呉越春秋

 呉の前君太伯は、后稷の苗裔である。后稷の母は台氏の娘姜嫄である。帝嚳の元妃となり、年が若く未だ妊娠していないときに、出でて野に遊び、巨人の足跡を見つけると、心が嬉しくなり、その形を喜び、これを踏んだ。体が動いて、男女の交わりを持った人の感ずるところのようであった。その後妊娠し、不義密通の禍を受けることを恐れ、ついに祭祀してたずねると、子なくして上帝の跡を踏むと天がこれをもたらす、ということだった。姜嫄は怪しんで狭い通りへ捨てたが、行き過ぎる牛馬は驚いてこれを避けた。また林の中に捨てると、たまたま木を切る人に多く会った。また沼地の氷の上に置くと、沢山の鳥が羽でこれを覆った。后稷はついに死ななかった。姜嫄は神異なことと思って、引き取ってこれを養い、成長して棄と名付けた。
 稷は子供の時、よく禾・黍・桑・麻・五穀を植え、五土のすじ道を見て、青・赤・黄・黒の土壌、丘・河川・高地・低地の地形、粢・稷・黍・禾・蕖・麥・豆・稲の穀物は、それぞれうまくおさまった。
 堯は洪水に遭い、人民は氾濫にあって高いところに逐われた。堯は后稷を招いて、民に山居して地に随い区画をつくり種まきの術を極めることを教えさせた。三年あまりで、道行く人に飢えている様子はなくなった。そこで棄に官を授けて農師とし、これを台に封じ、号して后稷とした。姓は姫氏である。后稷は国に就いて諸侯となった。
 后稷が死んで、子の不窋が立った。夏氏の世が衰えたのに遭い、官を失って戎狄の間に奔った。
 その孫は公劉である。公劉は情け深く、歩くときに草を踏まず、車で行くにも葦を避けた。公劉は夏の桀を避けて戎狄の間にいたが、風俗を変え、民はその政にしたがいならった。公劉が死んで、子の慶節が立った。
 その後八世にして、古公亶甫が立った。公劉后稷の業を修め、徳を積み義を行い、狄人に慕われた。匈奴戎がにくんでこれを伐とうとし、古公はこれをおさめるのに犬馬牛羊をもってしたが、攻撃はやまなかった。皮と帛、金玉重宝をもってしたが、やはり攻撃はやまなかった。古公は
「何がほしいのか」
と聞いた。すると
「その土地がほしい」
と答えた。
古公は言った
「君子は人を養う土地のために、土地が養う人を害したりすることはない。国が滅びるのは自分のために害されるということであり、私は居ることができない」
古公はそこでむちを手にして立ち邠を去り梁山を越え岐山のふもとにおちつき、言った
「かの君と私と何が異なるだろうか」
邠人は父子兄弟相ひきいて、老人を負い幼少を携えて、釜と甑を掲げて古公に帰服した。岐山に住んで三月で城郭を作り、一年で邑を作り、二年で都を作り、 民はそのはじめの五倍となった。 古公には三人の子があり、長子を太伯といい、次子を仲雍といった。雍はまたの名を吳仲といった。末子を季歴といった。季歴は太任氏を娶り、子の昌を生んだ。昌には吉相があった。古公は昌が聖人であることを知り、国を伝えて昌に及ぼしたいと思い、言った
「王業を興すものは昌である」
よって末子の名を更めて季歴といった。太伯と仲雍はのぞみみてその意図を知り、言った
「歴とは、適のことである」
古公が国を昌に伝えたいと思っているのを知った。
 古公が病気になり、二人は薬を衡山に採りに行くという口実で、ついに荊蛮に行き、断髪文身して、夷狄の服装をし、用いるべきでないことを示した。
 古公が死に、太伯と仲雍は帰って、葬儀に出て終わると、荊蛮に戻った。国民は太伯を君として事え、太伯は自ら号して句呉といった。呉人に尋ねる者があった
「何によって句呉としたのですか」
太伯は言った
「私は長子として国に居るが、跡取りがない。封をうけるべき者は呉仲である。故に自ら勾呉と号したのである。正しくないことがあろうか」
荊蛮はこれを義とし、これに従い帰する者は千余家、共に立って句呉をなした。数年の間に、人々は豊かになった。殷末の世の衰退に遭い、中国の侯王はしばし ば兵を用い、脅威は荊蛮まで及んだ。そこで太伯は城を造り、周囲は三里二百歩、外郭は三百余里であった。西北の隅に在り、名を故呉といい、人民は皆その中に耕作した。
 古公は病気になりまさに死のうとするとき、季歴に、国を太伯に譲らせようとした。三たび譲ったが、太伯は受けなかった。ゆえに太伯は三たび天下を譲ったというのである。ここにおいて季歴は政を行い、先王の業を修め仁義の道を守った。季歴が死に、子の昌が立ち、号して西伯といった。公劉・古公のやりかたしたがい老を養い、天下はこれに帰した。西伯は太平をきわめ、伯夷が海浜よりいたった。西伯が死に、太子の発が立った。周公と召公を任じて殷を伐ち、天下はすでに安泰となり、そこで王と称した。追って古公に太王と諡し、追って太伯を呉に封じた。
 太伯が死んで梅里平墟に葬った。仲雍が立ち、これが呉仲雍である。仲雍が死に、子の季簡、季簡の子が叔達、叔達の子が周章、周章の子が熊、熊の子が遂、遂 の子が柯相、柯相の子が彊鳩夷、彊鳩夷の子が余喬疑吾、余喬疑吾の子が柯廬、柯廬の子が周繇、周繇の子が屈羽、屈羽の子が夷吾、夷吾の子が禽処、禽処の子が専、専の子が頗高、頗高の子句畢が立った。この時、晋の献公が周北の虞を滅ぼした。それは虞公が晋が虢氏を伐つのに道を貸したためである。句畢の子が去斉であり、去斉の子寿夢が立ち、呉はいよいよ強大になり、王を称した。およそ太伯から寿夢の世に至るまで、中国と時に通じて朝会し、国はここに覇を称した。

呉越春秋

 寿夢元年、周に朝し楚に行き、諸侯の礼楽を観た。魯の成公と鍾離に会した。深く周公の礼楽を問い、成公はことごとく王の礼楽をつらね、よって三代の風を詠った。寿夢は言った
「私は蛮夷にいていたずらに椎髻をもって俗としている、どうしてこのような服装があろうか」
歎いて去り、言った
「ああ、礼である」
 二年、楚の亡大夫申公巫臣が呉に行き、行人となった。呉に射撃と馬車の操縦を教え、これを導いて楚を伐った。楚の荘王は怒って、子反を将たらしめて呉の軍を破った。二国はこれより仇となった。ここにおいて呉は初めて中国と通じて諸侯と敵対した。
 五年、楚を伐ち、子反を破った。
 十六年、楚の恭王は呉が巫臣のために楚を伐ったのを怨み、そこで兵を挙げて呉を伐ち、衡山に至り、還った。
 十七年、寿夢は巫臣の子狐庸を相とし、政を任せた。
 二十五年、寿夢は病気になり、まさに死のうとしていた。子が四人あり、長子を諸樊といい、次を余祭といい、次を余昧といい、次を季札といった。季札は賢かったので、寿夢はこれを立てようとしたが、季札は辞退して言った
「礼には旧制があります。前王の礼を廃して、父子の私情を行うのはいかがなものでしょう」
寿夢はそこで諸樊に命じて言った
「私は季札に国を伝えて及ぼしたいと思う。お前は私の言ったことを忘れるな」
諸樊は言った
「周の太王は西伯の聖人であることを知って、長子を廃して少子を立て、王の道を興しました。いま季札に国を授けたいというのなら、私は誠に野で耕作しましょう」
王は言った
「昔、周が行った徳は、四海をおおった。いま、おまえは取るに足らない国、荊蛮の郷で、どうして天子の業をなすことができようか。今、お前は前人の言を忘れず、必ず国を兄弟の順序をもって授け、季札に及ぼすように」
諸樊は言った
「あえて命のごとくしないことがありましょうか」
寿夢が死に、諸樊は長子ということで代わって職務を行い、国政に当たった。
 吳王諸樊元年、すでに喪があけ、季札に譲って言った
「昔、前王がいまだ亡くならない時、かつて明け方に不安で、私がその顔色を見ると、意は季札にあった。また三朝に復し悲しげにうたって私に命じて言った『私は公子札が賢であると知り、長子を廃して少子を立てたい』。その発言を繰り返した。私の心はすでにこれを許すといえども、前王はその私的な計を行うに忍びず、国を私に付した。私は敢えて命に従わないことがあろうか。今、国は、おまえの国である。私は前王の義を達することを願う」
季札は辞退して言った
「そもそも長子が国に当たるのは、前王の私事ではなく、宗廟社稷の制です。どうして変えるべきでしょうか」
諸樊は言った
「いやしくも国に施すべきだとすれば、何と先王の命ではないか。太王が制を改めて季歴を立てようとすると、二伯は来たりて荊蛮に入り、遂に城を築いて国を作り、周道はなしとげられ、前人はこれを誦えて口に絶えることはなかった。それはすなわちおまえのよく知るところである」
札はまた辞退して言った
「昔曹公が死に、公子負芻が太子を殺して立ったのを、諸侯と曹人は不義にして国に立ったとしました。子臧はこれを聞き、歩きながら詩をうたって帰りました。曹君は懼れてまさに子臧を立てようとしたところ、子臧は逃げ去り、そこで成公が曹の君主となりました。札は不才ではありますが、子臧の義にあやかりたいと願います。私は誠にこれを辞退いたします」
 呉人はつよく季札を立てよう としたが、季札は受けずに野に下って耕作したので、呉人はあきらめた。諸樊はわざと驕りたかぶり、鬼神をあなどり、天を仰いで死を求めた。まさに死のうとするとき、弟の余祭に命じて言った
「必ずや国を季札に及ぼすように」
そこで季札を延陵に封じ、号して延陵季子といった。
 余祭十二年、楚の霊王は諸侯をあつめて呉を伐ち、朱方を囲み、慶封を誅した。慶封はしばしば呉のために偵察したので、晋と楚はこれを伐ったのである。王余祭は怒って言った
「慶封は窮して呉に来たので、これを朱方に封じ、士を恨まないことをあらわしたのだ」
そこで兵を挙げて楚を伐ち、二邑を取って去った。
 十三年、楚は呉が慶封のために自分を伐ったのを怨み、心は恨んでやまず、呉を伐ち、乾谿に至った。呉はこれを撃退し、楚の軍は敗走した。
 十七年、余祭が死んだ。
 余昧が立ち、四年にして死んだ。王位を季札に授けようとしたが、季札は辞退して逃げ去り、言った
「私が王位を受けないのは明らかです。昔、前君の命がありましたが、すでに子臧の義にあやかり、身を潔くし行いを清くし、高きを仰いで尊きことをおこない、仁を思っております。私にとって富貴というのは、些かも心に止まらないことです」
遂に逃げて延陵に帰った。呉人は余昧の子州于を立て、号して呉王僚となった。

呉越春秋

 二年、王僚が公子光に楚を伐たせたのは、先に楚が慶封を誅したことに報復しようとしたのである。呉の軍は敗れ、船を失った。 光は懼れて、その不備をかくし、また王の船を奪い返して還った。光は王僚を殺そうと謀ったが、未だ共に合議するものがなく、ひそかに賢人を求め、そこでよく人をみる者に命じて呉市吏とした。
 五年、楚の亡臣伍子胥が呉に来奔した。伍子胥は、楚の人であり、名は員といった。員の父は奢、兄は尚である。その祖父は、名を伍挙といい、相手をはばからずに諫めることで楚の荘王につかえた。
 荘王は、即位して三年、政治をかえりみなかった。酒におぼれ、音楽と女色にふけった。左手に秦姫を擁し、右手に越女を抱き、身は鐘鼓の間に座り命じて言った
「敢えて諫める者があれば、死刑にする」
そこで伍挙は進んで諫めて言った
「一羽の大鳥が楚国の庭に集まっており、三年飛びも鳴きもしません。これは何の鳥でしょうか」
そこで荘王は言った
「この鳥が飛ばないということは、飛べば天に至るのだ。鳴かないということは、鳴けば人を驚かすのだ」
伍挙は言った
「飛ばない、鳴かないでは、まさに射る者にとられるところとなります。矢がにわかに発せられたら、どうして天にいたり人を驚かすことができましょうか」
そこで荘王は秦姫と越女を棄て、鐘鼓の楽をやめた。孫叔敖を用いて国政を任せた。遂に天下に覇し、威力をもって諸侯を服従させた。
 荘王が死に、霊王が立った。章華の台を立てた。伍挙と王はともに台に登った。王は言った
「台は美しい」
伍挙は言った
「私は、国君は恩惠に服することを美とし、民を安んずることを楽とし、よく聴くことを聰とし、遠くの者を付き従わせることを明とすると聞いております。土木の崇高であること、 飾りのある彫刻や画、鐘磬の澄んだ音色、弦楽器や笛の涼しげな音色を美とするとは聞いておりません。以前、荘王は抱居の台を建てましたが、その高さは国都の妖気を見るに過ぎず、大きさは宴会の器を置くにすぎず、土木は城郭の守備を妨げず、費用は官庁に負担をかけず、民は季節に応じた農業をそこなわず、官は朝廷の方式を変えませんでした。今、我が君はこの台を建てるのに七年、国人は怨み、財用は尽き、穀物はそこなわれ、人民は煩い、諸侯は忿怒し、卿士は非難しています。どうして前王の盛んにするところ、人君の美とするところでありましょうか。私は誠に愚かにもおっしゃるところがわかりません」
霊王はそこで工人をしりぞけ、装飾を取り去って、台に遊ばなくなった、これによって、伍氏は三代にわたり楚の忠臣となった。 
 平王には太子があり、名を建といった。平王は伍奢を太子の太傅とし、費無忌を少傳とした。平王は費無忌をつかわして太子のために秦より公女を娶ろうとしたが、秦の公女は美しかったので、無忌は平王に報告して言った
「秦の公女は、天下に並ぶ者がないほどの美人です。王は自ら娶られるとよいでしょう」
王はついに秦の公女を娶って夫人とし、寵愛して子の珍を生んだ。そしてさらに太子のために斉の公女を娶った。無忌はこのために太子の下を去り、平王に仕え、深く思った
「平王がひとたび死ねば、太子が立ち、私を迫害するだろう」
そこでまた太子建を讒言した。建の母蔡氏は寵愛を受けておらず、そこで太子に城父を守らせ、辺境に備えさせた。
 このころ、無忌は日夜太子の欠点を言った
「太子は、秦の公女の件で、怨む心がないはずはありません。どうか王は自ら備えられますよう。太子は城父にいて軍隊を率い、諸侯と外交し、まさに侵入して乱を起こそうとしています」
平王はそこで伍奢を召して、罪を調べたずねた。伍奢は無忌が讒言したことを知り、そこで平王を諫めて言った
「王は邪な身分の低い臣下を信じ、肉親を疎んずるのはいかがなものでしょうか」
無忌は王のひまをみてまた言った
「王がいま制しなければ、太子の謀反は成就し、王はまさに捕らえられてしまうでしょう」
平王は大いに怒り、そこで伍奢を捕らえ、城父司馬の奮揚を行かせて太子を殺させようとした。奮揚は人を使わして前もって太子に
「急いで逃げるように、そうしなければ誅殺されるでしょう」
と告げさせた。三月、太子は宋に奔った。
 無忌はまた平王に告げて言った
「伍奢には二人の子がおり、どちらも賢人です。誅殺しなければ楚の憂いとなるでしょう。その父を人質としてこれを召し出すべきです」
王は使いをやって、伍奢に言った
「二人の子を招くことができたら生かしてやる、そうでなければ死刑にする」
伍奢は言った
「私には二人の子がおり、兄を尚といい、弟を胥といいます。尚の性格は恵み深く思いやりがあり、もし私が召したと聞けばすぐに来るでしょう。 胥の性格は若くして文を好み、長じては武に習い、文は封国を治め、武は天下を定め、綱紀を守り、恥を受けいれ、無実の罪といえども争わず、大事を成すことができます。これは先を見通せる者です。どうして来るでしょうか。」
平王は伍奢が二子をほめるのを思い、そこで使者を四頭立ての馬車で遣わして、印綬を箱に封じ、詐って子尚・子胥を召しに行かせ、命じて言った
「二人を祝賀しよう、父親の奢は忠信にして慈しみ深きことをもって、難を逃れ罪を免れることになった。平王は内に忠信を牢獄に捕らえたことを恥じ、外には諸侯の笑いものとなることを恥じ、かえって奢を遇して国相となし、二子を封じて侯となし、尚には鴻都侯を賜り、胥には蓋侯を賜り、お互い三百余里も離れていない。奢は久しく牢獄に捕らえられており、二子のことを憂い思っており、そこで私を遣わし印綬をたてまつりに来させたのである」
 尚は言った
「父が牢に繋がれて三年、心はひどくいたみ、食べても旨くなく、飢えと渇きに苦しみ、昼夜感じ思い、父が生きないのを憂いてきた。父が免ぜられることを思っているのであり、どうしてあえて印綬など欲しがりましょうか」
使者は言った
「父が捕らえられて三年、王は今幸いにも許され、金品や官位を賜るのではなく、二子を封じて侯とするのである。一言聞けばまさに至るべきである。なにを述べるところがあるのか」
 尚はそこで入って子胥に報せて言った
「父は幸いにも死を免れ、二人の子は侯になり、使者は門にいてあわせて印綬を封じている。お前は使者に会うとよい」
 子胥は言った
「落ち着いてお座りなさい、兄上のためにこれを占ってみましょう。今日は甲子で、時は巳に加わり、干支は天下をやぶり、気はお互いに受けません。君主はその臣を欺き、父はその子を欺きます。今行けば、死んでしまいます。どうして侯になるということがありましょうか」
尚は言った
「どうして侯になりたいということがあろうか、ただ父に会いたいだけだ。一目会って別れれば、死ぬとしても生きるようなものだ」
子胥は言った
「しばらくは行ってはいけません。父が生きているのは、我々が生きているのに応じているのです。楚は我が武勇を恐れているので、なりゆきとしてあえて殺さないのです。兄上がもし誤って行けば、死は免れません」
尚は言った
「父子の愛は、恩は心中より出でる。幸いにも見えることができたら、思いをとげられるのだ」
そこで子胥は歎いて言った
「父と共に誅殺されれば、どうして世にあらわれることなどありましょうか、怨みはのぞかれず、恥辱は日々大きくなります。兄上がこれより行かれるのならば、私はこれより決別しましょう」
尚は泣いて言った
「私が生きながらえれば、世の笑いものになり、ついに地上で老いたとしても、何になろうか。仇を討つことができなければ、つまりは役立たずである。お前は、文武を懐き、策略に勇んでいる。父兄の仇は、お前が討つべきだ。わたしがもし帰ってくることができれば、天が助けたと言うことであり、ついに沈み埋もれたとしても、また喜ばしいことである」
胥は言った
「兄上は行ってください、私は去って顧ません。どうか難儀に遭うことないように、悔やんだとしてもどうして追えるでしょうか」
たちまち泣いていとまごいをし、使者とともに行った。楚は子尚を得て、これを捕らえた。また追って子胥を捕らえようとしたが、胥は弓をひきしぼり矢を持ち楚を去った。楚はこれを追い、その妻に会った。妻は言った
「胥は逃げ、三百里去りました」
使者は追いかけて無人の野に及び、胥は弓を張り矢をつがえ使者を害そうとしたので、使者はひれ伏して逃げた。胥は言った
「平王に報告せよ、国を滅ぼさないようにしたいのなら、吾が父兄を釈放せよ、もしそうしないのならば、楚は廃墟となるだろう」
使者は帰って平王に報告した。王はこれを聞いて、大軍を発して子胥を追って江にいたったが、その所在を見失い、捕らえずに帰った。
 子胥は行って大江に至り、天を仰ぎ林沢の中を哭しながら行き、「楚王は無道で、吾が父兄を殺した。願わくは私は諸侯にたよって仇を討ちたい」と言った。太子建が宋にいると聞いて、胥はそこに行こうとした。
 伍奢ははじめて子胥の逃げたことを聞き、言った
「楚の君臣は、まさに戦に苦しむだろう」
尚は楚に至り父につきしたがい、共に市で殺された。
 伍員は宋に奔り、道中でたまたま申包胥に会い、言った
「楚はわが兄と父を殺した、どうしたらいいだろうか」
申包胥は言った
「ああ、私があなたに楚に報復するように告げれば不忠となり、報復しないように告げれば親友でなくなる。あなたが行くのに、私は何も言うことはできない」
子胥は言った
「私は、父母のかたきはともに天を戴き地を履むことなく、兄弟のかたきはともに国を同じくし国土を接することなく、朋友のかたきはともに郷の境を接し里を共にすることはないと聞いている。今私はまさに楚の罪に報復し、かならず父兄の恥を雪ごう」
申包胥は言った
「あなたが滅ぼすれば、私は存続させる。あなたが危うくすれば、私は安んずる」
胥は遂に宋に奔った。宋の元公は国に信がなく、国人はこれをにくんでいた。大夫華氏は元公を謀殺し、国人は華氏とともに大乱をおこした。子胥はそこで太子建とともに鄭に奔り、鄭人ははなはだこれを礼遇した。太子建はまた晋に行くと、晋の頃公は言った
「太子はすでに鄭にあって、鄭は太子を信用している。太子が内応をなして鄭を滅ぼすことができれば、鄭に太子を封じよう。」
太子は鄭に帰り、事が未だ成就しないうちに、たまたまひそかにその従者を殺そうとしたが、従者は太子の謀を知ったので、これを鄭に告げた。鄭の定公と子産は太子建を誅殺した。
 建には子があり、名を勝といった。伍員は勝と呉に奔った。昭関に至ると、関吏がふたりを捕らえようとしたので、伍員は詐って言った
 「鄭公が私を探している理由は、わたしが美珠を持っているからである。いま私はすでになくしたので、去ってこれを取ろうとしているのだ」
関吏はそこで捕らえるのをやめた。
勝とともに行き去ったが、追っ手が後を追い、ほとんど脱出することができなかった。江に至ると、江中に漁父が船に乗って下方より川をさかのぼってきた。子胥はこれを呼び、言った
「漁父よ、私を渡してくれ」
このように二回言った。漁夫は伍子胥を渡そうとしたが、たまたま傍らに人がいてうかがい見ていたので、そこで歌った
「日月は明らかに、入ったのち馳せる、あなたと葦の岸部で会う」
子胥はそこで葦の岸部に止まった。漁父はまた歌った
「日はすでに夕べ、私の心は憂い悲しむ、月はすでに馳せ、どうして渡らないのか。事はしだいに急する、どうするべきだろうか」
子胥は船に入った。漁父はその意を知り、そこで千尋の津を渡った。子胥はすでに渡った。漁父が伍子胥を見ると飢えている様子であった。そこで言った
「あなたは私をこの木の下でお待ちなさい、あなたのために食事を持ってきましょう」
漁父が去った後、子胥はこれを疑い、そこで深い葦の間に身を潜めた。しばらくして、漁父が戻ってきて、麦飯、塩漬けの魚の羹、鉢に入れた飲み物を持ってきた。樹の下を探したが、姿が見えないので、そこで歌って呼んだ
「葦の中の人、葦の中の人、困っているのではないですか」
このようにすること二たび、子胥は葦の中から出て応じた。漁父は言った
「私はあなたがお腹をすかしている様子を見て、あなたのために食糧を持ってきたのです。あなたは何を疑うのですか」
子胥は言った
「生命は天に属する、いまはご老人に属する、どうしてあえて疑うだろうか」
二人は飲食を終え、去ろうとして、胥は百金の剣を解いて漁父に与えようとした
「これは吾が前君の剣で、中に七星があり、価値は百金である。これで恩に報いよう」
漁父は言った
「私は、楚の法令では、伍胥を捕らえた者は、粟五万石と、執圭の爵を賜ると聞いています。どうして百金の剣を取ろうと思うでしょうか」
ついに辞退して受けず、子胥に言った
「あなたは急いで去り、とどまってはいけません。楚に捕らえられてしまいます」
子胥は言った
「ご老人の名前を教えてください」
漁父は言った
「今日は凶凶で、二人の賊が出会います。私はいわゆる渡楚賊というものです。二人の賊がしたしめば、黙っているものです。どうして名前を用いましょうか。あなたは蘆中の人であり、私は老漁師です。富貴になっても忘れないでください」
伍子胥は言った
「わかった」
すでに去り、漁父に戒めて言った。
「あなたの鉢を覆い隠し、露わにしないように」
漁父は承諾した。子胥が数歩行き、振り返ってみると漁師はすでに船を覆し、みずから江水の中に沈んだ。
子胥は黙然として行き呉に至った。途中で病気にかかり、溧陽で乞食をした。たまたま女子が瀬水の上で綿を撃っているのに会った。箱の中に飯があった。子胥はこれに会い、言った
「夫人よ、食べ物をもらえますか」
女子は言った
「私はひとり母と暮らし、三十にして嫁いでおりません。食事は差し上げられません」
子胥は言った
「夫人は道に困っているものに少しの食事を施すのを、どうしていやがるのか」
女子は子胥が常人でないのを知り、遂にこれを許し、その箱を開け、鉢に飯を盛り、長跪してこれに与えた。子胥は再び食べて止めた。
女子は言った
「あなたは遠い道を行かれるのに、なぜこれを十分に食べないのですか」
子胥はすでに食べ、去ろうとしてまた女子に言った
「夫人の鉢をかくし、露見させないように」
女子は歎いて言った
「ああ、私はただ母と居ること三十年、みずから貞明を守り、嫁するのを願うことはありませんでした。どうして食事をすすめて男の方に与えられたでしょうか。礼儀に欠けており、私は我慢できません。あなたは行ってください」
子胥は行き、顧みると、女子はすでにみずから瀬水に投じた。ああ、貞明に操を守る、なんと女丈夫であろうか。
子胥は呉に行き、髪を振り乱し狂人を装い、裸足になり顔を塗り、行って市で物乞いをしたが、市人は見て気づく者はなかった。翌日、呉市吏のよく人をみる者がこれを見て、言った
「私は多くの人をみてきたが、未だ嘗てこのような人を見たことがない。異国の亡臣ではないだろうか」
そこで呉王僚に告げ、つぶさにその様子を述べ、「王はこれを召すべきです」と言った。
王僚は言った
「これとともに入れ」
公子光はこれを聞いて、ひそかに喜んで言った
「私は、楚が忠臣の伍奢を殺し、その子の子胥は勇にして智もあると聞いている。彼は必ず父の仇を討とうとして呉にやってくるだろう」
ひそかにこれを養いたいと思った。
市吏はここにおいて子胥とともに入朝して王に見えた。王僚はその様子が大きくて立派なのを不思議に思った。身長は一丈、腰回りは十囲、眉間は一尺あった。王僚はこれと語ること三日、言葉に重複するものはなかった。王は言った
「賢人である」
子胥は王がこれを好むのを知り、入朝するごとに語り、ついに勇壮の気があり、しばらくしてその仇を語り、そして悲しい様子があった。王僚はこれを知り、軍を興して仇に報復したいと思った。公子は王僚を殺すことを謀り、子胥が先に王に親しみその謀を妨害するのを恐れ、そこで讒言した
「伍胥が楚を伐とうと謀るのは、呉のためではなく、みずから私的な復讐をしようとしているにすぎません。王はこれを用いませんように」
子胥は甲子光が王僚を殺害しようとしているのを知り、言った
「かの光は、内にひそかな志を抱いている。いまだ対外的なことを説くべきではない」
入朝して王僚に見え、言った
「私は、諸侯は身分の低い者のために軍隊を興して隣国と戦をするものではないと聞いております」
王僚は言った
「どうしてそう言うのか」
子胥は答えて言った
「諸侯は政を専らにするのであり、私情をもって急を救い後に軍隊を興すものではありません。今大王は国位に就き威光をおさめているのに、匹夫のために軍隊を興すのなら、その義はまちがっています。私はかたくあえて王の命にはしたがいません」
呉王はそこでやめた。
子胥は退いて野で耕作し、勇士を求めて公子光に推薦し、みずから従おうとした。そこで勇士専諸を得た。
 専諸は、堂邑の人である。伍胥が楚から逃げて呉に行くとき、途中でこれに会った。専諸はまさに人と戦おうとしており、まさに敵に近づこうとするのに、その怒りは万人の気があり、対抗することができなかったが、その妻が一声呼ぶとすぐに退いた。子胥はふしぎに思い、その様子を問うた
「どうして、あなたの怒りは激しかったのに、一女子の声を聞いて道を曲げたのか。どうして道理があろうか」
専諸は答えて言った
「あなたは私のふるまいを見て、どうして愚者の類とするのですか。どうしてこれを卑しいとするのですか。いったいひとりの人間に屈していても、必ずや万人の上に伸びていくのです」
子胥がそこでその容貌を見ると、臼のような額に窪んだ目、虎のような胸に熊のような背で、難にあたるにすばやかった。その勇士であることを知り、ひそかにこれと結び、用いようとした。公子光が謀を有しているのに遭遇し、これを公子光に進めた。光はすでに専諸を得て、これを礼遇した。公子光は言った
「天は、私がよりどころを失ったことを、お前に助けさせるのだ」
専諸は言った
「前王余昧が卒し、王僚が立つのは秩序にかなっています。公子はどうしてこれを殺害しようとするのですか」
光は言った
「前君の寿夢には子が四人おり、長子を諸樊といい、光の父である。次を余祭といい、次を余昧といい、次を季札といった。季札は賢人であった。寿夢がまさに死のうとするにあたり、長男にまず国を付して、そして季札に及ぼそうとしたのである。季札は使者となって諸侯の間に行き未だ還らず、余昧が卒して、国が空位になっていることを思えば、国に立つのは長男であり、長男の後はすなわち私、光である。今僚はどうして立つべきであろうか。事をつかさどるにあたり私は力が弱く助けがなく、有力の徒を用いずに、よくわが志を安んずることができようか。私が代わって立ったとしても、季札が東から還って、私を廃することはないだろう」
専諸は言った
「どうして近臣に、王の側へ言をすすめ前王の命を述べ、その意をほのめかし、国の帰するところを王に知らしめさせないのですか。どうしてひそかに剣士を備え、先王の徳を捨てようとするのですか」
光は言った
「王僚はもとより貪欲で力を恃み、上へのぼる利を欲し、へりくだって人に譲る事を示さない。わたしはそのため同憂の士を求めてこれと力を合わせようと思っている。あなたはこの義をつまびらかに説き明らかにせよ」
専諸は言った
「君の言は甚だ露わです。公子においてどんな考えがあるのですか」
光は言った
「いや、これは社稷の言である。小人は命を受けて事を行うことができない。ただ命を任せよう」
専諸は言った
「どうか公子は私にお命じください」
公子光は言った
「まだ行うべき時ではない」
専諸は言った
「およそ人君を殺そうとするには、必ず先にその好むところを知らなければなりません。呉王は何を好みますか」
光は言った
「旨いものを好む」
専諸は言った
「どんな食べ物を旨いとするのですか」
光は言った
「魚の炙り物を好む」
専諸はそこで去り、太湖へ行き、魚の炙り方を学んだ。三ヶ月して、その味を会得し、安座して公子の命令を待った。
 八年、僚は公子に楚を伐たせ、大いに楚の軍を破り、もとの太子建の母を鄭に迎えた。鄭君は建の母に珠玉の簪と耳飾りを贈り、建を殺した過ちについて和解しようとした。
 九年、呉は光に楚を伐たせ、居巣・鍾離を抜いた。呉が攻めた理由は、はじめ、楚のはずれの邑である胛梁の娘と、呉のはずれの邑の処女が養蚕をしていて、境界上の桑を争った。両家はお互い攻め合い、呉国は勝たず、ついに互いに伐ちあい、呉の外れの邑を滅ぼした。呉は怒って、そこで楚の二邑を取って去ったのである。
 十二年冬、楚の平王が卒した。伍子胥は白公勝に言った
「平王が死に、私の志はとげることができない。しかし楚国は有る。私はどうして憂えるだろうか」
白公は黙然として答えなかった。伍子胥は部屋で座って泣いた。
 十三年春、呉は楚の喪中に乗じてこれを伐とうとし、公子蓋余・燭傭に兵を率いて楚を囲ませ、季札を晋に使わし諸侯の動きを見させた。楚は兵を発し呉の後方を絶ったので、呉軍は還ることができなくなった。ここにおいて公子光の心は動いた。伍子胥は光が機を見たのを知り、そこで光に言った
「今、呉王は楚を伐ち、二人の弟は兵を率いて未だ吉凶はわかりません。専諸のことは、今急ぐべきです。機会は二度と来ません、これを逃してはなりません」
そこで公子光は専諸に会って言った
「今二人の弟は楚を伐ち、季札はいまだ還らない。求めなければ、何を得ることができようか。この時を逃してはならない。まして光は真の王の後継者である。」
専諸は言った
「僚は殺すことができます。母は老い、子は弱く、弟は楚を伐ち、楚は楚の後方を絶っています。まさに今、呉は外は楚に苦しみ、内には強く諫める臣がおりません。これでは、我々をどうすることもできません」
 四月、公子光は武装兵をいわやの中に伏せさせ、酒を用意して王僚を招いた。王僚はその母に言った
「公子光が私のために酒を用意して招待しました。変事がことごとくないことを願えましょうか」
母は言った
「光の心は満足しておらず、常に恥じ怨む色が見えます。用心しないわけにはいきません」
王僚はそこで棠銕の鎧を三重に身につけ、兵を道に並べて守らせ、宮門から光の家の門まで至った。階段、座席、左右は皆王僚の親戚だった。さしはさんで立った侍者に皆長戟の枝を交差させて持たせた。酒がたけなわとなると、公子光はいつわって足を痛めたとしていわやへ足をつつみに入った。専諸に、焼魚の中に魚腸剣を置かせて、これを進めさせた。すでに王僚の前に至ると、専諸は焼魚を割き匕首を前に押しやった。枝の交差した戟が専諸の胸に向かった。胸は断たれ切り裂かれたが、匕首はそのまま推し進められ、王僚の鎧を貫いて背に達した。王僚は既に死に、左右の者は共に専諸を殺した。諸々の臣下は乱れ動揺し、公子光は武装兵を伏して王僚の臣下を攻め、これを滅ぼし、遂に自ら立った。これが呉王闔閭である。そこで専諸の子を封じて客卿とした。
 季札が使いより呉に帰ってきた。闔閭はこれに位を譲ろうとした。季札は言った
「もし前君の社稷を廃することなく、これを奉るなら、それが君主である。私は誰を怨むだろうか。死んだ者を悲しみ、生きている者の側に仕え、天命を待とう。私が乱したのではない、立つ者がいればこれに従う、これが前人の道である」
王僚の墓で復命して泣き、元の位に戻り闔閭の命を待った。
 公子蓋余・燭傭の二人は兵を率いて楚に囲まれていたが、公子光が王僚を殺して自ら立ったと聞き、そこで兵を率いて楚に降った。楚はこれを舒に封じた。

