越絶書巻二

越絶書

越絶外伝記呉地伝第三

昔、呉の先君太伯は、周の世に、武王が太伯を呉に封じた。夫差に至るまで二十六世を数え、まさに千年になろうとした。闔廬の時、大いに覇し、呉越城を築いた。城中に小城が二つあった。胥山に政庁をうつした。のち二世にして夫差に至り、立って二十三年、越王句踐はこれを滅ぼした。
闔廬宮は高平里にある。 射台が二つあり、一つは華池昌里にあり、一つは安陽里にある。 南越宮は長楽里にあり、東は春申君の府に至る。秋冬は城中で政務を執り、春夏は姑胥之台で政務を執った。朝早く紐山で食事をし、昼は胥母に遊び、躯陂で弓を射て、遊台で馬を走らせ、走犬長洲で楽に興じた。呉王が大いに覇業をなしたのは、楚の昭王、孔子の時である。
呉の大城は周囲が四十七里二百一十歩二尺である。陸門が八つあり、その二つには楼がある。水門は八つある。南面は十里四十二歩五尺、西面は七里百十二歩三尺西面は七里百十二歩三尺、北面は八里二百二十六歩三尺、東面は十一里七十九歩一尺である。闔廬が造った。呉の郭は周囲が六十七里六十歩である。
呉小城は周囲が十二里である。その下部の広さは二丈七尺、高さは四丈七尺、門が三つあり、みな楼があり、その二つには水門が二つあり、そのうち一つには楼があり、一つには籬の通路がある。 東宮は周囲が一里二百七十歩である。路西宮には長秋があり、周囲は一里二十六歩である。秦の始皇帝十一年、宮を守る者が燕の巣を灯火で照らし、失火してこれを焼いた。
伍子胥城は、周囲が九里二百七十歩である。小城の東西は武里にしたがい、南は小城の北に従う(欠落?) 邑中の道は、閶門から婁門に至るまでは九里七十歩、陸道の広さは二十三歩、平門から蛇門に至るまでは十里七十五歩、陸道の広さは三十三歩、水道の広さは二十八歩である。
呉の古い陸道は、胥門を出て、土山に向かい、灌邑を渡り、高頸に向かい、猶山を過ぎ、太湖に向かい、北顧にしたがって西にむかい、陽下溪を渡り、歴山の南、龍尾の西の大決を過ぎ、安湖に通じる。
呉の古い水道は、平門を出て、郭池に上り、瀆に入り、巣湖を出て、歴地に上り、梅亭を過ぎ、楊湖に入り、漁浦を出て、大江に入り、広陵に向かう。 呉の古い道は由挙壁塞より、会夷を渡り、山陰に向かう。壁塞は、呉のものみの塞である。
居東城は闔廬が遊ぶところの城であり、県を去ること二十里である。柴碎亭から語児・就李に至るまで、呉が侵略して戦場となった。
百尺瀆は、江に向かい、呉はそれによって糧食を調達した。
千里廬虚は、闔廬が干将の剣を鋳造させたところである。欧冶の僮女が三百人いた。県を去ること二里、南は江に達する。
閶門の外の高景山の東桓石人は、古い名を石公といい、県を去ること二十里である。
閶門の外郭中の冢は、闔閭の氷室である。
闔閭冢は、閶門の外にあり、名を虎丘という。下池の広さは六十歩、水深は一丈五尺である。銅のひつぎが三重になっており、墳墓の池は六尺である。玉製の鴨が流れ、扁諸の剣が三千、方円の口三千、時耗・魚腸の剣がここにあった。十万人がこれを築いた。土を臨湖口から取った。葬ること三日にして白虎がその上にいたので、ゆえに号して虎丘というのである。
虎岡の北の莫格冢は、昔の賢者が世を避けた冢であり、県を去ること二十里である。
被奏冢とは、鄧大冢というのがこれにあたる。県を去ること四十里である。
闔閭子女冢は、閶門の外道の北にある。下方の池は広さが四十八歩、水深は二丈五尺である。池の広さは六十歩で、水深は一丈五寸である。隧道が廟路から南に出て姑胥門に通じる。合わせて周囲が六十里である。鶴を呉の市に舞わせ、生者を殺して葬送した。
餘杭城は、襄王の時、神女を葬ったところである。神には霊験が多かった。
巫門外の麋湖西城は、越宋王の城である。時に揺城王と周宋君は語招で戦い、周宋君を殺した。頭を貫かれて騎馬で帰り、武里に至って死亡し、武里南城に葬った。五月五日に死んだ。
巫門外の冢は、闔廬の氷室である。
