越絶書

越絶請糴内伝第六

昔、越王句踐は呉王夫差と戰い、大いに敗れ、會稽山の上に立てこもり、そこで大夫種に呉と和平を結ぶことを求めさせた。呉はこれを許した。越王は會稽を去り、呉の役人となった。三年して、呉王はこれを帰した。大夫種ははじめて謀って言った
「昔、呉王夫差は義をかえりみず吾が王を辱めました。私種が呉を観ましたところ甚だ富んで財には余裕があり、刑は繁多で法は道理に合わず、民は戦いと守りに習熟し、そのやり方を知らない者はありません。その大臣はよく互いにそしりあい、信頼することはできません。その徳は衰え民はよく善に背きます。かつ呉王はまた安佚を喜び諫言を聴かず、こまごまとした そしりを聴き智が少なく、悪口とへつらいを信じて士を遠ざけ、しばしば人を傷つけてしばしばこれを忘れ、明晰さは少なく人を信じず、すぐに消えてしまう名声をのぞみ、後の患いを顧みません。君王はどうして少しこれを占ってみようとなさらないのですか」
越王は言った
「よろしい。これを占う方法はどのようなものか」
大夫種は答えて言った
「君王は身を卑くし礼を重くし、巧飾のない真心をもって信用となし、呉より穀物を買い入れることを請うて下さい。天がもし呉を見棄てるならば、呉は必ず許諾するでしょう」
ここにおいてすなわち身を卑くし礼を重くし、巧飾のない真心をもって信用となし、呉に請うた。 まさに与えようとすると、申胥が進み出て諫めて言った
「なりません。王の越に於けるは、地を接し境を隣りにし、道は通じ、仇敵の国であり、三江がこれをとりまき、その民は移住するところがなく、呉が越を手に入れるのでなければ、越が必ず呉を手に入れましょう。それに、王が利を手に入れようとしても取るところはなく、これに穀物と財を輸出すれば、財は去って凶がもたらされます。凶がもたらされれば民はお上を怨み、これは外敵を養って国家を貧しくするものです。これに与えるのは徳でなはく、やめるにこしたことはありません。それに越王には范蠡という智臣がおり、勇にして謀に長け、まさに士卒をととのえ、戦具をおさめ、我々の隙を伺っています。私はこう聞いております、越王の謀は、まことに穀物の購入を請うことにあるのではありません。まさにこれで我らを試し、これで君王を占い調べ、親しさを増すことを求め、王の心を安心させようとしているのです。吾が君が悟らずにこれを救うのは、これは越の福です」
呉王は言った
「私は越を卑しめ服従させ、その社稷を有している。句踐はすでに服従して臣となり、わたしの乗り物の役人になり、馬前に後ずさりしている。諸侯に聞知していないものはない。いま越が饑饉で、私がこれに食糧を与えるのだ。私は句踐がかならずあえて謀などしないとわかっている」
申胥は言った
「越は罪なく、わが君王はこれを危うくするも、ついにその命を絶つことなく、またその言葉を聴く、これは天に反することです。忠心からの諫言は耳に逆らい、へつらいの諫言はかえって親しんでいます。今狐と雉が戯ると、狐が体を低く伏せると雉はこれを恐れます。獣でさえいつわりを以てお互い接近するのです。まして人はどうでしょうか」
呉王は言った
「越王句踐に危難があり、私がこれに与える、その徳は明らかでいまだ減少しておらず、句踐はあえて諸侯と私に反するだろうか」
申胥は言った
「私は、聖人に危難があれば、人の奴隷になることを恥じませんが、志気は人に現れると聞いております。今越王は我々のために身を低くして辞を卑くし、服従して臣下となり、その礼を扱うことは過剰で、わが君が悟られないだけで、ゆえにこれに勝ち従わせているのです。私は、狼の子は生まれつき粗野な心を持ち慣らしにくく、仇の人は、親しむべきではないと聞いております。鼠は壁〔に穴を開けたこと〕を忘れても、壁は鼠を忘れないものです。今越人が呉を忘れないでしょうか。私はこう聞いております、優位をぬぐい去れば社稷は 堅固になり、優位におもねれば社稷は危うくなります。わたくし胥は、先王の老臣です、不忠不信であれば、先王の老臣とはなりえません。君王はどうして武王が紂を伐ったことをご覧にならないのですか。今のようでは数年かからずに、鹿や猪が姑胥の台に遊ぶようになるでしょう」
太宰嚭が傍らより答えて言った
「武王は紂の臣ではなかったのか。諸侯を率いてその君を殺したのは、勝ったとはいっても、義といえるだろうか」
申胥は言った
「武王はすでに名を成している」
太宰嚭は言った
「自ら主を殺して名を成すのは、行うに忍びない」
申胥は言った
「美と悪はおたがい入り組むものだ。あるときは甚だ美なるものが亡び、あるときは甚だ悪なものが盛んになるもので、ゆえに前代にそのようなものがいたのだ。あなたはどうしてわが君王をまどわすのか」
太宰嚭は言った
「申胥どのは人臣であるのに、その君に語るのにどうしてくどくどというのか」
申胥は言った
「太宰嚭は人の面前で媚びへつらい親しむことを求め、わが君王につけこみ、幣帛を求め、諸侯を威圧し富を成しています。今私は忠心からわが君王に申し上げているのだ。たとえるなら嬰児を湯浴みさせるようなもので、泣いていうことを聞かないとしても、それはまさに厚い利があるのだ。嚭はむしろわが君の欲にへつらい、後患をかえりみないのか」
呉王は言った
「嚭は止めよ。おまえは寧ろ私の欲に迎合するのか。これは忠臣の道ではない」
太宰嚭は言った
「私は、春の日がまさに至ろうとすれば、百草が時に従うときいております。君王が大事を動かすのであれば、 群臣は力を尽くして謀を助けます」
そこで退いて家に行き、人を使って呉王に申胥のことをひそかに告げさせて言った
「申胥は進んで諫め、外見は親密なようですが、内情は甚だ疎遠で、二心を持っています。君王は常に自らその言動をご覧になっていますが、胥には父子の親愛や、君臣の恵みはありません」
呉王は言った
「申胥は、先王の忠臣で、天下の勇士である。胥は必ずそのようではない。お前は事を以て互いに過つな、私情を以て互いに傷つけるな。私を動かそうとしても、これはお前が行えることではない」
太宰嚭は答えて言った
「私は、父子の親愛は、家を広げて居を別にして、奴隷・馬牛を贈れば、その志はますます親しくなり、もし一銭も与えなければ、その志は疎遠になると聞いております。父子の親愛さえなおこのようなものなの ですから、ましてや士はどうでしょうか。それに知があっても尽くさないのは不忠であり、尽くしても難を顧みるのは不勇であり、下なのに上に命令するのは無法です」
呉王はそこで太宰嚭の言葉を聴き、果たして穀物を与えた。申胥は退いて家に行き、嘆いて言った
「ああ、君王は社稷の危機を図らず、一日だけの説を聴かれた。答えずに、大臣を退け傷つけ、王はこれを用いた。補弼の臣のいうことを聴かず、自分にへつらう輩を信じる、これは命が短いということだ。不信と思う。私は目を国の門にかけ、呉国が大いに負けるのを見たいと願う。越人が侵入し、吾が王はみずから擒となるであろう」
太宰嚭の友人逢同は、太宰嚭に言った