呉越春秋

闔閭元年、初めて賢人を任用し有能な者を用いた。恩を施し恵みを行い、仁をもって諸侯に聞こえた。仁が未だ施されず、恩が未だ行われないうちは、国人を恐れてつき従わず、諸侯は信用しなかった。そこで伍子胥を行人として客礼をもってこれを用い、共に国政を謀った。闔閭は子胥に言った
「私は国を強くし覇業と王業をなしたいと思う。どうすればできるだろうか」
伍子胥は膝で進み出て涙を流しながら頓首して言った
「私は楚国の亡虜です。父兄は捨てられ骸骨は葬ることができず、魂は祀ることができず、罪を被り辱めを受けました。呉に来て大王の命に帰しましたとろ、王は幸いにも殺戮を加えられません、どうしてあえて政事に与りましょうか」
闔閭は言った
「あなたがいなければ、私は縶禦の使になることを免れなかった。いま幸いにも一言の教えをうけたまわったので、こうなるに至ったのである。どうして途中で退こうという気持ちをおこすのか」
子胥は言った
「私が聞きますに、謀義の臣は、どうして危うく滅びそうな地にいるだけで足りましょうか。しかし、憂いが除かれ事が定まりますと、必ずや君主の親しむところとはなりません」
闔閭は言った
「そんなことはない。私はあなたでなければ議論を尽くす者はいない。どうして辞退することができるのか。我が国は遠い僻地にあり、見回してみるに東西の地にあり、険阻にして湿潤、また江海の害があり、君主は守るすべがなく、民は依るところがなく、倉庫は設けられていず、田地は開墾されていない。これをどうしたらいいだろうか」
子胥はやや久しくして答えた
「私が聞きますに、治国の道は、君を安んじ民をおさめる、これがその上です」
闔閭は言った
「君を安んじ民を治める、その術はどういうものか」
子胥は言った
「およそ君を安んじ民を治め、覇業を興し王道をなし、近くによって遠きを制するには、必ずまず城郭を作り、守備を設け、米倉を充たし、兵庫を治める、これがその術です」
闔閭は言った
「よろしい。城郭を築いたり倉庫を作るのは、地に因って宜しきに適うようにするのである。どうして天空の気の定めで隣國を威圧するものがあるのか」
子胥は言った
「ございます」
闔閭は言った
「私は計画をあなたに委ねよう」
 子胥はそこで土壌を見て水脈を調べさせ、天を象り地にのっとり、大城を造築し、周囲は四十七里であった。陸門は八つあり、天の八風を象り、水門は八つあり、地の八聰に法った。小城を築き、周囲は十里、陸門は三つあり、東面に開いていないのは、越の神霊を断とうとしたのである。閶門を建てたのは、天門を象り閶閭風に通じようとしたのである。蛇門を建てたのは、地の門を象ったのである。闔閭は西のかた楚を破ろうとしていて、楚は西北にあった。故に閶門を建てて天の気を通じた。そのためまたの名を破楚門というのである。東のかた大越を併合しようとし、越は東南にあった。故に蛇門を建て、敵国を制したのである。呉は辰にあって、その位は龍であった。ゆえに小城の南門の上の反り返った軒に二つの鯢鱙を作り、龍の角を象った。越は巳の地にあって、その位は蛇であった。故に南大門の上に木蛇があり、北を向いて首は内側を向き、越が呉に属することを示した。
 城郭ができ、倉庫が具わると、闔閭はまた子胥に蓋餘、燭傭を屈せしめ、戦術、騎馬、射御の技を訓練させたが、いまだに用いるものがなく、干将に名剣を二本作るをもとめた。干将は、呉人であり、欧冶子と師を同じくし、ともによく剣を作った。越が先に来て三本の剣を献じ、闔閭はこれを宝とし、そこで剣匠に二本の剣を作らせ、一本は干将といい、二本目は莫耶といった。莫耶は干将の妻であった。干将は剣を作るのに五山の鉄を採り、六合の銅を精製した。天をうかがい地をうかがい、太陽と月が同時に照り、百神が臨みみて、天の気が降りてきたが、金鉄のもとは溶けて沈み流れなかった。ここにおいて干将はその理由がわからなかった。莫耶は言った
「あなたはよく剣を作ることで王に知られています。あなたが剣を作ろうとして三日たつのに、できないのは、お考えがあるのですか」 干将は言った 「私はその理由がわからない」 莫耶は言った 「神仏の化合というものは、人があってはじめてできるものです。今あなたが剣を作るには、人を得てから後にできるのではないですか」
干将は言った
「昔、私の師が冶金をするのに、金鉄の類が溶けず、夫妻がともに冶爐に入って、そののち物を成すことができた。その子孫は山に行って冶金をするのに、麻の帯に香草を佩びて、しかる後あえて山で鑄金した。今私が剣を作ろうとして変化しないのは、このようなことではないのか」
莫邪は言った
「師は身を溶かして鋳造物を成すことを知りました、私たちはなんの難しいことがありましょうか」
そこで干将の妻は髪を切り爪を切って爐の中に投じ、童女童男三百人にふいごで火をおして炭をしかけさせると、金鉄はうるおい、ついに剣をつくることができ、陽を干将といい、陰を莫耶といった。陽は亀甲の文様、陰はちらばったすじ模様があった。干将はその陽をかくし、陰を出してこれを献じた。闔閭は甚だ重んじた。すでに宝剣を得て、たまたま魯の使者の季孫が呉に招かれており、闔閭は掌剣大夫に莫邪を献じさせた。季孫は剣を抜くと、刃に欠けているところがあり大きさは黍粒ぐらいであった。感嘆して言った
「美しい剣だ。中国の軍といえどもこれ以上の物があるだろうか。剣ができたということは、呉の覇業をあらわしている。欠けているところがあれば、滅びる。私はこれを好みはするが、受け取るべきであろうか」
受けずに去った。
闔閭はすでに莫邪を宝とし、また国中に金鈎を作るように命じて言った 「よい鈎を作ることができた物には、百金を褒美として与える」 呉で鈎を作る物は甚だ多かった。そして、ある人は王の手厚い褒美をむさぼり、二子を殺してその血を金に塗り、ついに二つの鉤を作り闔閭に献じ、宮門に至って褒美を求めた。王は言った 「鈎を作る者は多いが、おまえはひとり恩賞を求めてきた、おまえの鈎は他のものとどう異なるのか」 鈎を作る者は言った 「私の作る鈎は、恩賞をむさぼってふたりの子を殺し、血を塗って二つの鈎を作ったのです。」
王はそこでたくさんの鈎を挙げてその者に示し
「どれがそうなのか」
王の鈎は甚だ多く、形態は似ていて、どこにあるか分からなかった。ここにおいて鈎師は鈎に向かって二人の子の名を呼び、
「呉鴻、扈稽、私はここにいる、王はおまえたちの霊妙を知らない」
声が口から絶えると、二つの鈎はともに飛んできて父の胸に付いた。呉王は大いに驚いて言った 「ああ、私はまことにあなたに償おう」 そこで百金を恩賞として与えた。ついに身につけて離さなかった。
六月、軍隊を用いようとし、たまたま楚の白喜が来奔した。呉王は子胥に問うて言った
「白喜というのはどういう人か」
子胥は言った
「白喜は、楚の白州犂の孫です。平王は州犂を誅殺し、喜はそのために出奔しました。私が呉にいると聞いて来たのです」
闔閭は言った
「州犂はどんな罪があったのか」
子胥は言った
「白州犂は楚の左尹で、号して郄宛といいました。平王に事え、平王はこれを寵愛して、常にともに一日中語り、朝になってから食事をしました。費無忌はこれを見てねたみ、よって平王に言いました
『王が宛を寵愛されているのは、国中が知っています。どうして酒の席を設けて宛の家に行き、群臣に宛を厚遇していることを示さないのですか』
平王は言いました
『よろしい』
そこで郄宛の家で酒の席を用意しました。無忌は宛に教えて言いました
『平王は甚だ猛々しく武器を好みます。あなたは必ず先に武器を堂下・門庭に並べなさい』
宛はその言葉を信じ、よってそうしました。平王が往くに及んで大いに驚き、言いました
『宛はどうしたのだ』
無忌は言いました
『ほとんどまさに簒奪され殺される憂いがあります、王は急いでここを去って下さい。何がおこるか分かりません』
平王は大いに怒り、ついに郄宛を誅殺しました。諸侯はこれを聞いて、嘆息しないものはありませんでした。喜は私が呉にいると聞き、ゆえに来たのです。どうかこれに会って下さい」
闔閭は白喜に会って問うて言った
「私の国は辺鄙で、東は浜海に臨んでいる。あなたの親は楚の暴怒、費無忌の讒言にあったとうわさに聞くが、我が国を遠いとせずにここへ来て、私に何を教えようというのか」
喜は言った
「私は楚国から逃げた捕虜です。父は罪無くして、道理に合わず暴虐に誅殺されました。私は大王が伍子胥の困窮を受け入れられたと聞き、千里の道を遠いとせずに来て命に帰すのです。どうか大王は私に死をたまわってください」
闔閭はこれを哀れみ、大夫とし、ともに国事を謀った。
呉の大夫被離は宴席に乗じて伍子胥に問うて言った
「どうして一目見て喜を信じるのですか」
子胥は言った
「私の怨みは喜びと同じだ。あなたは河上の歌を聞きませんでしたか。
『同病相憐れみ、同憂相救う』
驚いて飛び立つ鳥はお互いによりそって集まり、瀬の下を流れる水は、元通りになってともに流れます。胡馬は北風を望んで立ち、越の燕は日に向かって戯れます。いったい誰がその近いところを愛しまず、その思うところを悲しまないでしょうか」
被離は言った
「あなたの言葉は、外面だけを言っています。まさか内に意があって疑いを解決しようと言うのですか」
子胥は言った
「私はそうは思わない」
「私が白喜の人となりを観ますに、鷹のような目つきに虎のような足どり、功を独り占めにしほしいままに殺す性質です。親しんではなりません」
子胥はその言葉に納得せず、これとともに呉王に仕えた。
二年、呉王は先にすでに王僚を殺し、また慶忌が隣國にいるのを憂い、諸侯を合して伐ちに来ることを恐れ、子胥に問うて言った
「昔、専諸が私にしてくれたことは手厚かった。今、公子慶忌が諸侯にはかりごとをめぐらしていると聞き、私は食事をしても旨いと感じず、安心して寝ることもできないので、あなたにまかせたい」
子胥は言った
「私は不忠で善行がないのに、大王と王僚のことを私室の中に図りました。いままたその子を討とうとするのは、天帝の意にあらざることを恐れます」
闔閭は言った
「昔武王が紂王を討ち、そののちに武庚を殺したが、周人は怨む気色がなかった。いまこのように議るのは、どうして天に反しようか」
子胥は言った
「わたしは君王に事え、まさに呉の国統を護ろうとしています。またどうしてこれを恐れるでしょうか。私が重視する人は、細人です。どうか謀に従って下さい」
呉王は言った
「私の憂いは、その敵が万人の力を持つものである。どうして細人に謀ることができようか」
子胥は言った
「細人の謀には、万人の力があるのです」
王は言った
「それは誰か。言ってみよ」
子胥は言った
「姓は要、名は離といいます。私は以前壮士椒丘訢を辱めるのを見ました」
王は言った
「どのように辱めたのか」
胥は言った
「椒丘訢は、東海上の人です。斉王のために呉に使いし、淮の津を過ぎり馬に津で水を飲ませようとしました。津の役人は言いました
『水中には神がいて、馬を見ればすぐに出てきて、その馬を害してしまう。あなたは飲ませてはいけない』
訢は言いました
『壮士に対して、何の神が干渉しようというのか』
そこで従者に津で馬に水を飲ませさせると、水神が果たしてその馬を取り、馬は没しました。椒丘訢は大いに怒って、上着を脱ぎ剣を持ち、水に入って神に決戦を求め、幾日もしてから出てくるとその片目が見えなくなっていました。ついに呉に行き、友人の葬式に出ました。友人の葬式の席において、訢はその水神と戦った武勇を恃み、士大夫を侮り驕りたかぶって不遜な言葉遣いをし、人を侮る気色がありました。要離はこれと対座していましたが、座中の者はその力に驕ることに耐えられませんでした。時に要離は訢をはずかしめて言いました
『私はこう聞いている、勇士の戦いは、日と戦うのに日時計が移るのを待たず、神鬼と戦うのに踵を動かさず、人と戦うのに声を出さず、生きては往き死して還り、その辱めを受けないという。今あなたは神と水中で戦い、馬と御者を失い、また片目に傷害を負った。形は勇を名のるのをそこなっており、勇士の恥じるところだ。そこで敵に命を失わなわずにその生を惜しみ、なおわたしに傲慢な態度をとるのか』
ここにおいて訢はにわかに責めなじられたので、怨みと怒りが同時にわき起こり、日が暮れてから要離を攻めに行こうとしました。ここにおいて要理は葬式の席が終わると家に帰り、その妻に誡めて言いました
『わたしは大家の葬式で勇士椒丘訢を辱めた。後まで残る怨みをもち非常に怒っているので、日が暮れれば必ず来るだろう。決して我が家の門を閉じることがないように』
夜になって、椒丘訢は果たしてやってきました。見ると、その門は閉じられておらず、登っていくとその堂には鍵かかかっておらず、入っていくとその部屋は守備されておらず、要離は髪をほどいて横になって寝ており、恐れるところがありませんでした。訢はそこで剣を手にとって要離の髪をつかんで言いました
『あなたには死すべき三つの過ちがある。あなたはこれを知っているか』
要離は言いました
『知らない』
訢は言いました
『あなたは私をおおぜいの前で辱めた、これが一つ目の死である。帰宅して門を閉じなかった、これが二つ目の死である。寝ていて防がなかった、これが三つ目の死である。恨まないでほしい』
要離は言いました
『私には三つの死の過ちはない。あなたには三つの不肖の恥がある。あなたはこれを知っているか』
訢は言いました
『知らない』
要離は言いました
『私はあなたを千人の衆の前で辱めたが、あなたはあえて報復しなかった。これが一つ目の不肖である。門に入るのに咳払いせず、堂に登るのに声を出さなかった、これが二つ目の不肖である。先にあなたの剣を抜いて、手で押さえつけて私の頭髪をつかんでから、あえて大げさな言葉を言った、これが三つ目の不肖である。あなたは三つの不肖がありながら私を脅かしている、どうしていやしくないことがあろうか』
ここにおいて椒丘訢は剣を投げ捨て、嘆いて言った
『私の勇は、人はあえてうかがい見る者はなかった。離は私のさらに上だ、これこそ天下の壮士である』
わたしは、要離はこのようであると聴いております。まことにこれをお聞かせいたします」
王は言った
「どうか宴席を設けてこれを接待してほしい」
子胥はそこで要離に会って言った
「呉王はあなたの高い徳義を聞いている。一度会ってほしい」
そこで子胥とともに呉王に会った。王は言った
「あなたはなにをするのか」
要離は言った
「私は国の東千里の者です。私は細小で力がなく、風に向かえば倒れ、風に背を向ければうつぶせになりますが、大王の命がありましたらあえて力を尽くさないことがあるでしょうか」
呉王は心中で子胥がこの人を進めたことを非とし、やや久しく黙然として言葉を発しなかった。要離はそこで進み出て言った
「大王は慶忌のことを心配しておられますか。わたしは彼を殺すことができます」
王は言った
「慶忌の勇は、世に聞こえている。体力があり勇気と決断力があり、万人でもかなわない。走っている獣に走って追いつき、飛んでいる鳥を手で捕らえ、骨がおどり肉が飛び、膝を打って数百里を走る。私はかつてこれを江に追い、四頭立ての馬車を馳せたが追いつかず、闇に近づいてこれを射たが当たらなかった。今あなたの力はかなわない」
要離は言った
「王にお考えがあれば、私は彼を殺すことができます」
王は言った
「慶忌は、明智の人である。窮地に陥り諸侯に帰したが、諸侯の士より下ではない」
要離は言った
「私が聞くところでは、その妻子の楽しみを安んじ、君に事える義を盡くさないのは、忠ではありません。家室の愛を懐き、君の憂いを除かないのは、義ではありません。私は詐って罪を負い出奔します。どうか王は私の妻子を殺し、私の右手を断ち切って下さい。慶忌は必ず私を信じるでしょう」
王は言った
「わかった」
要離はそこで詐って罪を得て出奔し、呉王はそこでその妻子を捕らえ市で焼き殺した。要離はそこで諸侯のもとへ奔り、恨み言を言い、罪がないことは天下に聞こえた。ついに衛に行き、慶忌に会うことを求めて言った
「闔閭が無道であることは王子はご存じでしょう。いま私の妻子は市で焼き殺され、罪なくして誅せられました。呉国のことは、私はその事情を知っております。どうか、王子の勇によって闔閭をとらえてください。どうして私とともに東に向かい呉に行かないのですか」
慶忌はその謀事を信じた。のち三か月して、士卒を選んで訓練し、ついに呉に行った。まさに江を流れの中央で渡ろうとすると、要離の力は弱いので、風上に座り、風の勢いに乗って矛鈎でその冠をとらえ、風に順って慶忌を刺した。慶忌は顧みてこれを振り払うこと三回、その頭をつかんで水中に入れ、そして膝の上に乗せた。
「ああ、天下の勇士だ、あえて武器の刃を私に向けるとは」
左右の者がこれを殺そうとしたが、慶忌はこれを止めて言った
「これは天下の勇士である。どうして一日に天下の勇士を二人殺すことができようか」
そこで左右に誡めて言った
「呉に還してその忠義を明らかにさせよ」
ここにおいて慶忌は死んだ。
要離は渡って江陵に至り、不憫に思って行かなかった。従者が言った
「あなたはどうして行かないのですか」
要離は言った
「吾が妻子を殺して吾が君に事えるのは仁ではない。新君のために故の君の子を殺すのは、義ではない。その死を重視するのは、貴くなく義ではない。今私が生に執着し行いを棄てるのは義ではない。人に三悪があって世に立つなどと、私は何の面目があって天下の士に顔向けできようか」
言い終えると、ついに身を江に投げたが、いまだ絶命しないうちに、従者がこれを引き上げた。要離は言った
「私はどうして死ぬことができないのか」
従者は言った
「あなたは死なないで、爵禄を待ってください」
要離はそこで自ら手足を断ち、剣に伏して死んだ。
三年、呉はまさに楚を伐とうとしていたが、いまだ行わなかった。伍子胥と白喜はお互いに言った
「我々は王の養うところの士となり、はかりごとをめぐらして国に利があり、故に王は楚を伐とうとし命令を出したが、それにかこつけて軍を興こす意がないのは、どうしてだろうか」
しばらくして、呉王は子胥と白喜に問うて言った
「私は出兵しようと思うが、あなた方二人はどう思うか」
子胥と白喜は答えて言った
「私たちはどうか王の命に従わせて下さい」
呉王は二人とも楚を怨んでいるのを内心でおしはかり、兵を率いて行って楚を破滅させるのみであることを深く恐れた。台に上って南風に向かってうたい、しばらくして溜息をついた。群臣で王の意を悟る者はなかったが、子胥は王の気持ちが定まらないのを深く知り、そこで孫子を王に推薦した。
孫子は名を武といい、呉の人である。よく兵法をなした。奥深いところに退き隠れていたので、世の人はその能力を知らなかった。子胥はよく人を見分けることができたので、孫子が敵の攻撃を防ぎ、敵をそこなうことができるのを知った。そこである日呉王と軍事について論じ、七たび孫子を推薦した。呉王は言った
「子胥は士を進めると言って、自ら納れたいのだ」
そして孫子を召してこれに兵法を問うた。一篇を述べるごとに、王は思わず口で善しと称え、その意は大いに喜び、問うて言った
「兵法を少し試すことができるか」
孫子は言った
「できます。後宮の女で試すことができます」
王は言った
「わかった」
孫子は言った
「大王の寵姫二人を出していただき軍隊長とし、各々一隊を率いさせます」
三百人に皆鎧兜を身につけさせ、剣と盾を手にとり立たせ、軍法を告げ、鼓にしたがって進退し、左右に旋回させ、その禁令を知らせた。 そして命令して言った
「一たび鼓を鳴らしたらみな奮い立ち、二回鳴らしたら武器を手に取り進み、三回鳴らしたら戦型を作るように」
ここにおいて宮女は皆口を覆って笑った。孫子は自らばちを持って鼓を打ち、再三訓令を出し誡め告げたが、宮女はそのまま笑っていた。孫子は女たちを顧みたが、笑い続けて止まなかった。孫子は大いに怒り、両目をたちまち見開き、声は驚いた虎のごとく、髪は冠を突き上げ、首のわきの冠の紐が切れた。顧みて執法に言った
「斧と胴切りの台を持て」
孫子は言った
「約束が明らかでなく、命令が明らかでないのは、将の罪である。すでに約束し、再三訓令を出し誡め告げたのに、卒が拒んで行わないのは、士の過ちである。軍法はどうなっているか」
執法は言った
「斬刑です」
武はそこで隊長二人を切らせようとした。それはすなわち呉王の寵姫であった。呉王は台に登ってまさに二人の愛姫が斬られようとするのを見て、使いを走らせてこれに命令を下して言った
「私はすでに将軍が兵を用いるのを知った。私はこの二姫がいなければ食事も旨くないのだ。どうかこれを斬らないでほしい」
孫子は言った
「私はすでに命を受け将となりました。将の法は軍にあります。君の命令といえども私は受け入れません」
孫子はまた鼓を打ってこれを指揮すると、左右、進退、旋回するにあたり法則どおりで、あえて瞬きすらせず、二隊は寂然としてあえて振り向く者はなかった。ここにおいて呉王に報告して言った
「兵はすでに整いました。どうか王はこれを見てください。ただ用いようとするところ、水火の中に赴かさせても困難はありませんので、天下を平定することができます」
呉王は忽然として喜ばず、言った
「わたしはあなたがよく兵を用いることを知ったが、これで覇となることができるといっても、施行することができないだろう。将軍は家に帰って休め。私は見たいとは思わない」
孫子は言った
「王はただその言だけを好み、その実を用いない」
子胥は諫めていった
「私が聞きますに、兵は凶事であり、むだに試してはなりません。故に軍事を行うものは、誅伐が行われなければ、兵の道が明らかでなくなります。今大王は真心から有能な士を思って、戦争を興して暴虐な楚を誅伐し天下に覇して諸侯を威圧したいとお考えです。孫武のような将でなければ、誰が淮河を渡って泗水を越え、千里を越えて戦うことができる者がおりましょうか」
ここにおいて呉王は大いに喜び、そこで鼓を鳴らして軍を会し、集めて楚を攻めた。孫子は将となり、舒を抜き、呉の亡将二公子蓋餘・燭傭を殺した。郢に入ろうと謀ったが、孫武は言った
「民は疲れております、まだ勝利を期待することはできません」
楚は、呉が孫子・伍子胥・白喜を将としたのを聞き、楚国はこれに苦しみ、群臣は皆怨み、皆費無忌が伍奢・白州犂を讒言して殺したので呉が境界内を侵し、侵寇が絶えないのだと言い、ここにおいて司馬成は子常に言った
「太傅の伍奢、左尹白州犂は、国の者はその罪を知っている者はないが、あなたは王と謀ってこれを誅殺した。誹謗が国に流布し、今日にいたるまでその言が絶えることなく、まことに困惑している。聞くところによると、仁者は、人を殺して謗りを覆い隠すということは、なおしないものだ。今あなたは、人を殺して国に謗りを興している、またおかしいことではないか。費無忌は、楚の讒言する者であり、民はその過ちを知らない。今、無辜の三賢士を殺し、呉に恨みを買い、内には忠臣の心を傷つけ、外には隣國の笑いものとなっている。かつ郄・伍の家は呉に出奔し、呉は新たに伍員・白喜をえて、権勢を握り志を鋭くし、楚を仇としている。故に強敵の兵は日々脅かしてきている。楚国に事があればあなたはすぐに危うくなるだろう。智者は讒言を除いて自らを安んじ、愚者はへつらいを受けて自ら亡びる。今あなたは讒言を受けて、国は危うくなっている」
子常は言った
「これは私の罪である。あえて図らないことがあろうか」
九月、子常は昭王とともに費無忌を誅殺し、ついにその一族を滅ぼした。国人の誹謗はそこで止んだ。
呉王には滕玉という娘があった。楚を伐つのを謀っていたことにより、夫人及び娘と会して蒸魚を食べていたとき、王はさきに半分食べてから娘に与えた。娘は怒って言った
「王は残った魚を食べさせようとして私を辱めた。いつまでも生きていくのに堪えられない」
そして自殺した。闔閭はこれをいたみ、国の西の閶門の外に葬った。池をうがち土を積み、模様のついた石を棺の外囲いにし、内側に木を重ねた。金鼎、玉杯、銀樽、珠を貫いて飾りにした短衣といった宝は、みなこれで娘を葬送した。そして白鶴を呉の市中に舞わせ、万民を従えさせてこれを観させ、また 男女に鶴とともに墓門に入らせ、そこで機関を発動してこれをとじこめ、生者を殺して死者を葬送した。国人はこれを非とした。
湛盧の剣は、闔閭の無道を悪み、そこで去って水路で楚に行った。楚の昭王が眠りから覚めると呉王の湛盧の剣が寝台にあらわれた。昭王はその故が分からず、そこで風湖子を召して、これに問うて言った
「私が眠りから覚めると、宝剣があらわれたが、その名が分からない。これは何という剣だろうか」
風湖子は言った
「これは湛盧の剣です」
昭王は言った
「そうしてそう言えるのか」
風湖子は言った
「私は、呉王が越の献じた宝剣三つを得たと聞いております。一つ目を魚膓といい、二つ目を磐郢といい、三つ目を湛盧といいます。魚膓の剣はすでに呉王僚を殺すのに使われました。磐郢は、これでその死んだ娘を葬送しました。今湛盧が楚にやってきたのです」
昭王は言った
「湛盧が呉を去った理由は何か」
風湖子は言った 「私が聞きますに、越王元常が欧冶子に剣五本を作らせ、薛燭に示しました。燭は答えて言いました『魚膓の剣は模様が逆で順序だってなく、身につけることはできません。臣が君を殺し、子が親を殺します』故に闔閭はこれで王僚を殺したのです。もう一つは名を磐郢といい、またの名を豪曹といいます。不法の物であり、人に益はありません、故にこれで死を葬送したのです。もう一つは湛盧といい、良質の五種類の金属、太陽の精があり、霊気が寄託し、これを出せば神妙があり、これを身につければ威があり、敵の攻撃を挫き防ぐことができます。しかし人君に理に逆らう謀があれば、その剣は出て行き、故に無道を去って有道に就くのです。今呉王は無道で、君を殺し楚を攻めようと謀っています。故に湛盧は楚にやってきたのです」
昭王は言った
「その値はどれくらいか」
「私が聞きますに、この剣が越に在ったとき、客にその値をつける者がいました。市を有する郷が三十、駿馬千匹、一万戸の都が二つ、これはそのうちの一つです。薛燭は答えて言いました『赤菫の山はすでに合して雲無く、若耶の渓は深くて測れない、群神は天に上り欧冶子は死んだ。城を傾け金を量り、珠玉を河に満たしても、なおこの宝を得ることはできない、まして市のある郷・駿馬千匹・万戸の都で、どうして足りると言えようか』」
昭王は大いに喜び、ついにこれを宝とした。
闔閭は楚が湛盧の剣を得たと聞くと、これによって怒り、ついに孫武・伍胥・白喜に楚を伐たせた。子胥はひそかに楚に言いふらさせた
「楚が子期を用いて将と為せば、我々はこれを殺し、子常が兵を用いるならば我々は去る」
楚はこれを聞いて、そこで子常を用い、子期を退けた。呉は六と潜の二邑を抜いた。
 五年、呉王は越が楚を伐つのに従わなかったので、南に向かって越を伐った。越王元常は言った
「呉は過日の盟を信じず、貢ぎ物を献じる国を棄て、その交わり親しんだ者を滅ぼすのだ」
 六年、楚の昭王は公子襄瓦に呉を伐たせ、潜・六の役に報いた。呉は伍胥・孫武にこれを撃たせ、豫章に囲んだ。呉王は言った
「私は危機に乗じて楚の都に入り、その郢を破りたいと思う。郢に入らなければ、二人に何の功があろうか」
 ここにおいて楚の軍を豫章に囲み、大いにこれを破り、ついに巣を囲み、これに勝ち、楚の公子繁を捕らえ、帰って質とした。
 九年、呉王は子胥・孫武に言った
「はじめあなたは郢を落とすことはできないと言った。今は果たしてどうだろうか」
二将は言った
「戦うのに、仮の勝利で相手を威圧するのは、常勝の道ではありません」
王は言った
「どういうことか」
二将は言った
「楚国の軍隊は、天下の強敵です。今私がこれと勝敗を争えば、十死に一生でしょう。そして王が郢に入るのは天意によります。我々はあえて必ずしも勝てるとは考えません」
呉王は言った
「私はまた楚を伐ちたいと思うが、どうすればよいだろうか」
伍胥と孫武は言った
「囊瓦は貪欲で諸侯に対して過ちが多く、唐と蔡はこれを恨んでいます。王が必ずこれを伐てば、唐・蔡を得るでしょう」
「何を怨んでいるのか」
二将は言った
「昔、蔡の昭公が楚に朝したとき、美しい皮衣を二枚、善い珮を二枚持っていて、各々一枚を昭王に献じ、王はこれを身につけて朝に臨み、昭公は自ら一枚を身につけました。子常がこれを欲しがりましたが、昭公は与えませんでした。子常は三年これを留め、国に帰らせませんでした。唐の成公が楚に朝し、二頭の美しい毛並みの馬を持っており、子常はこれを欲しがりましたが、公は与えませんでした。また三年これを留めました。唐の人は互いに謀り、成公の従者より馬を請い、それで成公を購おうとしました。従者に酒を飲ませてこれを酔わせ、馬を盗んで子常に献じました。常はそこで成公を帰国させました。群臣は誹謗して言いました 『君は一頭の馬のせいで、三年囚われた。馬を盗んだ功績を賞めてもらいたい』ここにおいて成公は常に楚に報復しようと思うようになり、君臣はその事を口にして絶えることがありませんでした。蔡人がこれを聞き、固く請うて子常に皮衣と珮を献じ、蔡侯は帰ることができました。晋に行き告訴し、子の元と太子を質とし、楚を伐つことを請いました。故に唐・蔡を得れば楚を伐つことができると申し上げたのです」
呉王はここにおいて使者に唐・蔡に言わせた
「楚は無道をなし、忠良を虐殺し、諸侯を侵食し、二君を困らせ辱めた。私は兵を挙げて楚を伐ちたいと思う。どうか二君に謀ってもらいたい」
唐侯はその子の乾を呉に質とさせ、三国は謀を合わせて楚を伐った。兵を淮水の湾曲部に置き、豫章より楚と漢水をさし挟んで陣をはった。子常はついに漢水を渡って陣をはり、子別山から大別山に至り、三たび戦って利がなく、自ら進むことができないことを知り、逃げようと思った。史皇は言った
「今、子常は理由なく王とともに忠臣三人を殺した。天の禍が来たり下ったのは、王が招いたのである」
子常は答えなかった。
十月、楚〔と呉〕の両軍は柏挙に陣をはった。闔閭の弟の夫槩は朝早く起きて闔閭に請うて言った
「子常は不仁で、貪欲で恩知らずであり、その臣下は決死の覚悟はありません。これを追えば、必ず撃破できます」
闔閭は許さなかった。夫槩は言った
「いわゆる『臣がその志を行うのに命令を待たない』とは、このことを言うのだ」
ついにその部隊五千人を率いて子常を撃った。〔子常は〕大いに敗走し、鄭に奔った。楚軍は大いに乱れ、呉軍はこれに乗じてついに楚軍を破った。楚人がまだ漢水をわたらないとき、たまたま楚人は食事をしていた。呉はそこで追撃してこれを破った。雍滞で五たび戦い、ただちに郢に至った。王は呉の侵寇に迫られ、出でて必ずまさに逃げようとし、妹の季羋と河水・濉水の間に出で、楚の大夫尹固は王と同じ舟に乗って逃げた。呉軍はついに郢に入城し、昭王を探した。王は濉を渡り長江を渡り、雲中に入った。暮れに宿っていると、群盗がこれを襲い、戈で王の頭に撃ちかかり、大夫尹固は王をかばって背でこれを受け、肩に当たった。王は恐れて鄖に奔った。大夫鍾建が季羋を背負って従った。鄖公辛は昭王を得て大いに喜び、これを還そうとした。その弟懐は怒って言った
「昭王は我々の仇です」
これを殺そうとし、その兄辛に言った
「昔平王は我々の父を殺しました。我々がその父を殺すのもまたよいではありませんか」
辛は言った
「君がその臣を討って、あえてこれを仇とするものがあろうか。人の禍に乗じるのは、仁ではない。宗廟を滅ぼし祀を廃するのは、孝ではない。行動して令名がないのは、智ではない」
懐は怒って許さなかった。辛はひそかにその弟の巣と謀って、王とともに隨に奔った。呉軍はこれを追って、隨君に言った
「周の子孫で漢水のほとりに在る者は、楚がこれを滅ぼした。天がその禍に報い、楚に罰を加えたというのに、君はどうしてこれをかばうのですか。周室になんの罪があって、その賊をかくまうのですか。昭王をさし出せば、重大な恩惠があろう」
隨君は昭王と呉王とを占うと不吉であった。そこで呉王に辞して言った
「隨は僻地の小国であり、楚に親しく、楚はまことに我らを保全しており、同盟があって今に至るまで変わっておりません。もし今危難にあってこれを棄てるというなら〔どうして君に事えることができましょうか。〕いまもし穏やかに対処なさるなら、楚は敢えて命令を聴かないことがありましょうか」
呉軍はその言葉をよしとし、そこで退いた。この時、大夫子期は昭王とともに逃げていたが、ひそかに呉軍と取引し、昭王を逃そうとした。昭王はこれを聞き、免れることができると、子期の心臓の前の皮膚を割き、その血で隨君と盟約して去った。
呉王は郢に入ってとどまった。伍胥は昭王を捕らえられなかったので、そこで平王の墓を掘りその屍を出し、これを鞭打つこと三百回、左足で腹を踏みつけ、右手でその目を抉り、これを責めて言った
「誰がおまえに邪悪なへつらいの口を用いさせ、吾が父兄を殺させたのか。どうして無実の罪でないことがあろうか」
そこで闔閭に昭王の夫人をめとらせ、伍胥・孫武・白喜もまた子常・司馬成の妻をめとり、楚の君臣を辱めた。 ついに軍を率いて鄭を撃った。
鄭の定公は前に太子建を殺して子胥を苦しめた。これより鄭の獻公は大いに恐れ、そこで国中に命令して言った
「呉軍を還すことができる者があれば、私はともに国を分かちて治めよう」
漁師の子が応募して言った
「私はこれを還すことができます。一尺の武器も一斗の食糧も用いず、一本の櫂を得て道中を歌って行けばすなわち還ります」
公はそこで漁師の子に櫂を与えた。子胥の軍がまさに至ろうとすると、道で櫂をたたいて歌って言った
「蘆中の人」
このようにすること二回であった。 子胥はこれを聞いて愕然として大いに驚いて言った
「何者か」
尋ねて言った
「あなたは誰だ」
言った
「漁師の子です。我々の国君は恐れて国に命令しました『呉軍を還すことができるものがいれば、これを国を分かちて治めよう』と。私は父があなたと途で出会ったことを思い、いまあなたに鄭の国を許すことを請います」
子胥は言った
「悲しいことだ、私はあなたの父の恩を受けていまに至った。上天は蒼蒼として、どうして忘れようか」
そこで鄭国を許して軍を還し、楚をまもった。楚の昭王の所在を探すのが日々厳しくなった。
申包胥は逃げて山中にいてこれを聞き、そこで人をつかわして子胥に言わせた
「あなたの仇に報いることはなんと甚だしいことか。あなたはもともと平王の臣であり、北面してこれに事えた。今屍を辱めて、どうして道が極まるであろうか」
子胥は言った
「私に代わって申包胥に告げて言うように、『日は暮れて道は遠い、ゆえに私は常理に逆らって事を行ったのだ』と」
申包胥は〔伍子胥を説得することが〕できないとわかり、そこで秦に行き、楚を助けることを求めた。昼に馳せて夜に趨り、踵と足の裏が裂け、衣裳を裂き膝を包み、秦の庭で鶴のようにかかって立ち哭すこと七日七夜、声が絶えることがなかった。秦の桓公は素より酒色のおぼれて、国事をかえりみなかった。申包胥は泣きやんで、歌って言った
「呉は無道で、大豚・長蛇のようであり、中国を侵食し、天下を手に入れようとし、まさに楚より始めました。わが君は脱出して草沢におり、私を来させて急を告げさせたのです」
哀公は大いに驚いて言った
「楚にはこのような賢臣がいるのに、呉はなおこれを滅ぼそうとしている。私にはこのような臣はいない。滅びるのに日はかからないだろう」
無衣の詩をうたって言った
「どうして衣がないというのか、あなたと綿入れを同じくしよう。王はここに軍隊を興し、仇を同じくしよう」
包胥は言った
「私は、徳にもとれば厭くことなしと聞いております。王は隣国国境の患を憂えませんように。呉の情勢が定まらないうちに、王は楚の地の一部分を取ってください。もし楚がついに滅びれば、秦には何の利がありましょうか。すなわちまた君の土地もなくなりましょう。どうか王は神霊をもってこれを存続させてください。代々王にお仕えいたします」
秦哀公はこれに辞させて言った
「私は命を聞きましょう。あなたはしばらく館で休んでください。まさに相談して報告しましょう」
包胥は言った
「わが君がいま草野にいて居場所がないというのに、私がどうして安逸の場所におられましょうか」
また庭に立って塀に寄りかかって泣き、日夜声が絶えず、水も飲まなかった。秦哀公は彼のために涙を流し、そこで兵を出してこれを送った。
十年、秦の軍が未だ出動しないうちに、越王元常は、闔閭がこれを檇李に破ったのを恨んで、兵を興して呉を伐った。呉が楚にいたので、越は機に乗じてこれを襲ったのである。
六月、申包胥は秦軍を率いて到着した。秦は公子子蒲・子虎に戦車五百乗を率いて楚を救って呉を撃たせた。二人は言った
「我々はいまだ呉の戦法戦術を知らない」
楚軍を先に呉と戦わせ、そしてこれと合流し大いに夫槩を破った。
七月、楚の司馬子成・公子子蒲は呉王と互いに守り、ひそかに兵を率いて唐を伐ち、これを滅ぼした。子胥は久しく楚に留まって昭王を探して去らなかった。夫槩の軍は敗れて退却した。
九月、ひそかに帰り、自ら立って呉王となった。闔閭はこれを聞き、そこで楚軍を捨て置き夫槩を殺そうとした。夫槩は楚に奔り、昭王は夫槩を棠渓に封じた。闔閭はついに帰った。子胥・孫武・白喜は留まり、楚軍と淮澨に破った。楚軍もまた呉軍を破った。楚の子期はまさに呉軍を焼こうとした。子西は言った
「我が国の父兄が戦って骨を草野にさらしている。これを回収できないのにこれを焼いてもいいものだろうか」
子期は言った
「国が滅び人々が失われ、生者と使者がここかしこにいるのに、またどうして生者を殺すのに死者をおしむことがあろうか。死者がもしこれを知れば、必ずまさに煙に乗じて起き上がり我々を助けようとするだろう。もしこれを知らなければ、どうして草中の骨を惜しんで呉国を滅ぼそうか」
ついに焼いて戦い、呉軍は大いに敗れた。子胥らは言い合った
「彼ら楚は我々の残兵を破ったといっても、いまだ我々を損なうものではない」
孫武は言った
「呉の盾と戈で西方の楚を破り、昭王を逐い、荊平王の墓を屠り、その屍をそこないさらした。またすでに十分ではないか」
子胥は言った。
「霸王より以来、いまだ人臣でこのように仇に報復した者はいない。去りましょう」
呉軍が去って後、昭王は国に帰った。楽士扈子は楚王が讒言を信じて伍奢・白州犂を殺し、侵寇が国境に絶えず、平王の墓を掘りかえされ屍を辱められ妻を姦淫され楚の君臣を辱められるに至ったのを非とした。また昭王が困迫し、ほとんど天下に大いに卑しめられ、そしてすでに恥じていることを傷んだ。そこで琴を引き寄せて楚のために『窮劫の曲』を作り、君の災厄に苦しんで暢達に至ったことを傷んだ。その詞にいわく
「王よ、王よ、どうしてに功業に背き、宗廟を顧みず賤しい者の讒言を聴き、無忌を任用し多く殺すところ、白氏の一族を討ち平らげてあらかた滅ぼし、二子は東に奔って呉越に行き、呉王は悲しみ傷んで、憂い悲しんでいる二人を助け、涙を流し兵を挙げてまさに西伐しようとし、伍胥・白喜・孫武は決行した。三度戦って郢を破り王は逃げだし、兵を留めてほしいままに戦車を走らせ楚の宮殿を擒にし、楚王の骨は発掘され、腐乱した屍を鞭打たれたという恥は、雪ぎがたい。ほとんど宗廟を危うくし、社稷は滅び、荘王はどんな罪があって国がほとんど絶えるというのか。卿士は悲しみ民はいたみ、呉軍は去ったといえども怖れはやまない。どうか王はさらにいたんで忠節の士をやすんじ、告げ口をするものに悪口を言わせないようにしてください」
昭王は涙を流し、深く琴曲の意味を知り、扈子は遂にまた彈くことはなかった。
子胥らは溧陽を過ぎ、瀬の上でため息をついていった
「私はかつてここで飢えて一人の女子に食事を乞うた。女子は私に食べさせ、ついに水に投じて亡くなった。まさに百金を以て報いたいのだが、その家を知らない。そこで金を水中に投じて去った。 しばらくして、一人の老婆が泣きながらやってきた。人が尋ねて言った
「何を悲しんで泣いているのか」
老婆は言った
「私には娘があり、家にいて三十にして嫁いでいませんでした。先年、ここで綿を撃っていると、一人の道で困窮した君子に会い、そこでこれに食事をさせ、事が漏れるのを恐れて自ら瀬水に投身しました。今伍君がいらっしゃったと聞きましたが、その償いを得ることができず、自ら空しく 死んだのを傷み、このために悲しんでいるのです」
人は言った
「子胥は百金を報いようとしたが、その家を知らなかったので、金を水中に投じて去った」
老婆は遂に金を取って帰った。
子胥は呉に帰り、呉王は三師がまさに到着しようとしてると聞き、魚をさばいてなますを作った。まさに到着しようとする日、時が過ぎても到着せず、魚は臭った。しばらくして子胥が到着し、闔閭はなますを出して食べさせたところ、その臭いを感じなかった。王はまたふたたびこれを作り、その味はもとのごとくであった。呉人がなますを作るようになったのは、闔閭が始めてからである。
諸将はすでに楚より還り、そこで閶門の名をあらためて破楚門といった。また斉を伐とうと謀り、斉子は娘を呉に質とさせた。呉王はそこで太子波のために斉女を娶らせた。娘は若く、斉を思って日夜号泣し、そのために病気になった。闔閭はそこで北門を建てて望斉門と名付け、娘をその上に行って遊ばせた。娘の思いは止まず、病はますますひどくなり、死ぬに至った。娘は言った
「もし死者に知ることができるなら、必ず私を虞山の嶺に葬って、斉を望ませてください」
闔閭はこれを傷み、まさにその言葉の通りにし、虞山の嶺に葬った。この時、太子もまた病気になって死んだ。闔閭は諸公子で太子に立てるべき者を選ぼうと謀ったが、いまだどうするか定まらなかった。波の子夫差は日夜伍胥に告げて言った
「王は太子を立てようとしている。私でなければ、だれがまさに立つべきであろうか。この計はあなたにかかっている」
子胥は言った
「太子はいまだ定まっていません。私が宮廷に入れば決まるでしょう」
闔閭はしばらくして、子胥を召して太子を立てることを謀った。子胥は言った
「私は、祭祀は血統が絶えたあとに廃れ、跡取りがあると興ると聞いております。いま太子が亡くなり、早くも侍御を失いました。今王は太子を立てようとしておられますが、波の子夫差よりまさるものはありません」
「あれは愚かで不仁である。呉国を受け継いで統率できないのではないかと心配だ」
子胥は言った
「夫差は信たるに人を愛するをもってし、節を守るに正しく、礼義にあつい。父が死んで子が代わるのは、経の名文にあります」
闔閭は言った
「私はあなたに従おう」
夫差を立てて太子とし、太子に兵を駐屯させ楚を守備して留めさせた。自らは宮室に統治し、射台を安里に建て、華池は平昌にあり、南城宮は長楽にあった。闔閭は出入りして遊び臥し、秋冬は城中で統治し春夏は城外で統治した。姑蘇台を造り、朝に䱉山で食事し、昼は蘇台に遊び、鴎陂で射て、游台で馬を走らせ、楽石城で遊興し、長洲に犬を走らせた。これは闔閭の覇業の時に定まった。ここにおいて太子が定まり、そこで楚を伐って軍隊を破り番を抜いた。楚は呉軍がまた来るのを恐れて郢を去り、蔿若に徒った。ちょうどこのとき、呉は子胥・白喜・孫武の謀を以て、西の強国楚を破り、北の斉・晋を威圧し、南の越を伐った。