巫門外の大冢は、呉王の客、斉の孫武の冢である。県を去ること十里。よく兵法をなした。
地門外の塘波洋中世子塘は、もとは王の世子が造成して農地をつくった。塘は県を去ること二十五里である。
洋中塘は、県を去ること二十六里である。
蛇門外の大丘は、名が明らかでない呉王の冢である。県を去ること十五里である。
築塘北山は、名が明らかでない呉王の冢である。県を去ること十五里である。
近門外の欐渓櫝中の連鄉大丘は、呉の古い神巫が葬られたところである。県を去ること十五里である。
婁門外の馬亭渓上の復城は、故の越王餘復君が治したところである。県を去ること八十里である。この時楚の考烈王が越に帰した。記載するところの襄王の後のことは、続けて述べることができなかった。その事は馬亭渓に書かれている。
婁門外の鴻城は、故の越の王城である。県を去ること百五十里である。
婁門外の雞陂墟は、故の呉王が鶏を飼育したところであり、李保にこれを養わせた。県を去ること二十里である。
胥門外には九曲路があり、闔廬が造営して姑胥の台に遊び、太湖中を望み、人民の様子をうかがった。県を去ること三十里である。
斉門は、闔廬が斉を伐って大いに勝ち、斉王の娘を取って人質とし、王女のために斉門を作り、水海虚に置いた。その台は車道の左、水海の右にある。県を去ること七十里である。斉女はその国を思って死に、虞西山に葬られた。
呉の北野の禺櫟東にある大きな焼き畑は、呉王の田地である。県を去ること八十里である。
呉の西野の鹿陂は、呉王の田地である。いま分かれて耦瀆・胥卑虚となっている。県を去ること二十里である。
呉の北野の胥主疁は、呉王の娘胥主の田地である。県を去ること八十里である。
麋湖城は、闔廬が鹿を置いたところである。県を去ること五十里である。
欐渓城は闔廬が船宮を置いたところである。闔廬が造った。
婁門外の力士は、闔廬が造り、外の越に備えた。 巫欐城は、闔廬が諸侯の遠客を置いた離城である。県を去ること十五里である。
由鍾の窮隆山は、昔赤松子が赤石脂を取ったところである。県を去ること二十里である。子胥が死ぬと、民はこれを思って祭った。
莋碓山は、もとは鶴阜山といい、禹が天下に遊び、太湖中の柯山を引っ張ってきてこれを鶴阜に置き、名を莋碓とあらためた。
放山は、莋碓山の南にある。莋碓山の下にあったので、郷の名を莋邑というのである。呉王はその名をにくみ、内郭中に、通陵郷と名付けた。
莋碓山の南に大石があり、古くは名を墜星といった。県を去ること二十里である。
撫侯山は、むかし闔廬が諸侯の墳墓を造ったところである。県を去ること二十里である。
呉の東徐亭は東西南北の渓流が通じていて、越荊王が置いたところであり、麋湖に通じている 。
馬安渓上の干城は、越干王の城である。県を去ること七十里である。
巫門外の冤山大冢は、むかしの越王王史の冢である。県を去ること二十里である。
揺城は、呉の王子の居たところであり、後に越の揺王がここにいた。稲田が三百頃あり、在邑の東南にあり、土地は肥沃で、水はすぐれている。県を去ること五十里である。
胥女大冢は、呉王の名が詳しくわからない冢である。県を去ること四十五里である。
蒲姑大冢は、呉王の名が詳しくわからない冢である。県を去ること三十里である。
石城は、呉王闔廬が美人を置いた離城である。県を去ること七十里である。
江に通じる南陵は、揺越が開鑿したところである。これにより上舍君を伐った。県を去ること五十里である。婁東の十里坑は、むかしは名を長人坑といい、海から上がってきて通じていた。県を去ること十里である。
海塩県は、はじめは武原郷といった。
婁北の武城は、闔廬が外越をうかがったところである。県を去ること三十里。今は郷となっている。
宿甲は、呉が兵を宿泊させて外越をうかがったところである。県を去ること百里、その東に大冢があり、揺王の冢である。
烏程・餘杭・黝・歙・無湖・石城県以南は、皆むかしの大越の徙民である。秦始皇帝がこれを徙したことを石碑に刻した。