「あなたは申胥を非難している、どうかこれを占わせてほしい」
そこで出かけて申胥に会うと、胥はまさに被離と一緒に座っているところだった。申胥は逢同に言った
「あなたは太宰嚭に仕え、また国の利害を考えずにわが君王を惑わせ、君王はかえりみないで、多くの愚か者の言を聴いている。君王が国を忘れたのは、嚭の罪である。亡びる日は遠くないだろう」
逢同は出て行って、太宰嚭のところへ至り、言った
「今日、あなたのために申胥を占ったところ、胥はその君が胥を用いなければ、後はないと誹謗していました。君王がお目覚めになったらお会いします」
太宰嚭に言った
「あなたが事に勉めて後、呉王の情はあなたにあるのではないですか」
太宰嚭は言った
「智の生ずるところは、貴賤や年齡にあるのではなく、これは相くみする道にあるのだ」
逢同は出て行って呉王に見ると、きまり悪そうに憂いている様子であった。逢同は涙を流して答えなかった。呉王は言った
「嚭は私の忠臣であり、お前は私のために目を遊ばせ耳を長くしている、それを誰が怨むというのか」
逢同は答えて言った
「私には心配事があります。私が言って君がそれを行えば、後の憂いはございません。もし君が行わなければ、私は言ってから死ぬでしょう」
王は言った
「お前は言うがよい、私はそれを聴こう」
「今日行って申胥に会うと、申胥は被離とともに座り、その謀をしていることを恥じており、わが君王を害そうとしているようでした。いま申胥は諫言を進めて 忠義なようですが、しかし内情は至って悪く、その身の内に野狼の心を持っています。君王はこれを親しみますか親しみませんか。これを追いますか追いませんか。これに親しみますか。彼は聖人ですが、一方ではいよいよ恨む心があって止みません。これを追いますか。彼は賢人です、その知がわが君王を害する事ができます。これを殺しますか。これを殺すべきことも、また必ず理由があります」
呉王は言った
「いま申胥のことを図るには、なにもってすればよいか」
逢同は言った
「君王が軍隊を興して斉を伐てば、申胥は必ず諫めて不可と言うでしょうが、王は聴かずに斉を伐てば、必ずお勝ちになります。そうすればこれを図ることができます」
ここにおいて呉王は斉を伐とうとした。申胥を召すと、答えて言った
「私は年老いて、耳は聞こえず、目も見えず、ともに謀ることはできません」
呉王は太宰嚭を召して謀ると、嚭は言った
「よろしいことです、王は軍隊を興して斉を伐ってください。越の存在は疥癬のようなもので、これは何もなすことはできません」
呉王はまた申胥を召して謀ると、申胥は言った
「私は老いて、ともに謀ることはできません」
呉王は申胥に謀を請うこと三度、答えて言った
「私は、愚夫の言を、聖王は採択すると聴いております。私は、越王句踐が呉に疲弊した年、宮殿には五つのかまどがありましたが、食事は何種類もの味を重ねず、妻妾を省き、愛するところと別れず、妻はますを手に 取り、自らはとかきを手に取り、自ら量って食べ、飢えるのをよしとして浪費せず、この人が死ななければ、必ず呉国の害になります。越王句踐は食事をするのに動物を殺さないで滿足し、衣服は真っ白で、黒い服は着ず、布で剣を帯びており、この人が死ななければ、必ず大きな災いになります。越王句踐は寝るのに席を安らかにせず、食べて飽食を求めず、貴きを善しとして道があり、この人が死ななければ必ず越国の宝となります。越王句踐は破れた服を着て新しい服を着ず、恩賞を行い、刑罰をせず、この人が死ななければ、必ず名を成しま す。越が我々に対して存在するのは、なお心腹に〔病が〕積もり集まっているようなもので、発しなければ傷つくことはありませんが、発作が起これば死亡します。斉を赦し、越を憂いとしていただきたい」
呉王は聴かず、果たして軍隊を興して斉を伐ち、大いに勝った。帰ると、申胥を不忠とし、剣を賜って申胥を殺し、被離の髪をそり落とした。申胥はまさに死のうとして、言った
「昔、桀は関龍逢を殺し、紂は王子比干を殺した。いま呉が私を殺すのは、桀紂と三人立ち並んで呉国が亡びることを現すのだ」
王孫駱はこれを聞き、朝になっても参朝しなかった。王は駱を召してこれに問うた
「お前はどうして私を非として朝になっても参朝しないのか」
王孫駱は答えて言った
「私は敢えて非としているのではありません、私は恐れているのです」
呉王は言った
「お前はどうして恐れるのか。私が胥を殺したことを重いとするのか」
王孫駱は答えて言った
「君王は気高く、胥のような下位のものを殺し、群臣と謀りません。私はこのため恐れているのです」
「私はお前のいうことを聴いて胥を殺したのではなく、胥は私に対して謀ったのだ」
王孫駱は言った
「私は、人に君たる者には必ず敢言する臣がおり、上位にある者には必ず敢言する士がいると聞いております。このようであれば、考慮は日々ますます加わり、智はますます生じます。胥は先王の老臣であり、不忠不信であれば、先王の臣たり得ませんでえした」
王は太宰嚭を殺そうと思ったが、王孫駱は答えて言った
「なりません。王がもしこれを殺せば、これは二人の子胥を殺すことになります」
太宰嚭はまた言った
「越のことを図りますに、我が国に対して事をなそうとしていますが、王は心配なさらないでください」
王は言った
「私はお前に国を託している。どうか遅かれ早かれ時をたがえないように」
太宰嚭は答えて言った
「私は四頭立ての馬車をまさに馳せようとするのに、前に行く者を驚かすものは切られ、その道理はかならず正しいと聞いております。このようにすれば、越がことを成すのは難しいでしょう」
王は言った
「お前はこれを制し、これを断じよ」
三年経って、越は軍を興して呉を伐ち、五湖に至った。太宰嚭は歩兵を率いてこれに言った。戦を謝罪する者は五人であった。越王は忍びず、これを赦そうとした。范蠡は言った
「君王がこれを朝廷で謀るも、これを原野に失うのは、いかがなものでしょうか。これを謀ること七年にして、一瞬でこれを棄てることになります。王は赦さないでください、呉はたやすく併合することができます」
越王は言った
「わかった」
軍に居ること三年、呉は自ら疲弊した。太宰嚭は遂に逃亡し、呉王はその禄秩を有するものと賢良とを率いて逃れ去った。越はこれを追い、餘杭山に至り、夫差を擒にし、太宰嚭を殺した。越王は范蠡に言った
「呉王を殺せ」
蠡は言った
「臣下はあえて一国の主を殺さないものです」
「これに刑罰を与えよ」
范蠡は言った
「臣下は敢えて一国の主に刑罰を与えないものです」
越王は自ら呉王に言った
「昔、天が越を呉に賜ったのに、呉は受けなかった。申胥は罪がなかったのに、これを殺した。讒言して自らに媚びる輩を昇進させ、忠信の士を殺した。大いなる過ちが三つあり、滅亡するに至った、あなたはそれを知っているか」
呉王は言った
「知っている」
越王はこれに剣を与え、自らこれを処理させた。呉王はそこで十日して自殺した。越王は卑猶の山に葬り、太宰嚭・逢同と妻子を殺した。