呉越春秋

十一年、夫差は斉を伐った。斉は大夫高氏を使わして呉軍に謝罪させて言った
「斉は国に孤立し、倉庫は空で、人民は離散しています。斉は呉を強大な輔けとしていますが、いまだ行って危急を告げていないのに、呉に伐たれようとしています。どうか国人を郊外で平伏させ、あえて戦争の辞を述べさせないでください。呉が斉を哀れんで常軌を逸しないことを思います」
呉軍はすぐに還った。
十二年、夫差はまた北方の斉を伐った。越王はこれを聞き、衆を率いて呉に朝見し、貴重な財宝を厚く太宰嚭に献じた。嚭は喜んで越の賂を受け、越を愛し信じること殊に甚だしく、日夜呉王に語り、王は嚭の計を信じて用いた。伍胥は大いに懼れて言った
「これは天が我々を見棄てるのだ」
そこで進んで諫めて言った
「越の存在は体内の病です。先にその病を除かずに、今うわべだけの言葉や偽りを信じて斉を手に入れようとしています。斉を破るのは譬えるなら岩石だらけの農地を手に入れるようなもので、苗を植えることはできません。どうか王は斉を赦して越を先にしてください。そうしなければ、悔やんでも及ばないでしょう」
呉王は聴かず、子胥を斉に使わして戦いの期日を述べさせた。
子胥はその子に言った
「私はしばしば王を諌めたが、王は私を用いず、いま呉の滅びるのを見ようとしている。お前が私とともに死ねば、死んでも何にもならない」
そこでその子を斉の鮑氏に託して還った。太宰嚭はすでに子胥と溝ができていたので、これを讒言して言った
「子胥は強暴な斉のために一心に諫めています。どうか王はこれをすこし手厚くなさいませ」
王は言った
「わかっている」
いまだ軍隊を興さないうちに、たまたま魯は子貢を呉に訪れさせた。
十三年、斉の大夫陳成恒は簡公を弑逆しようとしたが、ひそかに高氏・国氏・鮑氏・晏氏を恐れ、そこで先に軍隊を興して魯を伐ち、魯君はこれを憂えた。孔子はこれを患い、門人を召してこれに言った
「諸侯がお互い伐ちあっているのは、私は常にこれを恥としている。魯は、父母の国であり、墳墓はここにある。今斉はまさにこれを伐とうとしている。おまえたちは一たび出でようと思わないか」
子路がいとまごいして出ようとしたが、孔子はこれを止めた。子張・子石が行くことを請うたが孔子は許さなかった。子貢がいとまごいをして出ようとすると、孔子はこれを使わした。 子貢は北方の斉に行き、成恒に会い、そこで言った
「魯は、伐ちがたい国ですのに、君が伐つのは誤りです」
成恒は言った
「魯はどうして伐ちがたいのか」
子貢は言った
「その城壁は薄く低く、その池は狭く浅く、その君は不仁で、大臣は役に立たず、士は戦争を憎んでおり、戦うべきではありません。あなたは呉を伐つにこしたことはありません。呉の城は厚く高く、池は広く深く、鎧は堅固で士は選び抜かれており、兵器は十分で弓は強力で、賢明な大夫にこれを守らせています。これは攻めやすい国です」
成恒は怒って色をなして言った
「あなたが難しいとするものは、人が易しいとするものだ。あなたが易しいとするものは、人が難しいとするものだ。あなたがそれで私に教えるのはどうしてか」
子貢は言った
「私は、あなたが三たび封じられたが三たび成功しなかったのは、大臣が聴かなかったためと聞いております。今あなたは魯を破って斉を広げようとし、魯を破って自らを高めようとしていますが、あなたの功はこれとかかわりありません。上は〔主君の心を〕驕り高ぶらせ、下は群臣を好き勝手にさせては、大事を成そうとしても、難しいでしょう。そのうえ、上が驕り高ぶれば法を破り、臣が驕り高ぶれば争います。これではあなたは上は主君と間隙があり、下は大臣と相い争うことになります。このようであればあなたが斉に立つのは、危うきこと積み重ねた卵のようなものです。ゆえに呉を伐つにこしたことはないと言ったのです。それに呉王は剛猛で猛々しく、よくその命令を行うことができ、人民は戦いと守りに習熟し、法律や禁令に明るく、斉が敵対すれば擒となることは必定です。今あなたが四境の兵をことごとく用い、大臣を出兵させ鎧兜を身につけさせれば、人民は外に死し、大臣は内に空です。これはあなたには上に強敵の臣がなく、下に人民の士がないのであり、主君を孤立させ斉を制するのはあなたでしょう」
陳恒は言った
「よろしい。だがわが兵はすでに魯の城下にあり、私が去って呉に行けば大臣はまさに私の心に疑いを懐くだろう。これをどうすればいいか」
子貢は言った
「あなたは軍隊を按じて伐たないで下さい。どうか、あなたのために南方に行き、呉王に見えさせてください、これに魯を救って呉を伐たせ、あなたはそこで軍隊を率いてこれを迎え撃って下さい」
陳恒は許諾した。子貢は南に行き呉王に言った
「私は王は世継ぎを絶やさず、覇者は敵を強くしないと聞いております。千鈞の重量も、銖を加えれば秤の目盛りが動きます。いま万乗の斉は千乗の魯を我がものとし、呉と強さを争っています。私はひそかに君のためにこれを恐れています。そのうえ、魯を救えば名を上げることになり、斉を伐つのは大きな利があります。義は亡びそうな魯を保存し、暴虐な斉を害して強国の晋を威圧することにあることは、王は疑われないでしょう」
呉王は言った
「よろしい。だが私はかつて越と戦い、會稽山に立てこもらせ、呉に入臣させたが、すぐにはこれを誅さず、三年して帰国させた。越君は賢主で、身を苦しめ労働をし、昼夜兼行して、内はその政をただし、外は諸侯に事え、必ずまさに私に報復しようという気持ちでいるだろう。あなたは私が越を伐つのを待て、そのあとであなたのいうことを聞こう」
子貢は言った
「なりません。越の強さは魯以上ではなく、呉の強さは斉以上ではありません。越を伐つことで私の言うことを聴かないなら、斉もまたすでに魯を我がものとしてしまうでしょう。かつ小国の越を恐れて強国の斉をにくむのは、勇ではありません。小利を見て大害を忘れるのは、智ではありません。私は、仁者は人を苦しめずにその徳を広め、智者は時機を失わずその功を挙げ、王者は世継ぎを絶やさず、その義を立てると聞いております。越を恐れるのがこのようであれば、私はまことに東に行き越王に会い、出兵させて下吏に従えさせましょう」
呉王は大いに喜んだ。 子貢は東に行き越王に会おうとした。王はこれを聞き、道を掃除して郊外で出迎え、自ら車を御して宿舎に至り、問うて言った 
「ここは辺鄙な狹い国、蛮夷の民であるのに、大夫はどうして涙を流して恥じともしない様子でここに至ったのですか」 子貢は言った
「あなたがおられるので来ました」
越王句踐は再拝して頭を地面につけて言った
「私は、禍と福は隣り合わせだと聞いている。今大夫が哀れむのは、私にとっての福である。私は敢えてその説を問わないことがあろうか」
子貢は言った
「私はいま呉王に会って、魯を救って斉を伐つことを告げましたが、その心は越を恐れています。それに、人に報復する志がないのに人にこれを疑わせるのは、稚拙です。人に報復する意があるのに人にこれを報せるのはあやういことです。事が未だ起こらないのにこれを漏れ聞こえさせるのは危険です。この三つは、事を行うのに大いに避けるべきです」
越王は再拝して言った
「私は若くして父を失い、内に自らの度量をはからず、呉人と戦い軍は敗れ身は辱められ、逃亡して上は會稽山に立てこもり、下は海浜を守り、ただ魚やすっぽんを見ています。今大夫はかたじけなくもあわれんで自らこれに見え、また玉声を発して私に教えようとしています。私は天の賜り物をさいわいに敢えて教えを受けないことがありましょうか」
子貢は言った
「私は聞いております、明主は人を任じてその能力を埋もれさせませんが、行いの正しい人が賢人を推挙しても世に受け入れられません。故に財を扱い利を分かつには仁者を使い、禍を乗り切り困難をしのぐには勇者を使い、智を用いて国を図るには賢者を使い、天下を正し諸侯を定めるには聖人を使います。軍隊が強いのにその威勢を行うことができず、上位に立つ者がその政令を下の者に施すことができない、そのような国君がどれだけいるか、むずかしくなるでしょう。私はひそかに自らともに成功し王となることができる方を選びましたが、このようなものがどれだけいるでしょうか。今呉王は斉・晋を伐つ意思がありますから、君は貴重な宝を惜しむことなくその心を喜ばせ、辞を卑くすることをいとわずその礼を尽くしてください。そして斉を伐って、斉が必ず勝ち、呉がかたなければ、君の福です。彼らが戦って勝てば、必ずその兵をひきいて晋に臨むでしょう。騎士鋭兵は斉との戦いに疲れ、重宝車騎羽毛は晉との戦いで尽き、君はその残余を制するでしょう」
越王は再拝して言った
「昔呉王はその民の多くを分ちて吾が国をそこない、わが民を殺し、わが人民をいやしみ、わが宗廟を平らげ、国はいばらだらけの廃墟となり、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。私の呉を怨むことは骨髄に深く、私が呉に事えることは子が父を畏れ弟が兄を敬うようなものです。これは私の死言です。いま大夫の教えの賜りがありましたので、私は敢えて内情をお知らせしました。私の身は重ねた敷物に安座することなく、口はうまいものを味わわず、目は美しい色を見ず、耳は雅やかな音を聞かないことすでに三年です。唇を焦がし舌を乾かし、身を苦しめ力をつとめ、上は群臣に事え、下は人民を養い、願わくば一たび呉と天下の平原の野で交戦し、身と腕を正して呉越の士を奮い立たせ、踵を継いで次々と死に、肝脳地にまみれるのが、私の願いです。これを思うこと三年、成すことはできませんでした。今、内に我が国を量るに、呉を傷つけるのに不足であり、外は諸侯に事えることができず、国を空位にして群臣を捨て、容貌を変え姓名を易え、ちりとりと箒を手に取り、牛馬を養い呉王に事えたいと願いました。私は腰と首が切り離され、手足がばらばらになり、四肢が散らばりならび、郷邑の笑いものになるとわかっていても、気持ちは定まっています。今大夫の教えを賜り、亡国を保存し、死人を起こし、私は天の恩賜を頼み、どうして敢えて令を待たないことがありましょうか」
子貢は言った
「呉王の人となりは、功名をむさぼりあえて利害を知りません」
越王は誠実に席を離れた。子貢は言った
「私が呉王を観ますに、しばしば戦いをして、士卒に恩なく、大臣は内に引退し、人を讒言することがますます多いです。子胥の人となりは誠意があり潔く、外に明るく時期を知っていたが、自らの死を以て君主の過ちを隠すことはできませんでした。直言するに君への忠義をもってし、正しい行いをするのに国のためにもってしましたが、その身は死しても聴かれませんでした。太宰嚭の人となりは智にして愚、強にして弱、たくみなうまい言葉でその身を入れ、よくいつわりをなしてその君に事え、その前を知りその後を知らず、君の過ちに順って自分を安んじ、これは国をそこない君をそこなう佞臣です」
越王は大いに喜んだ。子貢は越を去り、越王はこれに金百鎰と宝剣を一本、良馬二を与えたが、子貢は受けなかった。
呉にいたり、呉王に言った
「私が下吏の言を以て越王に告げましたところ、越王は大いに恐れて言いました『昔私は不幸にも若くして父親を亡くし、内に自らの度量をわきまえず、呉に罪を得ました。軍は敗れ身は辱められ、逃げ隠れて會稽山の上に立てこもり、国は荒れ果てうち捨てられ、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。大王の恩賜を頼み、俎とたかつきを奉り祭祀を修めることができましたことは、死んでも敢えて忘れることはありません。どうして敢えてはかりごとなどするでしょう』その心は大いに恐れ、まさに使者を来させて王に謝罪させようとしています」
子貢が館におること五日、越の使者が果たしてやってきて、言った
「東海の役臣句踐の使者臣種はあえて大王の下吏をうやまい、少しく左右の側近にお聞かせします『昔私は不幸にして若くして父親を亡くし、内に自らの度量をわきまえず、罪を上国に得て、軍は敗れ身は辱められ、會稽に逃げ隠れましたが、大王の恩賜を頼 み、祭祀を奉ずるを得ましたことは、死んでも忘れません。今ひそかに大王は大義を興し、強きを誅し弱きを救い、暴虐な斉を苦しめ、周室を安んじると聞き、故に賤臣である文種に前王が所蔵していた鎧二十そろい、屈盧の矛、歩光の剣を奉らせ、軍吏を祝賀します。もしまさに大義を興そうというのなら、我が国は小国ではありますが、どうか悉く四方の内の士卒三千人は下吏に従わせて下さい。どうか自らは堅固な鎧を着て鋭利な武器を手に取り、先に矢石を受けさせて下さい。君臣死しても怨むところはありません』」
呉王は大いに喜び、そこで子貢を召して言った
「越の使者が果たしてやってきて、士卒三千人を出して、その君はこれに従い、私とともに斉を伐ちたいと請うてきた。これを許してよいだろうか」
子貢は言った
「なりません。人の国を空にし、人の衆を悉く徴発し、その君を従えるのは、不仁です。貢物を受け、その軍隊を許可し、その君が従うのは辞退なさって下さい。それならよろしいでしょう」
呉王は許諾した。子貢は晋に去って定公に会って言った
「私は、思慮があらかじめ定まっていなければ急な事態に対応することができず、軍備があらかじめ備わっていなければ敵に勝つことはできないと聞いております。いま呉と斉はまさに戦おうとしています。戦って勝たなければ越がこれを乱すのは必定です。ともに戦って勝てば、必ずその兵を率いて晋に臨んでくるでしょう。君はこれどうなさますか」
定公は言った
「どうやってこれを待てばよいだろうか」
子貢は言った
「軍備を整え卒を待ち伏せさせてこれをお待ちください」
晋君はこれを許した。子貢が魯に帰ると、呉王は果たして九郡の兵を率いてまさに斉と戦おうとした。道は胥門より出て、そこで姑胥の台を過ぎると、にわかに昼間に姑胥の台で仮寝をし、夢を見た。目が覚めて起きるに及び、その心は静かに憂い嘆いていた。そこで太宰嚭に命じて告げて言った
「私は昼寝をして夢を見て、起きると心静かに憂い嘆いていた。どうかこれを占い、心配することないといえないだろうか。夢で章明宮に入り、二つの鬲があり穀物を蒸していたが火は炊かれておらず、二頭の黒犬が一頭は南に吠え一頭は北に吠え、二本のすきが吾が宮の垣に立っており、流水はさかんに流れ吾が宮を越え、後ろの部屋には鼓が鳴り響き狭く長く鍜工があり、前園には横にあおぎりが生えていた。お前は私のためにこれを占え」
太宰嚭は言った
「すばらしいです、王の軍を興して斉を伐つことは。私は聞いております、章とは徳の高いことです。明とは敵を破り名声が聞こえ、功があきらかなことです。二つのかなえが穀物を蒸しているのに火が炊かれていなかったのは、大王の聖なる徳気があまりあるということです、二頭の黒犬が一頭は南に吠え一頭は北に吠えていたのは、四夷がすでに服し諸侯が朝することです。二本の鋤が宮殿の垣に立っていたのは、農夫が実りをなし、田夫が耕すことです。水がさかんに流れ宮堂を越えるのは、隣国が貢献する財があまりあると言うことです。後房が狭く長く鼓が鳴り響き金細工があるということは、宮女が悦楽し、琴瑟が調和するということです。前園にあおぎりが横に生えていたのは、楽府の鼓の音です」
呉王は大いに喜んだが、その心は癒えず、王孫駱を召してこれに問うて言った
「私はにわかに昼の夢を見た、私のためにこれを述べよ」
王孫駱は言った
「私は道に賤しく浅はかであり、たいしたことはできません。今王のご覧になった夢を私は占うことができません。知人に東掖門の亭長で長城公の弟の公孫聖というものがおります。聖のひととなりは、若くして好んで遊び、長じては好んで学び、博覧強記、鬼神の情状を知っています。どうか王はこれに問うてください」
王はそこで王孫駱を往かせて公孫聖に請わせて言った
「呉王は姑胥の台で昼寝をし、にわかに夢を見て、目が覚めると憂い嘆いていた。あなたはこれを占い、急いで姑胥の台に行くように」
公孫聖は血に伏して泣き、しばらくしてから起き上がった。その妻は傍らより聖に言った
「あなたはなんと賤しいたちなのでしょう。主君に見えることを望み、にわかに急ぎ召されることができたのに、雨のように泣くとは」
公孫聖は天を仰ぎ嘆いて言った
「悲しいことだ、おまえはわかっていないのだ。今日は壬午で、時は南方に加わり、命は上天に属し、逃亡することはできない。ただ自ら哀れむだけでなはない。まことに呉王を傷むのだ」
妻は言った
「あなたは道を王に薦めてください、道があればまさに行われ、上は王を諌め、下は自身を慎み深くするべきです。今急に召されたと聞いて、憂い惑いて混乱するとは、賢人がよいとするべきところではありません」
公孫聖は言った
「愚かなことよ、女子の言うことだ。私は道を受けること十年、身を隠して害を避け、寿命をつなぎたいと思っていたが、不意ににわかに急に召され、人生の半ばにして自ら自分を捨てることになった、故にお前と離れるのを悲しむのだ」
遂に去って姑胥台に行った。呉王は言った
「私はまさに北方の斉・魯を伐とうとし、道中に胥門を出て、姑胥の台を過ぎると、にわかに昼の夢をみた。お前はこれを占い吉凶を述べよ」
公孫聖は言った
「私が言わなければ、身と名は全うできるでしょう。これを言えば、必ず王の前で百片に切り刻まれるでしょう。しかし忠臣はその体を顧みないものです」
そこで天を仰いで歎いて言った
「私は、船を好むものは必ず溺れ、戦を好むものは必ず亡びると聞いております。私は直言を好み、命を顧みません。どうか王はこれをわかってください。私は聞いております、章とは戦って勝たず、敗走して慌てふためくことです。明とは明るさから遠ざかり暗さに近づくということです。門に入り鼎で穀物を蒸しているのに火が炊かれていないのを見たのは、大王が火でものを煮て食べることができないということです。二頭の黒犬が南に吠え北に吠えていたのは、黒は陰るということ、北は隠れるということです。鋤が宮の垣に立っていたのは、越軍が呉国に入り宗廟を伐ち社稷を掘り起こすということです。流水が広々と流れ宮堂を越えていたのは、宮が空虚だということです。後ろの部屋で鼓が鳴り響き狭く長くなっていたのは、坐してため息をつくということです。前園にあおぎりが横に生えていたのは、あおぎりの中心が空虚で、器に用いることができず、ただ木偶を作り死人と共に葬ることです。どうか大王は軍をとどめて徳を修め、斉を伐たないで下さい、そうすれば災いを消し去ることができるでしょう。下吏の太宰嚭・王孫駱をつかわし、冠と頭巾を脱ぎ肩脱ぎして裸足になり、地に頭をつけて句踐に謝罪させれば、国は安泰となり、ご自身は死ななくてすむでしょう」
呉王はこれを聞き、面白くなさそうにして怒りを発し、そして言った
「私は天が生んだものであり、神が使わしたものである」
力士の石番をかえりみて、鉄槌でこれを撃ち殺させた。聖はそこで頭を仰向けて天に向かって言った
「ああ、天は私が無実の罪だということを知っていようか。忠義であったのに罪を得て、身は無罪なのに死して葬られる。私が思うに直言する者は、互いに寄り添って柱となるは及ばず、私の体を運び深山にいたれば、後世まで相連なって音声をなすであろう」
ここにおいて呉王は門人にこれを蒸丘に運ばせた。
「山犬や狼がお前の肉を食い、野火がお前の肉を焼き、東風がしばしば至ってお前の骸骨を飛び散らし、肉が糜爛すれば、どうやって声を響かせられるというのか」
太宰嚭は足早に進み出て言った
「大王のお喜びをお祝いいたします。災いはすでに消滅しました。ですから杯をあげて、戦争をすることができます」
呉王はそこで太宰嚭を右校司馬に、王孫駱を左校にし、さらに句踐の軍を従えて斉を伐った。伍子胥ははこれを聞き、諫めて言った
「私は、十万の兵が、千里を行軍すれば、人民の費用、国家の支出は、一日に数千金かかると聞いております。士民の死を思わずに一日の勝ちを争うのは、私が思うに国を危うくし身を滅ぼすこと甚だしい。かつ賊とともにいてその災いを知らず、外にまた怨恨を求め、他国に幸せを求めているのは、瘡を治して心臓や腹の病を捨ておくようなもので、発すればまさに死ぬでしょう。瘡は皮膚の病であり、患うには足りません。今斉は千里の外へだんだんと低くなっており、さらに楚・趙との境界を越えており、斉の病は瘡であるのみです。越の病は、心腹のものです。発しなくても傷つき、動けば死にます。どうか君王は越を定めた後に斉のことを図ってください。私の言は定まりました、あえて忠を尽くさないでしょうか。私はいま年老いて、耳目は聞こえず、狂って道理がわからない心で、国に益することができません。ひそかに『金匱』第八を観ますに、傷つくことになるでしょう」
呉王は言った
「どのように言っているのか」
子胥は言った
「今年の七月、辛亥の夜明けに、大王は事を始めます。辛は、歳星の位置であり、亥は、陰前の辰です。壬子に合するのは歳前の合であり、武力を行使するのに利があり、武を行えば必ず勝利します。しかし徳は斗と合し丑を撃ちます。丑は、辛の本です。大吉は白虎と辛に臨み、功曹は太常と亥に臨むところ、大吉は辛を得て九醜となり、また白虎と並び重なります。人がもしこれをもって事を始めれば、先に小さな勝利を得ても、後で必ず大敗します。天地はわざわいをなし、災禍は遠くないでしょう」
呉王は聴かず、ついに九月に太宰嚭に斉を伐たせた。軍が北郊に臨むと、呉王は嚭に言った
「行け、功が有った者を忘れることなく、罪有る者を赦すことなく、民を愛し士を養い、いたわること赤子のごとくせよ。智者と謀り、仁者と交友せよ」
太宰嚭は命を受け、遂に行った。呉王は大夫被離を召して問うて言った
「お前は常に子胥と心を同じくし志を合わせ、思いを併せて謀を一つにしている。私が軍隊を興して斉を伐つと、子胥はただ何と言ったか」
被離は言った
「子胥は前王に誠を尽くしたいと思い、自ら老いて狂い耳目は聞こえず、今の世で行うところを知らず、呉国に益することはないと言っています」
呉王は遂に斉を伐ち、斉は呉と艾陵のかたわらで戦った。斉軍は敗績した。呉王はすでに勝ち、そこで行人をつかわし斉と講和しようとして言った
「呉王は、斉に水没するおそれがあると聞き、軍を率いてやってきて見ると、斉は軍隊をがまの中に興しており、呉は安んじる方法がわからず、陣を設営して備えたのであり、斉軍を頗る傷つけようと思っているのではない。どうか和親を結んで去りたい」
斉王は言った