烏傷県の常山は、昔の人が薬を採ったところである。高く、かつ神妙である。
斉郷は、周囲が十里二百一十歩、その城は六里三十歩、屏の高さは一丈二尺、百七十歩、竹格門が三つあり、そのうち二つには建物がある。
虞山は、巫咸の主神地である。虞はむかしから神出奇怪である。県を去ること百五里である。
母陵道は、陽朔三年に、太守の周君が語昭に造った陵道である。郭の周囲は十里百一十歩、屏の高さは一丈二尺である。陵には門が四つあり、皆建物がついている。水門が二つある。
無錫城は、周囲が二里十九歩、高さが二丈七尺、門が一つ、楼が四つある。その城郭の周囲は十一里百二十八歩、屏は一丈七尺、門にはみな建物がある。
無錫歴山は、春申君のとき盛んに牛を祀り、無錫塘を造った。呉を去ること百二十里である。
無錫湖は、春申君が治水して陂をつくり、語昭瀆を開鑿して東の大きな水田に至った。田の名は胥卑という。胥卑の下を開鑿して南の大湖に注ぎ、西野にそそいだ。県を去ること三十五里である。
無錫の西の龍尾陵道は、春申君が初めて呉に封じられたとき造営したものである。無錫県に属し、呉の北野の胥主疁に向かう。
曲阿は、むかし雲陽県といった。 毗陵はむかし延陵といい、呉季子がいたところである。
毗陵県の南城は、むかしの淹君の地である。東南の大冢は、淹君の子女の冢である。県を去ること十八里、呉が葬ったところである。
毗陵の上湖中冢は、延陵の季子の冢である。県を去ること七十里。上湖は上洲に通じている。
季子冢は古い名は延陵墟といった。
蒸山の南面の夏駕大冢は、名がはっきりしない越王の冢である。県を去ること三十五里である。
秦餘杭山は、越王が呉王夫差を棲ませたところである。県を去ること五十里。山には湖水があり、太湖に近い。
夫差冢は、猶亭西の卑猶の上にある。越王は兵士にもっこ一つぶんの土でこれを葬らせた。太湖に近い。県を去ること十七里である。
三台は、太宰嚭・逢同の妻子が死んだところである。県を去ること十七里である。
太湖は、周囲が三万六千頃である。そのうち千頃は烏程である。県を去ること五十里である。
無錫湖は、周囲が一万五千頃である。そのうち一千三頃は毗陵上湖である。県を去ること五十里である。またの名を射貴湖という。
尸湖は、周囲が二千二百頃、県を去ること百七十里である。
小湖は、周囲が一千三百二十頃,県を去ること百里である。
耆湖は、周囲が六万五千頃、県を去ること百二十里である。
乗湖は、周囲が五百頃、県を去ること五里である。
猶湖は、周囲が三百二十頃、県を去ること十七里である。
語昭湖は、周囲が二百八十頃、県を去ること五十里である。
作湖は、周囲が百八十頃、たくさんの魚や物がとれる。県を去ること五十五里である。
昆湖は、周囲が七十六頃一畝、県を去ること一百七十五里である。またの名を隠湖という。
湖王湖、要調査。
丹湖、要調査。
呉はむかし江海を棠浦の東にまつり、江南に四角い堤防を作り、潮汐の水利をなした。古くは太伯が呉に君となったときから、闔廬の時に絶えた。
胥女南の小蜀山は、春申君の客の衛の公子の冢である。県を去ること三十五里である。
白石山は、むかし胥女山といい、春申君がはじめて呉に封じられたときに通り過ぎ、名をあらためて白石とした。県を去ること四十里である。
今の太守の館は、春申君が作ったものである。後殿屋を桃夏宮という。
今の宮殿は、春申君の子、仮君の宮殿である。前殿屋は蓋し土地は東西十七丈五尺、南北十五丈七尺である。建物の高さは四丈、といの高さは一丈八尺である。殿屋は蓋し地は東西に十五丈、南北は十丈二尺七寸である。といの高さは一丈二尺である。倉庫の東向きの建 物は南北に四十丈八尺であり、上下の戸は各々二つある。南向きの建物は東西に六十四丈四尺であり、上戸が四つ、下戸が三つある。西向きの建物は南北が四十二丈九尺、上戸が三つ、下戸が二つある。全部で百四十九丈一尺である。ひさしの高さは五丈二尺、といの高さは二丈九尺である。周囲は一里二百四十一歩である。春申君が建造した。