越絶書

越絶外伝紀策考第七

昔、呉王闔廬がはじめて子胥を得たとき、これを賢人と思い続け、上客となして、言った
「聖人は先に千年のことを知り、後に万世のことを見る。深くその国のことを問うに、代々どうして昏々として、衰え尽きないでいられようか。
あなたはこれを明らかにせよ。私は注意してあなたの言葉を聞こう」
子胥ははいと返事をしたが、答えなかった。王は言った
「あなたはこれを明らかにせよ」
子胥は言った
「答えて明らかにならず、非難を受けるのを恐れます」
王は言った
「どうか一たび言ってほしい、それで直言の士を用いたい。仁者は楽しみ、知者は誠を好む。礼を守るものは幽遠のところを探り、隠れた道理を探す。明らかに私に告げよ」
「言いにくいことです。国は長らえません、王はこれをよくお考えください。存続しているときも傾くのを忘れず、安寧のときも亡ぶのを忘れないでください。私がはじめて国に入ったとき、つつしんで衰亡のしるしを思いますに、まさに覇たる呉と厄災の間にあり、後の王は天命が返って困窮します」
王は言った
「どうしてそう言うのか」
子胥は言った
「後に必ずまさに道を失なうでしょう。王は鳥獣の肉を食らい、坐して死を待つでしょう。へつらいの臣が、まもなく至るでしょう。安寧と危難の兆しは、各々明らかなきまりがあります。虹や牽牛は、女を異にし、黄気が上にあり、青気と黒気が下にあります。太歳は八たび会し、壬子は九を数えます。王相の気は、自ら十一倍です。死は気が無くなることにより、法のとおりに止みます。太子には気が無く、三世代異常となるでしょう。日月の光明は、南斗を通ります。呉越は隣接しており、風俗を同じくし土地を並べ、西は大江に居り、東は大海をよぎり、両国は城を同じくし、門戸は互いに押し合っています。憂いはここにあり、必ずやまさに災いとなるでしょう。越には神山があり、隣にはしがたい。どうか王はこれを定め、私の言葉を洩らさないでください」
呉は子胥に蔡を救わせ、強国の楚を誅し、平王の墓にむち打ち、長い間去らず、その思いは楚に報復しようとしていた。楚はそこでこれを千金で購おうとしたが、誰も止める者はいなかった。ある庶民が子胥に言った
「やめてください。私は于斧で壺漿をかくした者の子、船中で箱に入った飯を開けた者です」
子胥はそこでこれが漁師だと知り、兵を率いて還った。もとより行くことがなければ帰ることもなく、どうして徳があるのに報いないだろうか。漁師が一たび言うと、千金はこれに帰した。このために引き返したのである。。
范蠡は軍を興して就李で戦い、闔閭は飛んできた矢に当たった。子胥は軍を帰したが、心中では呉に対して恥を感じ、被秦號年〔錯簡?〕。夫差が再び諸侯に覇をとなえ、軍を興して越を伐つに至り、子胥を任用した。夫差は驕り高ぶっていたが、越の包囲を解いた。子胥は諫めて誅せられた。太宰の嚭はへつらいの心があり、ついにそれで呉を滅ぼした。夫差は困窮し、匹夫になることを請うた。范蠡は許さず、五湖に滅ぼした。子胥が呉にいましめたのは、賢明と言うべではないか。
昔、呉王夫差は軍を興して越を伐ち、就李で敗戰した。大風が発し狂い、日夜止まなかった。戦車は壊れ馬は失われ、騎士は堕ちて死んだ。大船は陸に上がり、小舟は水に沈んだ。呉王は言った
「私は昼寝をして、夢に井戸が満ち溢れ、越と箒を取り合い、越はまさに我々を掃こうとしているのを見たが、軍は凶であろうか。軍を還した方がよいだろうか。この時越軍は大声を上げ、夫差は越軍の侵入を恐れ、驚き恐れた。子胥は言った
「王はしっかりなさってください、越軍は敗れます。私は、井とは人の飲むところであり、溢れるとは食して余りあることと聞いております。    越は南にあり、火です。呉は北にあり、水です。水は火を制します。王はどうして疑うのですが。風が北より来たり呉を助けます。昔、武王が紂を伐ったとき、彗星が出でて周を奮い立たせました。武王が問うと、太公は言いました『私は、彗星の出現を以て戦い、これを倒せば勝利すると聞いております』私は、天変地異には吉であっても凶であっても、物には互いに勝つものがあると聞いており、これはその証拠です。どうか王は急ぎ行ってください。これま越がまさに凶となり、呉がまさに盛んになろうとしているのです」
子胥は大変まっすぐな人で、よこしまな者と仲間にならなかった。体を棄てて切に諫め、命を捨てて国のためにした。君を愛することは自分の体のごとく、国を憂えることは家のごとくであった。正しいことも間違ったことも恐れずに、直言して休まなかった。君を正しくすることをこいねがい、かえって疎まれた。讒言する人はこれをそしり、身はまさに誅せられようとした。范蠡はこれを聞き、通らないと考えた。
「命数を知って用いず、怖れを知って去らないのは、どうして智といえようか」
胥は聞いて、嘆いて言った
「私は楚に叛き、弓をわきばさんで去り、義はやまなかった。私は先に功があり、あとに戮せられる。私の智が衰えたのではない、先に闔廬に会い、後に夫差に会ったということだ。私は、君に事えることはなお父のごとくであり、愛することが同じで、厳しさが等しいと聞いている。太古以来、いまだ人君が恩を欠いて臣のために仇に報いたのを見たことがない。私は大いなる誉れを得て、功名が顕著になったので、私は天の理数を知っても、ついに去らなかったのだ。先君の功は、なお忘れがたいものであり、私はここで髪を腐らせ歯をなくしたいと願う、どうしてここを去るということがあろうか。范蠡は外側だけを見て、私の内心をしらないのだ。今冤罪に屈するといえども、やはりとどまり死するのである」
子貢は言った
「子胥は忠信を守り、死を生より貴いとした。范蠡は吉凶を審らかにし、去って名声があった。文種は封侯にとどまり、有終の美をかざらなかった。二人の賢人は徳をひとしくしたが、種はひとり栄えなかった」范蠡が知識能力が〔伍子胥と〕ひとしいとは、ここに言われたのである。
伍子胥の父子奢は、楚王の大臣であった。世継ぎのために秦女をめあわせようとしたが、美しかったので、王はひそかにこれを喜び、自ら召したいと思った。奢は忠義を尽くして入りて諫め、朝廷に居て休ます、これを正そうとした。しかし王は諫言を拒み、鞭打ってこれを問い詰め、奢が君を害そうとしているとし、代々の臣を滅ぼした。邪に人を讒言する言葉を聴き、これを捕らえ、二子が来るのを待ってから殺そうとした。尚は孝であったので楚に入り、子胥は勇であり欺き難かった。累世の忠信は、その時に世に入れられず、奢は楚において諫め、胥は呉において死んだ。詩経に「讒言する者は限りがなく、こもごも四方の国を乱す」というのは、このことを言うのである。
太宰は官号であり、嚭は名であり、伯州の孫である。伯州は楚の臣であったが、過ちのために誅せられ、嚭は困窮して呉に奔った。この時呉王闔廬は楚を伐ち、ことごとく楚の仇を召してこれを近づけた。伯嚭の人となりは見る聞く話すにすぐれ、耳目が通達し、諸事で知らないことはなかった。その時勢にもとづいて自らを呉に納れ、楚を伐つ利を語った。闔廬はこれを用いて楚を伐ち、子胥・孫武と嚭に軍隊を率いて郢に入らせて、大いに功があった。還ると、呉王は嚭を太宰とし、位は高く権勢を誇り、国権を専らにした。まもなく闔廬が卒し、嚭は夫差が内に柱石の堅固さがなく、外に止まるところを知らぬ激しい勢いがないのを見て、へつらいの心で自ら売り込み、独断の利を操り、夫差はついにこれに従った。そして忠臣は口を閉じて一言も言うことができなかった。嚭は過ぎたことを知っても将来のことを知らず、夫差は死ぬに至り、早くに誅さなかったことを悔やんだ。伝に「清を見て濁を知り、曲を見て直を知る、君主が士を選ぶのは、それぞれその徳をあらわしている」という。夫差は浅はかで劣っており、このために嚭に専権を与え、伍胥はこのために惑ったとは、このことを言うのである。
范蠡はその始め楚にいた。宛橐あるいは伍戸の虚に生まれた。髪を結んだ童子だったときに、ひとたび気が違ってはひとたびはっきりしたので、時の人はみな狂っていると思った。しかしひとり聖賢の明があるだけで、人はともに語るものがなかった。自分のことを盲人のように見ず、人の言をは聾者のように聞かなかったためである。大夫種はその県に入ると、賢者がいると知ったが、いまだその所在をみつけられず、邑中に求めたが、邑人の中には得られなかった。狂夫に賢士が多く、賤しい者の中に君子がいると考え、広くこれを求めた。蠡を得て喜び、そこで官属を従え、治世の術を問おうとした。蠡は衣冠をきちんとして、しばらくして出てきた。立ち居振る舞いはおだやかであり、君子の様子があった。終日語り、口早に霸王の道を述べた。考えが合い、胡・越のことについて互いに従った。ともに霸王の兆しが東南に出るのを見て、その官位を棄て、ともに約束して行って臣になろうとした。少し失うものはあったが、成すところは大きかった。車環は呉に止まった。つねに子胥を任じており、二人は子胥がいればその言葉を申し述べることができないと考えた。種は言った
「いままさにこれをどうしたものだろうか」
蠡は言った
「我々にたいして、どんな国が登用できないというのでしょうか」
呉を去って越に行くと、句踐はこれを賢人であるとした。種はみずから内をただし、蠡は治するに外に出て、内は乱れて患うことなく、外は得ないものはなかった。臣下と主君は心を同じくし、ついに越国を覇とした。種はよく始めを図り、蠡はよく終わりを慮った。越は二人の賢人によって、国は安寧となった。始めて災変があっても、蠡がその賢明さを専らにしたのは、賢と言うべきであり、進退をよくした。

