越絶書巻八

越絶外伝記地伝第十

昔、越の先君無余は、禹の子孫で、別れて越に封じられ、禹の塚を守った。問うに、天地の道、万物のおきては、その根本を失うことがない。神農は百草・水土の甘苦を嘗め、黄帝は衣裳を作り、后稷は農業を興し、器械を作り、人事は備わった。桑麻の畝を作り肥やしをやり、五穀を播くのには、必ず手足をもってする。大越の海浜の民は、ひとり鳥田をもってし、それには大小の差があり、進退するに行列を作り、自ら使おうとすることはなかったのは、その理由はどうしてか。
いわく、禹はその始め、民を憂いて洪水から救い、大越に至り、茅山に登り、大いに集めて計り、徳のある者に爵位を与え、侯のある者を封じ、茅山の名を改めて會稽といった。その王位に就いてからは、大越を巡狩し、老人に会い、詩書を納め、人物を計り調べ、斗升を均一にした。病のため死に、會稽に葬られた。葦の槨に桐の棺、墓穴を穿つこと七尺、上は漏れることなく、下は水につかることがなかった。壇の高さは三尺、土の階段が三段あり、広さは一畝であった。禹がここに至ったのは、また理由があり、また覆釜のためであった。覆釜とは、州土であり、徳を満たすものであった。禹は美としてここに至ったのである。禹は晩年になり、たそがれになったと知り、書をそのふもとに求め、白馬を祭った。禹井とは、井は法である。思うに禹の葬儀は法度をもってし、人民を煩わさなかった。
無余ははじめ大越に封じられ、秦餘望の南に都をおき、千余年たって句踐に至った。句踐は治所を山北に移し、拡張して東海を属し、内外越は別に封じられてこれを分けた。そこにいて幾ばくもなく、自ら賢聖を求めた。孔子は弟子七十人を従え、先王の雅びやかな琴を捧げ持ち、礼を治め行って奏上に赴いた。句踐はそこで自ら賜夷の鎧を着て、歩光の剣を帯び、物盧の矛を持ち、決死の士三百人を出し、陣を関下に作った。孔子はしばらくしてはるか越に至った。越王は言った。
「はい、夫子は何をもってこれを教えるのですか」
孔子は答えて言った
「私は五帝三王の道を述べることができます、故に雅やかな琴を捧げ持って大王のところに至ったのです」
句踐は嘆息して嘆いて言った
「越の性質はもろく愚かであり、川を行き来し山におり、船を車としかいを馬として、往くのはつむじ風のごとく、去れば追いがたく、精鋭な兵は死をいとわないのが、越の定まった性質です。夫子が異とすれば不可です」
ここにおいて孔子は辞退し、弟子も〔句踐に〕従うことはできなかった。
越王夫鐔から無余までは、長久であり、世系は記録することはできなかった。夫鐔の子は允常である。允常の子は句踐であり、大いに覇をとなえ王と称し、瑯琊にうつって都をおいた。句踐の子は与夷で、そのとき覇をとなえた。与夷の子は子翁で、そのとき覇をとなえた。子翁の子は不揚で、その時覇をとなえた。不揚の子は無疆で、そのとき覇をとなえ、楚を伐ったが、威王は無疆を滅ぼした。無疆の子は之侯で、ひそかに自立して君長となった。之侯の子は尊で、そのとき君長となった。尊の子は親で、人々の信望を失い、楚はこれを伐ち、南山に逃走した。親から句踐に至るまでは、全部で八君、瑯琊に都をおくこと二百二十四年であった。無疆以前は、覇をとなえ、王と称した。之侯以降は微弱となり、君長と称した。
句踐小城とは、山陰城のことである。周囲は二里二百二十三歩、陸門が四つ、水門が一つあった。今の倉庫はその宮殿の台のところにある。周囲は六百二十歩、柱の長さは三丈五尺三寸、といの高さは一丈六尺であった。宮殿には百の扉があり、高さは一丈二尺五寸であった。大城の周囲は二十里七十二歩、北面は築いていなかった。そして呉を滅ぼし、治所を姑胥台に移した。山陰大城は、范蠡が築いて治所を置いたところである。今伝わっているところではこれを蠡城という。陸門が三つ、水門が三つあり、西北に城壁が途切れており、それもまた理由があった。始建国の時に至り、蠡城は消滅した。
稷山は、句踐の斎戒した台である。
亀山は、句踐が建てた怪游台である。東南に司馬門があり、よって亀を照らした。また天の気を仰ぎ望み、天の怪を見た。高さは四十六丈五尺二寸、五百三十二歩、今の東武里である。一名を怪山という。怪山は、むかし一夜にして自らやってきたので、民はこれを怪しみ、故に怪山といった。
