのを知った。私はこの二姫がいなければ食事も旨くないのだ。どうかこれを斬らないでほしい」
孫子は言った
「私はすでに命を受け将となりました。将の法は軍にあります。君の命令といえども私は受け入れません」
孫子はまた鼓を打ってこれを指揮すると、左右、進退、旋回するにあたり法則どおりで、あえて瞬きすらせず、二隊は寂然としてあえて振り向く者はなかった。ここにおいて呉王に報告して言った
「兵はすでに整いました。どうか王はこれを見てください。ただ用いようとするところ、水火の中に赴かさせても困難はありませんので、天下を平定することができます」
呉王は忽然として喜ばず、言った
「わたしはあなたがよく兵を用いることを知ったが、これで覇となることができるといっても、施行することができないだろう。将軍は家に帰って休め。私は見たいとは思わない」
孫子は言った
「王はただその言だけを好み、その実を用いない」
子胥は諫めていった
「私が聞きますに、兵は凶事であり、むだに試してはなりません。故に軍事を行うものは、誅伐が行われなければ、兵の道が明らかでなくなります。今大王は真心から有能な士を思って、戦争を興して暴虐な楚を誅伐し天下に覇して諸侯を威圧したいとお考えです。孫武のような将でなければ、誰が淮河を渡って泗水を越え、千里を越えて戦うことができる者がおりましょうか」
ここにおいて呉王は大いに喜び、そこで鼓を鳴らして軍を会し、集めて楚を攻めた。孫子は将となり、舒を抜き、呉の亡将二公子蓋餘・燭傭を殺した。郢に入ろうと謀ったが、孫武は言った
「民は疲れております、まだ勝利を期待することはできません」
楚は、呉が孫子・伍子胥・白喜を将としたのを聞き、楚国はこれに苦しみ、群臣は皆怨み、皆費無忌が伍奢・白州犂を讒言して殺したので呉が境界内を侵し、侵寇が絶えないのだと言い、ここにおいて司馬成は子常に言った
「太傅の伍奢、左尹白州犂は、国の者はその罪を知っている者はないが、あなたは王と謀ってこれを誅殺した。誹謗が国に流布し、今日にいたるまでその言が絶えることなく、まことに困惑している。聞くところによると、仁者は、人を殺して謗りを覆い隠すということは、なおしないものだ。今あなたは、人を殺して国に謗りを興している、またおかしいことではないか。費無忌は、楚の讒言する者であり、民はその過ちを知らない。今、無辜の三賢士を殺し、呉に恨みを買い、内には忠臣の心を傷つけ、外には隣國の笑いものとなっている。かつ郄・伍の家は呉に出奔し、呉は新たに伍員・白喜をえて、権勢を握り志を鋭くし、楚を仇としている。故に強敵の兵は日々脅かしてきている。楚国に事があればあなたはすぐに危うくなるだろう。智者は讒言を除いて自らを安んじ、愚者はへつらいを受けて自ら亡びる。今あなたは讒言を受けて、国は危うくなっている」
子常は言った
「これは私の罪である。あえて図らないことがあろうか」
九月、子常は昭王とともに費無忌を誅殺し、ついにその一族を滅ぼした。国人の誹謗はそこで止んだ。
呉王には滕玉という娘があった。楚を伐つのを謀っていたことにより、夫人及び娘と会して蒸魚を食べていたとき、王はさきに半分食べてから娘に与えた。娘は怒って言った
「王は残った魚を食べさせようとして私を辱めた。いつまでも生きていくのに堪えられない」
そして自殺した。闔閭はこれをいたみ、国の西の閶門の外に葬った。池をうがち土を積み、模様のついた石を棺の外囲いにし、内側に木を重ねた。金鼎、玉杯、銀樽、珠を貫いて飾りにした短衣といった宝は、みなこれで娘を葬送した。そして白鶴を呉の市中に舞わせ、万民を従えさせてこれを観させ、また 男女に鶴とともに墓門に入らせ、そこで機関を発動してこれをとじこめ、生者を殺して死者を葬送した。国人はこれを非とした。