「私はこの北辺にいて、境を出ようとするつもりはありません。今、呉は江淮を渡り千里を越えて我々の土地にやってきて、我々の民を殺しましたが、幸いに上帝の哀れみがあり、国はなお亡びるには至っていません。今、王が譲るのに和親を以てするならば、あえて命のごとくしないことがありましょうか」
呉と斉はついに盟して去った。呉王は帰り、そこで子胥を責めて言った
「私の前王は徳名を行い、上帝に達した。功をほどこし力を用い、お前のために西方に国境をつらね楚に敵対した。今前王はたとえるなら農夫が四方のよもぎを刈るようなもので、名を荊蛮に立てたのは、これはまた大夫の力である。いま大夫は老いぼれて自ら満足せず、変を生じ偽りをおこし、怨み憎んで出でて、出でればわが兵士民衆をとがめ、わが法度を乱し、災いをもってわが軍を挫いた。天が哀れみを降したおかげで、斉軍は降服を受け入れた。私は敢えてその功績を自らに帰するだろうか、それは前王の残した徳であり、神霊の与える幸いである。お前は呉に対してなんの力があるのか」
伍子胥は腕まくりをして大いに怒り、剣をほどいて答えて言った
「むかし、わが前王に服従しない臣がいれば、疑わしきをだだし計って、大難に陥りませんでした。いま王は患うところを放棄し、外にこの子供の謀を憂えないの は、覇王の事業ではありません。天はいまだ呉を見棄ててはいませんが、必ずその小喜に向かわせ、その大憂を近づけています。王がもし目を覚ませば、呉国は世々続くでしょう。もし目を覚まさなければ、呉国の命運がこのように短くなるでしょう。私は狂疾を病んだと称して王が擒となるのを見るに忍びません。私がもし先に死んだら、私の目を門に懸け、呉国が亡びるのを見られるようにしてください」
呉王は聴かず、殿上に坐していると、ひとり呉王だけが四人が庭に向かって互いに背を向けて寄りかかっているのを見た。王が怪しんでこれを見ていると、群臣は問うて言った
「王は何を見ているのですか」
王は言った
「私は四人が互いに背中を向けて寄りかかっており、人の言葉を聞くと四つに分かれて走ったのを見た」
子胥は言った
「王の言葉のごとくであれば、まさに人民を失おうとしているのです」
呉王は怒って言った
「お前の言葉は不祥だ」
子胥は言った
「ただ不祥だというのではなく、王もまた亡びるでしょう」
のち五日して、呉王はまた殿上に座り、二人の人が相対し、北向きの人が南向きの人を殺すのを見た。王は群臣に問うた
「見たか」
〔群臣は〕言った
「何も見えません」
子胥は言った
「王は何を見たのですか」
王は言った
「先日四人を見たが、今日もまた二人が相対して、北向きの人が南向きの人を殺すのを見た」
子胥は言った
「私は聞いております、四人が走るのは叛くということです。北向きの人が南向きの人を殺すのは、臣下が君を殺すということです」
王は答えなかった。
呉王は文台の上に酒席を設け、群臣はことごとくおり、太宰嚭は政を執り行い、越王が侍り坐し、子胥はここにいた。王は言った
「私はこう聞いている、君は有功の臣を賤しまず、父は有力の子を憎まず、と。今太宰嚭は私のために功があったのでこれに最上の爵位を与えよう。越王は情け深く真心があり、私に仕えている。私はふたたびその国土を増し、討伐を助けた功をつぐなおう。皆はどう思うか」
群臣は祝賀して言った
「大王は自ら至徳を行い、公平無私な心で士を養い、群臣はみな仕え、危難を見れば争って死ぬでしょう。名声は顕著となり、威は四海を奮わせます。功が有るものは賞を受け、滅びた国もまた存在します。覇者の功績、王の事業は、ことごとく群臣に及んでいます」
ここにおいて子胥は地にうずくまって涙を流して言った
「ああ、哀しいことだ、このような沈黙に遭うとは。忠臣は口をおおい、讒言する者が側にいる。政は敗れ道は壞れ、疑いとへつらいは極まりなく、邪説や偽の言葉は、曲がっているものをまっすぐであるとし、讒言する者をゆるし忠臣を攻め、まさに呉国は滅びようとしている。宗廟はすでに壊れ、社稷は祭られず、城郭は荒れ果て、宮殿には茨が生じている」
呉王は大いに怒って言った
「老臣は多く偽りをなし、呉の災いである。そして権力を専らにし威をほしいままにし、ひとり吾が国を傾けようとしている。私は前王がお前を信任していた故に、いまだ法を行うに忍びない。今退いて自らよく考え、呉を妨げる謀をしないように」
子胥は言った
「今私が不忠不信であったら、前王の臣たりえませんでした。私はあえて身をおしまず、吾が国が滅びるのを恐れます。昔、桀は関龍逢を殺し、紂は王子比干を殺しました。今、大王が私を誅殺するのは、桀紂と三つに立ち並ぶことです。王はどうか励んでください、私はおいとましましょう」
子胥は帰って、被離に言った
「私は鄭・楚の境界に弓を引き矢を射て、江淮を渡って自らここに至った。前王は私の計を聴き従い、楚を破り父兄が虐げられた仇を取り、前王の恩に報いたいと思ってここに至ったのである。私は自らを惜しんではいないが、災いがまさにあなたに及ぼうとしている」
被離は言った
「いまだ諫めて聴かれないのに、自殺するのはなんの益があるのか。逃げるのはどうですか」
子胥は言った
「逃げて私はどこへ行くというのか」
呉王は子胥が怨んでいるのを聞いて、人を使わして属鏤の剣を賜らせた。子胥は剣を受け取ると裸足になり裳をかかげて、堂から中庭へ下りていき、天を仰いで怒りを叫んで言った
「私ははじめお前の父の忠臣となり呉に立たせ、謀を設けて楚を破り、南方の強力な越を征服し、威は諸侯に及び、覇王の功があった。今、お前は私の言を用いず、かえって私に剣を賜った。私が今日死ねば、呉の宮殿は廃墟となり、庭には蔓草が生じ、越人がお前の社稷を掘り起こすだろう。どうして私を忘られようか。昔、前王はお前を立てようとは思わなかったが、私は死をかけてこれを争い、ついにお前の願いをかなえ、公子は多く私を怨んだ。私はひとり呉に功があったのに、今私が国を定めた恩を忘れて、かえって私に死を賜うとは、どうしてまちがいでないことがあろうか」
呉王はこれを聞き、大いに怒って言った
「お前は不忠不信で、私のために斉に使いしたとき、お前の子を斉の鮑氏に託した。私を疎んじる心があるのだ」
急ぎ自裁せしめた。
「私はお前が何も見えないようにしてやろう」
子胥は剣を手に取り、天を仰いで嘆いて言った
「私が死んでから後、世は必ず私を忠臣となすであろう。上は配夏・殷の世に並び、また龍逢・比干と友となれるであろう」
ついに剣に伏して死んだ。呉王は子胥の屍を取り、革袋の容器に入れ、これを江の中に投じ、言った
「胥よ、お前がひとたび死んで後、何を知ることができようか」
そしてその頭を断ち、高楼の上に置いて、これに言った
「日月がお前の肉を焼き、つむじ風がお前の目に吹き付け、炎の光がお前の骨を焼き、魚とすっぽんがお前の肉を食らい、お前の骨が変じて灰となれば、何を見ることができようか」
そこでその体を棄てて江中に投じた。子胥はそこで流れにしたがって波を立て、潮流によって行き来し、激しく揺るがして岸を崩した。ここにおいて、呉王は被離に言った
「お前は子胥と私の欠点を論じた」
そこで被離の髪をそり落としてこれを刑した。王孫駱はこれを聞いて参朝しなかった。王は召して問うて言った
「お前はどうして私を非として参朝しないのか」
駱は言った
「私は恐れているだけです」
〔呉王は〕言った
「お前は私が子胥を殺したのを重いとするのか」
駱は言った
「大王の気は高く、子胥の位は下であり、王はこれを誅しました。私の命がどうして子胥と異なることがありましょうか。私はこのために恐れているのです」
王は言った
「太宰嚭の言うことを聴いて子胥を殺したのではない。子胥は私に対して図ったのだ」
駱は言った
「私は、人に君たる物には必ず敢えて諫める臣がおり、上位にある者にはかならず敢えて言う友人がいると聞いております。子胥は先王の老臣です。不忠不信であれば、 前王の臣たりえましょうか」
王は心の中で悲しんで子胥を殺したことを悔い
「太宰嚭が子胥を讒言したのではないだろうか」
そしてこれを殺そうとしたが、駱は言った
「なりません。王がもし嚭を殺せば、これは二人の子胥となります」
そこで誅さなかった。
十四年、夫差はすでに申胥を殺し、連年穀物が実らず、民は多く怨んだ。呉王はまた斉を伐ち、商・魯の間に闌溝を掘り、北は蘄に属し、西は済に属した。魯・晋と黄池のほとりで合して攻めようとし、群臣がまた諫めるのを恐れて、国中に命令して言った
「私は斉を伐つ、あえて諫める者は死刑にする」
太子友は子胥が忠義なのに用いられず、太宰嚭がへつらって政を専らにしているのを知り、ただしてこれに言おうとしたが、とがめに遭うのを恐れ、そこで遠回しに諫めて王を励ませようとした。清い朝、弾丸を懐きはじき弓を持ち、後園より服と履き物を濡らして来た。呉王は怪しんでこれに問うた
「お前はどうして服と履き物を濡らし、体はこのようなのか」
太子友は言った
「後園に行って遊び、秋蝉の声を聞き、行ってこれを見ますと、秋蝉は高い木に登り、清露を飲もうとしており、風にしたがって振り乱れ、哀れな鳴き声を長く上げ、自ら安全と思っており、蜥蜴が枝を越えて枝に沿って腰を引きをけづめをそばだててその形態を傾けているのを知りませんでした。とかげは集中して進み、利があることだけを考えていましたが、雀が緑林に満ち枝の影を徘徊し、歩幅を短くし軽々としてこっそりと進み、とかげをついばもうとしているのを知りませんでした。雀はただ蜥蜴のおいしさをうかがうのを知っているだけで、私が弾を差し挟んで高く投げつけ、飛ぶ玉をさまよわせ、その背に集まるのを知りませんでした。今、私は心を空にして気持ちがただ雀にあり、穴が側にあるのを知らず、穴の中は暗くてはっきりせず、深い井戸に落ちてしまったのです。故に体と履き物が濡れているのです。ほとんど王に笑われるところです」
王は言った
「天下の愚でこれに過ぎる者はない。ただ前の利を貪り後の患いを見ないとは」
太子は言った
「天下の愚でさらに甚だしいものがございます。魯は周公の子孫を受け継ぎ、公子の教えがあり、仁を守り徳を懐き、隣國を欲することはありませんでした。しかし斉は兵を挙げてこれを伐ち、民の命をおしまず、ただ獲得するだけでした。斉はただ挙兵し魯を伐ちましたが、呉が国内の士を集め、府庫の財をつくし、軍を野にさらして千里を行軍し、これを攻めるのを知りませんでした。呉はただ国境を越えて我々に背く国を征伐することを知るだけで、越王が死士を選んで三江の口を出て五湖の中に入り、わが呉国を屠りわが呉の宮殿を滅ぼすのを知りませんでした。天下の危うきはこれに過ぎるものはありません」
呉王は太子の諫めを聞かず、ついに北方の斉を伐った。越王は呉王が斉を伐ったと聞き、范蠡・洩庸に軍を率いて海に従い江に通じ、呉の退路を断たせた。太子友を始熊夷に破り、江を通り転じて呉を破り、ついに呉国に入り姑胥台を焼き、大舟を取った。呉は斉軍を艾陵のほとりで破り、軍を還して晋に臨み、定公と長を争い、いまだ合意しないうちに、国境の早馬がきた。
呉王夫差は大いに恐れ、諸侯を合して謀って言った
「我々の道は遠い。會盟しないのと前進するのとどちらが利があるだろうか。
王孫駱は言った
「前進するにこしたことはありません。そうすれば諸侯の權力を握り、その志を求めることができるでしょう。どうか王は士に告げて、その命令を明らかにし、これを励ますのに好意をもってし、これを辱めるのに従わないことをもってし、おのおのその死力を尽くすようにさせてください」
夫差は日暮れに馬に飼い葉を与え士に食べさせた。武器を取り鎧を身につけ、馬をおさえて牧を銜え、火を竈から出し、闇中を行軍した。呉軍はみな模様のついた犀皮の長盾、扁諸の剣を持ち、方陣を作って行軍した。中軍は皆白い衣裳に白い旄、白い鎧に白羽の矢で、これを見ると茅のようであった。王はみずから鉞を握り旗を戴き陣をひきいて立った。左軍はみな赤い衣裳に赤い旄、丹の鎧に朱羽の矢で、これを見ると火のようであった。右軍はみな黒い衣裳に黒い車、黒い鎧に烏の羽の矢で、 を見ると墨のようであった。鎧を身につけた兵士が三万六千、鶏が鳴くころに定まり、すでに陣をつくり、晋軍からの距離は一里であった。空がまだ明けないうちに、王はみずから金鼓を鳴らし、三軍はかまびすしく叫んで兵を整え、その声は天地を動かした。晋は大いに驚き出でず、反復して防いで塁を堅くした。そこで童褐に軍に請わせて言った
「両軍は戦いを止めてよしみを交えるのに正午を期限とした。いま大国は順序を越えて、我々の軍塁に至りました。敢えてその理由をうかがいたい」
呉王はみずから答えて言った
「天子の命があり、周室は衰えて、諸侯に貢献を約するも、王府に入るものはなく、上帝鬼神は告祭することができず、姫姓の助けはなく、おそれて使者をつかわして来たり告げさせ、その冠と車蓋は道に絶えることがない。始め、周は晋に頼って、夷狄を軽んじていた。晋がいまこのように反したのを見て、我々はそこで匍匐して晋君の下へやってくると、君は長弟の序列を肯んぜず、いたずらに強さを争っている。私は進んで敢えて去らず、君が盟の長に命じなければ、諸侯の笑いものとなろう。私が君に事えるのも今日のことであり、君に事えることができないのも今日のことである。あえて使者の往来を煩わせ、私はみずから命を籬の外で聞こう」
童褐がまさに帰ろうとすると、呉王は左足を踏んで褐と決別した。報告して、諸侯・大夫と晋定公の前に列座した。すでに晋君に命を伝えたので、そこで趙鞅に告げて言った
「私が呉王の顔色を見ますと、大きな心配事があるようでした。小さな心配ならば、寵愛している妾や嫡子が死んだのであり、そうでなければ呉国に災難があったのでしょう。大きな心配事なら、越人が侵入したのに帰れないということでしょう。その意は憂い傷んでおり、進むも退くも災難に対して軽く、ともに戦うことはできません。主君はこれに前の決め事を許し、長幼の順序を争って国を危うくなさらないべきです。しかしいたずらにこれを許すべきではありません。必ず呉王がその信を守ることを明らかにしてください」
趙鞅は許諾した。宮中に入って定公に謁見して言った
「周における姫姓は、呉は先輩長老であり、盟の長とすべきであり、そうして国礼を尽くして下さい」
定公は許諾し、童褐に命じて復命させた。ここにおいて呉王は晋の義を恥かしく思い、そこで帳の中に退いて会盟した。二国の君臣が並び、呉王は公と称して前になり、晋は侯としてこれに次いだ。群臣は盟を終えた。
呉王はすでに晋にたいし長となって帰ったが、いまだ黄池を越えていなかった。越は呉王が久しく留まっていまだ帰らないのを聞き、兵士をことごとく発しまさに章山を越え三江をわたりこれを伐とうとした。呉はまた斉・宋が害をなすのを恐れて、王孫駱に命じ功労を周に告げさせて言った
「昔、楚は天子への貢物をささげず、兄弟の国を避けて遠ざけました。我々の先君闔閭はその悪行を忍びず、剣を帯びつるぎを抜き、楚の昭王と互いに中原に争いました。天はその善をほどこし、楚の軍は敗績しました。いま斉は楚にかんがみず、王命をうやまわず、兄弟の国を遠ざけました。夫差はその悪行を忍びず、鎧を着て剣を帯び、ただちに艾陵に至ると、天は呉に幸いし、斉軍は鋒を還して退きました。夫差はどうしてみずから功多しとするでしょうか、これは文王・武王の徳が助けたのです。呉に帰っていまだ收穫が熟さないうちに、ついに江に沿って淮をさかのぼり、溝を開鑿し川を深くし、商・魯の間に出て、帰って天子の執事に告げます」
周王は答えて言った
「伯父はお前に来させた。盟国は、私一人が依るものである。伯父がもし私一人を助けるのならば、かねて永らくの福を受け、周室は何を憂うことがあろうか」
そこで弓弩と王の胙を賜い、おくりなを加えた。呉王は黄池より帰って、民を休めて軍を解散した。
二十年、越王は軍隊を興して呉を伐った。呉は越と檇李に戦い、呉軍は大いに敗れ、軍は散じて死者は数えることができないほどだった。越は追って呉を破った。呉王は行き詰まって急ぎ王孫駱に稽首して和平を請わせたが、その様子は越が呉に使者に來たようであった。越王は答えて言った
「むかし、天が越を呉に賜ったのに、呉は受けなかった。今、天が呉を越に賜わったのだ、逆らうことができようか。私は句章・甬東の地を献じ、私は君と二人の君主とさせてほしい」
呉王は言った
「我々は周室にあって、周は前王を一杯の飯の分だけ礼遇しました。もし越王が周室の義を忘れず、我々を付属の国とさせるならば、それはまた私の願いでもあります。行人は列国の義を成そうと請います、ただ君王はこれをお考え下さい」
大夫種は言った
「呉は無道をなしましたが、今幸いにこれを擒としました。どうか王は命を断ってください」
越王は言った
「私はまさにお前の社稷を壊し、宗廟を壊そう」
呉王は黙った。和平を請い、七たび来て帰ったが、越王はゆるさなかった。
二十三年十月、越王はまた呉を伐った。呉国は困窮して戦わず、士卒は分散して城門は守られず、ついに呉を屠った。呉王は群臣を率いて逃げ去り、日夜走ること三日三晩、秦餘杭山に達した。胸中には憂いがあり、見るものはぼんやりとし、歩みは狂人のようで、腹は減り口は渇き、顧みて生稲を得てこれを食べ、地に伏して水を飲んだ。左右の者を顧みて言った
「これは何という名か」
答えて言った
「これは生稲でございます」
呉王は言った
「これは公孫聖が言ったところの、火でものを煮て食べることができず、敗走してあわてふためくということだ」
王孫駱は言った
「十分に食べたら行きましょう、先には胥山があり、西の坂の中は隠れとどまることができます」 
王は行き、しばらくして、生瓜のすでに熟しているのを得たので、取ってこれを食べた。左右の者に言った
「どうして冬に瓜がなっているのか、道に近い人が食べないのはどうしてか」
左右の者は言った
「糞種の物といいまして、人は食べません」
呉王は言った
「どうして糞種というのか」
左右の者は言った
「盛夏の時、人が生瓜を食べ、道ばたで大便をすると、実がまた秋霜に生じますが、これを嫌い、食べないのです」
呉王は嘆いていった
「子胥の言うところの朝食である」
太宰嚭に言った
「私は公孫聖を頃して胥山の頂に投じた。私は天下の恥となることを恐れ、私の足は進むことができず、心をむけることができない。
太宰嚭は言った
「死と生、失敗と成功は、もとより避けられましょうか」
王は言った
「しかしかつて知るところはなかったであろうか。お前が試しに前方にこれを呼んでみよ。聖がいればまさにすぐに応答があるはずだ」
呉王は秦餘杭山に止まり呼んで言った
「公孫聖」
三度呼ぶと、聖は山中より応えて言った枹
「公孫聖」
三度呼んで三度応えた。呉王は天を仰いで叫んで言った
「私はどうして帰ることができようか。私は代々国を得れば聖に事えよう」
しばらくして越軍が至り、三度呉を圍んだ。范蠡は中軍にいて、左手で鼓をひっさげ、右手でばちをとり、これを打ち鳴らした。呉王はその矢に書して種・蠡の軍に射て、辞して言った
「私はすばしこい兎が死ぬと良犬は煮られると聞いております。敵国がもし滅べば、謀臣は必ず亡びます。今呉は病んでおります。大夫はどう考慮されますか」
大夫種と相国蠡は急いで攻めた。大夫種は矢に書してこれを射て言った
「天は青々として、あるいは存しあるいは亡ぶ。越君勾践の下臣種はあえてこれを申し上げる;昔、天が越を呉に賜ったのに、呉は受けようとしなかった、これは天の反するところです。勾践は天を敬って功があり、すでに国に帰ることができました。今、天は越の功に報い〔呉を越に賜ったので〕、敬してこれを受け、敢えて〔天の恩惠を〕忘れません。かつ呉には大いなる過ちが六つあり、それで国が滅びたのです。王はそれをご存じですか。忠臣伍子胥が真心を込めて諫めたのに、その身は死した、これが大いなる過ちの一つ目です。公孫聖が直言を説いたのに功がなかった、これが大いなる過ちの二つ目です。太宰嚭は愚かで口がうまく、言葉は軽薄で他人の悪口を言ってへつらい、出まかせの言葉が口をついて出たのに、聴いてこれを用いた、これが大いなる過ちの三つ目です。斉晋は反逆の行いがなく、分を越えたおごりの過ちがなかったが、呉は二国を伐ち、君臣を辱め、社稷を破壞した、これが大いなる過ちの四つ目です。かつ、呉と越は音を同じくし律を共にし、上は星宿を合し、下は一つの理を共にするのに、呉は侵伐した、これが大いなる過ちの五つ目です。昔越王は自ら呉の前王を傷つけ、その罪はこれより大きいということはなく、幸いにこれを伐ったが、天命に従わずその仇を放っておき、後に大患となった、これが大いなる過ちの六つ目です。越王はつつしんで上は青天をおさめ、あえて命のごとくしないことがありましょうか」
大夫種は越王に言った
「仲冬の気は定まり、天はまさに殺戮しようとしています。天の殺意を行わなければ、かえってその災いを受けます」
越王は拝して言った
「わかった。今、呉王のことを図るに、どうしたらよいだろうか」
大夫種は言った
「君は五勝の衣を着て、歩先の剣を帯び、屈盧の矛を持ち、目をいからし声を大にして、これを捕らえてください」
越王は言った
「わかった」
そこで大夫種の言うとおり呉王に辞して言った。
「まことに今日に命を聞け」
言ってしばらくしても呉王は自殺しなかった。越王はまた使者をやって言った
「どうして王が恥を忍んで厚顔無恥なのか。世に万世の君なく、生死は同じである。今あなたはなお栄誉を残しているのに、どうして必ずわが兵士に王に刃を向けさせるのか。呉王はなお自殺することを肯んぜなかった。句踐は文種と范蠡に言った
「わかった」
そこで剣を引き抜いてこれに伏して死んだ。越王は太宰嚭に言った
「お前の臣としてのありようは、不忠で信が無く、国を亡ぼし君を滅ぼした」
そこで嚭を妻子と共に誅した。呉王は剣に伏して死のうとするにあたり、左右を顧みて言った
「私は生きていてすでに恥をさらし、死んでもまた恥をさらす。死者に知らせるならば、私は前君に地下で恥じ、忠臣伍子胥及び公孫聖を見るに忍びない。知らせることがなければ、生者に恥じる。死んだら必ず組みひもを連ねて私の目を覆え。その蔽わないことを恐れるので、どうかまた縫い取りしたあやぎぬ三幅を重ねて光明を掩い、生きているときは私を明るくせず、死んだら私の姿を見ることないようにしてほしい。私はどうしてそうしないことができようか」
越王はそこで呉王を礼をもって秦餘杭山の卑猶に葬った。越王は軍士に自国の戦争の功で集まらせ、人ごとに一握りの湿った土でこれを葬った。太宰嚭もまた卑猶の傍らに葬った。