駕台は、周囲が六百歩、今の安城里である。
離台は、周囲が五百六十歩、今の淮陽里丘である。
美人宮は、周囲が五百九十歩、陸門が二つ、水門が一つ、今の北壇利里丘土城であり、句踐が美女西施・鄭旦を教習した宮台である。女は苧蘿山の出身で、呉に献じようとしたが、自ら東の果ての田舎であることを思い、女が田舎じみているのを恐れ、故に大道の近くにあったのである。県を去ること五里である。
楽野は、越の狩り場であり、大いに楽しんだので、ゆえに楽野と言った。その山上の石室は、句踐が休んで謀をしたところである。県を去ること七里である。
中宿台馬丘は、周囲が六百歩、今の高平里丘である。
東郭外の南小城は、句踐の氷室である。県を去ること三里である。
句踐が出入りするには、稷山で斎戒し、田里より行き、北郭門より去った。亀を亀山で照らし、さらに駕臺へ行き、離丘に馳せ、美人宮に遊び、中宿で音楽に興じ、馬丘を過ぎた。楽野の道に弓を射て、犬を若耶に走らせ、石室で休息して謀り、冰廚で食事をした。功績をしるし士をはかり選び、そののちやがて昌土台を作り、その姿をかくし、その情を隠した。一説にいう、氷室は、食事を備えるところである。
浦陽は句踐の軍が破れて兵を失い、ここに悶えた。県を去ること五十里である。
夫山は、句踐が糧食を絶やし、困窮したところである。その山上の大冢は、句踐の庶子の冢である。県を去ること十五里である。
句踐は呉と浙江のほとりで戦い、石買は将となった。老人、壮年は諫言を進めて言った
「石買は、人は皆怨みとなし、家は皆仇となし、貪欲で利を好み、心が狭く、長期的な策がありません。王がもしこれを用いれば、国は必ずや長続きしません」
王は聞かず、ついにこれを遣わした。石買は出発し、行って浙江のほとりに至ると、無罪の者を斬殺し、威を専らにし軍中を服従させようとし、将帥を動揺させ、ひとりその権力を専らにした。兵士は恐れて、人は安心できなかった。
兵法にいう、「人を見るに嬰児のごとくすれば、共に深い谷に赴くことができる」
兵士は腐敗したが、石買は気づかず、なお法を厳しく刑を重くした。子胥はひとり越を討ち取れるきざしを見て、変じて奇謀をなし、或いは北に向かい或いは南に向かい、夜に火を挙げ鼓を打ち、昼に疑兵を陣した。越軍は潰滅し、命令は行われず、背反して乖離した。帰ってその王に報じると、王は買を殺し、その軍に告げ、叫び声は呉に聞こえた。呉王は恐懼したが、子胥はひそかに喜んだ。
「越軍は敗れます。私は、狐がまさに殺されようすると、唇を噛んで歯を吸うと聞いております。今越の句踐はすでに敗れております。君王は意を安んじてください、越はたやすく併合することができます。人を使わして越を訪れさせると、越軍は降服することを請うたが、子胥は許さなかった。越は会稽山の上に立てこもり、呉は退いてこれを囲んだ。句踐は嘆息して文種・范蠡の計を用い、死を転じて覇業をなした。一人の身に、吉凶はかわるがわる至る。盛衰存亡は、臣を用いることにかかっている。天下を治める道は万事、重要なのは賢人を得ることにある。越が会稽山に立てこもった日、呉と和平を行い、呉は兵を引いて去った。句踐はまさに下ろうとして、西方の浙江に至り、命令を待って呉に入った、故に鶏鳴墟という。その入臣の辞に言う
「亡臣私句踐は、かならず兵士を率いて、呉に入り奴隷となります。民はお使ください、土地は保有してください」
呉王はこれを許した。子胥は大いに怒り、目は夜光のごとく、声は吼える虎のようであった。
「このたび越が戰わずに降伏したのは、天が呉に賜ったのだというのに、天に逆らうというのか。私は君王が急ぎこれを制裁していただきたい」
陽城里は、范蠡の城である。西の方角は水路へ至り、水門が一つ、陸門が二つあった。
北陽里城は、大夫種の城である。土を西山から取ってこれに加えた。直径は百九十四歩である。或いは南安といった。
富陽里は、外越が義を賜ったところである。里門に居住させ、練塘田を褒め称えた。