湛盧の剣は、闔閭の無道を悪み、そこで去って水路で楚に行った。楚の昭王が眠りから覚めると呉王の湛盧の剣が寝台にあらわれた。昭王はその故が分からず、そこで風湖子を召して、これに問うて言った
「私が眠りから覚めると、宝剣があらわれたが、その名が分からない。これは何という剣だろうか」
風湖子は言った
「これは湛盧の剣です」
昭王は言った
「そうしてそう言えるのか」
風湖子は言った
「私は、呉王が越の献じた宝剣三つを得たと聞いております。一つ目を魚膓といい、二つ目を磐郢といい、三つ目を湛盧といいます。魚膓の剣はすでに呉王僚を殺すのに使われました。磐郢は、これでその死んだ娘を葬送しました。今湛盧が楚にやってきたのです」
昭王は言った
「湛盧が呉を去った理由は何か」
風湖子は言った 「私が聞きますに、越王元常が欧冶子に剣五本を作らせ、薛燭に示しました。燭は答えて言いました『魚膓の剣は模様が逆で順序だってなく、身につけることはできません。臣が君を殺し、子が親を殺します』故に闔閭はこれで王僚を殺したのです。もう一つは名を磐郢といい、またの名を豪曹といいます。不法の物であり、人に益はありません、故にこれで死を葬送したのです。もう一つは湛盧といい、良質の五種類の金属、太陽の精があり、霊気が寄託し、これを出せば神妙があり、これを身につければ威があり、敵の攻撃を挫き防ぐことができます。しかし人君に理に逆らう謀があれば、その剣は出て行き、故に無道を去って有道に就くのです。今呉王は無道で、君を殺し楚を攻めようと謀っています。故に湛盧は楚にやってきたのです」
昭王は言った
「その値はどれくらいか」
「私が聞きますに、この剣が越に在ったとき、客にその値をつける者がいました。市を有する郷が三十、駿馬千匹、一万戸の都が二つ、これはそのうちの一つです。薛燭は答えて言いました『赤菫の山はすでに合して雲無く、若耶の渓は深くて測れない、群神は天に上り欧冶子は死んだ。城を傾け金を量り、珠玉を河に満たしても、なおこの宝を得ることはできない、まして市のある郷・駿馬千匹・万戸の都で、どうして足りると言えようか』」
昭王は大いに喜び、ついにこれを宝とした。
闔閭は楚が湛盧の剣を得たと聞くと、これによって怒り、ついに孫武・伍胥・白喜に楚を伐たせた。子胥はひそかに楚に言いふらさせた
「楚が子期を用いて将と為せば、我々はこれを殺し、子常が兵を用いるならば我々は去る」
楚はこれを聞いて、そこで子常を用い、子期を退けた。呉は六と潜の二邑を抜いた。
五年、呉王は越が楚を伐つのに従わなかったので、南に向かって越を伐った。越王元常は言った
「呉は過日の盟を信じず、貢ぎ物を献じる国を棄て、その交わり親しんだ者を滅ぼすのだ」
六年、楚の昭王は公子襄瓦に呉を伐たせ、潜・六の役に報いた。呉は伍胥・孫武にこれを撃たせ、豫章に囲んだ。呉王は言った
「私は危機に乗じて楚の都に入り、その郢を破りたいと思う。郢に入らなければ、二人に何の功があろうか」
ここにおいて楚の軍を豫章に囲み、大いにこれを破り、ついに巣を囲み、これに勝ち、楚の公子繁を捕らえ、帰って質とした。
九年、呉王は子胥・孫武に言った
「はじめあなたは郢を落とすことはできないと言った。今は果たしてどうだろうか」
二将は言った
「戦うのに、仮の勝利で相手を威圧するのは、常勝の道ではありません」
王は言った
「どういうことか」
二将は言った
「楚国の軍隊は、天下の強敵です。今私がこれと勝敗を争えば、十死に一生でしょう。そして王が郢に入るのは天意によります。我々はあえて必ずしも勝てるとは考えません」
呉王は言った
「私はまた楚を伐ちたいと思うが、どうすればよいだろうか」
伍胥と孫武は言った
「囊瓦は貪欲で諸侯に対して過ちが多く、唐と蔡はこれを恨んでいます。王が必ずこれを伐てば、唐・蔡を得るでしょう」