越絶書

越絶外傳記范伯第八

昔、范蠡はその始め楚にいて、范伯といった。自ら衰えて賤しく、いままで代々の俸禄を得たことがないといい、故に自ら粗末な生活をしていた。飲食すれば天下の無味でもうまいとし、居れば天下の賤しい場所に安んじていた。また髪を振り乱して狂人をよそおい、世にしたしまなかった。大夫種に言った
「夏禹、殷湯、周文王は三皇の苗裔であり、五覇は五帝の子孫です。天の運行は代を経て、千年に一度至ります。黄帝の年間に、辰が執となり巳が破となり、霸王の気は、地の門に現れました。 子胥はこのために弓をさしはさんで呉王におして見えたのです」
そこで大夫種と約束して呉に入った。このとき馮同は相共にこれに誡め、伍子胥がいるので、自らともにその言葉を申し述べることができない。越王は常に一日中ともに語っていた。大夫石買は、国にいて権力があり、口がうまく、進み出て言った
「器量自慢の女は不貞で、自らの才を誇る男は信用できません。客で諸侯を歴訪し、河津を渡り、縁もないのに自ら至ったものは、ほとんど真に賢人ではありません。和氏の璧であれば、求める者は値段を争わず、すぐれた馬の能力は、険しい道を難としません。〔欠落〕の邦、諸侯を歴訪して売り込むところがなく、知ったふりをする輩は、ただ大王はこれをお察し下さい」
そこで范蠡は退いて語らず、楚越の間に遊んだ。大夫種は進み出て言った
「昔、市中の盜賊が自ら晋に売り込み、晋はこれを用いて楚に勝ちました。伊尹は鼎を背負って殷に入り、ついに湯王を助けて天下を取りました。智能の士は、遠近を基準に採用するものではなく、これを言いますに、帝王の完備を要求する者は滅びるのです。易に『高く世俗を超越している人材には、必ず何かにつけて悪く言われる患いがある。この上なく智慧がある者の明察は、必ず大衆の議論を破る』といいます。大功を成す者は世の習わしにこだわらず、大道を論じる者は大衆に迎合しません。ただ大王はこれをお察し下さい」
これより石買はますます疎んじられた。その後兵を遠地に率いさせ、ついに軍士に殺された。この時句踐は兵士を失い、會稽山に立てこもり、あらためて種・蠡の策を用い、存続することができた。むかし虞舜は言った
「思うに先のことに学んで行う、これは良薬のようなものである」
王は言った
「石買は昔のことは知ってもこれからのことは知らない。私に賢人を棄てさせようとした」
後についに二人を師とし、ついに呉王を擒にした。
子貢は言った
「一言を薦めれあげれば、身に及ぼすことができる。一人の賢人を任じれば、名を顕すことができる。賢人を傷つければ国を失い、能力を覆い隠せば災いがある。徳に背けいて恩を忘れれば、かえって傷つくことになる。人の善を壊せば子孫の繁栄はなく、人の成功をそこなえば天誅が行われる。むかし子胥を冤罪とし死刑にしたとき、由重が子胥を呉に讒言した。呉はうわべではこれを重んじたが、罪なくして誅した。伝に「千金を失っても、一人の心を失うなかれ」というのは、このことを言うのである。

 

