越絶書巻十二

越絶巻第十二

越絶内経九術第十四
昔、越王句踐は大夫種に問うて言った
「私は呉を伐ちたいと思うが、どのようにしたら成功を収めることができるだろうか」
大夫種は答えて言った
「呉を伐つには九つの術があります」
「九術とは何か」
答えて言った
「一つ目は、天地を敬い、鬼神に仕えることです。二つ目は、多くの財幣をその君に贈ることです。三つ目は、穀物や藁を高値で買い取り、その国を空にすることです。四つ目は、これに美女を贈り、その志を疲れさせることです。五つ目は、これに巧みな職人を贈り、宮室や高台を建てさせ、その財を尽かせてその力を疲弊させることです。六つ目は、へつらう臣下を送り、伐ちやすくすることです。七つ目は、諫める臣下を阻み、これを自殺させることです。八つ目は、自国の家を富ませ武器を備えることです。九つ目は、鎧や武器を堅固にして研ぎ、その疲弊に乗じることです。ゆえに九つの術を患えることなく、口を戒めて伝えないことで、天下を取るのは難しくないと言われています。ましてや呉は」
越王は言った
「よろしい」
ここで桐の欄干を作り、それは白璧をつらね、黄金をちりばめ、龍蛇が行くようなものであった。そこで大夫種にこれを呉に献上させて、言った
「東海の役臣である私句踐、使者の臣種は、あえて下吏を敬い、左右に問わせていただきます。天下の力に頼って、ひそかに小殿を作りましたが、余った材があるので、再拝してこれを大王に献じます」
呉王は大いに喜んだ。申胥は諫めて言った
「いけません。王は受け取らないでください。昔、桀は霊門を建て、紂は鹿台を建てましたが、陰陽が調和せず、五穀は育つ時期がなく、天与の災があり、国は空虚となり、ついにこれによって亡びました。大王がこれを受ければ、この後必ず災いがあるでしょう」
呉王は聴かず、ついにこれを受けて姑胥台を建てた。三年材を集め、五年かかって完成した。高く二百里を見渡せた。行く人は道中で死に、巷では泣いた。越はそこで美女西施・鄭旦を着飾らせて、大夫種にこれを呉王に献じさせて言った
「昔、越王句踐にはひそかに天が遣わした西施・鄭旦がおましたが、越国は落ちくぼんで貧窮なので、あえてこれに当たることができず、下臣種に再拝してこれを大王に献じさせます。呉王は大いに喜んだ。申胥は言った
「いけません。王は受け取らないでください。私は、五色は人の目を見えなくし、五音は人の耳を聞こえなくすると聞いております。桀は湯を侮って滅び、紂は周の文王を侮って亡びました。大王がこれを受け取れば、後でかならず災いとなります。私は、越王句踐は昼間は書物を書いて倦かず、夜には終日読み、決死の臣下数万を集めていると聞いております。この人は死ななければ、必ずその願いを遂げるでしょう。私は、越王句踐は誠を勉め仁を行い、諫言を聴き、賢士を登用していると聞いております。この人は死ななければ、必ず名声を得るでしょう。私は、越王句踐は冬は皮衣をはおり、夏は葛布をはおっていると聞いております。この人は死ななければ、必ず利害をなすでしょう。私は、賢士は国の宝であり、美女は国の災いであると聞いております。夏は末喜によって滅び、殷は妲己によって滅び、周は褒姒によって滅びました」
呉王は聴かず、ついにその女を受け取り、申胥が不忠をなしたという理由でこれを殺した。越はそこで軍隊を興して呉を伐ち、大いにこれを秦餘杭山に破り、呉を滅ぼし、夫差を虜にし、太宰嚭をその妻子と共に殺した。