「何を怨んでいるのか」
二将は言った
「昔、蔡の昭公が楚に朝したとき、美しい皮衣を二枚、善い珮を二枚持っていて、各々一枚を昭王に献じ、王はこれを身につけて朝に臨み、昭公は自ら一枚を身につけました。子常がこれを欲しがりましたが、昭公は与えませんでした。子常は三年これを留め、国に帰らせませんでした。唐の成公が楚に朝し、二頭の美しい毛並みの馬を持っており、子常はこれを欲しがりましたが、公は与えませんでした。また三年これを留めました。唐の人は互いに謀り、成公の従者より馬を請い、それで成公を購おうとしました。従者に酒を飲ませてこれを酔わせ、馬を盗んで子常に献じました。常はそこで成公を帰国させました。群臣は誹謗して言いました 『君は一頭の馬のせいで、三年囚われた。馬を盗んだ功績を賞めてもらいたい』ここにおいて成公は常に楚に報復しようと思うようになり、君臣はその事を口にして絶えることがありませんでした。蔡人がこれを聞き、固く請うて子常に皮衣と珮を献じ、蔡侯は帰ることができました。晋に行き告訴し、子の元と太子を質とし、楚を伐つことを請いました。故に唐・蔡を得れば楚を伐つことができると申し上げたのです」
呉王はここにおいて使者に唐・蔡に言わせた
「楚は無道をなし、忠良を虐殺し、諸侯を侵食し、二君を困らせ辱めた。私は兵を挙げて楚を伐ちたいと思う。どうか二君に謀ってもらいたい」
唐侯はその子の乾を呉に質とさせ、三国は謀を合わせて楚を伐った。兵を淮水の湾曲部に置き、豫章より楚と漢水をさし挟んで陣をはった。子常はついに漢水を渡って陣をはり、子別山から大別山に至り、三たび戦って利がなく、自ら進むことができないことを知り、逃げようと思った。史皇は言った
「今、子常は理由なく王とともに忠臣三人を殺した。天の禍が来たり下ったのは、王が招いたのである」
子常は答えなかった。
十月、楚〔と呉〕の両軍は柏挙に陣をはった。闔閭の弟の夫槩は朝早く起きて闔閭に請うて言った
「子常は不仁で、貪欲で恩知らずであり、その臣下は決死の覚悟はありません。これを追えば、必ず撃破できます」
闔閭は許さなかった。夫槩は言った
「いわゆる『臣がその志を行うのに命令を待たない』とは、このことを言うのだ」
ついにその部隊五千人を率いて子常を撃った。〔子常は〕大いに敗走し、鄭に奔った。楚軍は大いに乱れ、呉軍はこれに乗じてついに楚軍を破った。楚人がまだ漢水をわたらないとき、たまたま楚人は食事をしていた。呉はそこで追撃してこれを破った。雍滞で五たび戦い、ただちに郢に至った。王は呉の侵寇に迫られ、出でて必ずまさに逃げようとし、妹の季羋と河水・濉水の間に出で、楚の大夫尹固は王と同じ舟に乗って逃げた。呉軍はついに郢に入城し、昭王を探した。王は濉を渡り長江を渡り、雲中に入った。暮れに宿っていると、群盗がこれを襲い、戈で王の頭に撃ちかかり、大夫尹固は王をかばって背でこれを受け、肩に当たった。王は恐れて鄖に奔った。大夫鍾建が季羋を背負って従った。鄖公辛は昭王を得て大いに喜び、これを還そうとした。その弟懐は怒って言った
「昭王は我々の仇です」
これを殺そうとし、その兄辛に言った
「昔平王は我々の父を殺しました。我々がその父を殺すのもまたよいではありませんか」
辛は言った
「君がその臣を討って、あえてこれを仇とするものがあろうか。人の禍に乗じるのは、仁ではない。宗廟を滅ぼし祀を廃するのは、孝ではない。行動して令名がないのは、智ではない」
懐は怒って許さなかった。辛はひそかにその弟の巣と謀って、王とともに隨に奔った。呉軍はこれを追って、隨君に言った
「周の子孫で漢水のほとりに在る者は、楚がこれを滅ぼした。天がその禍に報い、楚に罰を加えたというのに、君はどうしてこれをかばうのですか。周室になんの罪があって、その賊をかくまうのですか。昭王をさし出せば、重大な恩惠があろう」
