越絶書

越絶外伝計倪第十一

昔、越王句踐は近くは強国の呉に侵攻され、遠くは諸侯に恥じ、武器と鎧は散って無くなり、国はまさに滅亡しようとし、そこで諸臣を集めてこれと誓った
「私は呉を伐とうと思うが、いかにして功を上げられるだろうか」
群臣は黙って答えるものは無かった。王は言った
「主が憂えれば臣は恥じ、主が辱められれば臣は死ぬ。どうして大夫らは簡単に会えるのに使うのが難しいのか」
計倪は官位が低く年が若く、後ろにいたが、首を挙げて起ち、言った
「危ういことです。大夫が簡単に会えるのに使うのが難しいのではありません、これは大王が臣を使えないということです」
王は言った
「どうしてか」
計倪は言った
「官位財幣は王の軽んずるところであり、死は士の重んずるところです。王が軽んじるところを惜しんでいるのに、士の重んずるところを攻めるとは、どうして難しくないでしょうか」
王は自ら会釈をして計倪を進めてこれに問うた。計倪は答えて言った
「仁義は治の門であり、士民は君主の根本です。門を開いて根元を固め、身を正すにこしたことはありません。身を正す道は、謹んで左右の者を選ぶことです。左右の者が選ばれれば、甚だ主は日々ますます賢となり、選ばなければ、甚だ主は日々不肖となります。これら二つは本質を重んじ次第に浸透してきます。どうか君王は衆より公選し、左右の物をよく鍛え、君子至誠の士でなければ、ともに家にいることがないようにしてください。邪な気をだんだんと生じなくさせ、仁義の行いはいとぐちがあれば、人はその能力を知り、官はその治を知ります。爵賞刑罰は、一切が君より出れば、臣下はあえて誹ったり賞めたりを言わず、功のない者はあえて政治に干渉しません。故に明主が人を用いるには、誰の縁故かによらず、その先祖が誰かを問わず、採用するのは一つの方法によります。これは昔、周の文王・斉の桓公が自ら賢人を任じ、太公・管仲が人を知るのに明るかったということです。今はそうでないので、私はそのために危ういと言ったのです」
越王は顔色を変えて言った
「私は、斉の桓公は淫泆であったのに、諸侯を九回会盟して諸侯をただしたのは、思うに管仲の力だと聞いている。私が愚かだといっても、思うにその原因は大夫にある」
計倪は答えて言った
「斉桓公はの管仲の罪を除き、重責に任じ、易えるに至りました。これは下の南陽蒼句です。太公は九十にして功がなく、磻溪の餓えた人にすぎませんでした。聖主はその恥を計らず、賢者としました。一たび仲父に告げ、二たび仲父に告げ、これは王に至ることはできますが、ただし覇業はどうして道に足るでしょう。桓公は仲父をたたえ、文王は太公をたたえました。この二人のことをおしはかりますと、それまでは少しの功労や大声を上げる功労もありませんでしたが、弓矢の怨みを忘れ、上卿の位を授けました。伝に、能力は三公にあたる、といいます。今、臣を置いて尊ばず、賢人を用いないのは、たとえるなら門戸がかたどって設けられ、依って相欺くようなものであり、智者の恥じるところ、賢者の恥じるところです。君王はこれをお察しください」
越王は言った
「誠実な者はその言葉を隠すことができない。大夫はすでにここにいるのだ、どうしてその言葉を待つことがあろうか」
計倪は答えて言った
「私は、智者はでたらめを言って功労を成さず、賢者は始めには動きがたくても、終わりには成功する、と聞いております。伝に『易経で謙遜して誤った質問に答え、威勢を抑え、兵権を人に示してはならない』といいます。賞罰は君主によるとは、このことをいうのです。故に賢君が臣を用いるには、すぐれた者に責務をおさめ、これに職を施してその功をなし、遠くに使いさせ、その誠実を明らかにします。ひそかに秘密を告げ、その誠実を知ります。これとともに事を話し合い、その智を観ます。これに酒を飲ませ、その態度を観ます。士の選抜が整備され、不肖の者は居場所がなくなります」
越王は大いに恥じ、そこで池を壊して塹壕を埋め、穀倉を開いて貧しい者に貸与し、そして群臣に自ら病気の者を見舞わせ、自ら死者の葬儀を弔問し、僻地を苦しめず、有徳の者を尊んだ。民と苦楽を同じくし、河や泉を遮り、ひとり飽食しているのでないことを示した。これを行うこと六年、士民は心を一つにし、謀らなくても言葉を同じくし、呼ばなくても自ら来て、皆呉を伐とうとした。遂に大いに功があって、諸侯に覇をとなえた。孔子が「寛容であれば人民を得る」と言ったのは、このことである。勇があって外に見えていれば、必ず仁が内にあるものである。子胥は就李に戦い、闔廬は傷つき、軍は敗れて帰った。この時の死傷者は計り数えることができず、そうなったのは、疲労のためでやむを得なかった。子胥は内心で憂えた
「人臣として、上は主を保全することができず、下は人民に兵刃の災難を被らせた」
自責して内心で傷ついていたが、理解できるものはいなかった。ゆえに自ら死者や負傷者を運び、子胥の手を尽くさない者はなく、涙を流して伐って死にたいと思った。三年自戒し、妻子に親しまず、飢えても飽食せず、寒くてもあやぎぬを重ねず、越に心を集中し、その敵に報復しようとした。越公に師事し、その言葉を記録した。天の兆しを印したのは、牽牛と南斗であった。さかんに怒り、天とともに起った。令を発して民に告げると、民の帰することは父母に対するようで、子胥の言葉があれば、ただ後れるのを恐れた。軍隊と人民が心を同じくし、天意を得た。越はそこで軍隊を興し、西江で戦った。二国は強さを争い、いまだどちらが存続してどちらが亡びるかわからなかった。子胥は時勢の変化を知り、擬兵を用い、両翼をなし、夜に火をかかげ互いに呼応した。句踐は大いに恐れ、兵をととのえて帰し降伏しようとした。兵を進めて越を会稽填山に囲んだ。子胥の妙策はすばらしいと言うべきもので、守って戦うこと数年、句踐は和平を行った。伍子胥は諫め、これを容認しなかった。太宰嚭はこれを許し、兵を引いて還った。夫差は嚭のいうことを聞いて、仇を殺さなかった。軍隊を十万興しても、適わないのと同じであった。聖人はこれを譏り、このため春秋はその文を採用しなかった。故に伝に曰く、「子胥は賢者であったが、なお就李で恥をかいた」とは、このことをいうのである。哀しいことだ、夫差が伍子胥を信じずに、太宰嚭を任用したのは、これは晋に禍した驪姬、周を滅ぼした褒姒に比するもので、図画では非常に妖艶であるが、人理には極めて道を外れるものである。傾城傾国は、ここに後の王に明らかに示し、麗しくなまめかしい姿は、前史に戒めを求めるべきである。古人は、「苦い薬は病に効き、苦言は行いに利く」と言った。思いを隠して安寧のときも危険を思い、日々謹むのである。易に曰く「進むを知って退くを知らず、存するを知って亡ぼすを知らず、得るを知って喪うを知らず」また曰く、「進退存亡の正しさを失わないのは、ただ聖人だけである」これによって言うと、進むには退くの義があり、存するには滅ぶの兆しがあり、得るには喪うの理がある。これを愛すること父母のごとく、これを仰ぐこと日月のごとく、これを敬うこと神明のごとく、これを恐れること雷のごとく、これで幸いを長く望むことができ、禍乱はおこらない。

