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つづき

使大夫種因呉大宰嚭以行成。呉子將許之。

大夫種をつかわして呉の大宰嚭をつうじて和平を行おうとした。呉子はまさにこれを許そうとした。

 

左伝では、大夫種が和平の使者となった、そのさい呉の太宰伯嚭を通じて和平を行おうとした、ということが書かれています。

これが「越語上」では伯嚭に美女を贈った云々というのが加わってくる。

 

山に立てこもっていたのに美女を贈るというのはどうにも違和感を感じます。
おそらく美女を贈ったというのはあとからくっつけられたエピソードで、伯嚭を「女に目がくらんだだめなやつ」とする価値観が、後世になってだんだんできあがっていき、それにあわせて付け加えられたのではないかと思います。

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『春秋左氏伝』の哀公元年(B.C.494)に、有名な夫椒の戦い→会稽の恥、あたりの記述があります。

もうすぐツイッターで訳してる『越語上』をサイトにもアップできると思うので、そのあたりと比較しながら少しずつ読んでいけたらと思います。

 

呉王夫差敗越于夫椒、報檇李也、遂入越、越子以甲楯五千、保于會稽、

呉王夫差は越を夫椒に破り、檇李の戦いに報復した。ついに越に入ると、越子は武裝した兵五千を率いて、会稽山にたてこもった。

 

「保于會稽」について、杜注が「上會稽山也」としていて、音義が「上時掌反」となってるので、「上」は「のぼる、その場所へ行く」ということで、句踐は兵五千人を率いて会稽山に立てこもったという解釈をしています。

 

『國語』「越語上」ではこのように書かれています。

 

越王句踐棲于會稽之上、乃號令于三軍曰

越王句踐は会稽山の上に立てこもり、三軍に号令して言った

 

左伝が「保」で國語が「棲」となってますが、韋昭の注によれば「山處曰棲会稽山名」となっていて、やはり「会稽山の上に立てこもった」という解釈をしています。ただ、もとの文はどちらも「会稽」となっていて「会稽山」とは書いてないですね。

 

ぼちぼち読んでいきたいと思います。続きはまた。

 

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原稿にはとりかかったんですが、まだ絵を描く段階ではなくて、今日はひたすら台詞のルビ振り→コマ割りでした。

枠線は、コミスタの機能でコマ割りをやって、それから別レイヤーを作ってマジックツールでなぞっていきます。

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5月新刊の台割が確定しました。

漫画部分が39ページになりました。

かなり集中してかからねばなりません。

今回は范さん(すごく描きにくい)が2ページしか出てこないので、前の本よりはペース上げられると思います。

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文種さんの名前について

作品では隻眼の中年として登場する【1】文種さんですが、この人の名前は「左伝」「國語」では「大夫種」と表記されています。史記の呉世家・越世家でもやはり「大夫種」となっています。

それで、「索隱」ではこのように説明しています。

 

大夫、官、種、名也。一曰大夫姓、猶司馬司徒之比、蓋非也。

「大夫」は官名で、「種」が名である。一説に「大夫」が姓で、「司馬」や「司徒」のようなものであるというが、それは誤りであろう。

 

ここでは否定されていますが、大夫が姓で種が名という説がかなり根強くあったみたいです。

時代が降って、『呉越春秋』になると「文種」として出てきます。『越絶書』では「大夫種」です。

姓が「文」だったとすると、「范蠡」は「范蠡」と表記されているのに、なんでこの人だけ「大夫種」って書かれてるのか、そのへんがよく分かりません。

ただ、姓が「文」だとか「大夫」だとか、いろんな意見が出てしまうぐらいに、素性のわからない人だったのではないかと思います。范蠡氏もそうですが、あんまり名門の出身ではなかったのかもしれない。

ついでに、越の大夫靈姑浮ですが。

諸橋大漢和では「靈姑」を複姓としてるのですが、これはちょっと出典が分かりません。わかったらまた書きたいと思います。

 

脚注
【1】2024年、歴史創作活動を再開するに当たって、思うところがあって試験的に隻眼の設定をやめています。両目あります。

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表紙制作中です。フーちゃんと、左の女性はフーちゃんのママン(故人)です。

本当は2月中に塗り終えたかった…のですがちょっと無理っぽいので、本文原稿と並行して少しずつ進めてと思います。

本は表紙込み44ページになる予定です。

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越に関して、左氏伝の伝える『春秋』経文の記述はあまり多くありません。

昭5  冬楚子蔡侯陳侯許男頓子沈子徐人越人伐呉
昭8  冬十月壬午楚師滅陳執陳公子招放之于越
昭32 夏呉伐越
定5  於越入呉
定14 五月於越敗呉于スイ李
哀13 於越入呉