隨君は昭王と呉王とを占うと不吉であった。そこで呉王に辞して言った
「隨は僻地の小国であり、楚に親しく、楚はまことに我らを保全しており、同盟があって今に至るまで変わっておりません。もし今危難にあってこれを棄てるというなら〔どうして君に事えることができましょうか。〕いまもし穏やかに対処なさるなら、楚は敢えて命令を聴かないことがありましょうか」
呉軍はその言葉をよしとし、そこで退いた。この時、大夫子期は昭王とともに逃げていたが、ひそかに呉軍と取引し、昭王を逃そうとした。昭王はこれを聞き、免れることができると、子期の心臓の前の皮膚を割き、その血で隨君と盟約して去った。
呉王は郢に入ってとどまった。伍胥は昭王を捕らえられなかったので、そこで平王の墓を掘りその屍を出し、これを鞭打つこと三百回、左足で腹を踏みつけ、右手でその目を抉り、これを責めて言った
「誰がおまえに邪悪なへつらいの口を用いさせ、吾が父兄を殺させたのか。どうして無実の罪でないことがあろうか」
そこで闔閭に昭王の夫人をめとらせ、伍胥・孫武・白喜もまた子常・司馬成の妻をめとり、楚の君臣を辱めた。 ついに軍を率いて鄭を撃った。
鄭の定公は前に太子建を殺して子胥を苦しめた。これより鄭の獻公は大いに恐れ、そこで国中に命令して言った
「呉軍を還すことができる者があれば、私はともに国を分かちて治めよう」
漁師の子が応募して言った
「私はこれを還すことができます。一尺の武器も一斗の食糧も用いず、一本の櫂を得て道中を歌って行けばすなわち還ります」
公はそこで漁師の子に櫂を与えた。子胥の軍がまさに至ろうとすると、道で櫂をたたいて歌って言った
「蘆中の人」
このようにすること二回であった。 子胥はこれを聞いて愕然として大いに驚いて言った
「何者か」
尋ねて言った
「あなたは誰だ」
言った
「漁師の子です。我々の国君は恐れて国に命令しました『呉軍を還すことができるものがいれば、これを国を分かちて治めよう』と。私は父があなたと途で出会ったことを思い、いまあなたに鄭の国を許すことを請います」
子胥は言った
「悲しいことだ、私はあなたの父の恩を受けていまに至った。上天は蒼蒼として、どうして忘れようか」
そこで鄭国を許して軍を還し、楚をまもった。楚の昭王の所在を探すのが日々厳しくなった。
申包胥は逃げて山中にいてこれを聞き、そこで人をつかわして子胥に言わせた
「あなたの仇に報いることはなんと甚だしいことか。あなたはもともと平王の臣であり、北面してこれに事えた。今屍を辱めて、どうして道が極まるであろうか」
子胥は言った
「私に代わって申包胥に告げて言うように、『日は暮れて道は遠い、ゆえに私は常理に逆らって事を行ったのだ』と」
申包胥は〔伍子胥を説得することが〕できないとわかり、そこで秦に行き、楚を助けることを求めた。昼に馳せて夜に趨り、踵と足の裏が裂け、衣裳を裂き膝を包み、秦の庭で鶴のようにかかって立ち哭すこと七日七夜、声が絶えることがなかった。秦の桓公は素より酒色のおぼれて、国事をかえりみなかった。申包胥は泣きやんで、歌って言った
「呉は無道で、大豚・長蛇のようであり、中国を侵食し、天下を手に入れようとし、まさに楚より始めました。わが君は脱出して草沢におり、私を来させて急を告げさせたのです」
哀公は大いに驚いて言った
「楚にはこのような賢臣がいるのに、呉はなおこれを滅ぼそうとしている。私にはこのような臣はいない。滅びるのに日はかからないだろう」
無衣の詩をうたって言った
「どうして衣がないというのか、あなたと綿入れを同じくしよう。王はここに軍隊を興し、仇を同じくしよう」
包胥は言った