安城里高庫は、句踐が呉を伐ち、夫差を擒にし、勝利をもたらした兵器を思い、倉庫を築きこれを高く積み上げた。周囲は二百三十歩、今の安城里である。呉王は聴かず、ついにこれを浙江で赦したというのがこのことである。
故の禹の宗廟は、小城南門外の大城内にある。禹稷は廟の西にあり、今の南里である。
独山大冢は、句踐が自ら塚を作った。瑯琊に遷都し、塚は完成しなかった。県を去ること九里である。
麻林山は、一名多山という。句踐が呉を伐とうとし、麻を植えて弓の弦をつくり、斉人にこれを守らせた。越は斉人を「多」といい、ゆえに麻林多といい、呉を防いだ。山下の田地で功臣を封じた。県を去ること一十二里である。
会稽山上城は、句踐が呉と戦い、大いに敗れ、その中に立てこもった。その下には目魚池があり、その利益は税がかからなかった。
会稽山北城は、子胥の駐屯兵が城を守ったのがこれである。
若耶大冢は、句踐が移した先君夫鐔の墳墓である。県を去ること二十五里である。
葛山は、句踐が呉に疲弊し、葛を植え、越の女に葛布を織らせ、呉王夫差に献じた。県を去ること七里である。
姑中山は、越の銅官の山であり、越人はこれを銅姑瀆といった。長さは二百五十歩、県を去ること二十五里である。に犬山という。その高みに犬亭がある。県を去ること二十五里である。
白鹿山は、犬山の南にあり、県を去ること二十九里である。
雞山・豕山は、句踐が鶏と豚を飼い、まさに呉を伐とうとして、士に食べさせたのである。雞山は錫山の南にあり、県を去ること五十里である。豕山は民山の西にあり、県を去ること六十三里である。洹江からは越に属す。おそらく豕山は餘暨界中にある。
練塘は、句踐の時に錫山から採取して炭を作り、「炭聚」といい、すなわち炭瀆より練塘に至り、各々このことによって名づけたのである。県を去ること五十里である。
木客大冢は、句踐の父允常の墳墓である。
初めて瑯琊に移ったとき、やぐら船の卒二千八百人に松とこのてがしわを伐採させていかだを作らせた、ゆえに木客という。県を去ること十五里である。一説に、句踐が良い木材を伐採し、文様を刻んでで呉に献じた、故に木客という。
官瀆は、句踐の工官である。県を去ること十四里である。
苦竹城は、句踐が呉を伐って還り、范蠡の子を封じたところである。その地は辺鄙で、直径は六十歩である。民に田地を作らせ、塘の長さは一千五百三十三歩である。そこの墳墓を土山いった。范蠡は苦心して勤め功が厚く、ゆえにその子をここに封じたのである。県を去ること十八里である。
北郭外路南溪北城は、句踐が鼓鍾宮を築いたところである。県を去ること七里である。その邑には龔・銭の姓の者が住んでいた。
舟室は、句踐の造船所である。県を去ること五十里である。
民西大冢は、句踐の客の秦伊というよく亀を照らした者の墳墓である。よって冢を名づけて秦伊山といった。
射浦は、句踐が兵を教習したところである。今、射浦は県を去ること五里である。射卒の陳音が死んで、民西に葬り、故に陳音山と言った。
種山は、句踐が大夫種を葬ったところである。櫓舟の卒二千人に、三本の墓道を作らせ、これを三つの峰の下に葬った。
種はまさに死のうとするとき、自ら記した
「後に賢者があり、百年たって至る。私を三峰の下に置け、自ら後世に現れるであろう」
句踐はこれを葬り、祭って三賢人に伝えた。
巫里は、句踐が巫師を移住させ一つの聚落を作ったところである。県を去ること二十五里である。その亭と祠は今の和公群社稷墟である。
巫山は、越■■、神巫の官であり、死ぬとその上に葬られた。県を去ること十三里ばかりである。
六山は、句踐が銅を鋳たところである。銅を鋳て熔けないと、これを東阪に埋めた。その上には竹の鞭がとれた。句踐は使者を遣わし竹を南社に取っていたが、種を六山に移し、装飾して竹の鞭を作り、これを呉に献じた。県を去ること三十五里である。
江東中に葬られた神巫は、越の神巫の無杜の子孫である。死ぬと、句踐は中江にこれを葬った。巫は神がかりであり、転覆させて呉人の舟に禍を与えようとした。県を去ること三十里である。