越絶巻第十二 越絶外伝記軍気第十五
聖人が軍隊を行うには、上は天と徳を合し、下は地と明を合し、中は人と心を合する。義が合すればすなわち動き、よいところを合わせればすなわち取るのである。小人であればそのようなことはなく、強さで弱さを押しつぶし、利を他人の危難から取り、逆らうことと順うことを知らず、間違ったことに心を喜ばすのである。故に聖人だけが気が変じる事情を知り、それによって勝負の道に明るいのである。およそ気には五色がある。青・黄・赤・白・黒である。色にはそのために五つの変化がある。人気が変ずれば、軍の上に気があり、五色が合い連なって、天と互いに接するのである。これは天応であり、攻めることはできず、これを攻めても残るものはない。気の盛んなものは、これを攻めても勝てない。軍の上方に赤色の気があるのは、天と直に接し、攻める者は自分を殺すことになる。軍の上方に青い気の盛んに明るいものがあるのは、【欠】に従い、その本が広く末端が鋭いのは、これは逆兵の気であり、いまだ攻めることができず、衰え去ってはじめて攻めることができる。軍の上方に青い気の盛んに明るいものがあるのは、【欠】に従い、その本が広く末端が鋭いのは、これは逆兵の気であり、いまだ攻めることができず、衰え去ってはじめて攻めることができる。青気が上にあるのは、謀が定まらない。青気が右にあるのは、将は弱いが兵は多い。青気が後ろにあるのは、将は勇猛だが糧食は少なく、始めが大きく後が小さい。青気が左にあるのは、将は若く卒が多く、兵は少なく軍は疲れる。青気が前にあるのは、将が暴虐で、その軍は必ず来る。赤気が軍の上方にあるのは、将の謀略が未だ定まっていない。その気の本が広く末端が鋭くて来たるものは、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。赤気が右にあるのは、将軍が勇猛だが兵は少なく、卒は強く、必ず将を殺して投降する。赤気が後ろにあるのは、将が弱く、卒は強く、敵が少なく、これを攻めれば将を殺し、その軍を降伏させられる。赤気が右にあるのは、将は勇猛で、敵は多く、兵卒は強い。赤気が前にあるのは、将は勇猛だが兵は少なく、糧食は多いが卒は少なく、謀をしてやって来ない。黄気が軍の上方にあるのは、将の謀略が未だ定まっていない。その本は広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。黄気が右にあるのは、将は智慧があり賢明で、兵は多くて強く、糧食は足りて降すことができない。黄気が後方にあるのは、将が知性があり勇猛で、卒は強いが少なく、糧食が少ない。黄気が左にあるのは、将が弱く卒が少なく、兵が少なく糧食がなく、これを攻めれば必ず損傷を与える。黄気が前方にあるのは、将は勇猛で知性があり、卒が多く強く、糧食は足りて多くあり、攻めることはできない。白気が軍の上方にあるのは、将は賢知で賢明であり、卒は猛々しく勇猛で強い。その気の本が広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。白気が右にあるのは、将は勇猛で卒は強く、兵は多く糧食は少ない。白気が後方にあるのは、将は仁にして賢明で、卒は少なく兵は多く、糧食は少なく軍は損傷を受ける。白気が左にあるのは、将は勇猛で強く、卒は多く糧食は少なく、降すことができる。白気が前にあるのは、将は弱く卒は無く、糧食は少なく、これを攻めれば降すことができる。黒気が軍の上方にあるのは、将の謀が未だ定まっていない。その気の本は広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、去ってはじめて攻めることができる。黒気が右にあるのは、将は弱く卒は少なく、兵は無く、糧食は尽きて軍は損傷し、攻めずに自ら降すことができる。黒気が後方にあるのは、将が勇猛で卒は強いが、兵は少なく糧食は無く、これを攻めれば将を殺し、軍は亡びる。黒気が左にあるのは、将は知性があり勇猛だが、卒は少なく兵は少なく、これを攻めれば将を殺し、その軍は自ら降る。黒気が前にあるのは、将は明智だが卒は少なく糧食は尽き、攻めずに自ら降すことができる。
ゆえに明将は気の変化の形を知っている。気が軍の上方に在れば、その謀は未だ定まっていない。それが右にあり低いのは、右方に伏兵の謀をしようとしている。その気が前方にあり低いのは、前に陣を伏そうとしている。その気が後方にあり低いのは、走兵の陣をなそうとしている。その気が上るのは、兵を撤退させようとしている。その気が左にあり低いのは、左に陣をしこうとしている。その気がその軍と隔たっているのは、邑に入ろうとしている。右のことは、子胥が気を見て敵を取る常道であり、その法則はこのようなものだ。軍に気がなければ、廟堂で計算して、強弱を知る。一、五、九月は西に向かえば吉、北に向かえば敗亡なので、東に向かってはならない。二、六、十月であれば南に向かうのが吉、北に向かえば敗亡なので、北に向かってはならない。三、七、十一月であれば、東に向かえば吉、西に向かえば敗亡なので、西に向かってはならない。四、八、十二月であれば、北に向かえば吉、南へ向かへば敗亡なので、南に向かってはならない。これはその兵を用いる際の日月の運数であり、吉に向かい凶を避けるのである。挙兵するには太歳の供物を撃ってはならず、それは卯の方角ある。始めそれぞれの利を出し、その四時によって日を制するとは、このことをいうのである。
韓の故の治所は、今の京兆郡であり、星宿は角・亢である。
鄭の故の治所は、星宿は角、亢である。
燕の故の治所は、今の上漁陽・右北平・遼東・莫郡であり、星宿は尾・箕である。
越の故の治所は、今の大越山の北であり、星宿は南斗である。
呉の故の治所は西江であり、星宿は都牛・須女である。
斉の故の治所は臨淄であり、今の済北・平原・北海郡・菑川・遼東・城陽であり、星宿は虚・危である。
衛の故の治所は濮陽であり、いまの広陽・韓郡であり、星宿は営室・壁である。
魯の故の治所は泰山・東温・周固水であり、今の魏東であり、星宿は奎・婁である。
梁の故の治所は、今の済陰・山陽・済北・東郡であり、星宿は畢である。
晋の故の治所は、今の代郡・常山・中山・河間・広平郡であり、星宿は觜である。
秦の故の治所の雍は今の内史であり、巴郡・漢中・隴西・定襄・太原・安邑は、星宿は東井である。
周の故の治所は雒であり、今の河南郡であり、星宿は柳・七星・張である。
楚の故の治所は郢であり、今の南郡・南陽・汝南・淮陽・六安・九江・廬江・豫章・長沙であり、星宿は翼・軫である。
趙の故の治所は邯鄲であり、今の遼東・隴西・北地・上郡・雁門・北郡・清河であり、星宿は参である。