越絶内伝陳成恒第九

昔、陳成恒は斉の簡公の相となり、乱をなそうとしたが、斉国の鮑氏・晏氏をおそれ、ゆえにその軍をあらためて魯を伐った。魯君はこれを憂えた。孔子はこれを患い、門人を召してこれに言った
「諸侯がお互い伐ちあっているのは、なおこれを恥とする。いま魯は、父母の国であり、墳墓はここにある。今斉はまさにこれを伐とうとしている。一たび出でずにいられようか」
顔淵がいとまごいして出ようとしたが、孔子はこれを止めた。子路がいとまごいして出ようとしたが、孔子はこれを止めた。子貢がいとまごいをして出ようとすると、孔子はこれを使わした。子貢は斉に行き、陳成恒に会って言った
「魯は、伐ちがたい国です。これを伐つのは誤りです」
陳成恒は言った
「魯が伐ちがたいとは、どうしてか」
子貢は言った
「その城壁は薄く低く、池は狭く浅く、その君は愚かで不仁、大臣は偽りばかりで役に立たず、士民は戦争と聞けば憎んでおり、これは戦うべきではありません。あなたは呉を伐つにこしたことはありません。呉の城は高く厚く、池は広く深く、鎧は堅固で新しく、士は選び抜かれて糧食は十分にあり、重器や精巧な弩がそこにはあり、また賢明な大夫に守らせています。この国は伐ちやすいです。あなたは呉を伐つにこしたことはありません」
成恒は怒って色をなして言った
「あなたが難しいとするものは、人が易しいとするものだ。あなたが易しいとするものは、人が難しいとするものだ。あなたがそれで私に教えるのはどうしてか」
子貢は答えて言った
「私は、憂いが内にあるものは強いものを攻め、憂いが外にあるものは弱いものを攻めると聞いております。今、君は内に憂いておられます。私は、あなたは三度封じられそうになったが三度成功しなかったのは、大臣に聴かない者があったからと聞いております。今、君が魯を破って斉の領土を広げれば、魯を破って大臣を尊くしますが、君の功は認められないでしょう。これでは、君が上は主君の心を驕慢にし、下は群臣を身勝手にすることになり、大事を成したいと思っても、難しいでしょう。かつ、上が驕慢なら法を破り、臣下が驕慢なら争います。これでは君は上は主君にさけられ下は大臣と互いに争うことになります。このようであれば、もし君が斉に立っても、重ねた卵より危ういでしょう。私は故に呉を伐つにこしたことはないと言ったのです。かつ、呉王は剛猛で猛々しくその命令を行い、人民は戦いと守りに習熟し、将は法を明らかにしており、斉が敵対すれば擒となることは必定です。今あなたが四境の兵をことごとく撰び、大臣を出兵させ鎧兜を身につけさせれば、人民は外に死し、大臣は内に空です。これはあなたには上に強力な臣の敵がなく、下に人民の士がないのであり、主君を孤立させて斉を制するのは君でしょう」
陳恒は言った
「よろしい。そうだとしても私が軍はすでに魯の城下におり、もし去って呉に行けば、大臣はまさに私を疑う心を持つであろう、これをどうすればいいか」
子貢は言った
「あなたは軍隊を按じて伐たないで下さい。どうか私に呉王に会わせ、これに魯を救って斉を伐たせてください、あなたはこで兵を率いてこれを迎え撃って下さい」
陳成恒は許諾したので、そこで呉に行った。子貢は南方に行き呉王に見え、呉王に言った
「私はこう聞いております、王者は世継ぎを絶やさず、覇者は敵を強くせず、千鈞の重量も、銖を加えれば秤の目盛りが動きます。今、万乗の斉は、千乗の魯をわがものとし、呉と境界を争っており、私はまことに君のために恐れます。かつ魯を救うのは、名を顕すことであり、斉を伐つのは大いなる利があります。義は亡びそうな魯を存続させることにあり、勇は強大な斉を害し、威を晋国に伸ばすにあることは、王者は疑いません」
呉王は言った
「そうはいっても、私はかつて越と戦い、これを會稽山の上に立てこもらせた。越君は賢主であり、身を苦しめ労働をし、昼夜兼行して、内はその政をただし、外は諸侯に事え、必ずまさに私に報復しようという気持ちでいるだろう。あなたは私が越を伐って帰るのを待て」
子貢は言った
「なりません。越の強さは魯を下回らず、呉の強さは斉以上ではありません。君が越を伐って帰れば、すぐに斉もまた魯を我がものとするでしょう。いま君は越を存続させ滅ぼさず、四方の隣國に親しむに仁をもってし、暴虐を救って斉を苦しめ、威を晋国伸ばすに武を以てし、魯を救い、周室を絶やすことなく、諸侯に明らかにするに義をもってして下さい。このようにすれば、私が見るところ、野蛮国と隣り合わせの地まで溢れ、必ず九夷を率いて朝し、すなわち王業が達成されます。かつ大国の呉が小国の越を恐れるのがこのようであれば、どうか私に東方へ行き越王に見え、これに精鋭な軍を出動させ下吏に従えさせて下さい。これは君が実際は越を空にして、名は諸侯を従え【斉を】伐つことになります」
呉王は大いに喜び、そこで子貢を行かせた。子貢は東に向かい越王に見え、越王はこれを聞き、道を掃除して郊外で出迎え県にいたり、自ら子貢を車に乗せて宿舎にいたり問うて言った
「ここは辺鄙な狭い国、蛮夷の民です。大夫は何を求めて意外にもったいなくも、ここに至ったのですか」
子貢は言った
「君をあわれみ、故に来ました」
越王句踐は頭を地面につけて再拝して言った
「私は禍と福は隣り合わせだと聞いている。今大夫が私をあわれむのは、私にとっての福である。あえてその説を聞きとげよう」
子貢は言った
「私は今呉王に見え、盧を救って斉を伐つことを告げました。その心は和らいでいるが、その志は越を恐れており、言いました『かつて越と戦い、これを會稽山の上に立てこもらせた。越君は賢主であり、身を苦しめ労働をし、昼夜兼行して、内はその政をただし、外は諸侯に事え、必ずまさに私に報復しようという気持ちでいるだろう。あなたは私が越を伐って帰るのを待て、それからあなたのいうことを聴こう』かつ人に報復する心がないのに人にこれをを疑わせるものは、稚拙です。人に報復する心があるのに人にこれを知らせるのは、危ういことです。事が未だおこらないのに聞かせるのは危険です。三者は、事を行うのに大いに避けるべきです」
越王句踐は地に頭をつけて再拝して言った
「昔、私は不幸にも若くして父を失い、内にに自らの度量をはからず、呉人と戦い軍は敗れ身は辱められ、父の恥をあとに残しました。逃げ出して会稽山の上に立てこもり、下は海を守り、ただ魚やすっぽんを見ています。いま大夫は恥とせずに自らこれに見え、また玉声を出して私に教えようとしています。私は父の賜り物をさいわいに、敢えて教えを奉らないことがありましょうか」
子貢は言った
「私はこう聞いております、主は人を任じてその能力を埋もれさせませんが、行いの正しい人が賢人を推挙しても世に受け入れられません。故に財を扱い利を分かつには仁者を使い危難を乗り切り困難をふせぐには勇者を使い、衆を用いて民を治めるには賢者を用い、天下を正し諸侯を定めるには聖人を使います。私がひそかに下吏の心を撰びますに、軍隊が強くても弱者を併合することができず、勢いが上位にあっても悪い命令をその下に行う、そのような君がどれだけいるでしょうか。私はひそかに自ら成功して王となることができる方を撰びましたが、このような臣がどれだけいるでしょうか。今、呉王は斉を伐つ志があるので、君は重宝を惜しむことなく、その心を喜ばせ、辞を卑くすることをきらわず、その礼を尊べば、斉を伐つことは必定です。彼らが戦って勝たなければ、君の福です。彼らが戦って勝たなければ、必ず残りの兵を率いて晋に臨むでしょう。どうか私に、北にむかい晋君に会い、共にこれを攻めさせてくだされば、呉を弱めることは必定です。その騎士・鋭兵が斉に疲れ、重宝・はたかざりが晋に尽きれば、君はその疲れを制し、これは呉を滅ぼすこと必定です」
越王句踐は地に頭をつけて再拝して言った
「昔、その民の多くを分ちて我が国を残伐し、わが民を殺し、わが人民を屠り、わが宗廟を平らげ、国はいばらだらけの廃墟となり、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。今、私が呉王を怨むことは、骨髄に深い。私が呉王に事えることは子が父を畏れ、弟が兄を敬うようなもので、これは私のうわべの言葉です。大夫の教えの賜りがありましたので、私は敢えて疑いましょうか。どうかついにこう言わせてください、私の身は寝台に安座することなく、口はうまいものを食べず、目は好ましい色を見ず、耳は鐘鼓の音を聞かないことは、すでに三年になります。唇を焦がし喉を乾かし、苦心して力をつとめ、上は群臣に事え、下は人民を養い、願わくば一たび後と呉と天下の兵を中原の野で交え、呉王と襟をただして腕を交えて呉越の士を奮い立たせ、次々と連なって死に、士民は流離し、肝脳地に塗れる、これが私の大願です。このようなことは成すことはできませんでした。今、内に自ら我が国を量るに,呉を傷つけるのに不足であり、外には諸侯に事えることができません。私は国を空位にして、策略や武力をやめ、容貌を変え、姓名を易え、箒とちりとりを手に取り、牛馬を養い、臣として呉王に事えたいと思いました。私は腰と首が切り離され、手足がばらばらになり、四肢が散らばりならび、郷邑の笑いものになるとしても、気持ちは定まっています。大夫の教えを賜り、これは亡国を保存し死人を興すことです。私は前王の賜り物を賴み、敢えて令を待たないことがありましょうか」
子貢は言った
「呉王の人となりは、功名を貪り利害を知りません」
越王は誠実に席を離れ、言った
「そのことはあなたの掌中にあります」
「君のために呉王の人となりをみますと、賢くて強く下の者に意をほしいままにし、下の者は逆らうことができず、しばしば戦って、士卒は耐えることができません。太宰嚭の人となりは智にして愚、強にして弱、たくみなうまい言葉でその身を入れ、よくいつわりをなしてその君に事え、その前を知りその後を知らず、君の過ちに順って自分を安んじ、これは国をそこなう吏、君を滅ぼす臣です」
越王は大いに喜んだ。子貢は去りて行き、王はこれに金百鎰と宝剣を一本、良馬二を与えたが、子貢は受けず、ついに行った。呉に至り、呉王に報告して言った
「つつしんで下吏の言を以て越王に告げましたところ、越王は大いに恐れ、そこで恐れて言いました
『昔、私は不幸にして若くして父親を亡くしました。内に自らの度量をわきまえず、県に罪を得ました。軍は敗れ身は辱められ、逃れ去って會稽山の上に立てこもり、国は茨の茂る空しい地となり、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。大王の恩賜を頼み、俎とたかつきを奉り祭祀を修めることができました。大王の恩賜は、死んでも敢えて忘れることはありません。どうしてあえて謀など考えるでしょうか』その心は大いに恐れ、まさに使者を来させようとしているようです」
子貢が至って五日、越の使者が果たしてやってきて、言った
「東海の役臣私句踐は使者臣種に、あえて大王の下吏をうやまい左右の側近に問わせます、『昔、私は不幸にして若くして父親を亡くしました。内に自らの度量をわきまえず、県に罪を得ました。軍は敗れ身は辱められ、逃れ去って會稽山の上に立てこもり、国は茨の茂る空しい地となり、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。大王の恩賜を頼み、俎とたかつきを奉り祭祀を修めることができました。大王の恩賜は、死んでも敢えて忘れることはありません。今ひそかに大王は大義を興し、強きを誅し弱きを救い、暴虐な斉を苦しめ、周室を安んじようとしていると聞き、故に越の賤臣文種に前王の所蔵の器、鎧二十そろい、屈盧の矛、歩光の剣で、軍吏を祝賀させます。大王がまさに大義を興そうというのなら、我が国は小国ではありますが、悉く四方の中から撰び、卒三千を出し、下吏に従いましょう。私はどうか自ら堅固な鎧を着て鋭利な武器を手に取り、矢石を受けさせて下さい」
呉王は大いに喜び、そこで子貢を召してこれに告げて言った
「越の使者が果たしてやってきて、卒三千人を出し、その君もまたこれに従い、渡しと斉を伐ちたいと請うてきたが、いいだろうか」
子貢は言った
「なりません。人の国を空にし、人の衆を悉く徴発し、その君を従えるのは、不仁です。君は貢物を受け、その軍隊を許可し、その君が従うのは辞退なさって下さい」
呉王は許諾した。子貢は去って晋に行き、晋君に言った
「私はこう聞いております、思慮が先に定まっていなければ急な事態に対応することができず、軍備が先に備わっていなければ敵に勝つことはできません。今、斉と呉はまさに戦おうとしており、勝てば必ずその軍を率いて晋に臨んでくるでしょう」
晋君は大いに恐れて言った
「どうしたらいいだろうか」
子貢は言った
「軍備を整え卒を休ませて呉をお待ちください、彼らが戦って勝たなければ、越がこれを乱すことは必定です」
晋君は許諾した。子貢は去って魯に行った。呉王は果たして九郡の兵を興して、斉を艾陵で大いに戦い、大いに斉軍を破り、七将をとらえ、陣をしいて帰らなかった。果たして晋人と互いに黄池のほとりで遭遇した。呉と晋は強さを争い、晋人はこれを撃ち、大いに呉軍を破った。呉を伐つこと三年、東方で覇をとなえた。故に子貢が一度出るや、魯を存続させ、斉を乱し、呉を破り、晋を強くし、越に覇をとなえさせたというのは、このことである。