石塘は、越が軍船を妨害したところである。塘は広さ六十五歩、長さ三百五十三歩、県を去ること四十里である。
防塢は、越がそれによって呉軍を防いだ。県を去ること四十里である。
杭塢は、句踐の船があった。二百石の長さで、卒七千人を動員し、これを会夷に渡した。
県を去ること四十里である。
塗山は、禹が妻を娶った山である。県を去ること五十里である。
朱餘は、越の塩官である。越人は塩を「餘」といった。県を去ること三十五里である。
句踐はすでに越を滅ぼしてから、呉人に呉塘を作らせた。東西は千歩で、名づけるのに頭文字を避けた。後にこのために名づけて塘と言った。
独婦山は、句踐がまさに呉を伐とうとしたとき、寡婦を移して独山上に至らせ、決死の士に示し、心を一つにさせることができた。県を去ること四十里である。後人の説では、おそらく句踐が軍士を遊ばせたのであろう。
馬嗥は、呉が越を伐ったとき、道中で大風に遭い、車は壊れ馬は失われ、騎士は堕ちて死に、一匹の馬が鳴き叫んだ、そのことは呉史に見られる。
浙江南路西城は、范蠡が兵を集めた城である。その陵は堅く守ることができ、故にこれを固陵と言った。なぜそうなったかというと、大きな軍船が置いてあったからである。
山陰古故陸道は、東郭を出て、直瀆より陽春亭に直通した。山陰故水道は、東郭を出て、郡より陽春亭に至った。県を去ること五十里である。
語児郷は、昔の越の国境内にあり、名を就李と言った。呉は越の地に力を及ぼして戦場とし、柴辟亭に至った。
女陽亭は、句踐が呉に奴隷として入ったとき、夫人が従い、道中で娘をこの亭で産み、李鄉で養育した。句踐が呉に勝つと、名を女陽と改め、就李を改めて語児郷とした。
呉王夫差は越を伐ち、その国を保有し、句踐は降伏して奴隷となった。三年して、呉王はまた句踐を越に帰して封じ、東西は百里、北方は呉に臣事し、東を右とし、西を左とした。大越のもとの境界は、浙江から就李に、南は姑末・写干に至った。
覲鄉の北に武原がある。武原は、今の海塩である。姑末は、今の大末である。写干は、今は豫章に属す。
無餘が初めて越に封じられて以来、伝え聞くところ越王の子孫は、丹陽皋鄉にいて、姓を梅と変えた。梅里がこれである。
秦の立国より以来、秦元王に至るまで年を記さなかった。元王は立つこと二十年、平王は立つこと二十三年、恵文王は立つこと二十七年、武王は立つこと四年、昭襄王もまた立つこと五十六年にして、周赧王を滅ぼし、王を周はここに絶えた。孝文王は立つこと一年、荘襄王は号を太上皇帝とあらため、立つこと三年、秦始皇帝は立つこと三十七年、号して趙政といい、政は、趙の外孫であった。胡亥は立つこと二年、子嬰は立つこと二年であった。秦元王から子嬰に至るまで、凡そ十人の王がいて、百七十年であった。漢の高帝はこれを滅ぼし、咸陽に治所を置き、天下を一つにした。
政は将軍魏舎・内史教に韓を伐たせ、韓王安をとらえた。政は将軍王賁に魏を攻めさせ、魏王歇をとらえた。政は将軍王渉に趙を攻めさせ、趙王尚をとらえた。政は将軍王賁に楚を攻めさせ、楚王成をとらえた。政は将軍史敖に燕を攻めさせ、燕王喜をとらえた。政は将軍王渉に斉を攻めさせ、斉王建をとらえた。政は号をあらためて秦始皇帝とし、その三十七年に、東遊して会稽に行き、道中で牛渚を渡り、東安に向かった。東安は、今の富春である。丹陽、溧陽、鄣故、餘杭軻亭を通り南方に向かった。東方の槿頭に向かい、道中諸暨・大越を渡った。正月甲戌に大越に至り、舎都亭に留まった。錢塘浙江から「岑石」を採った。石の長さは一丈四尺、南北面の広さは六尺、東面の広さは四尺、西面 の広さは一尺六寸、文を刻んで越棟山上に立て、そこへの道は九つの曲がり角があり、県を去ること二十一里であった。この時、大越の民を移して餘杭伊攻□故鄣に置いた。そこで天下の有罪の吏民を移し、海南の元の大越のあったところに置き、東海の外越に備えた。そして大越の名をあらためて山陰と言った。すでに去り、諸暨・錢塘に向かい、そして呉に向かった。姑蘇台に登った、そして矢を射て宅亭・賈亭北にとどまった。その年に霊に至ったが、射ずに去った。曲阿・句容に向かい、牛渚を渡り、西に向かって咸陽に至り、崩御した。