呉両倉は、春申君が建造した。西倉の名は均輸といい、東倉は周囲一里八歩である。後に焼けた。更始五年、太守李君が東倉を修理して属県の宿舎にしようとしたが、成功しなかった。
呉市は、春申君が作った。二つの城に門をかけ市となし、湖里にあった。
呉の諸々の里の大閈は、春申君が建造した。
呉の獄庭は、周囲が三里、春申君の時に造られた。
土山は、春申君の時貴人の冢をつくった。県を去ること十六里である。 楚門は、春申君が建造した。楚人がこれに従ったので、楚門としたのである。
路丘大冢は、春申君の客の冢である。碑は立てず、道がここで終わっている。県を去ること十里である。
春申君は、楚の考烈王の相である。烈王が死ぬと、幽王が立ち、春申君を呉に封じた。三年、幽王は春申君を召して楚の令尹とし、春申君は自らその子を仮君として呉を治めさせた。十一年、幽王は假君と春申君を召してともにこれを殺した。二君が呉を治めることおよそ十四年であった。後十六年、秦の始皇帝が楚を併合すると、百越は叛いて去り、大越の名をあらためて山陰とした。春申君は姓を黄、名を歇といった。
巫門外の罘罳は、春申君が呉を去ると、仮君が彼をしのんだところである。県を去ること二十三里である。
寿春東の鳧陵亢は、むかしの諸侯王が葬られたところである。楚の威王が越王無疆と並んでいる。威王の後は烈王で、子が幽王で、後が懐王である。懐王の子は頃襄王である。秦の始皇帝はこれを滅ぼした。秦の始皇帝は道陵の南に建造したので陵道が通じて由拳塞に至った。同じく馬塘より起こり、水を満たして陂をつくり、陵水道を治水し銭唐に至り、越の地を通り、浙江に通じた。秦の始皇帝は会稽の謫戍の卒を徴発して、陵高以南の陵道を修築して通じさせ,県を互いにつながらせた。
秦始皇帝の三十七年、諸侯の郡縣の城を壊した。
太守府の大殿は、秦始皇帝の刻石をしたとき建てたところである。更始元年に至り、太守許の時失火した。六年十二月乙卯に、官池を開鑿し、東西は十五丈七尺、南北は三十丈である。
漢の高帝は功のあった者を封じ,劉賈は荊王となり、あわせて呉を有した。賈は呉市西城を築き、名付けて定錯城といった。小城と連なり、北は平門に至り、丁將軍がこれを修築した。十一年、淮南王が叛き、劉賈を殺した。後十年、高皇帝は更えて兄の子濞を封じて呉王とし、広陵に統治し、并せて呉を有した。立って二十一年、東方に渡って呉に行き、十日で引き返した。立って四十二年、反乱した。西は陳留県に至り、引き返して丹陽に奔り、東欧に従った。越王の弟の夷烏将軍は濞を殺した。東欧王は彭沢王となり、ここに夷烏将軍は平都王となった。濞の父の字は仲であった。
匠門外の信士里の東の広い平地は、呉王濞の時の宗廟である。太公・高祖が西にあり、孝文帝が東にある。県を去ること五里である。永光四年、孝元帝の時に、貢大夫が請願してこれを廃止した。
桑里の東の現在の舍西は、むかし呉が牛・羊・豚・鶏を飼育していたところであり、名を牛宮といった。今は園となっている。 漢の文帝前九年、会稽が故の鄣郡を併合した。太守故の鄣に治し、都尉は山陰に治した。前十六年、太守は呉郡に治し都尉は銭唐に治した。
漢の孝景帝五年五月、会稽は漢に属した。漢に属したのは、初めて併せたということである。漢孝武帝の元封元年、陽都侯が帰服し、由鍾に置いた。由鍾は初めて立ち、県を去ること五十里であった。
漢の孝武帝の元封二年、故の鄣を丹陽郡とした。
天漢五年四月、銭唐浙江の巨石が見られず、七年に至って、巨石がまた現れた。
越王句踐は瑯邪に徙り、凡そ二百四十年、楚の考烈王が越を瑯邪に併せた。後四十余年、秦が楚を併せた。また四十年、漢が秦を併せた。今に至るまで二百四十二年である。句踐が瑯邪に徙ってから建武二十八年まで、凡そ五百六十七年である。

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