呉越春秋

越の前君無余は、夏禹の末裔の封君である。禹の父鯀は、帝顓頊のあととりである。鯀は有莘氏の娘を娶り、名を女嬉といった。壮年になっても未だ子を産まなかった。砥山に遊んではとむぎを得てこれを吞むと、気持ちが男女の交わりを持った人の感ずるところのようでであり、そこで妊娠し、脇腹を割いて高密を生んだ。西羌に家をかまえ、その地は石紐といった。石紐は蜀の西川である。帝堯の時、洪水がみなぎり、天下は水につかり、九州はふさがり、四瀆は塞ぎ閉じた。帝はそこで中国の安らかでないことを憂い、人民の災いを被ることをいたんだ。そこで四嶽に命じ、そこで賢良を挙げ、まさに治水を任せようとしたが、中国から遠方に至るまで、推薦する人がなく、帝は任ずるところがなかった。四嶽はそこで鯀を挙げ、これを堯に推薦した。帝は言った
「鯀は命にそむき、一族をそこなった。不可である」
四嶽は言った
「群臣を比較しますに、鯀に及ぶ者はいません」
堯は採用して治水させたが、命を受けて九年、成果は上がらなかった。帝は怒って言った
「私は鯀を用いることができないと知った」
そこであらためて求めて舜を得て、天子の政を摂行させた。巡狩して鯀の治水が形をなしていないことを見て、そこで鯀を羽山に殺し、鯀は水に投じ、化して黄熊となり、よって羽淵の神となった。舜は四嶽と鯀の子高密(禹)を挙げた、四嶽は禹に言った
「舜は、【鯀が】治水に功がなかったので、なんじを挙げて父の手柄をつがせるのである」
禹は言った
「しかり、小子が敢えてことごとく功績を調べて天意に基づくであろうか、ただ委ねるだけである」
禹は父の功が成らなかったのを傷み、江を巡り、河をさかのぼり、済水をきわめ、淮水を明らかにした。身をつとめて心をいためて行うこと七年、音楽が聞こえても聴かず、門を過ぎっても入らず、冠はひっかけて顧みず、靴が脱げても履かなかった。成果は未だ上がらず、愁えてじっくりと考えた。そこで黄帝の中経暦を案じると、思うに聖人の記したところに曰く『九山の東南の天柱にあり、号は宛委といい、赤帝が門にいる。その嶺の頂は、模様のついた玉をいただき、盤石でおおわれ、金簡に書くのに、青玉を字とし、編綴するのに白銀をもってし、すべてその文に玉の浮き彫りがほどこしてあった』
禹はそこで東方を巡り、衡山の峰に登り、白馬の血をささげて祭ったが、幸いに求むるところはなかった。禹はそこで山に登り天を仰いで嘯き、そこで夢に赤い縫い取りのある服を着た男子を見た。自ら玄夷蒼水の使者と称し、帝が文明(禹)をここに使いさせたと聞き、故に来たりてこれを待っていた。
「まだその時ではないので、まさに期日を告げよう、悲しんでうめくことのないように」
故に覆釜之山に調子を合わせて歌い、東を向いて禹を顧みて言った
「我が山の神書を得んと欲する者は、黄帝の嶺の下で三月斎戒し、庚子に山に登り石を開ければ、金簡の書はある」
禹は退いて三月の間斎戒し、庚子に宛委山に登り、金簡の書をみつけた。金簡の玉字を調べ、通水の理を得た。また嶺に戻り、四種の乗り物に乗って川を行き、霍山から五嶽を巡りとどまった。詩経にいう『まことにかの南山は、禹がこれをおさめた』
ついに長江・黄河・淮水・済水の四つの大河を巡行した。益、夔とともに謀り、行って名山大沢に至り、その神を召してこれに山川の脈理、金玉のあるところ、鳥獣昆虫の類、及び八方の民族、異なる国や地域、土地の広さを問うた。益に箇条書きにしてこれを記させ、故にこれを名付けて山海経といった。禹は三十にして娶らず、塗山に行き至り、時が遅くなり、制度を失するのを恐れ、そこで辞して言った
「私は妻を娶ろう、必ずしるしがあるだろう」
すると白い九尾の狐で禹のところに至ったものがいた。禹は言った「白は、私の服である。その九尾は、王のしるしである。塗山の歌に言う、『配偶者を求めてひとりで行く白狐、九尾は厚くゆたかである。我が家は喜び、来客は王となる。家を成し室を成し、私はかの繁栄に至る。天と人の出会いがここにあれば行う』明らかである」
禹はそこで塗山で娶り、これを女嬌といった。辛、壬、癸、甲の四日間娶り、禹は行った。十月、女嬌は子の啓を生んだ。啓は生まれて父に会えず、日夜呱呱と泣いた。禹は行き、大章に東西を歩かせ、豎亥に南北を測らせ、八極の広きに達し、天地の数をめぐらせた。禹は江を渡り、南方の水理を見ると、黄龍が舟を負い、舟中の人が恐れおどろいたので、禹はそこでわっと笑い出して言った
「私は命を天に受け、力を尽くして万民をねぎらっている。生は天賦であり、死は天命である。お前はどうしてそうするのか」
顔色は変わらず、舟の人に言った
「これは天が私が用いるとしたものである」
龍は尾をひいて舟を捨てて去った。南方へ向かい蒼梧に至って計測していると、縛られた人に会い、禹はその背を撫でて泣いた。益は言った
「この人は法を犯したので、当然このようになるべきです。これを嘆くのはどうしてですか」
禹は言った
「天下に道があれば、民は罪を被らない。天が無道であれば、罪は善人に及ぶ。私は、ひとりの男子が耕さなければ、飢える者が出る、ひとりの女子が桑を採らなければ、寒くなる者が出ると聞いている。私は帝のために水土を統治し、民を守り居を安んじ、その基礎を得させている。今、法をこうむることがこのようであるのは、これは私の徳が薄く、民を教化することができない証拠である。ゆえにこれを嘆いて悲しんでいるのだ」
ここにおいて天下を巡り行き、東は人が行ったところのない遠方に至り、西は積山に及び、南は赤岸を越え、北は寒谷を過ぎた。崑崙を行き来し、玄扈を視察し、地理を筋道立て、金石を名づけた。流砂を西の辺境に除き、弱水を北漢に流した。青泉・赤淵は分かれて洞穴に入った。江を開通して東に至り、碣石に至った。尭は言った
「しかり、もとよりこれを願っていたのだ」
そこで禹を号して伯禹と言い、官を司空と言い、姓姒氏を賜り、州伯を統べ治め、十二部を巡回させた。尭が崩じ、禹は三年の喪に服し、喪に服することが父母に対するようだった。昼夜泣き、呼吸は声にならなかった。禹は位を舜に譲り、舜は大禹を推薦し、官を司徒と改め、内は虞舜の位を輔け、外は九伯として行った。舜が崩じ、位を譲るのに禹を命じた。禹は三年喪に服し、姿はやせ衰え、顔つきは黒くなり、位を商均に譲り、陽山の南、陰阿の北に退去した。万民は商均につかず、追って禹のところに就き、その有樣はおどろいた鳥が天に上り、おどろいた魚が淵にもぐるようなもので、昼に歌い夜に吟じ、高所に登って大声で叫んで言った
「禹が我々を見棄てたら、誰を戴けばいいのか」
禹は三年の服喪を終え、民を哀れみ、やむを得ず、天子の位に就いた。三年で功績を考査し、五年で政治は定まり、天下を巡り行き、大越に帰還した。茅山に登って四方の群臣を朝し、中州の諸侯に見せるに、防風が後れて至ると、斬って衆に示し、天下が悉く禹に属することをしめしたのである。そこで大いに集めて治国の道を計った。内に釜山の州が鎮まった功を美とし、外に聖徳を行って天の心に応じ、ついに茅山の名を改めて會稽の山と言った。そこで国政を伝え、万民を休養し、国を号して夏といった。後に功のある者を封じ、徳のある者に爵を与え、悪行が些細であれば誅さず、功績が微少であれば賞を与えず、天下が徳を仰ぎ慕うことは児が母を思い、子が父に帰するようであった。しかし越に留り群臣が從わないのを恐れ、言った
「私は、その実を食べる者はその枝を傷つけず、その水を飲む者は、その流れを濁さないと聞いている。私は覆釜の書を得て、天下の災害を除き、民を郷里に帰することができた。その徳が明らかなのはかくのごときである、どうして忘れることができようか」
そこで言を聞き入れて諫言を聴き、民を安んじ住居を治めた。山をつぶして木を切り、邑を作って描いてしるしを作り、横木で門を作った。秤を調べ、斗升を均一にし、田地を作って民に示し、法度をなした。鳳凰が樹に棲み、鸞鳥が傍らで巣を作り、麒麟が庭を歩き、百鳥が沢を耕作した。ついにすでに老齢となり老いようとし、嘆いて言った
「私は晩年にいたり、寿命はまさに尽きようとし、ここにおわる」
群臣に命じて言った
「私の死んだあと、私を會稽の山に葬り、葦の槨に桐の棺、墓穴を穿つこと七尺、下は泉に浸かることなく、墳墓の高さは三尺、土の階は三段階にせよ。これを葬ったのちについて、言った「一畝の広さを改めることがないように、思うにここにいるものの安楽は、これを作る者の苦難である」
禹が崩じて後、多くの瑞祥はみな去った。天は禹の徳を美としてその功を労った。百鳥にめぐって民田を作らせ、その大小には差があり、進退するに行列を作り、多くなったり少なくなったりし、往来にはきまりがあった。禹が崩じて、位を伝えて益に與えた。益は喪に服すること三年、禹を思って口にしないことはなかった。喪が終わり、益は禹の子啓を箕山の南に避け、諸侯は益を去って啓に朝し、言った
「わが君は帝禹の子です」
啓はついに天子の位に即き、夏で国を治めた。禹貢の美徳にしたがい、ことごとく九州の土地に五穀を播き、何年も絶えなかった。啓は毎年春秋に使者を使わして禹を越に祭らせ、宗廟を南山の上に建てた。禹以下六世で帝少康が出た。少康は禹の祭祀が途絶えるのを恐れ、そこで庶子を越に封じ、号して無余と言った。余がはじめて封を受けたとき、人民は山に住んでおり、鳥田の利があるとはいっても、租税はやっと宗廟を祭る費用をに足りるぐらいだった。そこでまた丘陵や平地に沿って耕種し、あるいは禽鹿を追って食に当てた。無余は質朴で、宮室の装飾を設けず、民と共に居り、春秋に禹の墓を会稽に祭った。無余から世代を伝えること十余代、末裔の君主は衰え弱り、自立することができず、転じて人民といっしょに庶民となり、禹の祭祀は断絶した。十数年たって、ある人が生まれて言葉を語り、その言葉を鳥禽呼といい、鳥が飲み食い囀るようであった。天を指して禹の墓に向かって言った
「私は無余君の末裔です。私はまさに前君の祭祀を修め、また禹の墓の祭祀を復活し、民のために天に福を請い、鬼神の道に通じようとしています」
人々は喜び、皆禹の祭祀を奉るのを助け、四時に貢ぎものを送り届け、よってともに封じて立て、越君の後を継承した。夏王の祭祀を復活し、鳥田の瑞祥を安んじやわらげ、人民のために命を請うた。これよりのち、しだいに君臣の義がととのい、号して無壬と言った。壬は無䁺を生み、䁺は専心して国を守り、上天の命を失わなかった。無䁺が卒し、或いは夫譚といった。夫譚は元常を生み、常が立ったのは、呉王寿夢・諸樊・闔閭の時であった。越が覇業を興したのは元常からである。

呉越春秋

越王勾践五年五月、大夫種・范蠡と呉に入って奴隷となることになり、群臣は皆送って浙江のほとりに至った。河に臨んで餞の祭りをし、軍は固陵に陣をしいた。大夫文種は進んで祝いをなし、その言葉に言った