越絶書

越絶外傳記呉王占夢第十二

昔、呉王夫差の時、その民は多く、穀物はよく実り、兵器と鎧は堅牢で、その民は戦闘に習熟していた。闔廬【欠落】、行うにふさわしい日があり、発するにふさわしい時があるという子胥の教えを絶った。姑胥の門を通過し、姑胥の台で昼寝をした。目覚めて起きると、その心は怨み嘆き、悔しく思うところがあるようだった。そこで太宰を召してこれを占わせて、言った
「さきに昼寝をし、夢で章明の宮に入った。二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのを見た。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのを見た。二本のすきが吾が宮堂にたてかけてあるのを見た。流水がさかんに流れわが宮の垣を越えるのをみた。前園に横向きに桐が生えていたのを見た。後ろの部屋で鍛工が鼓を両方からささえ持ち小さく震えるのを見た。お前は私のためにこれを詳しく占え、吉であれば吉といい、凶であれば凶といい、私の心の従うところにへつらうことがないように」
太宰嚭は答えて言った
「よろしいことです。大王は軍隊を興して斉を伐って下さい。章明とは、斉を伐って勝ち、天下に名高くなるということです。二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのは、大王の聖気があまりあるということです。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのは、四夷がすでに臣服し、諸侯を朝見させるということです。二本の鋤が宮堂にたてかけてあったのは、田夫を助けるということです。水がさかんに流れ宮堂を越えるのを見たのは、献上物がすでに至り、財があまりあるということです。前園に横向きに桐が生えていたのを見たのは、楽府の巧みな吹奏です。後ろの部屋で鍛工が鼓が小さく震えるのを手伝っているのを見たのは、宮女の鼓楽です」
呉王は大いに喜び、太宰嚭に色とりどりの絹織物四十疋を賜った。王の心は癒えず、王孫駱を召してこれに告げた。答えて言った
「私の智能は浅薄で、方術のことはわからず、大王の夢を占うことはできません。私は、東掖門亭長で越公の弟子の公孫聖を知っております。人となりは、幼くして学を好み、長じては博聞彊識、将来のことに通じておりますので、大王の夢を占うことができます。どうかこれをお召し下さい」
呉王は言った
「わかった」
王孫駱は文書をまわして言った
「今日壬午、左校司馬王孫駱は、命令を受けて東掖門亭長公孫聖に告ぐ。呉王は昼寝をし、目が覚めると心中は怨み嘆き、悔しく思うところがあるようだった。書面が至れば、車を馳せて姑胥の台に来るように」
聖は書面を得て、開けてこれを読み、地に伏して泣き、しばらく起きなかった。その妻大君は傍らより接してこれを起こし、言った
「どういうわけで大げさなのでしょう!主君に見えることを望み、にわかに急ぎの書面を得ることができたのに、泣いて止まないとは」
公孫聖は天を仰いで嘆いていった
「ああ、哀しいことだ。これはもとよりお前の知りうることではない。本日壬午、時は南方にあり、命は蒼天に属し、逃げることはできない。地に伏して泣くのは、自ら惜しむのではなく、ただ呉王のためである。こびへつらって發言すれば、師道は明らかでなくなる。正しい言葉で直諫すれば、身は死して功はない」
大君は言った
「あなたは無理にでも食べて自愛し、愼んでお忘れにならないで下さい」
地に伏して書き、すでに篇綴すると、そこで妻と腕をとって決別し、涕泣すること雨のようであった。車に乗って振り返らず、遂に姑胥の台に至り、呉王に謁見した。呉王は労って言った
「越公の弟子公孫聖よ、私は姑胥の台で昼寝をし、夢の中で章明の宮に入った。門に入ると、二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのを見た。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのを見た。二本のすきが吾が宮堂にたてかけてあるのを見た。流水がさかんに流れわが宮の垣を越えるのを見た。前園に横向きに桐が生えていたのを見た。後ろの部屋で鍛工が鼓が小さく震えるのを手伝っているのを見た。お前は私のためにこれを詳しく占え、吉であれば吉といい、凶であれば凶といい、私の心の従うところにへつらうことがないように」
公孫聖は地に伏し、しばらくして起き上がり、天を仰いで嘆いて言った
「悲しいことだ。船を好ものは溺れ、騎馬を好ものは落馬し、君子は各々好むものを禍とする。へつらって申せば、師道は明らかでなくなり、正しい言葉で強く諫めれば、身は死して功はありません。地に伏して泣いたのは、自らを惜しんだのでなく、大王を悲しんだからです。章とは、戦って勝たず、驚き恐れて逃げることです。明とは明るさから遠ざかり暗さに近づくということです。二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのを見たのは、王がまさに火でものを煮て食べることができないということです。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのを見たのは、大王の身が死し、魂魄が惑うということです。二本のすきが吾が宮堂にたてかけてあるのを見たのは、越人が呉国に侵入し、宗廟を伐ち、社稷を掘り起こすということです。流水がさかんに流れわが宮の垣を越えるのを見たのは、大王の宮堂が虚ろになるということです。
前園に横向きに桐が生えていたのを見たのは、桐は器に用いず、ただ木偶を作り死人と共に葬るということです。後ろの部屋で鍛工が鼓が小さく震えるのを手伝っているのを見たのは、ため息をつくことです。王はみずから行わず、臣下にやらせればよいでしょう」
太宰嚭・王孫駱は恐れ、冠と頭巾を取り、肩脱ぎして謝罪した。呉王は聖の言葉が不祥なのに怒り、そこでその身に自ら災いを受けさせた。そこで力士石番に、鉄杖で聖を伐たせ、これを断って頭を二つにした。聖は天を仰いで嘆いて言った
「天は冤罪をしっているか。直言して正しく諫めれば、身は死んで功績はない。私の家に私を葬らせず、私を山中に掲げていかせよ、後世に声を響かせよう」
呉王は人に秦餘杭の山に掲げていかせ、
「虎狼がその肉を食べ、野火がその骨を焼き、東風が至れば、お前の灰を飛び散らせる、お前はあらためて声を出すのか」
太宰嚭は進み出て再拝して言った
「逆言はすでに滅び、讒諛はすでに滅びましたので、そこで杯を飲み干し、時は行うことができます」
呉王は言った
「わかった」
王孫駱を左校司馬とし、太宰嚭を右校司馬とし、王は騎兵三千を従え、旌旗羽蓋、自ら中軍にいた。斉を伐って大いに勝った。兵を率いて三月去らず、通過して晋を伐った。晋はその軍隊が疲れ、糧食が尽いたのを知り、軍隊を興してこれを撃ち、大いに呉軍を破った。江を渡るとき、流血して屍を浮かせるものは、数えることができなかった。呉王は忍びず、その余兵を率いて、互いに率いて秦餘杭の山に至った。飢えて行軍は糧食に乏しく、視界が不明となった。地に拠って水をのみ、生稲を持ってこれを食べた。左右を顧みて言った
「これは何というのか」
群臣は答えて言った
「これは生稲です」
呉王は言った
「悲しいことだ、これは公孫聖が言った、王がまさに火でものを煮て食べることができないということだ」
太宰嚭は言った
「秦餘杭山の西側の斜面は清淨で、休息できます。大王は速やかに食事をとって行けば、なお十数里あるのみです」
呉王は言った
「私はかつて公孫聖をこの山で殺した。お前は試みに私のために先にこれを呼んでみよ、そこでなおここにいるなら、まさに声が響くであろう」
太宰嚭はそこで山に登って三度呼ぶと、聖は三度応じた。呉王は大いに恐れ、足はただれたようになり、顔は死人のような色になり、言った
「公孫聖が私に国を得させれば、誠に代々使えるであろう」
言葉がいまだ終わらないうちに、越王が追いかけてきた。兵は三度呉を囲み、大夫種は中軍にいた。范蠡は呉王を責めて言った
「王には過ちが五つあります。なんとこれをご存じであろうか。忠臣伍子胥、公孫聖を殺しました。胥の人となりは先見の明があり忠信であったのに、これを両断し江に投げ込みました。聖は正しい言葉で相手を憚らずに諫めたのに、身は死して功はありませんでした。これは大きな過ちの二つではないでしょうか。斉は罪がないのに、空しくまたこれを伐ち、鬼神を祀らせず、社稷を荒廃させ、父子を離散させ、兄弟を別居させました。これは大きな過ちの三つめではないでしょうか。越王句踐は、東の僻地にいるとはいっても、また天皇の位につながり得て、罪がないのに、王は常に茎を刈り取り馬に秣を食べさせ、奴隷のように扱いました。これは大きな過ちの四つ目ではないでしょうか。太宰嚭は他人を謗ってへつらい、王の血筋を断絶したのに、これのいうことを聴いて用いました。これは大きな過ちの五つ目ではないでしょうか。」
呉王は言った
「今日、教えを聞こう」
越王は歩光の剣を持ち、屈盧の矛を杖つき、目をみはって范蠡にいった
「お前はどうしてすみやかにこれを図らないのか」
范蠡は言った
「臣下は敢えて主を殺しません。臣が殺さずに主がもし亡くなるなら、今日へりくだって敬えば、天は微功に報いるでしょう」
越王は呉王に言った
「世に千歳の人はいない、死は一つである。范蠡は左手に鼓を持ち、右手にばちをとりこれを叩き、言った
「上天は青青として、あるいは存しあるいは亡びる。どうして軍士を待って、お前の首を断ち、お前の体を挫くのは、ほんとうに誤っていることではないか」
呉王は言った
「教えを聴きましょう。三寸の帛で私の目を覆ってください、もし死んで知ることになれば、私は伍子胥と公孫聖に会うのを恥じます。知ることがなければ、私は生きるのを恥じます。越王はそこで組みひもをほどいてその目を覆うと、ついに剣に伏して死んだ。越王は太宰嚭を殺し、その妻子を戮したのは、忠信でなかったためである。呉の血筋を断絶した。