越絶書

越絶外伝記地伝第十

昔、越の先君無余は、禹の子孫で、別れて越に封じられ、禹の塚を守った。問うに、天地の道、万物のおきては、その根本を失うことがない。神農は百草・水土の甘苦を嘗め、黄帝は衣裳を作り、后稷は農業を興し、器械を作り、人事は備わった。桑麻の畝を作り肥やしをやり、五穀を播くのには、必ず手足をもってする。大越の海浜の民は、ひとり鳥田をもってし、それには大小の差があり、進退するに行列を作り、自ら使おうとすることはなかったのは、その理由はどうしてか。
いわく、禹はその始め、民を憂いて洪水から救い、大越に至り、茅山に登り、大いに集めて計り、徳のある者に爵位を与え、侯のある者を封じ、茅山の名を改めて會稽といった。その王位に就いてからは、大越を巡狩し、老人に会い、詩書を納め、人物を計り調べ、斗升を均一にした。病のため死に、會稽に葬られた。葦の槨に桐の棺、墓穴を穿つこと七尺、上は漏れることなく、下は水につかることがなかった。壇の高さは三尺、土の階段が三段あり、広さは一畝であった。禹がここに至ったのは、また理由があり、また覆釜のためであった。覆釜とは、州土であり、徳を満たすものであった。禹は美としてここに至ったのである。禹は晩年になり、たそがれになったと知り、書をそのふもとに求め、白馬を祭った。禹井とは、井は法である。思うに禹の葬儀は法度をもってし、人民を煩わさなかった。
無余ははじめ大越に封じられ、秦餘望の南に都をおき、千余年たって句踐に至った。句踐は治所を山北に移し、拡張して東海を属し、内外越は別に封じられてこれを分けた。そこにいて幾ばくもなく、自ら賢聖を求めた。孔子は弟子七十人を従え、先王の雅びやかな琴を捧げ持ち、礼を治め行って奏上に赴いた。句踐はそこで自ら賜夷の鎧を着て、歩光の剣を帯び、物盧の矛を持ち、決死の士三百人を出し、陣を関下に作った。孔子はしばらくしてはるか越に至った。越王は言った。
「はい、夫子は何をもってこれを教えるのですか」
孔子は答えて言った
「私は五帝三王の道を述べることができます、故に雅やかな琴を捧げ持って大王のところに至ったのです」
句踐は嘆息して嘆いて言った
「越の性質はもろく愚かであり、川を行き来し山におり、船を車としかいを馬として、往くのはつむじ風のごとく、去れば追いがたく、精鋭な兵は死をいとわないのが、越の定まった性質です。夫子が異とすれば不可です」
ここにおいて孔子は辞退し、弟子も〔句踐に〕従うことはできなかった。
越王夫鐔から無余までは、長久であり、世系は記録することはできなかった。夫鐔の子は允常である。允常の子は句踐であり、大いに覇をとなえ王と称し、瑯琊にうつって都をおいた。句踐の子は与夷で、そのとき覇をとなえた。与夷の子は子翁で、そのとき覇をとなえた。子翁の子は不揚で、その時覇をとなえた。不揚の子は無疆で、そのとき覇をとなえ、楚を伐ったが、威王は無疆を滅ぼした。無疆の子は之侯で、ひそかに自立して君長となった。之侯の子は尊で、そのとき君長となった。尊の子は親で、人々の信望を失い、楚はこれを伐ち、南山に逃走した。親から句踐に至るまでは、全部で八君、瑯琊に都をおくこと二百二十四年であった。無疆以前は、覇をとなえ、王と称した。之侯以降は微弱となり、君長と称した。
句踐小城とは、山陰城のことである。周囲は二里二百二十三歩、陸門が四つ、水門が一つあった。今の倉庫はその宮殿の台のところにある。周囲は六百二十歩、柱の長さは三丈五尺三寸、といの高さは一丈六尺であった。宮殿には百の扉があり、高さは一丈二尺五寸であった。大城の周囲は二十里七十二歩、北面は築いていなかった。そして呉を滅ぼし、治所を姑胥台に移した。山陰大城は、范蠡が築いて治所を置いたところである。今伝わっているところではこれを蠡城という。陸門が三つ、水門が三つあり、西北に城壁が途切れており、それもまた理由があった。始建国の時に至り、蠡城は消滅した。
稷山は、句踐の斎戒した台である。
亀山は、句踐が建てた怪游台である。東南に司馬門があり、よって亀を照らした。また天の気を仰ぎ望み、天の怪を見た。高さは四十六丈五尺二寸、五百三十二歩、今の東武里である。一名を怪山という。怪山は、むかし一夜にして自らやってきたので、民はこれを怪しみ、故に怪山といった。
駕台は、周囲が六百歩、今の安城里である。
離台は、周囲が五百六十歩、今の淮陽里丘である。
美人宮は、周囲が五百九十歩、陸門が二つ、水門が一つ、今の北壇利里丘土城であり、句踐が美女西施・鄭旦を教習した宮台である。女は苧蘿山の出身で、呉に献じようとしたが、自ら東の果ての田舎であることを思い、女が田舎じみているのを恐れ、故に大道の近くにあったのである。県を去ること五里である。
楽野は、越の狩り場であり、大いに楽しんだので、ゆえに楽野と言った。その山上の石室は、句踐が休んで謀をしたところである。県を去ること七里である。
中宿台馬丘は、周囲が六百歩、今の高平里丘である。
東郭外の南小城は、句踐の氷室である。県を去ること三里である。
句踐が出入りするには、稷山で斎戒し、田里より行き、北郭門より去った。亀を亀山で照らし、さらに駕臺へ行き、離丘に馳せ、美人宮に遊び、中宿で音楽に興じ、馬丘を過ぎた。楽野の道に弓を射て、犬を若耶に走らせ、石室で休息して謀り、冰廚で食事をした。功績をしるし士をはかり選び、そののちやがて昌土台を作り、その姿をかくし、その情を隠した。一説にいう、氷室は、食事を備えるところである。
浦陽は句踐の軍が破れて兵を失い、ここに悶えた。県を去ること五十里である。
夫山は、句踐が糧食を絶やし、困窮したところである。その山上の大冢は、句踐の庶子の冢である。県を去ること十五里である。
句踐は呉と浙江のほとりで戦い、石買は将となった。老人、壮年は諫言を進めて言った
「石買は、人は皆怨みとなし、家は皆仇となし、貪欲で利を好み、心が狭く、長期的な策がありません。王がもしこれを用いれば、国は必ずや長続きしません」
王は聞かず、ついにこれを遣わした。石買は出発し、行って浙江のほとりに至ると、無罪の者を斬殺し、威を専らにし軍中を服従させようとし、将帥を動揺させ、ひとりその権力を専らにした。兵士は恐れて、人は安心できなかった。
兵法にいう、「人を見るに嬰児のごとくすれば、共に深い谷に赴くことができる」
兵士は腐敗したが、石買は気づかず、なお法を厳しく刑を重くした。子胥はひとり越を討ち取れるきざしを見て、変じて奇謀をなし、或いは北に向かい或いは南に向かい、夜に火を挙げ鼓を打ち、昼に疑兵を陣した。越軍は潰滅し、命令は行われず、背反して乖離した。帰ってその王に報じると、王は買を殺し、その軍に告げ、叫び声は呉に聞こえた。呉王は恐懼したが、子胥はひそかに喜んだ。
「越軍は敗れます。私は、狐がまさに殺されようすると、唇を噛んで歯を吸うと聞いております。今越の句踐はすでに敗れております。君王は意を安んじてください、越はたやすく併合することができます。人を使わして越を訪れさせると、越軍は降服することを請うたが、子胥は許さなかった。越は会稽山の上に立てこもり、呉は退いてこれを囲んだ。句踐は嘆息して文種・范蠡の計を用い、死を転じて覇業をなした。一人の身に、吉凶はかわるがわる至る。盛衰存亡は、臣を用いることにかかっている。天下を治める道は万事、重要なのは賢人を得ることにある。越が会稽山に立てこもった日、呉と和平を行い、呉は兵を引いて去った。句踐はまさに下ろうとして、西方の浙江に至り、命令を待って呉に入った、故に鶏鳴墟という。その入臣の辞に言う
「亡臣私句踐は、かならず兵士を率いて、呉に入り奴隷となります。民はお使ください、土地は保有してください」
呉王はこれを許した。子胥は大いに怒り、目は夜光のごとく、声は吼える虎のようであった。
「このたび越が戰わずに降伏したのは、天が呉に賜ったのだというのに、天に逆らうというのか。私は君王が急ぎこれを制裁していただきたい」
陽城里は、范蠡の城である。西の方角は水路へ至り、水門が一つ、陸門が二つあった。
北陽里城は、大夫種の城である。土を西山から取ってこれに加えた。直径は百九十四歩である。或いは南安といった。
富陽里は、外越が義を賜ったところである。里門に居住させ、練塘田を褒め称えた。