「大いなる天の助けは、先に沈み後に上がる。災いは徳の根本となり、憂いは福堂となる。人を威圧するものは滅び、服従するものは栄える。王は災禍を引きよせ致すといえども、その後は災いはない。君臣は生きながら離れ、上皇の心を動かす。民衆は悲しみ、痛みを感じないものはいない。私にどうか乾肉を薦めさせ、酒二杯をつがせてください」
越王は天を仰いでため息をついて、杯を挙げて涙を流し、黙して何も言わなかった。 種はまた進んで祝って言った
「大王の徳はひさしく限りなく、天地は霊を授け、天地の神が手助けする。吾が王はこれを厚くし、幸いが側にある。徳は百の災いを消し、利はその福を受ける。かの呉の宮廷を去って、来たりて越国に帰す。酒をすでについだので、万歳を称えさせてください」
越王は言った
「私は前王の余徳を受け、国を辺境に守り、幸いに諸大夫の謀をうけ、ついに前王の墳墓を保った。今、恥辱に遭い天下の笑いものになったのは、はた私の罪であろうか、諸大夫の責任であろうか。私はその咎を知らないので、お前たちはその考えを論ぜよ」
大夫扶同は言った
「どうしてこれを言うのを恥じましょうか。昔、成湯は夏の朝廷に繋がれましたが、伊尹はその側を離れませんでした。文王は石室に囚われましたが、太公はその国を捨てませんでした。盛衰は天によるものですが、存亡は人にかかっています。湯は表情を変えて桀にへつらい、文王は服従して紂に寵愛されました。夏殷は武力を恃んで二聖人を虐げましたが、二人は己を屈して天道を得たのです。故に湯王は困窮してもみずから傷まず、周文王は困窮しても気にしませんでした」
越王は言った
「昔尭は舜・禹を任じて天下は治まり、洪水の害があったとしても、人の災いとならなかった。変異は民に及ばないのだから、ましてや人君に及ぶだろうか」
大夫若成は言った
「大王の言葉のとおりではありません。天には運命があり、徳には薄厚があります。黄帝は禅譲せず、尭が天子の位を伝えました。三王のころは臣がその君を弑逆し、五覇ころは子がその父を弑逆しました。徳には広狭があり、気には高低があります。今の世はなお人の市で、品物を置いて詐欺をするようなもので、謀を抱いて敵を待つのです。不幸にして厄に陥いれば、伸びることを求めるのみです。大王はこれをご覧にならずに喜怒を懐かれるのですか」
越王は言った
「人を任じるものは身を辱めず、自ら用いる者はその国を危うくする。大夫は皆先に未然の端緒を図り、敵を傾け仇を破り、坐して泰山の福を招くのである。今、私はこのように守って急迫しているあるが、それで成湯や文王が困厄のあとに必ず覇を成し遂げたというのは、どうしてこれを言うことが礼儀に違おうか。君子は寸時を奪いあって珠玉を捨てるものだが、今私は軍旅の憂いを免じられることをこいねがうも、またかえって敵の手に捕らえられ、自身は奴隷となり、妻は僕妾となり、往って帰らず、敵國に客死する。もし魂魄が知るなら、前君に恥じ入り、知らなければ、体と骨は捨てられる。どうして大夫の言が私の意に合致しないだろうか」
ここで大夫種・范蠡は言った
「昔の人はこう言ったと聞いております、『居所が奥深くなければ、志は広がっていかない。顔に憂いがなければ、思いは深淵にならない。』聖王・賢主は、皆困厄の難に遭い、赦されない恥を蒙りました。身は囚われても名は尊く、体は辱められても名声は栄えました。卑きあっても悪とせず、危うきにあっても恵まれないとしませんでした。五帝は徳が厚く窮厄の恨みはありませんでしたが、しかしなお氾濫の憂いがありました。三度たちまち囚われる恥辱を受け、三度監獄の囚人となるも逃れず、涕泣して冤罪を受け、行き哭して奴隷となり、周易を増やして卦を作り、天道はこれを助けました。時期を過ぎ、閉塞が終われば安泰になり、諸侯は並び立って救い、王命は朱鬣・玄狐といった吉兆に現れました。輔臣は結髪して監獄を破り枷を壊し、国に帰って徳を治め、ついにその仇を討ちました。悩みを海内より除き、手や背を覆すようにして、天下はこれを宗主とし、功は万世に垂れました。大王が災厄に屈すれば、臣下はまことに謀を尽くします。骨を断ちきる剣には、削る利はありません。鉄に穴を開ける矛には髪を分かつ便はなく、建策の士にはたちまち勃興する説はありません。今私が天文をきわめ、地籍を案じましたところ、二つの気が共に萌え、存亡は居るところを異にし、彼らが興れば我らは辱められ、我らが覇業を成せば彼らは滅びます。二国が争う道は、未だ行き着くところを知りません。君王の危難は、天道の巡り合わせであり、どうして必ず自ら傷むことがありましょうか。吉は凶の門であり、福は災いの根です。今、大王は危困の際にいるといえども、だれがその権勢が盛んになる兆しでないことを知りましょうか」
大夫計研は言った
「今、君王は会稽に国をおくも、呉に入るという困窮に遭い、悲しみを言い苦しみを語り、群臣はこれを嘆いています。恨み悲しむ心にのっとるといっても、心を動かさないことがありましょうか。しかし君王はどうしてでたらめの言葉や偽りの言葉をなし、用いて相欺くのですか。私はまことに取り入れません」 越王は言った 「私はまさに去って呉に入り、国を諸侯大夫に強いて頼もうとしている、どうか各々自ら述べて欲しい、私はまさにこれに委ねよう」
大夫皋如は言った
「私は、大夫種は忠にしてよく慮り、民はその知に親しみ、士は喜んで用いられると聞いております。いま国を一人に委ね、その道は必ず守られているのに、どうして心にしたがい大いに群臣を命じるのですか」 大夫曳庸は言った
「大夫文種は、国の梁と棟木、君の爪牙です。すぐれた馬はつれだって馳せることはできず、日月は並んで照らすことはできません。君王が国を種に委ねれば、千万の国家を治める術で挙がらないものはありません」
越王は言った
「国は、前王の国である。私の力は弱く勢いは劣り、社稷を守り、宗廟を奉って受けつぐことができなかった。私は、父が死ぬと子が代わり、君が行けば臣が親政すると聞いている。このたびは諸大夫を棄て、呉に客として隷臣となるので、国を委ね民を帰しお前たちに頼む。 わたしが屈辱を受ける経緯は、またお前の憂いでもある。君臣が道を同じくし、父子が気を共にするのは、天性自然のことである。どうして残る者が忠義を尽くし、行く者が信用できないといえようか。どうして諸大夫は事を論じるのに、或いは合い或いは離れ、私に不定の心を懐かせようとするのか。国をいただいて賢人を任じ、功績をはかり成績を考慮するのは、君の使命である。教えを奉り理に順い、分を失わないのは、臣の職責である。私は諸大夫を顧みるにその能力をもってし、死節を君に示すことを言うのみである。ああ、悲しいことだ」
計研は言った
「君王が述べるところは、もとより理にかなっています。昔、成湯が夏に入ったとき、国を文祀に付し、西伯が殷に行ったときは、国を二老に委ねました。今夏に至ってまさに行こうとするも、志は帰ることにあります。市に行く妻は、子に掃除をいいつけ、出て行く君主は、臣下に守ることを命令します。子が問うには事を以てし、臣下が謀るには能力を以てします。今君王は士の志向を知りたいと思い、各々その事情を述べ、その能力を挙げるのは、その適正を議ることです」
越王は言った
「大夫のいうことは正しい。私はまさに行こうとしている。どうかお前たちの風諭を聞かせてほしい」 大夫種は言った
「内は国境の兵役を修め、外は耕作と戦争の備えを修め、荒れて土地を棄てることはなく、人民は親しみ付き従う、これは私の事情です」
大夫范蠡は言った
「危難に遭った君主を助け、亡国を存続させ、屈み苦しむ危難を恥じず、辱められた土地を安んじて守り、行って必ず帰り、君主と復讐するのは、私の事情です」
大夫苦成は言った
「君の命令を発布し、君の徳を明らかにし、窮すれば災厄を共にし、進めば覇業を共にし、煩いを統べて乱をおさめ、民に分を知らしめるのは、私の事情です」
大夫曳庸は言った
「命令を奉り使者を受け入れ、和を諸侯と結び、命令を通達させ、往く者に賂い来る者に贈り、憂や患いを解きほぐし、疑うところをなくさせ、出でれば命を忘れることなく、入ればとがめられることがない。これは私の事情です」
大夫皓進は言った
「心を一つにし志を等しくし、上は共にこれを等しくし、下は命令に違わず、動けば君命に従う。徳を修め義を行い、信を守り故きを温ね、間違いに臨めば疑惑を解決し、君が誤れば臣が諫め、心をまっすぐにして乱れず、過ちを挙げて公平をおさめ、親戚におもねらず、外に私せず、身を推して君につくし、終始分を一つにする、これは私の事情です」
大夫諸稽郢は言った
「敵を望んで陣を設け、矢を飛ばし武器を挙げ、敵の腹を踏んで屍をまたぎ、血をさかんに流し、進むことを貪って退かず、二軍が敵対すれば、敵を破って兵を攻め、威は百国を凌ぐ、これは私の事情です」
大夫皋如は言った
「徳を修め恩惠を行い、人民を慰撫し、自ら憂慮と苦労に臨み、動けばすなわち自ら行う。死者を弔問し病人を生かし、民の命を救い活かし、古いものと新しいものを蓄え、食事は贅沢にせず、国は富み民は栄え、君のために才能を養う。これは私の事情です」
大夫計研は言った
「天地や暦、陰陽を考察し、変を観て禍を調べ、妖祥を分別する。日月が色を帯びれば、五精が次々に入れ替わり、福を見れば吉を知り、妖が出れば凶を知る、これは私の事情です」
越王は言った
「私が北の国に入り、呉の不遇な奴僕となるといえども、諸大夫が徳を懐き術を抱き、各々一分を守り、社稷を保つのであれば、私はどうしてこれを憂えようか」
ついに浙江のほとりで別れた。群臣は涙を流し、悲しみを感じないものはなかった。越王は天を仰いで嘆いて言った
「死は、人の恐れるところである。もし私が死のことを聞けば、その胸中でなんと恐れることがないだろうか」
ついに舟に乗ってただちに去り、ついに振り返らなかった。 越王夫人はそこで船に寄りかかって泣き、烏や鵲が河のみぎわで蝦をついばみ、飛び去ってはまたやってくるのを顧みて、そこで泣いてこれを歌って曰く、 「飛鳥を仰ぎ見るや烏や鳶が、大空を凌ぐや翩翩と、中州に集まってほしいままに戯れ、蝦をついばみ羽の根元を上げる雲の間、気ままに行ったり戻ったりする。私は罪がないのに地に背き、何の罪があって天に罪を負うのか。帆を上げてひとり西へ行き、だれが帰るのを知ろうか何れの年に。心は憂えて割けるがごとく、涙は流れ両頬にかかる」
また哀吟して言った
「かの飛鳥は鳶や烏、すでに旋回して飛び集まって休む。心が専らにするのは白い蝦、どこに食べ物があるのか江湖に。旋回してまた飛び、去ってはまた帰る、ああ。はじめ君に事えて家を去り、我が命を終えるのは君の都。ついに来たり遭遇するのは何の罪か、我が国を離れて呉に去る。妻は粗末な衣服を着て婢となり、夫はかんむりを外して奴となる。歳月は遙か遠く困難は極まり、恨みは悲痛で心はいたむ。腸は千に結ばれて心にきざまれ、ああ悲しいかな食を忘れる。願わくば我が身は鳥のごとく、身は高く飛び回って翼をもたげる。我が国を去って心は揺れ、心は憤り怨むのを誰が知ろうか」
越王は夫人の怨歌を聞いて、心の中で嘆いたが、かえって言った 「私は何を憂えるのか。私の六枚の羽莖は備わっている」
ここで呉に入り、夫差に見えて稽首再拝して臣と称し、曰く
「東海の賤臣句踐、上は天の神に恥じ、下は土地神にそむき、功力を見分けず、王の軍士を汚辱し、辺境で罪に触れました。大王はその深い罪をお許しになり、裁いて役臣にあて、箒とちりとりをとらせました。まことに厚恩を蒙り、少しの間の命を保たせていただき、仰いで感じ入り俯いて恥じるにたえません。私句踐は叩頭頓首いたします」
呉王夫差は言った
「私はそなたについてまた過っていた。そなたは先君の仇を討とうと思わないのか」
越王は言った
「私が死ぬならそのときは死にます。どうか王はこれをお赦しください」
伍胥は傍らにいて、目は火の粉のよう、声は雷のようで、そして進み出て言った
「飛ぶ鳥が青雲の上にいて、なおいぐるみの糸を結びつけた小さな矢でこれを射ようとすれば、どうしてますます近寄って華池に臥し、庭の回廊に集まりましょうか。今、越王は南山の中に放たれ、保つことのできない地に遊んでいたのに、幸いにも来たりて我が土地に渡り、我が駒寄に入りました。これはすなわち料理人が作り上げた食事です。どうしてこれを失ってよいでしょうか」
呉王は言った
「私は、降伏した者を誅殺すれば、禍は三世に及ぶと聞いている。私は越をおしんで殺さないのではない、天の咎めや誡めを恐れてこれを赦すのだ」
太宰嚭は言った
「子胥は一時の計には明るいですが、国を安んずる道に通じていません。どうか大王は句踐が箒を執ることを成し遂げ、つまらぬ者の意見にかかわることがございませんように」
夫差はついに越王を誅さず、車を御し馬を養わせ、宮室のなかに隠した。 三月、呉王は越王を宮中に召して見えた。越王は前に伏し、范蠡は後ろに立った。呉王は范蠡に言った
「私は、貞婦はやぶれ滅びる家には嫁がず、仁者賢人は絶滅の国で官にならないと聞いている。今、越王は無道で、国はすでにまさに滅びようとし、社稷は崩壊し、身は死して血筋は絶え、天下の笑いものとなった。しかし、お前は主とともに奴僕となり、呉に来て帰順するとは、どうして愚かでないことがあろうか。私はお前の罪を許したいと思う。お前は心を改め自身を新たにし、越を棄てて呉に帰順できるか」
范蠡は答えて言った
「私は、亡国の臣は、あえて政治を語らず、敗軍の将は、あえて勇を語らないと聞いております。私は越にあって不忠不信であり、今越王は大王の命令を奉らず、軍隊を用いて大王と対峙し、今罪を得ることになり、君臣ともに降りました。大王の大きな恵みを蒙り、君臣ともに命を保つことができました。どうか内に入っては掃除にあて、外に出ては使い走りにあててください、それが私の願いです」
この時越王は地に伏して涙を流し、自ら遂に范蠡を失うと思った。呉王は范蠡が臣となり得ないと知り、言った
「お前はもはやその志を変えない。私はまたお前を石室の中に置くことにする」
范蠡は言った
「私は命令のとおりにさせてください」
呉王は立って宮中に入り、越王と范蠡は石室に走り入った。越王は前掛けを身につけ、頭巾をかぶり、夫人は縁取りのない裳を着て、左前の肌着を着た。夫はまぐさを切って馬を養い、妻は水を与え、馬糞を掃除し、清掃をした。呉王が遠見の台に登って越王と夫人を望見すると、范蠡は馬糞の傍らに坐しており、君臣の礼は存在し、夫婦の儀は備わっていた。王は太宰嚭を顧みて言った
「あの越王は、一貫した操の人であり、范蠡は、かたくなな士であり、困難で苦しい地にあるといえども、君臣の礼を失わない。私はこれを哀れむ」
太宰嚭は言った
「どうか大王は聖人の心をもって、貧しく身寄りのない士を哀れんでください」
呉王は言った
「お前のためにこれを許そう」
その後三月して、吉日を選んでこれを赦そうとし、太宰嚭を召して謀って言った
「越は呉にとって、土地を同じくし地域を連ねている。句踐は愚かでわるがしこく、自ら秩序を破ろうとした。私は天の神霊、前王の遺した徳を承けつぎ、越の侵攻を討伐し、これを石室に捕らえた。私の心は見るに忍びず、これを赦そうと思う。お前はどう思うか」
太宰嚭は言った
「私は、徳は報いないことはないと聞いております。大王は越に仁を垂れ恩を加えました。越はどうして報いないことがありましょうか。どうか大王はその意を完成させてください」
越王はこれを聞き、范蠡を召してこれに告げて言った
「私は外より聴いて、心はただこれを喜ぶが、またその完成しないことを恐れる」
范蠡は言った
「大王は心を落ち着けて下さい、事はこれ意味があると、『玉門』の第一に書いてあります。今年の十二月、時は日の出の時にあります。戊は、囚日であり、寅は、陰後の辰です。庚辰を合し歲後に会します。戊寅の日は喜びを聞き、その罪を罰しない日です。時が卯にあると戊を害し、功曹は騰蛇となり戊に臨み、利を謀る事は青竜にあり、青竜は勝先にあり、酉に臨み、死気となります。そして寅に制圧、この時その日を制圧し、用いてまたこれを助けます。我々が求めることには、上下に憂いがあります。これはどうして天網が四方に張り、万物がことごとく傷つかないことでありましょうか。王はどうしてこれを喜ぶのですか」
果たして子胥が呉王を諫めて言った
「昔、桀は湯を捕らえて誅さず、紂は文王を捕らえて殺さず、天道はめぐり返って、禍は転じて福となりました。故に、夏は湯に誅せられ、殷は周に滅ぼされたのです。今、大王はすでに越君を捕らえているのに誅殺を行わないとは、私は大王がこれに惑うことが深刻だと思います。 殷・夏の災い無きことを得られましょうか 」
呉王は遂に越王を召したが、長い間会わなかった。范蠡と文種は憂えてこれを占い、言った
「呉王はわれらを擒にする」
しばらくして太宰嚭が出でて大夫種・范蠡に会い、越王がまた石室にとらわれたと言った。伍子胥はまた呉王を諫めて言った
「私は、王者は敵國を攻めこれに勝てば誅殺を加え、故に後に報復の憂いがなく、遂に子孫の患いを免れると聞いております。 今越王はすでに石室に入っています。よろしく早くこれを処理するべきです。後に必ず呉の患いとなるでしょう」
太宰嚭は言った
「昔、斉の桓公は燕が至った地を割いて燕公に賜り、そして斉君はその美名を獲得しました。宋の襄公は楚軍が河を渡ってから戦い、『春秋』はその義を多としました。功は立ち名は称えられ、軍が敗れても徳がありました。今、大王がまことに越王を赦せば、功は五覇で一番となり、名は先の古人を越えます。呉王は言った 「私の病気が癒えるのを待ち、まさに太宰のためにこれを赦そう」
後一月して、越王は石室を出て、范蠡を召して言った
「呉王は病気になり、三ヶ月癒えない。私は、人臣の道は、主が病めば臣は憂うものだと聞いている。かつ、呉王が私を待遇する恩は甚だ厚い。病の癒えることはないのか、あなたはこれを占ってみよ」
范蠡は言った
「呉王が死なないことは明らかです。己巳の日に至ればまさに癒えるでしょう、どうか大王は留意なさってください」
越王は言った
「私が窮しても死なないのは、あなたの策によるのみである。中途で猶予することが、どうして私の志であろうか。できるかできないか、ただあなたにこれを図ってほしい 」
范蠡は言った
「私がひそかに呉王を見ますと、まことに正しくない人です。しばしば成湯の義を口にしますが、これを行いません。どうか大王は病を見舞うことを求め、会うことができたら、そこでその糞便を求めてこれを嘗め、その顔色を見て、これに拜賀し、呉王が死なないことを言い、回復する日を約束するべきです。すでにその言葉が証明された後ならば、大王は何を憂えることがありましょうか」
越王は翌日太宰嚭に言った
「囚われの臣が一度病気を見舞いたい」
太宰嚭はそこで入って呉王に言い、王は召してこれに会った。たまたま呉王の排便に遭い、太宰嚭は糞便を奉って出て、扉の中で会った。越王はそこで挨拶した
「どうか大王の糞便を嘗め、吉凶を判断させてください」
そしてその糞尿を手に取りこれを嘗めた。そして入室して言った
「囚われの臣句踐が大王にご挨拶いたします、王の病は己巳の日に至って回復しはじめ、三月三月壬申に至れば病は癒えます」
呉王は言った
「どうしてそれがわかるのか」
越王は言った
「私はかつて師に仕え、糞便は穀物の味に従い、時候の気に逆らう者は死に、時候の気に従う者は生きると聞きました。今、私はひそかに大王の糞便を嘗めましたところ、その便の味は苦くかつ辛酸なものでした。この味は、春夏の気に応じます。私はこれでわかったのです」
呉王は大いに喜び、言った
「仁者である」
そこで越王を赦して石室から離れさせ、去って宮室に赴かせ、元のように家畜の世話をさせた。越王は糞便を嘗めてから後、ついに口臭を病んだ。范蠡はそこで左右の者に皆どくだみを食べさせ、その気を乱した。 その後、呉王は越王の約束した日に病が癒え、内心でその忠義を思い、政治に臨んだ後、おいに文台に酒の席を設けた。呉王は令を出して言った
「今日は越王をのために北面の座を並べた、群臣は客礼をもってこれに事えよ」
伍子胥は走り出して家に至り、席に着かなかった。酒宴が酣になり、太宰嚭は言った
「おかしなことだ。今日出席者はそれぞれ祝詞を述べるのに、不仁な者は逃走しげ、仁者は留まっている。私は、声を同じくする者はお互い調和し、心を同じくする者はお互い求め合うと聞いている。今、相国は剛勇の人ですが、その意は仁を極めた人がいることに内心恥じて、席に着かないとは、正しいことでしょうか」
呉王は言った
「そのとおりだ」
ここで范蠡は越王とともに起ち上がって呉王への寿をなした。その辞に言う
「下臣句踐とそれに従う小臣范蠡は、杯を奉って千歳の寿を奉ります、辞にいわく、皇天は上にあって命令し、四時を明らかに照らし、心を専らにし仁慈を明察する、仁者とは大王のことです。自ら大きく恵み、義を立てて仁を行う。九徳は四方に広がり、群臣を威服する。ああ幸いなるかな、徳を伝えて極まりなく、上は太陽を感動させ、たくさんの瑞祥を降します。大王の寿命は万歳に延び、長く呉国を保ちます。四海はあまねく従い、諸侯は賓服します。杯の酒を飲み干し、永く万福をお受けください」
ここで呉王は大いに喜んだ。翌日、伍子胥は宮中に入って諫めて言った
「昨日、大王は何をご覧になったのですか。私は、内に虎狼の心を抱き、外には美辞麗句を用いるのは、ただ外側の情でその身を保身するためと聞いております。山犬は清廉を語ることはできず、狼は親しむことができません。今、大王は暫時の言説を聞き、万歳の患を慮らず、忠直の言を放棄し、讒夫の言葉を用いています。血を注いで必ず討ち取ると誓った仇を滅ぼさず、懐いた怨みを絶やしていません。なお毛を爐の炭の上に放って幸いに焦げず、卵を千金の重りの下に投げて壞れないのを臨むようなもので、どうして危うくないことがありましょうか。私は、桀は高所に登って自ら危険を知ったが、自ら安んずる方法を知らなかったときいております。自分の前に白刃があることにより自ら死ぬことを知っても、自らを存続させる方法を知りません。惑った人が返ることを知れば、迷った道は遠くはありません。どうか大王はこれをお察しください」
呉王は言った
「私は病に伏すこと三月、かつて相国の一言も聞かなかった。これは相国の慈愛のなさである。また私の口が好ものを進めず、心は相手を思わなかった、これは相国の不仁である。人臣が不仁不慈であれば、どうしてその忠信を知ることができようか。越王は道に迷ったが、国境守備のことを棄て、自らその臣民を率いて私に帰順した、これは義である。自らは虜となり、妻は自ら妾となり、私を怨まず、私が病気になると、自ら私の溲便を嘗めた、これはその慈愛である。その府庫を空にし、その財宝を尽くし、昔のことを思わなかった、これはその忠信である。義、慈、忠の三者がすでにそろい、私に仕えた。私はかつて相国のいうことを聞いてこれを誅したが、これは私の不知であり、相国が私心を喜ばしていたのである。どうして皇天に負わないことがあろうか」
子胥は言った
「どうして大王の言葉が道理に反するのでしょうか。虎が姿勢を低くするのは、まさに打ちかかろうとしているのです。狸が身を低くするのは、獲物を捕らえようとしているのです。雉は目やにで目がくらんで網に捉えられ、魚は喜ぶものに釣られて餌にかかって死にます。かつ、大王がはじめて政治に臨まれましたのは、『玉門』の第九に背いており、それは事の失敗を戒めとすれば、咎めはないということです。今年三月甲戌、時は鶏鳴の時刻です。甲戌は、太歳の位置が将と会します。青竜が酉にあり、徳は上にあり、刑は金にある、この日はその徳を害します。父に従わない子がおり、君に逆節の臣があることがわかります。大王は越王が呉に帰したことを義となし、糞便を嘗めたことを慈となし、府庫を空にしたことを仁となしていますが、これはもとより人に対して愛がなく、親しむべきではありません。うわべをとりつくろってその身を保身するのです。今越王は呉に入臣しましたが、これはその謀が深いと言うことです。その府庫を空にし、怨みの様子を見せませんが、これは吾が王を欺いているのです。下では王の糞尿を飲み、上では王の心を食っているのです。下では王の糞便を嘗め、上では王の肝を食っているのです。重大なことです、越王は呉を終わらせ、呉はまさに擒となろうとしているのです。ただ大王は留意してこれを察して下さい、私はあえて死を逃れて前王に背こうとは思いません。ひとたび社稷が廃墟となり、宗廟は荊だらけになれば、後から後悔して間に合うでしょうか」
呉王は言った
「相国はこのことを捨ておき、また言うことのないように。私はまた聞くに忍びない」
ここでついに越王を許して国に帰らせ、蛇門の外に送り、群臣は餞行した。呉王は言った
「私は君を赦して国に帰らせるのであり、必ず始めから終わりまで覚えておくように。王は勉励せよ」
越王は稽首して言った
「いま大王は私のよるべない困窮を哀れみ、生きて国に帰らせてくださり、文種・范蠡らとどうか車の下で死なせていただきたい。上天は蒼蒼として、私は敢えて背きません」
呉王は言った
「ああ、私は君子は一度言えば再び言わないと聞いている。今お前はすでに行く、王は勉励せよ」
越王は跪き地に伏して再拝し、呉王はそこで越王を引いて車に上らせ、范蠡が御者となり、ついに去った。三津のほとりに至り、天を仰いで嘆いて言った
「ああ、私は災厄に悩み、誰がまた行きてこの津を渡ると思っただろうか」
范蠡に言った
「この三月甲辰、時は日昳にあり、私は上天の命を受け、故郷に帰還するが、後の患いを無くすことができるだろうか」
范蠡は言った
「大王はお疑いにならず、まっすぐ前を見て道を進んで下さい。 越にはまさに福がもたらされ、呉にはまさに憂いがあります」
浙江のほとりにいたり、大越の山川が重なり秀麗で、天地が再び清明であるのを望見した。 王と夫人は嘆いて言った
「私はすでに絶望し、万民に永遠の別れを告げた、どうしてまた帰って、故郷の国を復興すると思っただろうか」
言い終わると顔を覆い、まぶたに涕泣した。このとき万民はみな感歎し、群臣は畢賀した。

呉越春秋

越王句踐は呉に奴隷となり、越に帰ってきたのは、句踐七年であった。人民はこれを道に拝して言った
「君王にはどうして苦難がないだろうか。今、王は天の福を受け、越国を復興し、霸王の足跡は、ここより始まります」
王は言った
「私は天の教えを慎まず、民に徳を施すことなかったが、今人民をいたわり岐路に擁している。まさにどんな徳を教化して国人に報いようか」
范蠡を顧みて言った
「今、十二月己巳の日、時は禺中にあり、私はこの時に国に至ろうと思うが、どうだろうか」
范蠡は言った
「大王はしばらく留まってください、私が日を占います」
ここで范蠡は進み出て言った
「奇妙なことです、大王が選ばれた日は。王はまさに急ぎ走り、車を馳せ人は走るべきです」
越王は馬に鞭打って輿を急がせ、ついに宮殿の門に復帰した。呉は地百里を越に封じ、東は炭瀆に至り、西は周宗まで、南は山にいたり、北は海に迫った。
句踐は范蠡に言った
「私は何年も屈辱を受け、その様子は死に足るものであったが、相国の策を得て、再び南郷に帰った。今、国を定めて城を建てようと思うが、人民は足りず、その功績は起こすことができない。これをどうしたらいいだろうか」
「尭舜は地を占い、夏殷は国を封じ、古公は周雒に城を造営し、威は万里を定め、徳は八極にいたり、どうして直に強敵を破り隣國を収めようとしたでしょうか」
越王は言った
「私は前君の制を受け継ぎ徳を修め自ら守ることができず、逃亡した衆は会稽山に立てこもり、命を請い恩を乞い、恥辱を受け、呉の宮殿に囚われた。幸いに帰国することができ、追って百里の地を封じられたが、まさに前君の意に従い、会稽のほとりに復帰し、よろしく呉の地を棄てようと思う」
范蠡は言った
「昔、公劉は邰を去り、徳を夏にあらわし、亶父は地を譲り、名を岐に発しました。今大王は国を建て都を建て、敵国の国境を併せようとしておられますが、平坦な都におらず、四方に達する地に拠らないなら、どうして覇王の行を達成しましょうか」
越王は言った
「私の計画はまだ決定していない。城郭を築き、里閭を分設したいので、相国に委ねよう」
ここで范蠡は天文を観て、紫宮を模して、小城を築き、周囲は千百二十二歩、一方が円形で三方が方形であった。西北に龍飛翼の楼を建て、天文をかたどり、東南の地下に石の排水溝をつくり、地戸をかたどった。陵門は四方に達し、八風をかたどった。外郭に築城したが西北の部分は欠けており、呉に服事することを示し、あえて塞がなかった。内心では呉を奪取しようとして、ゆえに西北を欠いたのであるが、呉は知らなかった。北を向いて臣を称し、命を呉国に委ね、左右は居場所を変えて定位置につかず、臣属することを明らかにした。城ができあがって怪しい山が自ら生じたが、それは琅琊東武海中山であった。一晩で自ら飛来し、ゆえに怪山と名づけた。范蠡は言った
「私が建てた城は、天文に応じており、崑崙の形象がここにあります」
越王は言った
「私は、崑崙の山では、乃地の柱は、上は皇天を受け、気は天下に吐き、下は国土に居り、承けるものは甚だ大きいと聞いている。聖人を育て神を生み、帝の都を養う。故に五帝はその日当たりの良い陸地におり、三王はその正中の地にいる。私の国土は、天地の土壌から偏在し、東南の角に隔てられ、斗宿は極北から遠い。つまらぬ地の城ではないが、どうやって王者と比肩して隆盛できるであろうか」
君はただ外をご覧になるだけで、未だ内をご覧になりません。私はそこで天門にのっとり城を制定し、国土に気を合し、山嶽の形は已に設けられ、崑崙の法則は表出されています。これは越の覇業を示しています」
越王は言った
「もしも相国の言葉のようであれば、私の使命である」
范蠡は言った
「天地には結局号があり、その実をあらわします」
東武と名づけて游台をその上に建てた。東南に司馬門をつくり、三層の楼を建てその山の頂に冠して霊台とした。離宮を淮陽に、中宿台を高平に、駕台を成丘に、苑を楽野に、燕台を石室に、斉台を襟山に建てた。句踐が出かけると、石台で休息し、幕張で食事をとった。句踐はそこで相国范蠡、大夫種、大夫郢を召して問うて言った
「私は今日、明堂に上がり、国政に臨み、恩惠を施し政令を敷き、人民を慰撫したいと思うが、どの日がよいだろうか。三人の聖臣に国家を治め維持してほしい」
「本日は丙午の日です。丙は、陽将です。この日は吉で、また選択するによい時であり、愚臣は良いと思います。始日を過ぎ終日にはいたっておらず、天下の中を得ます」
大夫種は言った
「前の車が已に覆れば、後ろの車は必ず用心します。どうか王は深く察してください」
范蠡は言った
「あなたは本来一つ二つを見ているのではない。吾が王はいま丙午の日を以てまた政治に臨みはじめ、越の礎を解き救う、これが一つ目の適宜です。金が始めを制しても、火がその終わりを救う、これが二つ目の適宜です。金の憂いを積み備えても、転じて水に及ぶ、これが三つ目の適宜です。君臣には差があり、その理を失わない、これが四つ目の適宜です。王相がともに起ち、天下が立つ、これが五つ目の適宜です。わたしは急ぎ明堂に上られ政治に臨まれることを願います」
越王はこの日に政を始め、慎み深くうやうやしくした。出ては敢えておごらず、入っては敢えておごらなかった。越王は呉に復讐することを思うことが一日のことではなく、日夜身を苦しめ心を苦しめた。目を伏せれば、これを蓼で攻め、足が寒ければ、これを水につけた。冬は常に氷を抱き、夏はかえって火を握った。心を愁いて志をくだき、胆を戸にかけ、出入りするたびこれを嘗め、口に絶やさなかった。夜中に涙を流し、泣いてはまたうそぶいた。越王は言った
「呉王は服が体を離れゆったりとしているのを好むので、私は葛を採って、女工に細布を織らせてこれに献じ、呉王の歓心を求めようと思うが、お前たちはどう思うか」
群臣は言った
「よろしいでしょう」
そこで国中の男女に山に入って葛を採らせ、黄糸の布を作らせた。これを献じようとし、いまだ使者が遣わされないうちに、呉王は、越王が心を尽くして自らはげみ、食事は味を重ねず、衣服はあやぎぬを重ねず、五つの台に遊ぶことができても、未だ嘗て一日も登ってあそばないことを聞いた。
「私はそこでこれに書面を賜ろうと思う、これに封土を増し、西は檇李に至り、南は姑末に至り、北は平原に至り、縦横八百余里である」 
越王はそこで大夫種に葛布十万、甘蜜を木桶に九杯、模様のついた箱七つ、狐皮を船に五雙、矢竹十艘を求めさせ、封土への礼に報いた。呉王はこれを得て言った
「越は僻地の国のため珍しいものがないが、いまその貢ぎ物のを挙げて礼を返した、これは越が慎み深く功を念じ、呉の功績を忘れていないということだ。越は元々千里四方に国を興した、私はこれを封じたといっても、いまだその国すべてに至っていない」
子胥はこれを聞いて、退いて家で寝込み、侍者に言った
「わが君は石室の囚人を失い、南林の中に放ち、いまただ虎豹がいる野に因り、郊外の荒れた草地を与えた、私の心に損傷がないだろうか」
呉王は葛布の献上品を得て、すぐにまた越の封地を増し、羽毛の旗飾り、からくりの武器、諸侯の服を与えた。越国は大いに喜んだ。
葛を採る女が、越王が心を苦しめているのを傷み、「苦之詩」を作って言った
「葛のがくは蔓に連なり盛んに茂るが、わが君の心は苦しみこれをあらためるように命じた。胆を嘗めても苦くなく飴のように甘く、いま我々に葛を採って糸を作らせる。女工は機を織って敢えて遅れない。うすぎぬよりも柔らかく軽やかであり、絺素と号してまさにこれを献じようとする。越王は喜び罪が免除されたことを忘れ、呉王は喜んで書面を送る。封地を増やし、羽毛の旗飾り、からくりの武器、しとね、諸侯の儀仗を賜った。群臣は拜賀して舞い、天顔はゆるむのに、吾が王はどうして憂いて変わらないのか」
ここで越王は内にはその徳を修め、外にはその道を布教し、君は教えず、臣は謀らず、民は使役せず、官は仕えなかった。国中が乱れて政令は行われなかった。越王は内に府庫を充実させ、田地を耕し、民は富み国は強くなり、民衆は安んじ政道は安泰となった。越王はついに八人の大臣と四友を師匠とし、機会のあるごとにこれに政治を問うた。大夫種は言った
「民を愛しむのみです」
越王は言った
「どのようにか」
種は言った
「これに利を与えて害することなく、これを成功させて失敗させることなく、これを生かして殺すことなく、これに与えて奪うことがないように」
越王は言った
「聞かせてほしい」
種は言った
「民の好むところを奪わなければ利となります。民が機会を失わなければ成功できます。刑罰を省略すればこれを生かすことになります。その税を少なくすればこれに与えることになります。頻繁に台に遊ばないようにすればこれを楽しませることになり、静かにして乱すことがなければこれを喜ばせることになります。民の好むところを無くせばこれを害することになり、農業が時期を逸せばこれを失敗させることになり、罪を犯した者を赦さなければこれを殺すことになり、税を重くすればこれから奪うことになり、多く台を作って遊び民を疲れさせればこれを苦しめることになり、民力を苦しめ乱せばこれを怒らせることになります。私は、よく国を治める者は、民に対して父母がその子を愛するように、兄がその弟を愛するようだと聞いております。飢えて寒さに凍えているのを聞けばこのために哀れみ、苦労しているのを見ればこのために悲しみます」
越王はそこで刑罰を軽くし、税を軽くし、ここにおいて人民は栄えて豊かになり、みな鎧を身につける勇があった。九月正月、越王は五大夫を召してこれに告げて言った
「昔、越国は宗廟を捨て去り、身は困窮した虜となり、恥は天下に聞こえ、諸侯に流布した。今、私が呉を思うことは、なおいざりの者が走ることを忘れず、盲人が見ることを忘れないようなものだ。私はいまだ策謀をしらないので、ただ大夫はこれを教えよ」
扶同は言った
「昔、国は滅び民は流浪し、天下に聞き知らない者はありませんでした。いま図ろうと思うなら、その言葉を先に吐露すべきではありません。私は、猛獣がまさに撃とうとするときは、必ず毛を寝かせて身を伏せ、猛禽がまさに獲物を捕らえようとするときは、必ず低く飛んで翼を収め、聖人がまさに動こうとするときは、必ず言葉をやわらかくし衆と和します。聖人の謀は、そのかたちを見ることができず、その事情を知ることができません。事に臨んで伐つにあたり、ゆえに前に脅かす軍隊はなく、後ろにかくれて襲われる患いがありません。今、大王が敵に臨んで呉を伐とうとするなら、言葉を少なくし、洩らさせないようにするべきです。私は、呉王の軍隊は斉・晋より強いが、楚に怨みを買っていると聞いています。大王は斉に親しみ、深く晋と結び、ひそかに楚と関係を固めて、厚く呉に仕えるべきです。呉王の志は猛々しく、驕って自ら誇り、必ず諸侯を軽んじて隣國を凌ぐでしょう。三国が覇権を決しようとすれば、たちまち敵国となり、必ず勢力を競ってお互い抗争します。越はその疲弊に乗じ、それによってこれを伐てば、勝つことができます。五帝の軍隊といえどもこれに過ぐるものではありません」
范蠡は言った
「私は、『国を謀って敵を破るには、行動にそのしるしを見る』と聞いております。孟津の会では、諸侯が可と言ったのに、武王はこれを辞退しました。まさにいま、呉と楚は仇となり、仲違いして和解しません。斉は呉に親んではおりませんが、外からその救援をしようとしています。晋は呉に親しんでおりませんが、なおその義を尽くしています。内に臣が謀ってその策を用い、隣国が通じてその援助を絶たない、これはまさに呉が覇業を興し、諸侯が尊んでいるということです。私は、険しい山は崩れ、茂る葉は衰え、日が正午にくれば移動し、月が満ちれば欠け、四時は並んで盛んにはならず、五行はともに走らず、陰陽は代わる代わる盛んになり、気には盛衰があると聞いております。故に堤から溢れた水は、その水量より深くなることはなく、燃えて乾ききった火は、また炎を燃やすことはありません。水が静かになれば泡が広く立つほどの勢いもなく、火が消えれば毛を焼ほどの熱もありません。
今、呉は諸侯の威に乗じて天下に号令していますが、徳が薄くて恩が浅く、道理が狭くて怨みは広く、権力が空しくて智は衰え、力は尽きて威は折れ、武器は挫かれ軍隊は退き、士は散じて衆は散り散りになるのを知りません。どうか私に軍隊をとどめて 兵を整え、その破れ廃れるのを待ち、続いてこれを襲わせて下されば、武器は刃血に染まることなく、士は踵をめぐらすことなく、呉の君臣は虜となるでしょう。どうか大王は声を隠してその動を見せることなく、その静を見せてください」
大夫苦成は言った
「水は草木を浮かべることもでき、またこれを沈めることもできます。江や海は渓谷を下ることもでき、またこれに向かっていくこともできます。聖人は衆に従うこともでき、これを使うこともできます。今、呉は闔廬の軍制、子胥の教えを継承し、政局は平穏で未だ欠点がなく、戦えば勝ちいまだ負けていません。大夫嚭は、心が狂ってへつらう人であり、はかりごとが達者で、朝事を軽んじています。子胥は戦闘に力を尽くし、諫めることに死をかけました。二人が拮抗すれば、必ず敗れるでしょう。どうか王は心を平静にして自ら隠し、その謀計を示さないようにしてください、そうすれば呉を滅ぼすことができます」
大夫浩は言った
「今、呉の君は驕慢で臣は奢り、民は満足して軍隊は強いですが、外に国境を侵す敵があり、内に諫臣の怒りがあれば、攻めることができます」
大夫句如は言った
「天には四時があり、人には五勝があります。昔、湯王・武王は四時の利に乗じて夏・殷を制し、桓公・穆公は五勝の便に因って六国の列に並びました。これらはその時に乗じて勝った者です」
王は言った
「いまだ四時の利、五勝の便はない、どうか各々職務を果たして欲しい」