越絶書

越絶外伝記宝剣第十三

昔、越王句踐は宝剣を五本持っていて、天下に聞こえていた。客によく剣を見るものがあり、名を薛燭といった。王は召してこれに問うて言った
「私は宝剣を五本持っている、どうかこれを示させてほしい」
薛燭は答えて言った
「愚かな理は言うに足りませんが、大王が請われるならやむを得ません」
そこで担当者を召し、王は毫曹を持ってこさせた。薛燭は答えて言った
「毫曹は宝剣ではありません。宝剣というものは、五色が並び見えて、互いに勝ることがないものです。毫曹はすでに名をほしいままにしていますが、宝剣ではありません」
王は言った
「巨闕をもってこい」
薛燭は言った
「宝剣ではありません。宝剣は、金錫と銅が分離しないものです。今、巨闕はすでに分離しているので、宝剣ではありません」
王は言った
「しかし巨闕がはじめてできたとき、私が露壇の上に座っていると、宮人で四頭立ての白鹿の馬車で過ぎる者があり、車が走って鹿が驚き、私は剣を引き抜いてこれを指すと、馬車は上に飛び上がり、その切断したことがわからなかった。銅の釜を穿ち、鉄の鬲を断つと、中がみな決壊して穀物の粒のようであり、故に巨闕というのである」
王は純鈞を持ってくると、薛燭はこれを聞き、忘れたように心を喪った。しばらくして、悟ったように恐れた。階を下りて深く思い、服を簡素にして坐してこれを見た。手を振って払い上げると、その光華は芙蓉が咲き始めたようだった。その釽を見ると、爛々として星が並んでいるようだった。その光彩を見ると、こんこんとため池から水が溢れるようだった。その断面を見ると、ごつごつとして細かな石のようだった。その素材を見ると、光り輝いて氷が熔けるようだった。
「これがいわゆる純鈞ですか」
「そうだ。客にこれに値段を付けるものがいて、市が立つ郷が二つ、駿馬千頭、千戸の都が二つの価値があるとしたが、よいだろうか」
薛燭は答えて言った
「いけません。この剣が作られたとき、赤堇の山は、破壞して錫が出ました。若耶の渓は、枯れて銅が出ました。雨師は水で洗い流し、雷公はふいごを撃ち、蛟龍は炉を叩き、天帝は炭を装備しました。太一が下を見ると、天の精霊がこれに下りてきました。欧冶子はそこで天の精神により、その技巧を尽くし、大型の剣を三つ、小型の剣を二つ作りました。一つめを湛盧といい、二つめを純鈞といい、三つめを勝邪といい、四つめを魚腸といい、五つめを巨闕といいました。呉王闔廬の時、勝邪・魚腸・湛盧を得ました。闔廬は無道で、子女が死ぬと、生きている者を殺してこれを葬送しました。湛盧の剣はこれを水のように去り、秦に行き楚を過ぎり、楚王が寝ていると、呉王湛盧の剣を得、まさにさきがけてこれを標記し保存しようとしました。秦王は聞いてこれを求めたが得られず、軍隊を興して楚を撃ち、言いました
「私に湛盧の剣を与えれば、軍隊を返してお前の国から去ろう」
楚王は与えませんでした。時に闔廬もまた魚腸の剣で呉王僚を刺し、腸夷の甲を着ていたのを三度突き刺ささせました。闔廬は専諸を焼き魚の料理人とし、剣を引き抜いてこれを刺し、ついに王僚を弑殺しました。これは小さく敵國に試しただけで、いまだ大きく天下に用いてはおりません。いま、赤堇の山はすでに合し、若耶の渓谷は深く、はかることはできません。群神は降らず、欧冶子はすぐに死にました。また国力を傾けて金を量り、珠玉を河に満たしても、なおこの一物を得ることはできません。市が立つ郷が二つ、駿馬千頭、千戸の都が二つあっても、どうして言うに足りましょうか」
楚王は風胡子を召してこれに問うて言った
「私は、呉に干将があり、越に欧冶子があり、この二人は世に優れて生まれ、天下に未だかつてないほどで、真心は上は天に通じ、下には節義を守る士であると聞いている。私は国の貴重な宝を贈ってみなあなたに奉り、呉王にたよってこの二人に鉄剣を作らせることを請いたいと願うが、よいだろうか」
風胡子は言った
「よろしいでしょう」
そこで風胡子を呉に行かせ、欧冶子と干将に会わせ、これに鉄剣を作らせた。欧冶子と干将は茨山を開鑿し、その渓谷を排水し、鉄鉱石を取り、三本の鉄剣を作った。一つめを龍淵といい、二つめを泰阿といい、三つめを工布といった。できあがると、風胡子はこれを楚王に献上した。楚王はこの三つの剣の光彩があって美しい様子を見て、大いに風胡子をよろこんで、これに問うて言った
「この三剣は何をかたどったものなのか。その名は何というのか」
風胡子は答えて言った
「一つめを龍淵、二つめを泰阿、三つめを工布といいます」
楚王は言った
「龍淵、泰阿、工布とはどういう意味か」
風胡子は答えて言った
「龍淵を知りたいのなら、その形状を見ると、高山に登り、深淵に臨むようです。泰阿を知りたいのなら、その切り口をみると、高大で整っており、流水の波のようです。工布を知りたいのなら、切り口は紋様のところから起り、背面に至って止んでおり、珠玉が襟に止めていないようで、紋様は流水が絶えないようです」
晋鄭王は聞いてこれを求めたが得られず、軍隊を興して楚の城を囲み、三年包囲を解かなかった。倉の穀物は尽き、倉庫に武器と鎧はなくなった。左右の群臣・賢士を制御することができなかった。ここで楚王はこれを聞き、泰阿の剣を引き抜き、城に登ってこれで指図した。三軍は敗れ、士卒は道に迷い、流血千里、猛獣はおどろき恐れ、江水は波を上げず、晋鄭王の頭は真っ白になった。楚王はここで大いに喜び、言った
「この剣の威力か、私の力か」
風胡子は答えて言った
「剣の威力であり、それは大王の神霊によるものです」。
楚王は言った
「剣とは、鉄であるにすぎないのに、もとよりこのような精気を持つことができるのか」
風胡子は答えて言った
「その時々で使うべきものがあります。軒轅・神農・赫胥の時は、石を武器とし、樹木を断って宮室を作り、死ねば龍のごとく隠れました。黄帝の時に至ると、玉を武器とし、樹木を伐採して宮室を作り、地を開鑿しました。玉もまた神のものでありますが、たまたま聖主が使うことができたのであり、死ねば龍のごとく隠れました。禹を穴に葬ったとき、銅で武器を作り、伊闕を開鑿し、龍門に通じ、江水を切って河水を導き、東に向かって東海に注ぎました。天下があまねく平和となり、宮室を修築したのは、どうして聖主の力でないことがありましょうか。この時代になって、鉄の武器を作り、三軍を威服しました。天下はこれを聞き、あえて服さないものはいません。これはまた鉄の武器の神性であり、大王が聖徳をお持ちになっているということです」
楚王は言った
「私は教えを聞こう」