これくらいです。

公羊伝・穀梁伝の引く『春秋』だと若干の異動があるかもしれないですが、それにしても少ない。

当時はあんまり注目されてなかったようです。

注目されるようになったのは、句踐が覇者となって、後にその功績が高く評価されるようになってからでしょうか。

 

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若夫后稷・皋陶・伊尹・周公旦・太公望・管仲・隰朋・百里奚・蹇叔・舅犯・趙衰・范蠡・大夫種・逢同・華登、此十五人者為其臣也、皆夙興夜寐、卑身賤體、竦心白意、明刑辟・治官職以事其君、進善言・通道法而不敢矜其善、有成功立事而不敢伐其勞、不難破家以便國、殺身以安主、以其主為高天泰山之尊、而以其身為壑谷釜洧之卑、主有明名廣譽於國、而身不難受壑谷釜洧之卑。如此臣者、雖當昏亂之主尚可致功、況於顯明之主乎。此謂霸王之佐也。(説疑)

そもそも后稷・皋陶・伊尹・周公旦・太公望・管仲・隰朋・百里奚・蹇叔・舅犯・趙衰・范蠡・大夫種・逢同・華登、これら十五人の者の臣としてのありかたは、みな朝早く起きて夜遅く寝て、身を卑くし体を賤しくし、心をつつしんで意を清らかにし、刑法を明らかにし、官職を治めて其の君に事え、善言を進め、道法に通じてその善を誇らず、功を上げて事をなしてもあえてその労を誇らず、はばからずに家をつぶして国家の便宜を図り、身を殺して主を安んじ、その主を高天や泰山のように尊くし、その身は谷間や低地に卑しくし、主が国に名声を明らかにし名誉が広まれば、その身は谷間や低地の低さにあることを厭わなかった。このような臣は、心乱れた君主に当たってもその功績をなすことができる、賢明な君主ならなおさらである。これを霸王の輔佐というのである。

 

范蠡と文種が名だたる功臣たちと併記されて「霸王之佐」として扱われています。
かなりベタほめです。この篇が成立した頃には、范蠡の功績に対する高い評価がほぼ固まっていたようです。

文種は「大夫種」と書かれています。
「大夫」が姓で名が「種」という説もあったみたいですが。

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文種さんの名前

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他に戦国期の史料で范蠡が登場するものに『韓非子』などがあります。

越王攻呉王、呉王謝而告服、越王欲許之、范蠡・大夫種曰、不可。昔天以越與呉、呉不受、今天反夫差亦天禍也。以呉予越、再拜受之、不可許也。太宰嚭遺大夫種書曰、狡兔盡則良犬烹、敵國滅則謀臣亡。大夫何不釋呉而患越乎。大夫種受書讀之、太息而歎曰、殺之、越與呉同命。(內儲説下)

越王は呉王を攻め、呉王は謝して降服を告げた。越王はこれを許そうとしたが、范蠡・大夫種は言った
「なりません。昔天が越を呉に与えましたが、呉は受けませんでした。今天が夫差に反したのもまた天の禍です。呉を越に与えるなら、再拝してこれを受けて下さい。許してはなりません」
太宰嚭は大夫種に書を送って言った
「すばしこい兎が死ねば良犬は煮られ、敵国が滅べば謀臣は亡びます。大夫はどうして呉を許して越を苦しめないのですか」
大夫種は書を受け取りこれを読むと、溜息をついて言った
「これを殺すなら、越は呉と命運を同じくするだろう」


どっちかというと文種が中心のエピソードですが。
このあたりになると、具体的な出来事や台詞などを含む説話が成立していたようです。

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范蠡という人は『左伝』には登場しません。

文献に登場するのは戦国期以降になります。
出身についても諸説あり、呉に来奔したいきさつが詳しく語られる伍子胥や伯嚭などと比べると、どうもはっきりしません。おそらく、それほど名門の出ではなかったと思われます。

戦国期になると、たとえば『墨子』にはこのような形で出てきます。

齊桓染於管仲・鮑叔、晉文染於舅犯・高偃、楚莊染於孫叔・沈尹、吳闔閭染於伍員・文義、越句踐染於范蠡・大夫種。此五君所染當、故霸諸侯、功名傅於後世。
(『墨子』所染)

斉の桓公は管仲・鮑叔に染まり、晋の文公は舅犯・高偃に染まり、楚の荘王は孫叔・沈尹に染まり、呉の闔廬は呉員・文義に染まり、越の句踐は范蠡・大夫種に染まった。この五君の染まるところは適切だったので、故に諸侯に覇し、功名は後世に伝わった。

 

『墨子』が成立した頃(前四世紀末以降?)には、句踐が五霸の一人として数えられるようになり、范蠡もそれを助けた功臣として認識されるようになっていたようです。