「私は、徳にもとれば厭くことなしと聞いております。王は隣国国境の患を憂えませんように。呉の情勢が定まらないうちに、王は楚の地の一部分を取ってください。もし楚がついに滅びれば、秦には何の利がありましょうか。すなわちまた君の土地もなくなりましょう。どうか王は神霊をもってこれを存続させてください。代々王にお仕えいたします」
秦哀公はこれに辞させて言った
「私は命を聞きましょう。あなたはしばらく館で休んでください。まさに相談して報告しましょう」
包胥は言った
「わが君がいま草野にいて居場所がないというのに、私がどうして安逸の場所におられましょうか」
また庭に立って塀に寄りかかって泣き、日夜声が絶えず、水も飲まなかった。秦哀公は彼のために涙を流し、そこで兵を出してこれを送った。
十年、秦の軍が未だ出動しないうちに、越王元常は、闔閭がこれを檇李に破ったのを恨んで、兵を興して呉を伐った。呉が楚にいたので、越は機に乗じてこれを襲ったのである。
六月、申包胥は秦軍を率いて到着した。秦は公子子蒲・子虎に戦車五百乗を率いて楚を救って呉を撃たせた。二人は言った
「我々はいまだ呉の戦法戦術を知らない」
楚軍を先に呉と戦わせ、そしてこれと合流し大いに夫槩を破った。
七月、楚の司馬子成・公子子蒲は呉王と互いに守り、ひそかに兵を率いて唐を伐ち、これを滅ぼした。子胥は久しく楚に留まって昭王を探して去らなかった。夫槩の軍は敗れて退却した。
九月、ひそかに帰り、自ら立って呉王となった。闔閭はこれを聞き、そこで楚軍を捨て置き夫槩を殺そうとした。夫槩は楚に奔り、昭王は夫槩を棠渓に封じた。闔閭はついに帰った。子胥・孫武・白喜は留まり、楚軍と淮澨に破った。楚軍もまた呉軍を破った。楚の子期はまさに呉軍を焼こうとした。子西は言った
「我が国の父兄が戦って骨を草野にさらしている。これを回収できないのにこれを焼いてもいいものだろうか」
子期は言った
「国が滅び人々が失われ、生者と使者がここかしこにいるのに、またどうして生者を殺すのに死者をおしむことがあろうか。死者がもしこれを知れば、必ずまさに煙に乗じて起き上がり我々を助けようとするだろう。もしこれを知らなければ、どうして草中の骨を惜しんで呉国を滅ぼそうか」
ついに焼いて戦い、呉軍は大いに敗れた。子胥らは言い合った
「彼ら楚は我々の残兵を破ったといっても、いまだ我々を損なうものではない」
孫武は言った
「呉の盾と戈で西方の楚を破り、昭王を逐い、荊平王の墓を屠り、その屍をそこないさらした。またすでに十分ではないか」
子胥は言った。
「霸王より以来、いまだ人臣でこのように仇に報復した者はいない。去りましょう」
呉軍が去って後、昭王は国に帰った。楽士扈子は楚王が讒言を信じて伍奢・白州犂を殺し、侵寇が国境に絶えず、平王の墓を掘りかえされ屍を辱められ妻を姦淫され楚の君臣を辱められるに至ったのを非とした。また昭王が困迫し、ほとんど天下に大いに卑しめられ、そしてすでに恥じていることを傷んだ。そこで琴を引き寄せて楚のために『窮劫の曲』を作り、君の災厄に苦しんで暢達に至ったことを傷んだ。その詞にいわく
「王よ、王よ、どうしてに功業に背き、宗廟を顧みず賤しい者の讒言を聴き、無忌を任用し多く殺すところ、白氏の一族を討ち平らげてあらかた滅ぼし、二子は東に奔って呉越に行き、呉王は悲しみ傷んで、憂い悲しんでいる二人を助け、涙を流し兵を挙げてまさに西伐しようとし、伍胥・白喜・孫武は決行した。三度戦って郢を破り王は逃げだし、兵を留めてほしいままに戦車を走らせ楚の宮殿を擒にし、楚王の骨は発掘され、腐乱した屍を鞭打たれたという恥は、雪ぎがたい。ほとんど宗廟を危うくし、社稷は滅び、荘王はどんな罪があって国がほとんど絶えるというのか。卿士は悲しみ民はいたみ、呉軍は去ったといえども怖れはやまない。どうか王はさらにいたんで忠節の士をやすんじ、告げ口をするものに悪口を言わせないようにしてください」