安城里高庫は、句踐が呉を伐ち、夫差を擒にし、勝利をもたらした兵器を思い、倉庫を築きこれを高く積み上げた。周囲は二百三十歩、今の安城里である。呉王は聴かず、ついにこれを浙江で赦したというのがこのことである。
故の禹の宗廟は、小城南門外の大城内にある。禹稷は廟の西にあり、今の南里である。
独山大冢は、句踐が自ら塚を作った。瑯琊に遷都し、塚は完成しなかった。県を去ること九里である。
麻林山は、一名多山という。句踐が呉を伐とうとし、麻を植えて弓の弦をつくり、斉人にこれを守らせた。越は斉人を「多」といい、ゆえに麻林多といい、呉を防いだ。山下の田地で功臣を封じた。県を去ること一十二里である。
会稽山上城は、句踐が呉と戦い、大いに敗れ、その中に立てこもった。その下には目魚池があり、その利益は税がかからなかった。
会稽山北城は、子胥の駐屯兵が城を守ったのがこれである。
若耶大冢は、句踐が移した先君夫鐔の墳墓である。県を去ること二十五里である。
葛山は、句踐が呉に疲弊し、葛を植え、越の女に葛布を織らせ、呉王夫差に献じた。県を去ること七里である。
姑中山は、越の銅官の山であり、越人はこれを銅姑瀆といった。長さは二百五十歩、県を去ること二十五里である。に犬山という。その高みに犬亭がある。県を去ること二十五里である。
白鹿山は、犬山の南にあり、県を去ること二十九里である。
雞山・豕山は、句踐が鶏と豚を飼い、まさに呉を伐とうとして、士に食べさせたのである。雞山は錫山の南にあり、県を去ること五十里である。豕山は民山の西にあり、県を去ること六十三里である。洹江からは越に属す。おそらく豕山は餘暨界中にある。
練塘は、句踐の時に錫山から採取して炭を作り、「炭聚」といい、すなわち炭瀆より練塘に至り、各々このことによって名づけたのである。県を去ること五十里である。
木客大冢は、句踐の父允常の墳墓である。
初めて瑯琊に移ったとき、やぐら船の卒二千八百人に松とこのてがしわを伐採させていかだを作らせた、ゆえに木客という。県を去ること十五里である。一説に、句踐が良い木材を伐採し、文様を刻んでで呉に献じた、故に木客という。
官瀆は、句踐の工官である。県を去ること十四里である。
苦竹城は、句踐が呉を伐って還り、范蠡の子を封じたところである。その地は辺鄙で、直径は六十歩である。民に田地を作らせ、塘の長さは一千五百三十三歩である。そこの墳墓を土山いった。范蠡は苦心して勤め功が厚く、ゆえにその子をここに封じたのである。県を去ること十八里である。
北郭外路南溪北城は、句踐が鼓鍾宮を築いたところである。県を去ること七里である。その邑には龔・銭の姓の者が住んでいた。
舟室は、句踐の造船所である。県を去ること五十里である。
民西大冢は、句踐の客の秦伊というよく亀を照らした者の墳墓である。よって冢を名づけて秦伊山といった。
射浦は、句踐が兵を教習したところである。今、射浦は県を去ること五里である。射卒の陳音が死んで、民西に葬り、故に陳音山と言った。
種山は、句踐が大夫種を葬ったところである。櫓舟の卒二千人に、三本の墓道を作らせ、これを三つの峰の下に葬った。
種はまさに死のうとするとき、自ら記した
「後に賢者があり、百年たって至る。私を三峰の下に置け、自ら後世に現れるであろう」
句踐はこれを葬り、祭って三賢人に伝えた。
巫里は、句踐が巫師を移住させ一つの聚落を作ったところである。県を去ること二十五里である。その亭と祠は今の和公群社稷墟である。
巫山は、越■■、神巫の官であり、死ぬとその上に葬られた。県を去ること十三里ばかりである。
六山は、句踐が銅を鋳たところである。銅を鋳て熔けないと、これを東阪に埋めた。その上には竹の鞭がとれた。句踐は使者を遣わし竹を南社に取っていたが、種を六山に移し、装飾して竹の鞭を作り、これを呉に献じた。県を去ること三十五里である。
江東中に葬られた神巫は、越の神巫の無杜の子孫である。死ぬと、句踐は中江にこれを葬った。巫は神がかりであり、転覆させて呉人の舟に禍を与えようとした。県を去ること三十里である。
石塘は、越が軍船を妨害したところである。塘は広さ六十五歩、長さ三百五十三歩、県を去ること四十里である。
防塢は、越がそれによって呉軍を防いだ。県を去ること四十里である。
杭塢は、句踐の船があった。二百石の長さで、卒七千人を動員し、これを会夷に渡した。
県を去ること四十里である。
塗山は、禹が妻を娶った山である。県を去ること五十里である。
朱餘は、越の塩官である。越人は塩を「餘」といった。県を去ること三十五里である。
句踐はすでに越を滅ぼしてから、呉人に呉塘を作らせた。東西は千歩で、名づけるのに頭文字を避けた。後にこのために名づけて塘と言った。
独婦山は、句踐がまさに呉を伐とうとしたとき、寡婦を移して独山上に至らせ、決死の士に示し、心を一つにさせることができた。県を去ること四十里である。後人の説では、おそらく句踐が軍士を遊ばせたのであろう。
馬嗥は、呉が越を伐ったとき、道中で大風に遭い、車は壊れ馬は失われ、騎士は堕ちて死に、一匹の馬が鳴き叫んだ、そのことは呉史に見られる。
浙江南路西城は、范蠡が兵を集めた城である。その陵は堅く守ることができ、故にこれを固陵と言った。なぜそうなったかというと、大きな軍船が置いてあったからである。
山陰古故陸道は、東郭を出て、直瀆より陽春亭に直通した。山陰故水道は、東郭を出て、郡より陽春亭に至った。県を去ること五十里である。
語児郷は、昔の越の国境内にあり、名を就李と言った。呉は越の地に力を及ぼして戦場とし、柴辟亭に至った。
女陽亭は、句踐が呉に奴隷として入ったとき、夫人が従い、道中で娘をこの亭で産み、李鄉で養育した。句踐が呉に勝つと、名を女陽と改め、就李を改めて語児郷とした。
呉王夫差は越を伐ち、その国を保有し、句踐は降伏して奴隷となった。三年して、呉王はまた句踐を越に帰して封じ、東西は百里、北方は呉に臣事し、東を右とし、西を左とした。大越のもとの境界は、浙江から就李に、南は姑末・写干に至った。
覲鄉の北に武原がある。武原は、今の海塩である。姑末は、今の大末である。写干は、今は豫章に属す。
無餘が初めて越に封じられて以来、伝え聞くところ越王の子孫は、丹陽皋鄉にいて、姓を梅と変えた。梅里がこれである。
秦の立国より以来、秦元王に至るまで年を記さなかった。元王は立つこと二十年、平王は立つこと二十三年、恵文王は立つこと二十七年、武王は立つこと四年、昭襄王もまた立つこと五十六年にして、周赧王を滅ぼし、王を周はここに絶えた。孝文王は立つこと一年、荘襄王は号を太上皇帝とあらため、立つこと三年、秦始皇帝は立つこと三十七年、号して趙政といい、政は、趙の外孫であった。胡亥は立つこと二年、子嬰は立つこと二年であった。秦元王から子嬰に至るまで、凡そ十人の王がいて、百七十年であった。漢の高帝はこれを滅ぼし、咸陽に治所を置き、天下を一つにした。
政は将軍魏舎・内史教に韓を伐たせ、韓王安をとらえた。政は将軍王賁に魏を攻めさせ、魏王歇をとらえた。政は将軍王渉に趙を攻めさせ、趙王尚をとらえた。政は将軍王賁に楚を攻めさせ、楚王成をとらえた。政は将軍史敖に燕を攻めさせ、燕王喜をとらえた。政は将軍王渉に斉を攻めさせ、斉王建をとらえた。政は号をあらためて秦始皇帝とし、その三十七年に、東遊して会稽に行き、道中で牛渚を渡り、東安に向かった。東安は、今の富春である。丹陽、溧陽、鄣故、餘杭軻亭を通り南方に向かった。東方の槿頭に向かい、道中諸暨・大越を渡った。正月甲戌に大越に至り、舎都亭に留まった。錢塘浙江から「岑石」を採った。石の長さは一丈四尺、南北面の広さは六尺、東面の広さは四尺、西面 の広さは一尺六寸、文を刻んで越棟山上に立て、そこへの道は九つの曲がり角があり、県を去ること二十一里であった。この時、大越の民を移して餘杭伊攻□故鄣に置いた。そこで天下の有罪の吏民を移し、海南の元の大越のあったところに置き、東海の外越に備えた。そして大越の名をあらためて山陰と言った。すでに去り、諸暨・錢塘に向かい、そして呉に向かった。姑蘇台に登った、そして矢を射て宅亭・賈亭北にとどまった。その年に霊に至ったが、射ずに去った。曲阿・句容に向かい、牛渚を渡り、西に向かって咸陽に至り、崩御した。