越絶書

越絶巻第十二

越絶内経九術第十四
昔、越王句踐は大夫種に問うて言った
「私は呉を伐ちたいと思うが、どのようにしたら成功を収めることができるだろうか」
大夫種は答えて言った
「呉を伐つには九つの術があります」
「九術とは何か」
答えて言った
「一つ目は、天地を敬い、鬼神に仕えることです。二つ目は、多くの財幣をその君に贈ることです。三つ目は、穀物や藁を高値で買い取り、その国を空にすることです。四つ目は、これに美女を贈り、その志を疲れさせることです。五つ目は、これに巧みな職人を贈り、宮室や高台を建てさせ、その財を尽かせてその力を疲弊させることです。六つ目は、へつらう臣下を送り、伐ちやすくすることです。七つ目は、諫める臣下を阻み、これを自殺させることです。八つ目は、自国の家を富ませ武器を備えることです。九つ目は、鎧や武器を堅固にして研ぎ、その疲弊に乗じることです。ゆえに九つの術を患えることなく、口を戒めて伝えないことで、天下を取るのは難しくないと言われています。ましてや呉は」
越王は言った
「よろしい」
ここで桐の欄干を作り、それは白璧をつらね、黄金をちりばめ、龍蛇が行くようなものであった。そこで大夫種にこれを呉に献上させて、言った
「東海の役臣である私句踐、使者の臣種は、あえて下吏を敬い、左右に問わせていただきます。天下の力に頼って、ひそかに小殿を作りましたが、余った材があるので、再拝してこれを大王に献じます」
呉王は大いに喜んだ。申胥は諫めて言った
「いけません。王は受け取らないでください。昔、桀は霊門を建て、紂は鹿台を建てましたが、陰陽が調和せず、五穀は育つ時期がなく、天与の災があり、国は空虚となり、ついにこれによって亡びました。大王がこれを受ければ、この後必ず災いがあるでしょう」
呉王は聴かず、ついにこれを受けて姑胥台を建てた。三年材を集め、五年かかって完成した。高く二百里を見渡せた。行く人は道中で死に、巷では泣いた。越はそこで美女西施・鄭旦を着飾らせて、大夫種にこれを呉王に献じさせて言った
「昔、越王句踐にはひそかに天が遣わした西施・鄭旦がおましたが、越国は落ちくぼんで貧窮なので、あえてこれに当たることができず、下臣種に再拝してこれを大王に献じさせます。呉王は大いに喜んだ。申胥は言った
「いけません。王は受け取らないでください。私は、五色は人の目を見えなくし、五音は人の耳を聞こえなくすると聞いております。桀は湯を侮って滅び、紂は周の文王を侮って亡びました。大王がこれを受け取れば、後でかならず災いとなります。私は、越王句踐は昼間は書物を書いて倦かず、夜には終日読み、決死の臣下数万を集めていると聞いております。この人は死ななければ、必ずその願いを遂げるでしょう。私は、越王句踐は誠を勉め仁を行い、諫言を聴き、賢士を登用していると聞いております。この人は死ななければ、必ず名声を得るでしょう。私は、越王句踐は冬は皮衣をはおり、夏は葛布をはおっていると聞いております。この人は死ななければ、必ず利害をなすでしょう。私は、賢士は国の宝であり、美女は国の災いであると聞いております。夏は末喜によって滅び、殷は妲己によって滅び、周は褒姒によって滅びました」
呉王は聴かず、ついにその女を受け取り、申胥が不忠をなしたという理由でこれを殺した。越はそこで軍隊を興して呉を伐ち、大いにこれを秦餘杭山に破り、呉を滅ぼし、夫差を虜にし、太宰嚭をその妻子と共に殺した。