呉越春秋

越王句踐十年二月、越王は深く念じ遠く思いやった。呉に侵略されたが、天の幸いを蒙り、越国を回復することができた。群臣は教え諭し、それぞれが一策を謀り、言葉は合致し意は同じで、句踐は敬い従い、その国はそれにより富んだ。国へ帰って五年、未だ命を投げ出す仲間がいると聞かなかった。諸大夫がその身を惜しみ、その体を惜しんでいる者がいた。そこで漸台に登って、その群臣に憂いがあるかどうかを見た。相国范蠡、大夫種、句如らは、厳然と列座し、憂いを抱いていたが、顔には出さなかった。越王はそこで鍾を鳴らして檄を戒め、群臣を召してこれと誓って言った
「私は恥を受け、上は周王に恥じ、下は晋・楚に恥じた。幸いにも諸大夫の策を蒙り、国に帰って政治を修め、民を富ませ士を養うことができた。しかし五年たって未だ命を投げ出す士や仇を取ろうとする臣がいると聞かない、どうやって成功できようか」
群臣は黙然として答える者はなかった。越王は天を仰いで嘆いて言った
「私は、主が憂えれば臣は恥じ、主が恥を受ければ臣は死ぬと聞いている。今、私は自ら奴隷となる災難に遭い、囚え破られる恥を受け、自ら助けることができないので、賢者を用い仁者を任じ、その後呉を伐ち、重く諸臣に負うものであるのに、大夫はどうして得るにたやすく使うに難いのか」
このとき計研は年は若く官は卑く、後ろに列座していたが、手を上げて走り出て、席を越えて前進して言った
「まちがっております、君王の言葉は。大夫が得るにたやすく使うに難いのではなく、君王が使うことができないのです」
越王は言った
「どういうことか」
計研は言った
「官位・財幣・賞金は、君が軽んじるところです。鉾を手に取り刃物を履み、命を断ちきり死に投じるのは、士が重んじるところです。今、王は財の軽んじるところを惜しんで士の重んじるところを責めておられる、なんと危ういことでしょうか」
ここで越王は黙然として喜ばず、顔には恥の色が浮かび、ぞこで群臣に辞去し、計研を進ませてこれに問うて言った
「わたしが士の心を得られるものはなんだろうか」
計研は答えて言った
「君がその仁義ある者を尊ぶのは、治世の入り口です。士民は、君の根本です。入り口が開き根本が固まるには、身を正しくするにこしたことはありません。身を正しくする道は、左右の者に慎み深くすることです。左右の者は、君が盛衰する手段です。どうか大王は左右の者を明らかに選び、賢人を得ていただきたいのみです。昔、太公は九種の音楽に精通した磻溪の飢えた人でしたが、西伯はこれを任じて王としました。管仲は、魯の亡囚、商売の取り分を貪ったという欠点があるが、斉桓公はこれを得て覇者となりました。故に伝に『士を喪う者は亡び、士を得るものは栄える』というのです。どうか王は左右の者を慎重に選んでくだされば、どうして群臣の使えないことを患いましょうか」
越王は言った
「私は賢人を使い能力のある者を任じ、各々その仕事を異にしている。私は虚心で高い望みを持ち、報復の計画を聞くのをこいねがっているのにいま、皆は声を隠して姿を隠し、その言葉を聞かないが、どこに間違いがあるのだろうか」
計研は言った
「賢実の士を選ぶには、それぞれやり方があり、難事を与えて誠を試します。4ひそかに隠し事を告げ、その信を知ります。これと事を論じ、その智をみます。これに酒を飲ませ、その乱れ方を見ます。これに事を示し、その能力を察します。これに色を示し、その状態を知ります。五色を設ければ、士はその実を尽くし、人はその智を尽くします。その智を知り、実を尽くせば、君臣になんの憂いがありましょうか」
越王は言った
「私は士を謀って実を尽くさせ、人はその智をつくしがたが、士には私に有益な言葉を進めてはいない者がある」
計研は言った
「范蠡は内を明察し、文種は遠く外を見ます。どうか大王は大夫種を召してともに深く議ってください、そうすれば霸王の術がみられるでしょう」
越王はそこで大夫種を召してこれに問うて言った
「私は昔、あなたの言葉を受け、自ら困窮、災厄の立場を免れた。いま、すぐれた計略を受けて、私の宿敵に恥を雪ぎたいと思うのだが、どうすれば成功するだろうか」
大夫種は言った
「私は、高く飛ぶ鳥は美食すると死に、深い泉の魚はおいしい餌を食べると死ぬと聞いております。いま呉を撃ちたいのなら、必ず先にその好むところを求め、その願うところを調べ、その後にその実を得ることができます」
越王は言った
「人の好むところはその願いであるが、どうやって確定して死地に制するのか」
夫種は言った
「仇に怨みを報復、呉を破り敵を滅ぼしたいのなら、九術がありますので、君王はこれをお察しください」
越王は言った「私は恥じを被り憂いを抱き、内は朝臣に恥じ、外は諸侯に恥じ、心中は困惑し、精神は空虚である。九術があるといってもどうやってこれを知ることができようか」
大夫種は言った
「九術とは、湯王文王はこれを得て王となり、桓公穆公はこれを得て覇者となりました。城を攻め邑を奪取するのは、靴を脱ぐより容易いことです。どうか王はこれを鑑みて下さい」
種は言った
「一つ目は天を尊び鬼神に仕えその福を求めることです。二つ目は金銭物品を手厚くしてその君に贈り、金銭物品を多くしてその臣を喜ばすことです。三つ目は、穀物や藁を高く買い入れてその国を虚ろにし、欲するところを利用してその民を疲れさせることです。四つ目は、美女を贈ってその心を惑わしその謀を乱すことです。五つ目は、これに巧みな工人と良材を贈り、これに宮室を建てさせその財を尽くさせることです。六つ目はこれに諂う臣下を遣わし、これを伐ちやすくさせることです。七つ目はその諫臣を糾弾してこれを自殺させることです。八つ目は君王の国が富んで鋭い武器を備えることです。九つ目は、鎧武器を鋭くしてその疲弊に乗じることです。およそこの九術は、君王は口を閉じて伝えず、神を敬うようにこれを堅守すれば、天下を取るのも難しくありません、ましてや呉はどうでしょうか」
越王は言った
「よろしい」
そこで第一の術を行い、東郊に祠を建てて陽を祭り名づけて東皇公といい、西郊に祠を建てて陰を祭りづけて西王母といった。禹陵を会稽に祭り、水神を江の中州に祀った。鬼神に事えること一年、国は災厄を被らなかった。越王は言った
「よいことだ、大夫の術は。どうかそのほかのことも論じてほしい」
種は言った
「呉王は宮室を建てるのを好み、工人を用いてやめません。王は名山の神材を選んで、これを献上して下さい」
越王はそこで木工人に山に入らせ木を切らせたが、一年、工人たちは愛しまれなかった。士は帰ることを思いはじめ、みな怨みの心を抱き、木客の吟を歌った。一夜にして天は神木一そろいを生じ、大きさは二十囲、長さは五十尋であった。陽を文梓とし、陰を楩柟とし、巧みな工人が計測し、ぶんまわしと墨縄で断ち、彫刻して回転させ、削ってすり磨き、丹砂と雘青で分かち、模様を磨いて描き、白璧をつらね、黄金をちりばめ、その姿は龍蛇のようで、模様は光を生じた。そこで大夫種にこれを呉王に献じさせ、言った
「東海の使われる臣下、私句踐は、臣下の種に、あえて下吏を通じて左右にお聞かせします。大王の力を頼み、ひそかに小さな宮殿を作りましたが、余材がでましたので、謹んで再拝してこれを献上いたします」
呉王は大いに喜んだ。子胥は諫めて言った
「王は受け取ってはなりません。昔、桀は霊台を建て、紂は鹿台を建て、陰陽は調和せず、寒暑は時期に合わず、五穀は実らず、天は災いを与え、民は虚ろになり国は変じ、ついに滅亡することになりました。大王がこれを受け取れば、必ず越王に殺されることになります」
呉王は聴かず、ついに受け取って姑蘇の台を建てた。三年、材を集め、五年してやっと完成し、遠く二百里を見渡した。
道行く人は、道に死し巷で泣き、怨み嘆く声が絶えず、民は疲れ士は苦しみ、人は安心して生活できなかった。越王は言った
「素晴らしいことだ、第二の術は」
十一年、越王が深く念じ久しく思うのは、ただ越を伐ちたいということであった。そこで計研を招いて問うて言った
「私は呉を撃ちたいと思うが、破ることができないことを恐れている。早急に軍を興したいと思うので、ただあなたに教えを請いたい」
計研は答えて言った
「軍を興し兵を挙げるには、必ず内に五穀を蓄え、金銀を充実させ、国庫を満たし、兵士を激励します。およそこの四者は、必ず天地の気を察し、陰陽をたずね、方位日時を明らかにし、存亡を審らかにしてはじめて敵を量ることができます」
越王は言った
天地・存亡とは、その要点はどういうことか」
計研は言った
「天地の気とは、物には死生があるということです。陰陽をたずねるとは、物には貴賤があるということです。方位日時を明らかにするとは、時機を知るということです。存亡を審らかにするとは、真偽を区別するということです。越王は言った
「死生・真偽とはどういういことか」
計研は言った
「春には八穀を播き、夏には成長して培養し、秋には成熟して収穫し、冬には貯蔵します。天の時が春の穀物が生じるときに種を播かなければ、これは1つめの死です。夏の成長する時に苗がなければ、二つめの死です。秋の成熟するときに収穫しなければ、三つめの死です。冬の貯蔵するときに蓄えなければ、4つめの死です。尭・舜の徳があっても、これをどうすることもできません。天の時の穀物が生ずるときに、老人が勤労し、若者が耕作すれば、気数に対応して、その理を失わないのが、一つめの生です。留意省察し、つつしんで苗の雜草を取り除き、雜草が除かれれば苗は盛んになるのは、二つめの生です。時に先んじて備えをし、穀物が成熟してから収穫すれば、国は未収の税がなく、民は糧食を失うことがないのは、三つめの生です。倉がすでに塗り固められ、古いものを除き新しいものを入れ、新しい物を入れ、君は楽しみ臣が喜び、男女がともに信じるのは、四つめの生です。陰陽は、太陰がいるところの歳に三年留まり休めば、貴賤が現れます。方位日時とは、天門地戸のことを言います。存亡は、君主の道徳です」
越王は言った
「どうしてあなたは年が若いのに、物事に長じているのか」
計研は言った
「美点を持つ士に、若いか年長かは関係ありません」
越王は言った
「あなたの道はすばらしい」
天文を仰ぎ見て、緯宿を集積して観察し、四時の暦を作った。地上のことを天上と対応させ、八つの倉を空のまま造り、陰に従って蓄積し、陽を望んで穀物を売り、最高の計画を謀り、三年で五倍になり、越国は盛んに富んだ。句踐は感歎して言った。
「私は覇業をなした。素晴らしいことだ、計研の謀は」
十二年、越王は大夫種に言った
「私は、呉王は淫蕩で色を好み、迷い乱れて酒色におぼれ、政治を治めないと聞いている。このことによって謀ることはできるだろうか」
種は言った
「破ることができます。呉王は淫蕩で色を好み、太宰伯嚭はへつらって気を惹こうとしているので、行って美女を献上すれば、必ずこれを受け取ります。どうか王は、美女二人を選んでこれにすすめてください」
越王は言った
「よろしい」
そこで人を見る者を国中に使わして、苧蘿山で薪を売っていた、西施・鄭旦という女を得た。薄物の綾織りで着飾らせ、立ち居振る舞いを教え、都の近くの土城で習わせた。三年学んでから呉に献じた。そこで相国范蠡に進めさせて言った
「越王ひそかに天から二人の女を賜りましたが、越国は地位が低く困窮しておりますので、あえて留めず、謹んで臣蠡にこれを献上させます。大王は田舎びた風采の上がらない者を用いたりしないでしょうが、どうか納れてともに掃除をさせてください」
呉王は大いに喜んで言った
「越は二人の女を献上してきた、つまり句踐が呉に忠誠を尽くしている証拠だ」
子胥は諫めて言った
「なりません、王は受け取らないでください。私は、五色は人の目を盲にし、五音は人の耳を聾にすると聞いております。昔、桀は湯を侮って亡び、紂は文王を侮って亡びました。大王がこれを受け取れば、後に必ず災いとなります。私は、越王は朝には書を読んで倦かず、一晩中暗誦し、かつ決死の士数万人を集めていると聞いております。この人は死ななければ、必ずその願いを叶えるでしょう。越王は誠に従い仁を行い、諫言を聴いて賢者を任用しております。この人は死ななければ、必ずそのを上げるでしょう。越王は、夏に皮衣を着て、冬に葛布を用いております。この人は死ななければ、必ず仇を取るでしょう。私は、賢士は国の宝、美女は国の災いと聞いております。夏は妹喜のために亡び、殷は妲己のために亡び、周は褒姒のために亡びました」
呉王は聴かず、ついにその女を受け取った。
越王は言った
「よろしい、第三の策である」
十三年、越王は大夫種に言った
「私はあなたの術を受けて、画策したことは吉で、いまだ符合しないことはない。いま私はまた呉に対し謀ろうと思うが、どうだろうか」
種は言った
「君王は自ら越国は辺鄙な小国で、今年は穀物が実らなかったと言ってください。どうか王は穀物を買い入れることを請い、呉王の意を判断してください。天がもし呉を見棄てるなら、必ず王の要求を許可するでしょう」
越王はそこで大夫種を呉に使いさせ、太宰嚭を通して呉王に見えることを求めた。辞して言った
「越国は土地が窪んで低く、大水と日照りが調和せず、今年は穀物が実らず、人民は飢えて貧しく、道ばたでしきりに飢えております。どうか大王から穀物を買わせていだだき、来年になりましたら倉庫に戻すようにさせて下さい、どうか大王は窮地をお救い下さい」
呉王は言った
「越王は誠を信じ道を守り、二心を抱かず、今窮して赴き訴えている。私はどうして財宝を惜しんで、その願いを奪うことがあろうか」
子胥は言った
「なりません。呉が越を占有するのでなければ、越が必ず呉を占有することになります。吉が往けば凶が来ます。これは賊を養って国家を破壊することです。これに穀物を与えても仲間とすることはできませんが、与えなければ未だ災いとはとならないでしょう。かつ、越には聖臣范蠡がおり、勇猛で謀に長け、まさに修め謹んで攻め戦おうとし、我々の隙をうかがっています。越王の使いが穀物の買い入れを請いに来させた者を見ますと、国は貧しく民は困窮していないのに穀物の買い入れを請うており、我が国に入って吾が王の隙を伺おうとしています」
呉王は言った
「私は越王を卑しめ服従させその人民を所有し、その社稷を包囲し句踐を辱めた。句踐は心から屈服し御者となり馬前で後ろ向きに歩いたことは、諸侯で聞き知らない者はいない。今、私はこれを帰国させ、その宗廟を奉り、その社稷を復興した。どうして私に反する心があろうか」
子胥は言った
「私は、士は窮すると心を抑え人に下るのは難しくなく、その後人に怒る様子を見せると聞いております。私は、越王の飢餓、民の困窮があって、破ることができると聞いております。今、天の道を用いず、地の利に順って、かえってこれに食糧を輸送するのは、もとより君の命令が、狐と雉の相互の戯れのようなものです。狐が体を低くすると雉はこれを信じ、ゆえに狐はその意志をとげることができ、雉は必ず死にます。慎まなくてよいことでしょうか」
呉王は言った
「句踐の国は憂えており、わたしはこれに穀物を与える、恩が行き義が来たり、その徳は明らかで、また何の憂いがあろうか」
子胥は言った
「私は、『狼の子には手なづけがたい心があり、仇の人は親しむことはできないない』と聞いております。虎は食べ物で飼い慣らすことはできず、まむしは思い通りにはなりません。今、大王は国家の幸福を捨て、無益な仇敵を豊かにし、忠臣の言葉を棄て、敵の欲にしたがっておられます。私は必ずや越が呉を破り、猪や鹿が姑胥の台に遊び、宮殿の門に荊と榛がはびこるのを見るでしょう。どうか王は武王が紂を伐ったことをかんがみてください」
太宰嚭は傍らより答えて言った
「武王は紂王の臣ではなかったですか。諸侯を率いてその君を伐ったのは、殷に勝ったといっても、義と言えましょうか」
子胥は言った
「武王はすぐに名声を成した」
太宰嚭は言った
「自ら主を殺して名声を成すのは、私は許せません」
子胥は言った
「国を盜む者は侯に封じられ、金を盜む者は誅せられる。もし武王にその理を失わせれば、周はどうして三家の表を為したであろうか」
太宰嚭は言った
「子胥は人臣でありながら、いたずらに君の好むところに背き、君の心に違い、自ら驕り高ぶっています、君はどうして過ちを知らないだろうか」
子胥は言った
「太宰嚭はもとより越王との親交を求め、先に石室の囚人のことをそそのかし、その宝物や美女の贈りものを受け取りました。外には敵國と交わり、内には君を惑わしています。大王はこれを察し、群小に侮られることのないようにしてください。今、大王はたとえるなら赤子を湯浴みさせるようなものです。泣いたとしても、太宰嚭の言葉を聞かないで下さい」
呉王は言った
「太宰嚭が正しい。お前は私の言葉を聞かず、忠臣の道ではなく、媚びへつらう人のようではないか」
太宰嚭は言った
私は、「隣國に危急のことがあれば、千里を馳せて救う」と聞いております。これはつまり王は亡国の子孫を封じ、五覇は滅亡した末裔を助けるということです」
呉王はそこで越に穀物一万石を与え、これに命じて言った
「私は群臣の建議に逆らって越に輸送した、実りが豊作になれば私に返せ」
大夫種は言った
「私は使命を遂行して越に帰り、豊作になればきっと呉に借りたものをお返しします」
大夫種は越に帰り、越国の群臣はみな万歳を唱えた。そこで穀物を群臣に賞賜し、万民に及ぼした。
二年、越王の穀物は実り、すぐれた穀物をわかち選んで蒸して呉に返し、借りた斗升の数を返し、また大夫種にこれを呉王に返させた。王は越の穀物を得ると長く息をついて太宰嚭に言った
「越の地は肥沃で、その種子は甚だすぐれている。留めて我が民にこれを植えさせるべきだ」
そこで呉は越の穀物をまいたが、穀物の種子は殺されており生えてくるものはなく、呉の民は大いに飢えた。越王は言った
「彼らは困窮している、攻めてもよいだろうか」たいたい
大夫種は言った
「まだなりません、国は貧しくなりはじめただけで、忠臣はまだ存在し、天の気もいまだ現れません。時期を待つべきです」
越王はまた相国范蠡に問うて言った
「私には報復の謀があり、水戦であれば舟に乗り、陸の行軍であれば車に乗るが、車と船の利があると、兵器と弓に苦しむものだ。いまあなたは私のために謀をしているが、誤ちでないことはなかろうか」
范蠡は答えて言った
「わたしは、古の聖君は、作戦して兵を用いることに通暁しないものはなく、そして隊伍を組み鼓を打ち鳴らすことが吉とでるか凶とでるかは、その巧みさにより決まりました。いま越には南林出身の処女がいて、国人はすばらしいと称えていると聞いております。どうか王はこれを召し、ただちにお会いになって下さい」
越王はそこで使者にこれを招かせ、剣や戟の術を問うた。処女が北に向かい王に会おうとすると、道中で一人自ら袁公と称する一人の老人と出会った。老人は処女に問うた
「私はあなたが剣術に長けていると聞いている、どうかひとたびこれを見せてほしい」
娘は言った
「私はあえて隠すことはありません、ご老人はこれを試してください」
そこで袁はすぐさま箖箊竹を抜いたが、竹の枝の枯れたところが、未だ折れて地に落ちないうちに、娘はただちに末端を受けた。袁公はただちに飛び上がって木に上り、白猿に変じた。ついに別れて去った。越王に見えると、越王は問うて言った
「剣の道はどのようなものか」
娘は言った
「私は深林の中で生まれ、無人の野で成長し、剣の道で習得していないものはありませんが、諸侯には知られておりません。ひそかに撃剣の道を好み、これを読んで休むことはありませんでした。私の剣術は人から授かったものではなく、忽然と自ら得たものです」
「その道はどのようなものか」
娘は言った
「その道は甚だ微小で易しいものですが、その意は甚だ奧深いものです。道には門戸があり、また陰陽があります。門を開け戸を閉め、陰気は衰え陽気は興ります。およそ手で武器を操って戦う道は、内に精神を充実させ、外におだやかな振る舞いを示し、見た目は美しい婦人のようですが、撃ち取るのは恐ろしい虎のようです。形を連ね気を待ち、神とともに行きます。暗くても日が出ているようで、兎のように飛び跳ねます。形を追い影を追うのは、光がはっきりと見えにくいようです。呼吸は行き来し、法規禁令に及びません。縦横逆順に、まっすぐ行って戻るのに音は聞こえません。この道は、一人が百人に当たり、百人が万人に当たるものです。王がこれを試したいと思えば、そのしるしはすぐ現れるでしょう」
越王は大いに喜び、そこで娘に号を加え、号して「越女」と言った。そこで部隊長や達人に命じてこれに習わせ、軍士に教えた。この時皆越女の剣を称えた。
ここで范蠡はまた射術が得意な陳音という者を進めた。音は、楚人であった。越王は音を招いて問うて言った
「私は、お前が射術が得意だと聞いているが、その道はのように学んできたのか」
音は言った
「私は、楚の田舎者で、かつて射術をおしはかりましたが、未だその道を知り尽くすことができません」
越王は言った
「だがどうかひとつふたつ述べてほしい」
音は言った
「私は、弩は弓より生じ、弓は彈より生じ、彈は古の老子に始まったと聞いております」
越王は言った
「老子の彈とはどういうことか」
音は言った
「昔は、人民は質朴で、腹が減れば鳥獣を食べ、喉が渇けば霧露を飲み、死ねば白茅で包み、野に投じられました。老子は、父母が禽獣に食べられるのに忍びず、ゆえに彈を作ってこれを守り、鳥獣の害を絶やしました。黄帝の後、楚には弧父がいました。弧父は、楚の荊山に生まれ、生まれて父母がなく、子供の時、弓矢を習い、射て外すことはありませんでした。その道を羿に伝え、羿は逄蒙に伝え、逄蒙は楚の琴氏に伝えましたが、琴氏は弓矢は天下を威服するのに足りないと思いました。この時、諸侯は互いに撃ち合い、兵刃は交錯し、弓矢の威力では征服することはできませんでした。琴氏はそこで弓を横にし肘に付け、引き金を設けて、これに力を加え、そののち諸侯を征服することができました。琴氏はこれを楚の三侯につたえ、いわゆる亶、鄂、章であり、人は麋侯、翼侯、魏侯と号しました。楚の三侯から霊王に至るまで、自ら楚に代々伝わるものだと称し、思うに桃弓棘矢で隣國に備えたのです。霊王より後は、射道は流派が分かれ、百家の名手がその正統に到達することはできませんでした。私の先祖はこれを楚で受け継ぎ、私に至るまで五代です。私はその道に明るくはありませんが、どうか王は試問してください」
越王は言った
「弩の形状は何に法っているのか」
陳音は言った
「郭は方城であり、臣民を守ります。教は人君であり、命が発せられるところです。牙は執法であり、吏卒を守ります。牛は中将であり、宮殿をつかさどります。関は守禦であり、出入りを取り締まります。錡は侍従であり、君主の命を聞きます。臂は道路であり、使者を通行させます。弓は将軍であり、重大な責任をつかさどります。弦は軍師であり、戦士を守ります。矢は飛客であり、教えをつかさどります。金は敵を防ぐものであり、行って留まりません。衛は副使であり、路を治めます。又は命を受けるものであり、可否を知ります。縹は都尉であり、侍従を指揮します。敵は生命がきわめて危ういことであり、騒ぐことはできません。鳥は飛ぶに及ばず、獣は逃げる暇がなく、弩の向かうところは、死なないものがありません。私は愚劣な者ですが、道はこのように知りつくしています」
越王は言った
「どうか正射の道を聞かせてほしい」
音は言った
「私は、正射の道は、道は多いがかすかで小さいと聞いております。昔の聖人が射ると、弩がいまだ発せられなくても先にその当たるところを言いました。私はいまだ古の聖人には及びませんが、どうかその要点を言い尽くさせてください。射の道は、身体は載せた板のように、頭部は激しく奮い立たせるように、左足は縦にし、右足は横にし、左手は枝を掴むように、右手は子供を抱くように、弩を上げて敵を望み、集中して息を止めます。気とともに発し、和らぎおだやかになることを得て、精神は定まり意思は離れ、離れるのと留まるのが分離します。右手で機器を発しますが、左手は関知しません。一つの身体でことなる命令を受けるのですから、ましてや雌雄はどうでしょうか。これが正しく射る弩を持つ道です」
「どうか敵の外見を見て、志を合わせて矢を飛ばす道を聞かせてほしい」
音は言った
「矢を射る道は、志にしたがって敵を望み、合して三連射するものです。弩の張力には斗石の差があり、矢には軽重があり、一石の弩は一両の矢を取り、その数量は平衡し、矢の飛ぶ遠近高下は、重さに求められます。道の要点はここにあります、言い残したことはありません」
越王は言った
「よろしい。あなたの道は言い尽くされた、どうかあなたは残らず我が国人に教えてほしい」
音は言った
「道は天より出で、事は人にあり、人の習うところは、霊妙でないものはありません」
そこで陳音に北郊の外で士に弓を教えさせ、三ヶ月して、軍士はみな弓弩をうまく使えるようになった。陳音が死ぬと、越王は心を痛め、国の西に葬り、その墓所を号して陳音山と言った。