越絶書

越絶外伝計倪第十一

昔、越王句踐は近くは強国の呉に侵攻され、遠くは諸侯に恥じ、武器と鎧は散って無くなり、国はまさに滅亡しようとし、そこで諸臣を集めてこれと誓った
「私は呉を伐とうと思うが、いかにして功を上げられるだろうか」
群臣は黙って答えるものは無かった。王は言った
「主が憂えれば臣は恥じ、主が辱められれば臣は死ぬ。どうして大夫らは簡単に会えるのに使うのが難しいのか」
計倪は官位が低く年が若く、後ろにいたが、首を挙げて起ち、言った
「危ういことです。大夫が簡単に会えるのに使うのが難しいのではありません、これは大王が臣を使えないということです」
王は言った
「どうしてか」
計倪は言った
「官位財幣は王の軽んずるところであり、死は士の重んずるところです。王が軽んじるところを惜しんでいるのに、士の重んずるところを攻めるとは、どうして難しくないでしょうか」
王は自ら会釈をして計倪を進めてこれに問うた。計倪は答えて言った
「仁義は治の門であり、士民は君主の根本です。門を開いて根元を固め、身を正すにこしたことはありません。身を正す道は、謹んで左右の者を選ぶことです。左右の者が選ばれれば、甚だ主は日々ますます賢となり、選ばなければ、甚だ主は日々不肖となります。これら二つは本質を重んじ次第に浸透してきます。どうか君王は衆より公選し、左右の物をよく鍛え、君子至誠の士でなければ、ともに家にいることがないようにしてください。邪な気をだんだんと生じなくさせ、仁義の行いはいとぐちがあれば、人はその能力を知り、官はその治を知ります。爵賞刑罰は、一切が君より出れば、臣下はあえて誹ったり賞めたりを言わず、功のない者はあえて政治に干渉しません。故に明主が人を用いるには、誰の縁故かによらず、その先祖が誰かを問わず、採用するのは一つの方法によります。これは昔、周の文王・斉の桓公が自ら賢人を任じ、太公・管仲が人を知るのに明るかったということです。今はそうでないので、私はそのために危ういと言ったのです」
越王は顔色を変えて言った
「私は、斉の桓公は淫泆であったのに、諸侯を九回会盟して諸侯をただしたのは、思うに管仲の力だと聞いている。私が愚かだといっても、思うにその原因は大夫にある」
計倪は答えて言った
「斉桓公はの管仲の罪を除き、重責に任じ、易えるに至りました。これは下の南陽蒼句です。太公は九十にして功がなく、磻溪の餓えた人にすぎませんでした。聖主はその恥を計らず、賢者としました。一たび仲父に告げ、二たび仲父に告げ、これは王に至ることはできますが、ただし覇業はどうして道に足るでしょう。桓公は仲父をたたえ、文王は太公をたたえました。この二人のことをおしはかりますと、それまでは少しの功労や大声を上げる功労もありませんでしたが、弓矢の怨みを忘れ、上卿の位を授けました。伝に、能力は三公にあたる、といいます。今、臣を置いて尊ばず、賢人を用いないのは、たとえるなら門戸がかたどって設けられ、依って相欺くようなものであり、智者の恥じるところ、賢者の恥じるところです。君王はこれをお察しください」
越王は言った
「誠実な者はその言葉を隠すことができない。大夫はすでにここにいるのだ、どうしてその言葉を待つことがあろうか」
計倪は答えて言った
「私は、智者はでたらめを言って功労を成さず、賢者は始めには動きがたくても、終わりには成功する、と聞いております。伝に『易経で謙遜して誤った質問に答え、威勢を抑え、兵権を人に示してはならない』といいます。賞罰は君主によるとは、このことをいうのです。故に賢君が臣を用いるには、すぐれた者に責務をおさめ、これに職を施してその功をなし、遠くに使いさせ、その誠実を明らかにします。ひそかに秘密を告げ、その誠実を知ります。これとともに事を話し合い、その智を観ます。これに酒を飲ませ、その態度を観ます。士の選抜が整備され、不肖の者は居場所がなくなります」
越王は大いに恥じ、そこで池を壊して塹壕を埋め、穀倉を開いて貧しい者に貸与し、そして群臣に自ら病気の者を見舞わせ、自ら死者の葬儀を弔問し、僻地を苦しめず、有徳の者を尊んだ。民と苦楽を同じくし、河や泉を遮り、ひとり飽食しているのでないことを示した。これを行うこと六年、士民は心を一つにし、謀らなくても言葉を同じくし、呼ばなくても自ら来て、皆呉を伐とうとした。遂に大いに功があって、諸侯に覇をとなえた。孔子が「寛容であれば人民を得る」と言ったのは、このことである。勇があって外に見えていれば、必ず仁が内にあるものである。子胥は就李に戦い、闔廬は傷つき、軍は敗れて帰った。この時の死傷者は計り数えることができず、そうなったのは、疲労のためでやむを得なかった。子胥は内心で憂えた
「人臣として、上は主を保全することができず、下は人民に兵刃の災難を被らせた」
自責して内心で傷ついていたが、理解できるものはいなかった。ゆえに自ら死者や負傷者を運び、子胥の手を尽くさない者はなく、涙を流して伐って死にたいと思った。三年自戒し、妻子に親しまず、飢えても飽食せず、寒くてもあやぎぬを重ねず、越に心を集中し、その敵に報復しようとした。越公に師事し、その言葉を記録した。天の兆しを印したのは、牽牛と南斗であった。さかんに怒り、天とともに起った。令を発して民に告げると、民の帰することは父母に対するようで、子胥の言葉があれば、ただ後れるのを恐れた。軍隊と人民が心を同じくし、天意を得た。越はそこで軍隊を興し、西江で戦った。二国は強さを争い、いまだどちらが存続してどちらが亡びるかわからなかった。子胥は時勢の変化を知り、擬兵を用い、両翼をなし、夜に火をかかげ互いに呼応した。句踐は大いに恐れ、兵をととのえて帰し降伏しようとした。兵を進めて越を会稽填山に囲んだ。子胥の妙策はすばらしいと言うべきもので、守って戦うこと数年、句踐は和平を行った。伍子胥は諫め、これを容認しなかった。太宰嚭はこれを許し、兵を引いて還った。夫差は嚭のいうことを聞いて、仇を殺さなかった。軍隊を十万興しても、適わないのと同じであった。聖人はこれを譏り、このため春秋はその文を採用しなかった。故に伝に曰く、「子胥は賢者であったが、なお就李で恥をかいた」とは、このことをいうのである。哀しいことだ、夫差が伍子胥を信じずに、太宰嚭を任用したのは、これは晋に禍した驪姬、周を滅ぼした褒姒に比するもので、図画では非常に妖艶であるが、人理には極めて道を外れるものである。傾城傾国は、ここに後の王に明らかに示し、麗しくなまめかしい姿は、前史に戒めを求めるべきである。古人は、「苦い薬は病に効き、苦言は行いに利く」と言った。思いを隠して安寧のときも危険を思い、日々謹むのである。易に曰く「進むを知って退くを知らず、存するを知って亡ぼすを知らず、得るを知って喪うを知らず」また曰く、「進退存亡の正しさを失わないのは、ただ聖人だけである」これによって言うと、進むには退くの義があり、存するには滅ぶの兆しがあり、得るには喪うの理がある。これを愛すること父母のごとく、これを仰ぐこと日月のごとく、これを敬うこと神明のごとく、これを恐れること雷のごとく、これで幸いを長く望むことができ、禍乱はおこらない。