越絶巻第十二 越絶外伝記軍気第十五
聖人が軍隊を行うには、上は天と徳を合し、下は地と明を合し、中は人と心を合する。義が合すればすなわち動き、よいところを合わせればすなわち取るのである。小人であればそのようなことはなく、強さで弱さを押しつぶし、利を他人の危難から取り、逆らうことと順うことを知らず、間違ったことに心を喜ばすのである。故に聖人だけが気が変じる事情を知り、それによって勝負の道に明るいのである。およそ気には五色がある。青・黄・赤・白・黒である。色にはそのために五つの変化がある。人気が変ずれば、軍の上に気があり、五色が合い連なって、天と互いに接するのである。これは天応であり、攻めることはできず、これを攻めても残るものはない。気の盛んなものは、これを攻めても勝てない。軍の上方に赤色の気があるのは、天と直に接し、攻める者は自分を殺すことになる。軍の上方に青い気の盛んに明るいものがあるのは、【欠】に従い、その本が広く末端が鋭いのは、これは逆兵の気であり、いまだ攻めることができず、衰え去ってはじめて攻めることができる。軍の上方に青い気の盛んに明るいものがあるのは、【欠】に従い、その本が広く末端が鋭いのは、これは逆兵の気であり、いまだ攻めることができず、衰え去ってはじめて攻めることができる。青気が上にあるのは、謀が定まらない。青気が右にあるのは、将は弱いが兵は多い。青気が後ろにあるのは、将は勇猛だが糧食は少なく、始めが大きく後が小さい。青気が左にあるのは、将は若く卒が多く、兵は少なく軍は疲れる。青気が前にあるのは、将が暴虐で、その軍は必ず来る。赤気が軍の上方にあるのは、将の謀略が未だ定まっていない。その気の本が広く末端が鋭くて来たるものは、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。赤気が右にあるのは、将軍が勇猛だが兵は少なく、卒は強く、必ず将を殺して投降する。赤気が後ろにあるのは、将が弱く、卒は強く、敵が少なく、これを攻めれば将を殺し、その軍を降伏させられる。赤気が右にあるのは、将は勇猛で、敵は多く、兵卒は強い。赤気が前にあるのは、将は勇猛だが兵は少なく、糧食は多いが卒は少なく、謀をしてやって来ない。黄気が軍の上方にあるのは、将の謀略が未だ定まっていない。その本は広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。黄気が右にあるのは、将は智慧があり賢明で、兵は多くて強く、糧食は足りて降すことができない。黄気が後方にあるのは、将が知性があり勇猛で、卒は強いが少なく、糧食が少ない。黄気が左にあるのは、将が弱く卒が少なく、兵が少なく糧食がなく、これを攻めれば必ず損傷を与える。黄気が前方にあるのは、将は勇猛で知性があり、卒が多く強く、糧食は足りて多くあり、攻めることはできない。白気が軍の上方にあるのは、将は賢知で賢明であり、卒は猛々しく勇猛で強い。その気の本が広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。白気が右にあるのは、将は勇猛で卒は強く、兵は多く糧食は少ない。白気が後方にあるのは、将は仁にして賢明で、卒は少なく兵は多く、糧食は少なく軍は損傷を受ける。白気が左にあるのは、将は勇猛で強く、卒は多く糧食は少なく、降すことができる。白気が前にあるのは、将は弱く卒は無く、糧食は少なく、これを攻めれば降すことができる。黒気が軍の上方にあるのは、将の謀が未だ定まっていない。その気の本は広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、去ってはじめて攻めることができる。黒気が右にあるのは、将は弱く卒は少なく、兵は無く、糧食は尽きて軍は損傷し、攻めずに自ら降すことができる。黒気が後方にあるのは、将が勇猛で卒は強いが、兵は少なく糧食は無く、これを攻めれば将を殺し、軍は亡びる。黒気が左にあるのは、将は知性があり勇猛だが、卒は少なく兵は少なく、これを攻めれば将を殺し、その軍は自ら降る。黒気が前にあるのは、将は明智だが卒は少なく糧食は尽き、攻めずに自ら降すことができる。
ゆえに明将は気の変化の形を知っている。気が軍の上方に在れば、その謀は未だ定まっていない。それが右にあり低いのは、右方に伏兵の謀をしようとしている。その気が前方にあり低いのは、前に陣を伏そうとしている。その気が後方にあり低いのは、走兵の陣をなそうとしている。その気が上るのは、兵を撤退させようとしている。その気が左にあり低いのは、左に陣をしこうとしている。その気がその軍と隔たっているのは、邑に入ろうとしている。右のことは、子胥が気を見て敵を取る常道であり、その法則はこのようなものだ。軍に気がなければ、廟堂で計算して、強弱を知る。一、五、九月は西に向かえば吉、北に向かえば敗亡なので、東に向かってはならない。二、六、十月であれば南に向かうのが吉、北に向かえば敗亡なので、北に向かってはならない。三、七、十一月であれば、東に向かえば吉、西に向かえば敗亡なので、西に向かってはならない。四、八、十二月であれば、北に向かえば吉、南へ向かへば敗亡なので、南に向かってはならない。これはその兵を用いる際の日月の運数であり、吉に向かい凶を避けるのである。挙兵するには太歳の供物を撃ってはならず、それは卯の方角ある。始めそれぞれの利を出し、その四時によって日を制するとは、このことをいうのである。
韓の故の治所は、今の京兆郡であり、星宿は角・亢である。
鄭の故の治所は、星宿は角、亢である。
燕の故の治所は、今の上漁陽・右北平・遼東・莫郡であり、星宿は尾・箕である。
越の故の治所は、今の大越山の北であり、星宿は南斗である。
呉の故の治所は西江であり、星宿は都牛・須女である。
斉の故の治所は臨淄であり、今の済北・平原・北海郡・菑川・遼東・城陽であり、星宿は虚・危である。
衛の故の治所は濮陽であり、いまの広陽・韓郡であり、星宿は営室・壁である。
魯の故の治所は泰山・東温・周固水であり、今の魏東であり、星宿は奎・婁である。
梁の故の治所は、今の済陰・山陽・済北・東郡であり、星宿は畢である。
晋の故の治所は、今の代郡・常山・中山・河間・広平郡であり、星宿は觜である。
秦の故の治所の雍は今の内史であり、巴郡・漢中・隴西・定襄・太原・安邑は、星宿は東井である。
周の故の治所は雒であり、今の河南郡であり、星宿は柳・七星・張である。
楚の故の治所は郢であり、今の南郡・南陽・汝南・淮陽・六安・九江・廬江・豫章・長沙であり、星宿は翼・軫である。
趙の故の治所は邯鄲であり、今の遼東・隴西・北地・上郡・雁門・北郡・清河であり、星宿は参である。

 