呉越春秋

句踐十五年、越王は呉を伐つことを謀り、大夫種に言った
「私はあなたの策を用い、天天誅を免れ、国に帰ってきた。私は実にすでに国人に呉を伐つことを説いたところ、国人は喜んだ。そしてあなたは昔、上天の気があればすぐに来てこれを述べると言った。いま天のしるしがあるのではないか」
種は言った
「呉が強い理由は、伍子胥がいたからです。いま伍子胥は真心をこめて諫言して死にました。これは天の気が先に現れたのであり、亡国の証です。どうか君は心を尽くし意を尽くし、国人に説いてください」
越王は言った
「私が国人に説く言葉を聞け、私は自分の力不足を知らずに、大国に復讐し、人民の骨を中原に曝した。これはすなわち私の罪である。私はまことにそのやり方を改めた。そこで死者を葬り怪我人を見舞い、憂いがあれば弔問し、喜びがあれば祝賀し、往く者を送り来る者を迎え、民の害となるものを除き、しかるのちへりくだって夫差に仕え、官吏士人三百人を呉に行かせた。呉は私を数百里の地に封じ、そこで父兄昆弟に約してこれに誓って言った『私は、古の賢君は、四方の民が水のように帰順していたと聞いている。私は政をなすことができないが、まさに二三子や夫婦を率いて人口を増やし輔佐としたい。若者が老いた妻を娶ることをなくさせ、老いたものが若い妻を娶ることをなくさせる。女子が十七歳で嫁がなければ、その父母は有罪である。男が二十歳で娶らなければ、その父母は有罪である。分娩しようとするものは私に告げれば、医者にこれを保護させる。男子二人を産めば、これに壺酒と一頭の犬を与え、女子を二人産めば、壺酒と一頭の豚を与える。子を三人産めば、私は乳母を与え、子を二人産めば、私は一食を与える。長子が死ねば、三年我々の賦税を免除し、末子が死ねば、三月我々の賦税を免除し、必ず私の子のように哭泣してこれを埋葬する。鰥、寡婦、病人、貧窮はその子を仕官させた。仕えようとすれば、その住居を計測し、その衣服を美しくし、その食事を十分にしてこれをえり抜き鍛錬する。およそ四方の士で来たる者は、必ず朝見してこれを礼遇する。飯と羹を載せて国中を周遊し、国中の若者が遊んで私に会えば、私はこれに食べさせ飲ませ愛をもって施し、その名を問う。私の作った飯でなければ食べず、夫人の作った服でなければ着ない。七年国から徴収せず、民家は三年分の蓄えを持った。男は歌い楽しみ、女は集まり笑った。今、国の父兄は日々私に請うて言った『昔、夫差は我が君王を諸侯に辱め、長く天下に恥をかかされました。今、越国は富み豊かになり、君王は倹約しておられます。どうか恥に報いさせてください』私はこれに言った『昔、我々が恥をかいたのは、お前たちの罪ではない。私のようなものが、どうして我が国の人を労り、我々の宿敵を絶やせるだろうか』父兄はまた請うて言った『誠に四封の内は、ことごとく吾が君の子であり、子は父の仇に報い、臣下は君主の仇に報復するものです。どうして力を尽くさない者がおりましょうか。私はまた戦い、君王の宿敵を除きたいと願います』私は喜んでこれを許した。
大夫種は言った
「私が見たところ、呉王は斉・晋に対し願いをかなえ、まさに我々の領土を通過し、軍隊を率いて国境に臨もうとしていると思われます。今、軍隊は疲れて兵卒を休め、一年のあいだ試行せず、我々を忘れたかのようですが、我々は怠ってはなりません。私はまさにこれを天に占いますと、呉の民は戦に疲れ、戦闘に苦しみ、市には赤米の蓄積はなく、国倉は空虚で、その民には必ずや移動する気持ちがあり、寒くなれば東海の浜でがまや蛤を採るでしょう。天の占いは現れており、人事もまた卜筮に現れています。今、もし軍隊を起こしてこれと会戦する利益があり、呉の辺境のまちを侵犯するとしても、いまだ往くべきではありません。呉王に我々を撃つ気持ちがないといっても、またこれを煽動してして怒らせるのも難しいです。その間に依って、その意を知るにこしたことはありません」
越王は言った
「私は、征伐の気持ちを持とうとは思わなかったが、国人で戦いを請うことが三年、私は人民の要望に従わざるを得ない。いま大夫種が諫め非難するのを聞こう」
越の父兄もまた諫めて言った
「呉を伐つべきです。勝てばその国を滅ぼし、勝たなくてもその軍隊を苦しめることになります。呉国が兵を求めてきたら、王はこれと盟約を結んで下さい。功名は諸侯に聞こえるでしょう」
越王は言った
「よろしい」
そこで大いに群臣を集めてこれに命令して言った
「あえて呉を伐つことを諫める者があれば、罪は許されない」
范蠡と大夫種は互いに言った
「我々の諫言はすでに状況と合致しないが、それでもなお君王の命令をきこう」
越王は軍を集めて兵士を並ばせ、大いに人々に戒めこれに誓って言った
「私は、古の賢君は、その兵士の足りないことを憂えず、その志と行いが恥知らずなことを憂えたと聞いている。今、夫差には水犀の鎧を着るものが十三万人おり、その志と行いが恥知らずなのを憂えず、その兵の足りないことを憂えている。いま、私はまさに天の威光を助けようとしている。私は匹夫の小勇を欲せず、士卒が進めば恩賞のことを思い、退けば刑を免れることを欲する」
ここで、越の民は父はその子を励まし、兄はその弟に勧めて言った
「呉を伐つべきである」
越王はまた范蠡を召して言った
「呉王はすでに伍子胥を殺し、へつらうものが多い。我が国の民はまた、私に呉を伐つことを勧める。伐ってもよいだろうか」
范蠡は言った
「まだなりません。明くる年の春を待ち、そのあとなら伐つことができます」
王は行った
「どうしてか」
「私は、呉王が北上して諸侯と黄池で会盟したのを見ますと、精兵が王に從い、国中が空虚になり、老人弱者が後に残って、太子が留守を守っています。軍が国境を出てまだ遠くに行かないうちは、越がその空虚を不意に襲ったと聞いても、軍が戻ってくるのは難しいことではありません。次の春に伐つにこしたことはありません」
その夏六月丙子に、句踐がまた問うと、范蠡は言った
「伐つことができます」
そこで水戦に習熟した者二千人、俊英の兵士四万、親近者六千、各種政務官千人を発動した。乙酉に呉と戦い、丙戌についに太子を捕らえて殺し、丁亥に呉に入城し、姑胥台を妬いた。呉は危急を夫差に告げ、夫差はまさに黄池で諸侯と会盟していたが、天下にこれが知れ渡る野恐れ、秘密にして漏れないようにした。すでに黄池で会盟したので、そこで人を使わして越に和平を請うた。句踐は今の自分ではまだ滅ぼすことができないと考え、そこで呉と和平した。二十一年七月、越王はまた国中の士卒をことごとく動員して呉を伐ち、たまたま楚は申包胥に越を訪問させた。越王はそこで包胥に問うて言った
「呉を伐つことはできるだろうか」
申包胥は言った
「私は策謀に疎く、占うことは出来ません。越王は言った
「呉は道に外れ、我々の社稷を破壞し、我々の宗廟を滅ぼして平原とし、先祖の祀りができないようにした。私はこれと天のまことを求め 車馬・武器と鎧・兵士はすでに具わっているが、これを行っていない。どのようにしたら戦うことができるか聞かせてほしい」
申包胥は言った
「私のような愚か者にはわかりません」
越王が強く問うと、そこで包胥は言った
「呉は良国であり、すぐれていることは諸侯に伝わっています。あえて君王がこれとどうやって戦うのかを問わせていただきたい。
越王は言った
「私のそばにいる者で、酒や肉を分け与えない者はなく、私が飲食するときはその味を贅沢にせず、音楽を聴くにもその声を尽くさず、呉に報復しようとしている。これで戦いたいと願っている」
包胥は言った
「善いには善いが、いまだ戦うことはできません」
王は言った
「越国の中で、富む者を私は安んじ、貧しい者に私は与え、その不足を救済し、剰余を減らし、貧しい者も富む者もその利を失わないようにして、呉に報復しようとしている。これで戦いたいと願っている」
包胥は言った
「善いには善いが、いまだ戦うことはできません」
王は言った
「国の南は楚に至り、西は晋に迫り、北は斉を望み、春秋に幣玉帛子女を奉って貢獻すること、未だ嘗てあえて絶やしたことはなく、呉に報復しようとしている。これで戦いたいと願っている」
包胥は言った
「よろしいでしょう、これに加えることはありません。しかし、なおいまだ戦うことはできません。戦の道は、知を第一とし、仁がこれに次、勇をもってこれを断ちます。君将が知らなければ臨機応変に多寡を区別することができません。仁でなければ、三軍と飢えや寒さのときを同じくし、苦楽の喜びを等しくすることができません。勇でなければ去就の疑いを断って可否の議を決することができません」
ここで越王は言った
「つつしんで教えに従おう」
冬十月、越王は八大夫を召して言った
「昔、呉は不道をなし、我々の宗廟をそこない、我々の社稷を破壞して平原となし、先祖の祀りをさせないようにした。私は天の正しさを求めようとし、軍備はすでに備わったが、これを行うことはなかった。私は申包胥に問うたところ、既に私に教えた。あえて諸大夫に告げるが、どのようにすればいいだろうか」
大夫曳庸は言った
「褒賞を審らかにすれば戦うことができます。その褒賞を審らかにし、その忠信を明らかにして、功が有れば必ず恩賞を加えるようにすれば、士卒は怠りません」
王は言った
「聖明である」
大夫苦成は言った
「罰を審らかにすれば戦うことができます。罰を審らかにすれば、士卒はこれを見て恐れ、あえて命に違わないでしょう」
越王は言った
「勇猛である」
大夫文種は言った
「旗の彩りを審らかにすれば戦うことができます。旗の彩りを審らかにすれば是非の区別がつき、是非がはっきりすれば、人は惑うことがなくなります」
王は言った
「わきまえている」
大夫范蠡は言った
「守備を審らかにすれば戦うことができます。守備を審らかにしつつしんで守り予期せぬ事態を待ち受け、守備が備わり守りが固ければ、必ず困難に対応することができます。」
王は言った
「用心深い」
大夫皋如は言った
「音声を審らかにすれば戦うことができます。音声が審らかであれば清濁の区別がつきます。清濁とは、吾が国君の名が周室に聞こえ、外では諸侯に怨まれないということです」
王は言った
「適っている」
大夫扶同は言った
「恩恵を広め本分を知れば戦うことができます。恩恵を広めて広く施し、本文を知れば道から外れません」
王は言った
「すぐれている」
大夫計研は言った
「天をうかがい地を観察し、こもごもその変化に応じれば戦うことができます。天が変化し地が応じ、人道が勝手よい、三者の前兆が現れれば戦うことができます」
王は言った
「明らかである」
大夫計研は言った
「天をうかがい地を観察し、こもごもその変化に応じれば戦うことができます。天が変化し地が応じ、人道が勝手よい、三者の前兆が現れれば戦うことができます」
王は言った
「明らかである」
ここで句踐は退いて斎戒して国人に命じて言った
「わたしにはまさに思いがけないりごとがある。近くから遠くに及ぶまで、聞かないものはないように」
そこでまた官吏と国人に命じて言った
「命を受けて褒賞のあるものはみな国門の外に至れ。命に従わない者があれば、私はまさに見せしめの刑に処するだろう。」
句踐は民が信じないのを恐れ、不義を征伐すると周室に聞かせ、諸侯が外に怨みを懐かないようにした。国中に命令して言った
「五日の内に門に至れば良い民であるが、五日を過ぎれば吾が民ではなく、またこれに誅殺を加えよう」
命令がすでに行われると、そこで宮殿に入り夫人に命じた。王は塀を背にして立ち、夫人は塀に向かって立った。
「今日から後は、内政が出ることはなく、外政が入ることはなく、各々がその職務を守り、その信義を尽くせ。内に恥を受ければお前の責任であり、境外千里に恥を受ければ私の責任である。私はお前にここで会い、明らかに戒めとする」
王は宮殿を出て、夫人は王を送って塀を越えなかった。王はそこでその門の扉を反対側から閉め、これを土で埋めた。夫人は簪を取り、一つの座席だけ設けて座り、心を安んじて飾らず、三月のあいだ掃除をしなかった。王は出てまた垣を背にして立ち、大夫は垣に向かって敬い、王はそこで大夫に命令して言った
「士を養うのに公平でなく、土壌が開墾されず、国内で私に恥をかかせるのは、お前たちの罪である。敵に臨んで戦わず、軍士が死を恐れ、諸侯に対し恥をかき、功績が天下に損なわれるのは、私の責任である。今より先は、内政は出ることなく、外政は入る事がない。私は固くお前を戒める」
大夫は言った
「つつしんで命令を受けます」
王がそこで出て、大夫は垣から送り出すと、外宮の門を反対側から閉め、これを土で埋めた。大夫は一つの座席だけ設けて座り、贅沢な食事を進めず、勧められても答えなかった。句踐は夫人・大夫に命じて言った
「国を守るように」
そして露天の壇上に座り、鼓を並べてこれを鳴らした。軍が行列を成すと、すぐに罪のある者三人を斬って軍にとなえ、命令して言った
「私の命令に従わない者は、このようになる」
王はそこで国中の戦争に行かない者を召し、これと決別して告げて言った
「お前たちは国土を安んじ職分を守れ、我々はまさに我が宗廟の仇を征伐しにいくところであり、お前たちに感謝する」
国人に各々その子弟を郊外まで送らせ、軍士はそれぞれ父兄昆弟と決別した。国人は悲しみ、みな離別して去る詞を作って言った
「急いで動き長期にわたる恥を退け、戟を引き抜き殳をあやつり、災難に遭遇しても降服せず、我が王の気を発すれば蘇る。三軍がひとたび飛び降りれば、向かうところはみな死ぬ。一人の士が決死の覚悟で、百人を相手にする。天道は徳のある者を助け、呉の兵は自滅する。我が王の長年の恥を雪ぎ、威は八都に振るう。軍伍は代えがたく、勢いは猛獣のようだ。行って各々努めよ、ああ、ああ」ここで、見て悲しまない者はなかった。明くる日、また軍を国境に移動させ、罪のある者三人を斬って軍にとなえて言った
「命令に従わない者は、このようになる」
三日後、また軍を檇李に移して、罪のある者三人を斬って軍にとなえて言った
「心や行動が正しくなく、敵に当たらない者は、このようになる」
句踐は官吏にに命じ、大いに軍にとなえて言った
「父母がいて兄弟がいない者は、来て私に告げよ。私には大事があり、子は父母の養育、年長者の愛を愛を離れ、国家の危急に赴くのである。子が出征中に、父母兄弟に疾病があれば、私は自分の父母兄弟が病気になったときように面倒を見る。死亡する者があれば、私は自分の父母兄弟が死んで埋葬するときのように、これを葬送する。明くる日、また軍にとなえて言った
「兵士で疾病があり、従軍して戦に出ることができない者があれば、私は医者と薬を与え、粥を与え、これと食事を同じにする」
明くる日、また軍にとなえて言った
「筋力が足らず鎧や兵器の重量に耐えられない者、志と行いが足らず王命を聴けない者は、私はその負担を軽くし、その任務をゆるめよう」
明くる日、軍を江南に還し、さらに厳しい法を述べ、また罪のある者五人を誅殺してとなえて言った
「私は士を愛しており、我が子といえどもそれを超えることはない。罪を犯し誅殺されるときは、我が子といえどもまた逃れることはできない」
句踐は兵士が法を恐れて役に立たなくなることを恐れ、自ら士の死力を得ることができないと思い、道で蛙が腹を膨らませて怒り、まさに戦いの鋭気を有しているの見ると、そこで両手をしきみかけてこれに敬礼した。士卒で王に問う者があり、言った
「君はどうして蛙を敬ってこれに敬礼するのですか」
句踐は言った
「私は士卒が久しく怒っているが、いまだ私の意に適う者がないことを思ったのだ」
いま、蛙は無知の動物ではあるが、敵を見て怒気を持っている、故に両手をしきみかけてこれに敬礼したのだ」
軍士はこれを聞き、心に喜んで死ぬことを懐かない者はなく、人々はその命をかけた。官吏や将軍は大いに軍中にとなえて言った
「隊は各自その部に命令し、部は各自その士に命令する。行けと言って行かず、止まれ言って止まらず、進めといって進まず、退けてと言って退かず、左向けと言って左を向かず、右向けと言って右を向かず、命令に従わない者は斬る」 
此処で呉は兵をすべて江北に駐屯し、越軍は江南に駐屯した。越王はその軍隊を中分して左右の軍に分け、みな兕の革で作った鎧を 身につけ、また安広の人に石碣の矢をたせ、盧生の弩を張らせた。自ら君子の軍六千人を率い、中陣とした。明くる日、まさに江で戦おうとし、そこで日暮れになって左軍に枚を銜えさせ江を遡らせて五里上流に行かせ、呉の兵を待たせた。また右軍に枚を加えて江を十里越えさせ、また呉の兵を待たせた。夜半に、左軍に江を渡らせ、鼓を鳴らし、江の中ほどで呉軍が出兵するのを待たせた。呉軍はこれを聞き、内部で大いにおどろき、互いに言い合った
「今、越軍は二軍に分かれ、まさに我々をさしはさんで攻めようとしている」
またすぐに夜暗くなると、その軍を半分に分け、越を囲んだ。越王は密かに左右の軍に呉と戦いを望ませ、大いに鼓を鳴らし互いに聞かせた。その私兵六千人を潜伏させ、枚を銜えさせ鼓を鳴らさずに呉を攻めた。呉軍は大いに敗れた。越の左右の軍はそこでついにこれを伐ち、大いにこれを囿で破り、またこれを郊で破り、またこれを津で破り、このように三度戦い三度敗北し、急ぎ呉に至り、呉を西城で囲んだ。呉王は大いに恐れ、夜に逃げた。越王は追いかけて呉を攻め、軍は江陽・松陵に入り、胥門に入ろうとし、来たり至ること六、七里、呉の南城を見ると、伍子胥の頭が車輪のような大きさで、目はひらめく稲妻のようで、髭と髪は四方に広がり、十里を射ぬいているのが見えた。越軍は大いに恐れ、軍を通り道に留めた。その日の夜半、暴風雨となり、雷電が激しく、石が飛び砂が舞い上がり、弓矢よりも早かった。越軍は敗れ、松陵を退き、兵士は倒れ死に、人々は散り散りになり、救いとどめることができなかった。范蠡・文種はそこで地面に頭をつけて肩脱ぎし、子胥に謹んで礼をしめし、通らせてもらうように願った。子胥はそこで文種・范蠡の夢に出てきて言った
「私は越が必ず呉に侵入することを知っていた。ゆえに私の頭を南門に置くことを求め、お前たちが呉を破るのを見ようとしたのだ。ただ夫差を苦しめたいだけである。お前たちは我が国に侵入するのが決まって、私の心はまた忍びず、故に風雨をなしてお前たちの軍を帰らせた。しかし越が呉を伐つのは、おのずから天意であり、私がどうして止めることができようか。越がもし侵入したいのなら、あらためて東門から入れば、私はお前たちのために道を開いて、城を貫いてお前たちに道を開けよう」
ここで越軍は明くる日あらためて江より出て海陽に入り、三道の翟水で、そこで東南の隅を穿って達し、越軍はついに呉を囲んだ。守ること一年、呉軍は重ねて敗れた。ついに呉王は姑胥の山に立てこもった。呉王は王孫駱に肩脱ぎし膝で進めさせ、越王に和平を請うて、言った
「私、臣夫差は、あえて真心を述べさせていただく、かつて罪を會稽に得ましたが、夫差は敢えて命令に逆らわず、君王と和平を結んで帰ることができました。今、君王は挙兵して私を誅し、私は命令に服従いたします。思うに今日の姑胥は、過日の會稽のようです。もし天の恵みがあり、大罪を許していだだけるなら、呉はどうか永らく奴隷となりましょう」
句踐はその言葉に忍びず、これに和平を許そうとした。范蠡は言った
「會稽でのことは、天が越を呉に賜ったのに、呉が受け取らなかったのです。今、天が呉を越に賜るというのに、越が天命に逆らうべきでしょうか。かつ、君王は早く朝廷に出て遅く朝廷を退き、歯を食いしばり骨に刻み、これを謀ること二十余年、どうしてこの一日のためではないことがあるでしょうか。今日、呉を得られるのにこれを棄てるのようなことをするべきでしょうか。天が与えても受け取らず、かえってその咎を受けるでしょう。君は會稽の災厄をお忘れになったのですか」
句踐は言った
「私はお前の言葉を聴きたいが、使者に答えるのに忍びないのだ」
范蠡はついに鼓を鳴らして軍を進めて言った
「王はすでに執事に政を託された、使者は急いで去れ、随時罪を得るぞ」
呉の使者は涙を流して泣いて去った。句踐はこれを憐れみ、使者を呉王につかわして言った
「私はあなたを甬東に配置し、あなた方夫婦に三百余の家を与え、王の一生を終えさせようと思うが、どうか」 
呉王は辞退して言った
「天は災いを呉国に降し、前代でも後代でもなく、まさに私のときに、宗廟社稷を失いました。呉の土地、臣民は、すでに越のものです。私は年老いて、王の臣下となることはできません」
遂に剣に伏して自殺した。句踐は呉を滅ぼし、そこで兵を率いて長江、淮水を渡り、斉、晋らの諸侯と徐州で会盟し、周に朝貢した。周の元王は人を句踐に使わし、天子の封号を受けたあと去り、江南に帰り、淮水流域の地を呉に与え、呉の侵略した宋の地を返し、魯に泗水の東方百里を与えた。このとき、越軍は長江淮河の流域を遍く巡り、諸侯はことごとく祝賀し、号して覇王と称した。
越王は呉に帰ろうとし、帰るにあたって范蠡に問うて言った
「どうしてあなたの言葉が天意に合致したのか」
范蠡は素女の道であり、一言がすなわち合致します。大王のことは、「玉門」が実質をなし、「金櫃」の要点は、上下相対するところにあります」
越王は言った
「よろしい。私が王を称さなかったらこまかに知り尽くすことができたか」
范蠡は言った
「できません。昔、呉は王を称し、天子の号を僭号しました。天変があり、日蝕がおこりました。今、君が僭号して帰国しなければ、おそらく天変がまた現れるでしょう」
越王は聴かず、呉に帰り、酒の席を文台にもうけ、群臣と宴会をし、楽師に命じて呉を伐つ曲を作らせた。
楽師は言った
「私は即時には琴の曲を作り、成功すると音楽を作ると聞いております。君王は徳を尊び、道義のある国を教化し、義のない人を誅殺し、復讐して恥を返し、諸侯を威服し、霸王の功績を受けました。功績は図画に描くことができ、徳は金石に刻むことができ、評判は琴と笛に託すことができ、名声は竹簡や帛に留めることができます。
どうか私に琴を弾いてこれを鼓うたせて下さい」
ついに「章暢」の辞を作って言った
「悩ましいことだ、今、呉を伐ちたいがいまだできないだろうか」
大夫種、范蠡は言った
「呉は忠臣伍子胥を殺しました。いま呉人を伐たずにどうして待つことがありましょうか」
大夫種は祝いの酒を進め、その辞に言った
「天の助けがあり、吾が王は福を授かった。良臣が集い謀るのは、吾が王の徳である。宗廟は政を輔け、鬼神は輔佐する。君主は臣下を忘れず、臣下はその力を尽くす。上天は青々として、覆い塞ぐことがができない、酒を二升を進め、万福は限りがない」
ここで越王は黙然として何も言わなかった。
大夫種は言った
「吾が王は賢明で仁徳があり、道理を懐き徳を抱く。仇敵を滅ぼし呉を破り、国へ帰るのを忘れなかった。賞を与えて惜しむところはなく、群れをなす邪悪は塞がれた。君臣は心を同じくして調和し、幸いは千億である。酒を二升を進め、長寿を祝う言葉は限りがない」
台上の群臣は大いに喜び笑ったが、越王の顔には喜びの表情はなかった。
范蠡は句踐が国土を愛し、群臣の死を惜しまず、策謀が成功し国が定まれば、必ず群臣の功績を待たずに国へ帰ることを知っていたので、故に顔面に憂いの表情を浮かべ喜ばなかった。范蠡は呉より去ろうとしたが、句踐が未だ帰らないので、人臣の義を失うのを恐れ、そこで従って越に入った。行くときに、文種に言った
「あなたは立ち去るべきだ。越王は必ずやあなたを誅殺するでしょう」
文種はその言葉に納得しなかった。范蠡はまた書簡をしたため文種にやって言った
「私は、天には四季があり、春には植物が生え冬には伐採される、人には盛衰があり、幸運が終われば必ず不運になると聞いております。進退存亡を知ってその正しさを失わないのは、これは賢人といえましょう。私范蠡は不才といえども、進退を明確に知っています。高く飛ぶ鳥がすでに打ち落とされれば、よい弓はまさにしまわれようとし、すばしこい兎がすで狩り尽くされれば、よい猟犬はすぐに煮られます。もしあなたが去らなければ、あなたを害そうとすることは明らかです」
文種はその言葉を信じなかった。越王はひそかに謀り、范蠡が去ろうとはかったのは僥倖であった。二十四年九月丁未、范蠡は王に挨拶して言った
「私は、主が憂えれば臣は疲れ、主が辱めを受ければ臣は死に、その道義は同一だと聞いております。今、私は大王に仕え、事前にはいまだ生じていない端緒を消滅させることができず、事後にはすでに発生した災いから救済することができませんでした。そうはいっても、私はどうしても君を成功させ国に覇権を取らせようとし、ゆえに生死も避けませんでした。私はひそかにこう思い呉に使いしました。王の受けた恥のため、私は死ぬことなく、誠に太宰嚭を讒言し、伍子胥の言うことを成し遂げるのを恐れました。故に敢えて先に死なず、しばらくの間生きていました。恥辱の心は長くなってはならず、汗を流すような恥は、忍ぶことができません。幸いに宗廟の神霊、大王の威徳のおかげで、失敗を成功とすることができ、これは湯王・武王がが夏・商に勝ち、王業を成したようなものです。功績を定め恥を雪ぐために、私は久しく地位に就いておりました。私はこれより辞去させて下さい」
そこで小舟に乗り、三江を出て五湖に入り、行き先を知るものはなかった。
范蠡がすでに去ると、越王は顔色を変え、大夫種を召して言った
「范蠡は追うことができるだろうか」
種は言った
「追いつかないでしょう」
王は言った
「どうしてか」
種は言った
「范蠡が去るとき、陰爻は六画、陽爻は三画で、日の前の神を制することができる者はありませんでした。玄武・天空は威く行進し、誰が敢えて止めるでしょうか。天関を渡り、天梁を渡り、のちに天一に入ります。前面に神光を覆い、これを語る者は死に、これを見る者は狂います。どうか王はまた追わないで下さい、范蠡は結局帰らないでしょう」
越王はそこで范蠡の妻子を引き取り、百里の地に封じ、敢えてこれを侵す者があれば、上天の禍が下るとした。ここで越王は腕のいい工人に范蠡をかたどった金の象を鋳造させ、これをそばに置き、朝夕政治を論じた。これより後、計研は狂人を装い、大夫曳庸・扶同・皋如たちは、日ごとに疎遠となり、朝廷に親しまなくなった。大夫種はひそかに憂いて参朝せず、ある人はこれを王に讒言して言った
「文種は宰相の位を捨て、君王に諸侯に覇を称えさせました。今、官職は上昇せず、爵位は封を増加されません。そこで怨みの心を懐き、内では憤りを発し、外では顔色を変え、ゆえに朝参しないのです」
別の日、種は諫めて言った
「私が早くに朝参して遅く帰り、苦心して耕作したのは、ただ呉のためです。今、すでにこれを滅ぼしたのに、王はどうして憂えるのですか」
越王は黙然とした。当時魯の哀公は三桓に悩み、諸侯の力によってこれを伐とうとしていた。三桓もまた哀公の怒りに悩み、そのため君臣が争った。哀公は陘に奔り、三桓は哀公を攻め、公は衛に奔り、また越に奔った。魯国は空虚となり、国人はこれを悲しみ、越に来て哀公を迎え、これとともに帰った。句踐は文種がの思いがけない行動を憂い、故に哀公のために三桓を伐たなかった。二十五年、丙午の夜明けに、越王は相国大夫種を召してこれに問うた
「私は、他人を知るのはたやすいが、自己を知るのは難しいと聞いている。相国は自分がどのような人か知っているか」
種は言った
「悲しいことだ。大王は私の勇を知っていても、私の仁を知らない。私の忠誠を知っているが、私の信義を知らない。私はまことにしばしば音楽や女色を遠ざけ、淫楽や奇怪な説、怪しい論をなくし、言葉を尽くして忠義を尽くしてきたが、それは大王に逆らい、心に逆らい耳に違うものだったので、必ず罪を獲るだろう。私はあえて死を惜しんで言わないのではなく、言って後に死のう。昔、呉において伍子胥が夫差に誅殺されるとき、私に言った
『すばしこい兎が死ぬと、良い猟犬は煮られ、敵国が滅ぶと、謀臣は亡ぶ』
范蠡もまたこのことを言っていた。どうして大王は『玉門』の第八に違犯することを問うのか。私には王の志がわかった」
越王は黙然として答えなかった。大夫もまた帰った。食べ物を口に含んで、人糞のようなものを成した。その妻は言った
「あなたはいやしくも一国の相であるのに、王の俸禄は少ないではありませんか。食に臨んて供用せず、人糞のようなものを口に含んでいるとはどういうことですか。+妻子がそばにいるということぐらいは、匹夫でも自らできることなのですから、相国であればなおどんなことを望みましょうか。かえって貪欲になるのではありませんか。どうしてその志がこのようにぼんやりとしているのですか。種は言った
「悲しいことだ。お前は知らないのだ。吾が王はすでに難儀を免れ、呉に恥を雪いだ。私はことごとく住居を移してみずから自ら死亡の地である越に投じ、九術の謀を尽くし、彼の地において邪となるも、君主の前にあっては忠義を為したが、王は察せず、そこで言った
『他人を知るのはたやすいが、自己を知るのは難しい』私はこれに答え、また他に語ることはなかったが、これは不吉の証である。私がもしまた宮中に入れば、おそらく二度と帰らず、お前と永らく決別し、互いに玄冥の下で探し訪ねることになろう」妻は言った
「どうしてそれがわかるのですか」
種は言った
「私が王に会った時に、ちょうど『玉門』の第八を犯しており、時辰が日を制圧し、上が下に損害を受け、これは混乱醜悪をなし、必ず良臣を害するということである。今、日は時辰を制圧し、上は下に損害を与えて下の命運は尽き、私の命はあとわずかである」
越王はまた相国を召して、言った
「あなたは陰謀兵法を有しており、敵国を傾け国を取った。九術の策のうち、いま三つを用いてすでに呉を破り、のこり六つはなおあなたの胸中にある。どうかその残りの術を使って、わたしの前王のために地下で呉の祖先を謀るようにしてほしい」
ここで種は天を仰いで嘆いて言った
「ああ、私は大恩は報われず、大功は償われないと聞いているが、それはこのことだろうか。私は范蠡の策に従わず、越王に殺されるのを悔やんでいる。私は良い言葉が耳に入らず、ゆえに人糞を口に含んだのである」
越王は遂に文種に属盧の剣を賜い、種は剣を受け取りまた嘆いて言った
「南陽の長官であったのが、越王の擒となった」
自らを笑って言った
「この後百世の末まで、忠臣は必ず私を例えとするだろう」
ついに剣に伏して死んだ。
越王は種を国の西山に葬り、楼舟の兵士三千人余りは、鼎足の形の墓道を造り、墓道は三峰の下に入るものもあった。葬ってから七年して、伍子胥は海上より山腰を穿ち種の体を持って去り、これとともに海に浮かんだ。ゆえに前方の潮が渦を巻いて待っているのが伍子胥であり、後方で重なる潮水が大夫種である。越王はすでに忠臣を誅殺し、関東に覇をとなえ、瑯邪に遷都し、観台を建造し、周囲は七里で、東海を望んだ。決死の士は三千人、軍船は三百艘あった。しばらく経たないうちに、賢士を狙い求め、孔子はこれを聞き、弟子を従えて周の先王の雅琴礼楽を奉って越で演奏した。越王はそこで唐夷の鎧を着て、歩光の剣をたずさえ、屈盧の矛を持ち、決死の士を出して、三百人で関下に陣取った。孔子はしばらくして到着し、越王は言った
「さあ、先生は何を教えて下さるのですか」
孔子は言った
「わたしは五帝三王の道を述べることができます。ゆえに雅琴を演奏してこれを大王に献じたのです」
越王はため息をついて嘆いて言った
「越人の性質は脆くて愚かであり、水上を行き来し山におり、舟を車とし、楫を馬とし、行くにはひるがえるようで、去れば従い難く、戦を喜び敢えて死のうとするのは、越人の常です。先生は何を説いて我々に教えようと言うのですか」
孔子は答えず、そこで辞退して去った。
越王は人を使わし木客山に行かせ允常の棺を取り出し、琅邪に移して葬ろうとした。三たび允常の墓を穿つも、墓の中から激しい風が生じ、砂石が飛んで人を射たので、中に入れる者はいなかった。
句踐は言った
「私の前君は移らないのですか」
遂にそのままにして去った。
句踐はそこで使者を遣わし斉・楚・秦・晋に号令させ、皆で周室を輔け、血盟して帰った。秦の厲共公は越王の命に従わず、句踐はそこで呉越の将兵を選抜して西方に向かい河を渡って秦を攻めようとした。軍士はこれを苦としたが、たまたま秦が恐れ、前もって自ら咎を負ったので、越はそこで軍を還した。兵士たちは喜び、ついに「河梁の詩」を作った。曰く、「河の橋梁を渡り、河の橋梁を渡り、兵を挙げて秦王を征伐する。初冬十月は雪や霜が多く、道路は厳しい寒さでまことに対応しがたい。軍隊を陣取って未だ河を渡らないのに秦軍は降服し、諸侯は皆恐れている。名声は海内に伝わり遠方を威圧し、秦の穆公・斉の桓公・楚の荘王に覇をとなえ、天下は安寧になり長生きする。帰るのを悲しみ、どうして橋梁を渡らなかったのか」
越が呉を滅ぼしてから、中国は皆これを恐れた。二十六年、越王は邾子が無道なため捕らえて帰り、その太子何を立てた。冬、魯の哀公が三桓氏の圧迫に遭い逃げてきた。越王は三桓氏を伐とうとしたが、諸侯大夫が命に従わないかったため果たせなかった。二十七年冬、句踐は病床に伏し死に臨んで、太子興夷に言った
「私は禹の後より、允常の徳を受けつぎ、天霊の助け、天地の神の福を蒙り、窮地にあった越の家柄、楚の前鋒を従え、呉王の軍を滅ぼした。不揚が卒し、子の無彊が立った。無彊が卒し、子の玉が立った。玉が卒し、子の尊が立った。尊が卒し、子の親が立った。句踐から親に至るまで、歴代の八人の君主は、みな覇をとなえること二百二十四年間であった。親の人民はみな失われ、琅邪を去り、呉に移った。黄帝から少康に至るまで十世であった。禹が禅譲を受けてから少康が即位するまで六世は百四十四年であり、少康の即位は顓頊が即位してから四百二十四年であった。越王の系譜は黄帝・昌意・顓頊・鯀・禹・啟・太康・仲廬・相・少康・無余であった。無壬は無余から十世離れており、無擇・夫譚・元常・勾踐・興夷・不寿・不揚・無彊と続き、魯穆柳は幽公を名とし、王侯は自ら君と称した。尊・親と続いて、琅邪を失い、楚に滅ぼされた。句踐から王親に至るまで、歴代の八人の君主は、覇を称えること二百二十四年であった。無余が越国に初めて封じられ、餘善が越国に帰り滅んで空位になるまで、凡そ一千九百二十二年であった。句踐から王親に至るまで、歴代の八人の君主は、覇を称えること二百二十四年であった。無余が越国に初めて封じられ、餘善が越国に帰り滅んで空位になるまで、凡そ一千九百二十二年であった。