昭王は涙を流し、深く琴曲の意味を知り、扈子は遂にまた彈くことはなかった。
子胥らは溧陽を過ぎ、瀬の上でため息をついていった
「私はかつてここで飢えて一人の女子に食事を乞うた。女子は私に食べさせ、ついに水に投じて亡くなった。まさに百金を以て報いたいのだが、その家を知らない。そこで金を水中に投じて去った。 しばらくして、一人の老婆が泣きながらやってきた。人が尋ねて言った
「何を悲しんで泣いているのか」
老婆は言った
「私には娘があり、家にいて三十にして嫁いでいませんでした。先年、ここで綿を撃っていると、一人の道で困窮した君子に会い、そこでこれに食事をさせ、事が漏れるのを恐れて自ら瀬水に投身しました。今伍君がいらっしゃったと聞きましたが、その償いを得ることができず、自ら空しく 死んだのを傷み、このために悲しんでいるのです」
人は言った
「子胥は百金を報いようとしたが、その家を知らなかったので、金を水中に投じて去った」
老婆は遂に金を取って帰った。
子胥は呉に帰り、呉王は三師がまさに到着しようとしてると聞き、魚をさばいてなますを作った。まさに到着しようとする日、時が過ぎても到着せず、魚は臭った。しばらくして子胥が到着し、闔閭はなますを出して食べさせたところ、その臭いを感じなかった。王はまたふたたびこれを作り、その味はもとのごとくであった。呉人がなますを作るようになったのは、闔閭が始めてからである。
諸将はすでに楚より還り、そこで閶門の名をあらためて破楚門といった。また斉を伐とうと謀り、斉子は娘を呉に質とさせた。呉王はそこで太子波のために斉女を娶らせた。娘は若く、斉を思って日夜号泣し、そのために病気になった。闔閭はそこで北門を建てて望斉門と名付け、娘をその上に行って遊ばせた。娘の思いは止まず、病はますますひどくなり、死ぬに至った。娘は言った
「もし死者に知ることができるなら、必ず私を虞山の嶺に葬って、斉を望ませてください」
闔閭はこれを傷み、まさにその言葉の通りにし、虞山の嶺に葬った。この時、太子もまた病気になって死んだ。闔閭は諸公子で太子に立てるべき者を選ぼうと謀ったが、いまだどうするか定まらなかった。波の子夫差は日夜伍胥に告げて言った
「王は太子を立てようとしている。私でなければ、だれがまさに立つべきであろうか。この計はあなたにかかっている」
子胥は言った
「太子はいまだ定まっていません。私が宮廷に入れば決まるでしょう」
闔閭はしばらくして、子胥を召して太子を立てることを謀った。子胥は言った
「私は、祭祀は血統が絶えたあとに廃れ、跡取りがあると興ると聞いております。いま太子が亡くなり、早くも侍御を失いました。今王は太子を立てようとしておられますが、波の子夫差よりまさるものはありません」
「あれは愚かで不仁である。呉国を受け継いで統率できないのではないかと心配だ」
子胥は言った
「夫差は信たるに人を愛するをもってし、節を守るに正しく、礼義にあつい。父が死んで子が代わるのは、経の名文にあります」
闔閭は言った
「私はあなたに従おう」
夫差を立てて太子とし、太子に兵を駐屯させ楚を守備して留めさせた。自らは宮室に統治し、射台を安里に建て、華池は平昌にあり、南城宮は長楽にあった。闔閭は出入りして遊び臥し、秋冬は城中で統治し春夏は城外で統治した。姑蘇台を造り、朝に䱉山で食事し、昼は蘇台に遊び、鴎陂で射て、游台で馬を走らせ、楽石城で遊興し、長洲に犬を走らせた。これは闔閭の覇業の時に定まった。ここにおいて太子が定まり、そこで楚を伐って軍隊を破り番を抜いた。楚は呉軍がまた来るのを恐れて郢を去り、蔿若に徒った。ちょうどこのとき、呉は子胥・白喜・孫武の謀を以て、西の強国楚を破り、北の斉・晋を威圧し、南の越を伐った。