越絶書

越絶書巻十三

越絶外伝枕中第十六
昔、越王句踐は范子に問うて言った
「昔の賢主・聖王の政治は、何を左とし何を右としたのか、何を退けて何を取ったのか」
范子は答えて言った
「私は、聖主の政治は、道を左にし術を右とし、末を退け実を取ったと聞いております」
越王は言った
「道とは何か、術とは何か、末とは何か、実とは何か」
范子は答えて言った
「道とは、天地に先んじて生じましたが、老いを知らず、万物をつぶさに作り上げ、技を誇示しません。故にこれを道と言います。道は気を生じ、気は陰を生じ、陰は陽を生じ、陽は天地を生じます。天地ができ、しかるのちに寒暑・乾燥湿潤・日月・星座・四季ができ、万物が備わりました。術とは、天意です。盛夏の時は、万物が成長します。聖人は天の心に拠り、天の喜びを助け、万物の成長を楽しみます。ゆえに舜は五絃の琴を弾き、南風の詩を歌って、天下は治まったのです。その楽は天下と同じだと言えます。このときに、功徳をほめたたえる歌が作られました。いわゆる末とは、名のことです。もとより名が実際より過ぎれば、人民は心を寄せて親しまず、賢士は用いず、外は諸侯に進入されるので、聖主はこのようなことはしません。いわゆる実とは、穀【欠字】であり、人心を得て、賢士を任じます。この四つは、国の宝です。越王は言った
「私が自ら倹約し、士にへり下って賢人を求め、名を実より過ぎさせるないということは、私が行うことができる。多く穀物を蓄え、人民を富ませるのは、天の降水乾燥によるものであり、一人でどうにかできることあろうか。どうやって備えろというのか。」
范子は言った
「百里之神、千里之君、湯執其中和【錯簡】伊尹を挙げ、天下の勇猛ですぐれた士を集め、卒兵を訓練し、諸侯を率いて桀を伐ち、天下のために道をそこなった者を退け、万民は皆歌ってこれに服従しました。これはいわゆる中和を執るということです」
越王は言った
「中和のもたらすものはすばらしい。私は賢主・聖王に及ばないが、中和を執ってこれを行いたい」
今、諸侯の地は、或いは多く或いは少なく、強弱には優劣があり、戦争はにわかに起こる。どうやってこれに対処すればよいか」
范子は言った
「人の身を守ることを知る者は、天下に王となることができます。人の身を守ることを知らなければ、天下を失います」
越王は言った
「人の身を守るとはどういうことか」
范子は言った
「天は万物を生みこれに生きることを教えます。人は穀物を得れば死なず、穀物は人を生かすことも、人を殺すこともできます。ゆえに人身というのです」
越王は言った
「よろしい。今、私は穀物を保とうと思うが、どうしたらよいだろうか」
范子は言った
「保とうと思うなら、必ず野に親しみ、様々な地方の生産の多少を観察して備えます」
越王は言った
「少ないのは、その貴賤によるとわかるが、また対応しているのか」
范子は言った
「八穀の貴賤の法則は、必ず天の三表を見てから、決めます」
越王は言った
「三表とはなにか」
范子は言った
「水の勢は金に勝り、陰気は蓄積し大いに盛んになり、水は金に拠って死に、故に金の中に水があります。このような場合は、実りは大いに不作で、八穀は皆高騰します。金の勢は木に勝り、陽気は蓄積し盛んになり、金は木によって死に、故に木の中に火があります。このような場合は、実りは大いに豊作で、八穀は皆安価になります。金、木、水、火は交互に勝り、この天の三表は、察しないわけにいきません。三表を知ることができれば、国の宝となり得ます。三表を知らなければ、之君千里之神萬里之君【錯簡】故に天下の君は、号を発し令を施行するのに、必ず四時に従うのです。四時が正しくなければ、陰陽は調和せず、寒暑は常態を失います。このようでは、実りは悪く、五穀は実りません。聖主は令を施行するのに、必ず四時を審らかにする、これはもっとも謹んで行うべき事です」
越王は言った
「これは私が行うことができる。どうか穀物の上下貴賤をはかることを知り、他にこれを貸して内に自ら充実したいものだが、このためにはどうすればいいだろうか」
范子は言った
「八穀の価格が下がるのを知るには、これまでの実りを知るように、明らかです。陰陽の消息を審らかに見極め、市場の回転を観察するに、雌雄が互いに追いかけ、天の法則はそこで終わります。越王は言った
「何を執行すれば繁栄するのか、何をすれば亡びるのか」
范子は言った
「偏りのないように執行すれば繁栄し、奢侈を行えば亡びます」
越王は言った
「私はその説を聞きたい」
范子は言った
「私は、昔の賢主・聖君は、中和を執行しその終始をたずねれば、地位は安泰で万物は定まった、その終始をたずねなけれは、尊い地位は傾き、万物は散じると聞いております。文王・武王の業績、桀・紂の足跡から、知ることができます。昔、天子や諸侯に至るまで、自滅して亡んだのは、しだいに美食の消費に浸り、音楽や女色の類に耽溺し、珍しい貴重な宝器をに心を惹かれたため、その国は空虚となったのです。その士民を苦しめ、しばしの楽しみをなし、人民は悲しみの心を懐き、瓦解して背いた、桀・紂はこうでした。身は死して国は滅び、天下の笑いものになりました。これは奢侈を行うと亡びるという例です。湯は七十里の地を有していました。三表を励み行うのは、国の宝と言うべきです。三表を知らなければ、身は死して道に棄てられます    越王は范子に問うて言った
「春に物寂しく、夏に寒く、秋に栄え、冬に発するのは、人の治でそうできるものか、天道であるか」
范子は言った
「天道は三千五百年に、ひとたび治まりひとたび乱れ、終わってはまた始まり、環に端がないようであり、これは天の常道です。四季の順序が乱れ、寒暑が常態を失うと、民を治めるのもこのようになるのです。ゆえに天が万物を生むとき、聖人はこれを名づけて春というのです。春に成長しないと、ことさらにに天は再度春としないのです。春は、夏の父です。故に春には発生し、夏には成長し、秋には成熟して刈り取り、冬には成取り入れて貯蔵します。春に物寂しく生まれないのは、王の徳が極まっていないからです。夏に寒く成長しないのは、臣下が王命を奉らないのです。秋に柔和でまた繁茂するのは、百官の統治が思い切りが悪いからです。冬に暖かく発するのは、倉庫を開放して功績のない者に賞を与えるからです。こういった四時のことは、国のいましめです」
越王は言った
「寒暑が時期に合わないのは、統治が人のせいであるということは、知ることができた。どうか実りの善し悪し、穀物の貴賤はどうやって決まるのか聞かせてほしい」
范子は言った
「陰陽が誤れば、凶作になります。人が治を失えば、乱世になります。一たび乱れては一たびた治まるのは、天道の自然のなりゆきです。八穀もまた一たび値下がりし一たび高騰し、極まってまた反復します。乱れて三千年経つと、必ず聖王が現れると言います。八穀の貴賤も交互にしのぎ合うのです。ゆえに死が生を凌ぐのは、逆であり、穀物は大いに高騰します。生が死を凌ぐのは、順であり、穀物は大いに暴落します」
越王は言った
「よろしい」
越王は范子に問うて言った
「私は、人がその魂魄を失うのは死であり、その魂魄を得るのが生だと聞いている。物には皆これがあるのか、それとも人だけだろうか」
范子は言った
「人にはこれがあり、万物もまた同様です。天地の間で、人はもっとも貴いものです。物の生では、穀物が高貴なもので、人を生かすのであり、魂魄と異なることはないことは、あらかじめ知ることができます」
越王は言った
「その善悪は聞くことができるか」
范子は言った
「八穀の貴賤、上下、衰え極まるのを知るには、必ずその魂魄を観察し、動静を見て、宿るところを見ると、万に一つも間違えません」
問うて言った
「何を魂魄というのか」
答えて言った
「魂とは袋であり、魄とは、生気の源です。もとより神は、出入りするのに門は関係なく、天上地下に固定することなく、現れるところにしるしが自ら存在し、故にこれを名づけて神というのです。神は生気の精をつかさどり、魂は死気の居所をつかさどります。魄は賤をつかさどり、魂は貴をつかさどり、故にまさに安静にして不動なのです。魂は、盛夏に運行し、故に万物はこれを得て自ら繁栄するのです。神は気の精力をつかさどり、貴をつかさどって雲と空を行き、故に盛夏の時には運行せず、つまり神気は枯れて物を成長させないのです。故に死が生を凌ぐと、収穫は大いに凶作になります。生が死を凌ぐと、収穫は大いに豊作になります。故にその魂魄をみれば、収穫の善し悪しがわかります」
越王は范子に問うて言った
「私は、陰陽のおさまりは、力を同じくせずに功をなし、気を同じくせずに物が生じると聞いているが、それを知ることができるだろうか。どうか考えを聞かせてほしい」
范子は言った
「私は、陰陽の気は居場所を同じくせずに、万物が生じると聞いております。冬の三ヶ月の時期は、草木はすでに死滅し、万物は各々隠れ方を異にしております。ゆえに陽気はこれを避けて地下に隠れ、内で力をため、陰気に外で功を成さしめます。夏の三ヶ月の盛暑の時期は、万物は成長し、陰気はこれを避けて地下に隠れ、内に力をたますが、万物は親しみ信用しています。これは、気を同じくせず物が生じるということです。陽は生をつかさどり、万物は夏の三ヶ月に、大きな熱気が至らなければ、万物は成長することができません。陰気は殺をつかさどり、冬の三ヶ月に、地にもぐって内に隠れなければ、根が生長することができず、つまり春に発生することはありません。ゆえに一つの季節が常規を失えば、四季の序列は運行しなくなります」
越王は言った
「よろしい。私はすでに陰陽のことを聞いたが、穀物の貴賤について、それを知ることができるだろうか」
范子は言った
「陽は貴をつかさどり、陰は賤をつかさどります。故に寒くあるべきときに寒くなければ、穀物はこのために暴騰します。暖かくあるべき時に暖かくなければ、穀物はこのために暴落します。たとえるなら形と影、声と響きが互いに聞こえるようなもので、どうして繰り返さないことがありえましょうか。故に秋冬は陽気を貴くして陰気に影響し、陰気が極まるとまた貴くなります。春夏は陰気を賤しくして陽気に影響し、陽気が極まると元に戻りません」
越王は言った
「よろしい」
丹砂で帛に書き、これを枕の中に置き、国宝とした。
五日が過ぎ、呉に苦しめられ、范子に請うて言った
「私は国を守るのに術がなく、万物に背き、ほとんど国が滅び社稷が危うくなり、他国に批判され、足を定めて立つことが無い。身を捨てて出でて死し、呉の仇に報いようと思うが、このためにはどうすればいいだろうか」
范子は言った
「私は、聖主はこのために行えないことを為し、人が自分を謗ることを憎まないと聞いております。賞賛するに足る徳を為しても、人が自分を称えるのを徳としません。舜は歴山で徳を修め、天下は服従しました。舜にその修めたものを捨てさせ、天下の利を求めさせれば、おそらくその身を全うできなかったでしょう。昔、神農が天下を治めるのに、つとめてこれに利を与えるのみで、報いを望みませんでした。天下の財を貪らず、天下はともにこれを富ませました。その知恵と能力が自ら人よりすぐれているゆえんであり、天下はともにこれを尊びました。故に富貴というのは、天下が配置するところで、奪うことはできないのです。今、王は地を貪り財を貪り、戦を開いて刀は血に塗れ、倒れた死体は流血し、それによって世に名を顕そうとしているのは、なんと誤っているのではないでしょうか」
越王は言った
「上は神農に及ばず、下は尭舜に及ばず、いまあなたは至聖の道を私に説いたが、誠に私の及ぶところではない。かつ、私はこう聞いている、父が辱められれば子は死し、君主が辱められれば臣下は死す。今私は自らすでに呉に辱められた。一切の非常手段を行って、呉に復讐したい。どうかあなたは私に代わってこれを図ってほしい」
范子は言った
「君主が辱められれば死ぬのは、もとより義にかなっています。ただちに死にます。士人を降し国を興すことを求めるのは、聖人の計です。かつ天下を拡張し、万乗の主を尊び、人民の住居を安泰にさせ、その業を楽にさせるのは、ただ軍隊だけです。軍隊の要は人にあり、人の要は穀物にあります。故に民が多ければ君主は安泰で、穀物が多ければ軍隊は強いのです。王がもしこの二つを備えたら、しかる後これを図ることができます。」
越王は言った
「私は国を富ませ軍隊を強くしたいが、土地は狭く民は少ない。どうすればいいだろうか」
范子は言った
「陽は上で動いて天文を形成し、陰は下で動いて地理を形成します。開閉の要点を審らかに観察すれば、富むことができます。まず天門と地戸の開閉を知りたいのなら、その方法は、天は高さ五寸とし、天から一寸六分減らして地を作ります。謹んで八穀を調べて、はじめ天に出現するのは、天文が開き、地戸が閉まることを言っており、陽気は下方の地戸に入ることはできません。ゆえに気は移り動き、上下・陰陽はともに断絶し、八穀は成長せず、大いに高騰し必ずその年に応じて価格が上がり、これは天変が現れる符牒です。謹んで八穀を調べて、はじめ地に入るのは、これは地戸が閉まることを言います。陰陽がともに合わさり、八穀は大いに成長し、その年は大いに価格が下り、来年は大いに飢える、これは地変が現れるしるしです。謹んで八穀を調べて、はじめ人の天地の間に現れるのは、穀物の買値はかたよりなく、よく成熟し、災害がありません。故に天が先にとなえてしるしがあらわれると、地は応じてしるしがあらわれます。聖人は上は天を知り、下は地を知り、中は人を知りますが、これは天地の治まりは、このために天の図を作ることを言います」
越王はすでに呉に勝って三日、国に帰ろうとしたがいまだ到着せず、休息して、自らを強いとし、大夫種に問うて言った
「聖人の術は、これに何を加えるのだろうか」
大夫種は言った
「そのようなものではありません。王は徳は范子が言うこと得ましたが、これは天地の符が国に応じ、聖人の心を蔵したのです。しかし范子が予見する策は、いまだ敢えて王のために言っておりません」
越王は顔色を変え、憂いの表情が見られた。王は徳は范子が言うこと得ましたが、これは天地の符が国に応じ、聖人の心を蔵したのです。しかし范子が予見する策は、いまだ敢えて王のために言っておりません」
越王は顔色を変え、憂いの表情が見られた。范子を招き、称えて言った
「わたしがあなたの計を用い、幸いに呉に勝つことができたのは、ことごとくあなたの力である。私は、あなたが陰陽の進退に明るく、未だに形ができていないものを予知し、過去を推して先を導き、後の千年のことを知る。それを聞くことができるだろうか。私は虚心に注意して、風下で聴こう」
范子は言った
「陰陽の進退とは、前後がはっきりしないものです。いまだ形ができていないものを予見して、生殺与奪の柄を持ち、王が四海を制しておられるのは、国の重宝です。王がもしこのことを洩らさないなら、私は王のためにこれを言わせていただきたい」
越王は言った
「あなたが幸いにも私に教えるなら、どうかこれとともに自らしまい込ませてほしい、死に至るまで敢えて忘れまい」
范子は言った
「陰陽の進退は、もとより天道の自然なことであり、怪しむには足りません。陰気が浅いところに入ればその年はよくなり、陽気が深いところに入ればその年は悪くなります。奥深く微妙ですが、未だ形のできていないものを予知します。故に聖人はものを見て疑わず、時機を知るといいますが、これはもとより聖人の伝えないところです。尭・舜・禹・湯は、みな予見の功労がありましたので、凶作の年であっても民は困窮しませんでした」
越王は言った
「よろしい」
丹沙で帛に書き、これを枕の中に置き、国の宝とした。范子はすでに越王に告げると、志を立てて海に入った。これが天地の図といわれていることである。

越絶書

越絶書巻十四 越絶外伝春申君第十七
むかし、楚の考烈王の相春申君に李園という吏がいた。園の妹の女環は言った
私は王が老いて跡継ぎがないと聞いております。私を春申君に会わせて下さい。私が春申君に会うことができたら、ただちに王に会うことができるでしょう」
園は言った
「春申君は、貴人であり、大国の輔佐である。私はなにを口実として敢えてこのことを言おうか」
女環は言った
「すぐに私に会わなくても、あなたは春申君の才人に謁見を求め、『遠方の客がきたので、どうか帰ってこれを接待させてください』と告げてください。彼は必ずあなたに『お前の家どんな遠方の客が来たのか』と問うでしょう。そこで答えて言ってください『私には妹がいますが、魯の相はこれを聴き、使者をよこしてこれを私に求めさせましたので、才人は私に告げさせたのです』彼は必ずこう問うでしょう『お前の妹は何ができるのか』答えて言ってください『鼓を演奏することができ、書を読み、一つの経書に通じています』彼は必ず私に会うでしょう」
園は言った
「わかった」
次の日、春申君の才人に告げた
「遠方からの客が来たので、どうか帰ってこれを接待させてください」
春申君は果たして問うた
「お前の家にどんな遠方の客が来たのか」
答えて言った
「私には妹がおりますが、魯の相がこれを聞き、使者を遣わしてこれを求めてきたのです」
春申君は言った
「何ができるのか」
答えて言った
「鼓を演奏することができ、書を読み、一つの経書に通じています」
春申君は言った
「会うことはできるだろうか。明日、離れで待たせておけ」
園は言った
「わかりました」
帰ると、女環に告げて言った
「私が春申君に告げると、私に明日の夕べ離れで待つことを許された」
女環は言った
「あなたは先に飲食を供してこれを接待したほうがよいでしょう」
春申君が到着すると、園は人を走らせ女環を呼びに行かせ、黄昏に、女環がやってきた。
大いに気ままに酒を飲み、女環は鼓や琴を奏で、曲が未だ終わらないうちに、春申君は大いに喜び、留まって泊まった。翌日、女環は春申君に言った
「私は、王は老いて跡継ぎがなく、国をあなたに委ねたと聞いております。あなたは外で荒淫し、政治を顧みません。もし王にこれをお聞かせすれば、あなたは上には王の期待に背き、私の兄を用いて下には夫人を裏切ることになります、これはいかがなものでしょう。この口を漏らされないように、君は部下を召してこれを戒めてください」
春申君は所属の官吏を召して言った
「私が女淫したことを聞かせないように」
皆言った
「わかりました」
女環と通じ、いまだ一月経たないうちに、女環は春申君に言った
「私は、王は老いて跡継ぎがないと聞いております。いま、あなたの子を懐妊して一月になります。私を王に会わせ、幸いに男子を産めば、あなたは王の祖父となります。どうして輔佐のままでいられましょうか。あなたはこのことを慎重にお考えください」
春申君は言った
「わかった」
五日してこれを語った
「国中に美しい女があり、人相を見ますと、跡継ぎをもうけることができます」
考烈王は言った
「わかった」
そこでこれを召した。考烈王は喜び、これを娶った。十月して、男子を産んだ。十年して、烈王は死に、幽王があとを継いで立った。女環は園を春申君の輔佐とした。これを輔佐して三年、そののち園に告げた。
「呉に春申君を封じ、東の辺境に備えさせてください」
園は言った
「わかった」
そこで春申君を呉に封じた。幽王の後は懐王であり、張儀にこれを詐って殺させた。懐王の子は頃襄王であり、秦の始皇帝は王翦にこれを滅ぼさせた。

 

越絶徳序外伝記第十八
昔、越王句踐は會稽で危機に陥り、嘆いて言った
「私は覇者となれない」
妻子を殺し、競い戦って死のうとした。范蠡は答えて言った
「危ういことです、王はもくろみを失し、その悪むところを惜しんでいます。かつ呉王には賢人は近づかず、不肖の輩は去りません。もし言葉を卑くして領土をこれに譲るとしたら、天がもし彼を見棄てるならば、彼は必ず許可するでしょう」
句踐はさとり、言った
「なんとその通りではないか」
ついに范蠡のいうことを聞いて勝った。越王句踐は呉を平定すると、春には三江を祭り、秋には五湖を祭った。その時期にもとづいてこのために祠を建て、これを来世に伝え、これを長い年月伝えた。隣國は徳を好んで、やってきて満足した。范蠡は自ら反省するのは盲人のようで、人を責めないことは聾者のようであった。天関を渡り、天機を渡り、後方には天一を身につけ、前方には神光を帯びた。このときいわれていたことは、范蠡が国を去ったのは甚だ密かに行われ、王がすでにこれを失うと、ついにまた出会うことは難しかった。ここで徐州に出兵し、周室に朝貢をした。元王はこのために中興し、句踐を号して州伯とした。思うに専ら句踐の功績によるものであり、王室の力ではなかった。この時越は覇道を行い、沛を宋に帰し、浮陵は楚に付し、臨沂・開陽は魯に復帰させた。中原の国々の侵伐はこれによって衰え止んだ。誠意が内に行われ、威が外に発せられ、越がその功を専らにしたので、ゆえにこれを越絶というのである。故に伝に「桓公は妾腹であることに苦しみ、よく悟り知った。句踐は會稽で捕らわれ、それによって覇業をなすことができた」という。尭・舜は聖人ではあったが、狼を任じて統治をすることはできなかった。管仲はよく人を知り、桓公はよく賢人を任じた。范蠡は災禍を慮ることに長け、句踐はよくこれを行った。臣下と君主がこのようであれば、覇業を成さないことなどあり得るだろうか。易に「君臣が心を同じくすれば、その利は金属断つ」というのは、このことである。
呉越のことは煩雑で文章はわかりにくかったので、聖人はこれを省略した。賢者は意を垂れ、深くその辞を省み、これを見て愚を知った。夫差は狂って道理がわからず、子胥を賊殺した。句踐は至賢だったが、文種はどうして誅殺されたのか。范蠡が恐懼して、五湖に逃亡したのは、どんな解釈があるだろうか。呉は子胥の賢なること知っていてもなお愚かにもこれを誅殺した。伝に「人がまさに死のうとするとき、酒肉の味を聞くことを憎み、国がまさに滅びようとするとき、忠臣の気を聞くことを憎む」という。身が死すと医療は行われず、国が滅ぶと謀は行われず、かえって自らに災いを招く。思うに木、土、水、火は気のありかが同じではないというのは、このことを言うのである。
文種は立派な功績を挙たが、その後誤って自ら誇るようになった。句踐は文種が仁のある人だと知っていたが、信用できることを知らなかった。種は呉のために越に通じて言った
「君子は窮地にあるものを陥れたり、降服したものを滅ぼしたりはしません」
忠告を句踐は非とし、顔色に現れた。范蠡は心中で句踐の意向を知り、その事を筮竹で、その言葉卜占で吉凶を占った。占いの結果は災厄をあらわしていた。范蠡は利と害を見て、五湖に去った。思うにその道を知ると、富貴を得ることは少なくなり卑賤を得るということを言っているのである。易に「きざしを知ることは神明のわざと言えようか、道は害にならないことを下策とする」【01】、伝に「始まりを知って終わりを知らなければ、その道は必ず厳しいものとなる」とは、このことを言うのである。子胥は剣を賜ってまさに自殺しようとして、嘆いて言った
「ああ、多くの曲がったことが正しいことをまげてしまい【02】、私一人ではもとより自分だけで立っていることはできない。私は弓矢をかかえて鄭・楚の間を逃れ、自ら私が虐げられた仇に復讐したいと思い、そこで先王の功績に報いることができると思ったが、自らこのようなことになったのである。私が先に栄誉を得て、後に殺されるのは、智が衰えたからではなく、先に賢明な君主に会い、のちに腹黒い君主に会ったからで、君主が変わったというだけである。良い時期にめぐり会えず、また何を言えるだろうか。これは私の運命であり、亡げてどこに行くというのか。早く死んで、吾が先王に從って地下に行くにこしたことはない、それがわたしの思いである」
呉王は子胥を殺そうとし、馮同にこれを召し出させた。子胥は馮同をみて、呉王のために来たことを知った。言葉を洩らして言った
「王は補弼の臣を近づけずに多くの豚の言葉を近づけたので、このために私の命が短くなったのである。私の頭を高所に置け、必ずや越人が呉に侵入し、吾が王がみずから擒となるのを見るであろう。私を深い江へ捨てれば、それでおわりだ」
子胥が死んだ後、呉王はこれを聞き、妖言だとして、子胥をひどく咎め、王は人を使わして子胥を大江の川口に捨てさせた。勇士がこれをとりはからうと、遺体から響きが起こり、憤りを発して疾走し、その気は走る馬のようであった。威は万物を凌ぎ、魂を大海に帰した。はっきりと見えない間でも、音のしるしは常に聞こえていた。後世、伍子胥は水仙になったと称え述べられた。子胥は弓を持って楚を去り、ただ夫子だけがその道を知っていた。〔欠字〕今になってこれを補充し、人に知られていない文を補充した。深くその兆しを述べ、しるしを戒めとした。斉人は伍子胥の娘を帰し、その子孫はまた重用された。それぞれ一篇をなすが、文辞は尽くされず、経伝の外章となり、補って同類のものを表現したのである。もとより聖人はかすかなもの見てあきらかなものを知り、始めを見て終わりを知るのである。このことから考えると、夫子が王とならなかったことがわかる。つつしんでありがたい恵みを受け、昔のことを述べ表した。夫子は経を作るのに、歴史書を総括し、憤懣をもらさず、あわせて事後も述べ、伝説を受け継いだのである。その意は周道がやぶれなければ、春秋は作られなかったとするものである。思うに夫子が春秋を作り、魯の紀年を用い、大義を立て、精微な言葉をつらね、五経六芸は、これを手本とした。意を越に集中し、曲直を見た。その本末を書き連ね、その根本のきまりを抜き出し、章句は区切られ、各々終始があった。呉越の抗争の際に、夫差が矢敗れたいうのは、このことをいうのである。故に「太伯」の記述を見ると、聖賢の職分を知ることができ、「荊平王内伝」の記述を見ると、忠信から勇への変化を知ることができ、「呉人内伝」の記述を見ると、陰謀の慮を知ることができ、「計倪内経」の記述を見ると、陰陽の消長のきまりを知ることができ、「請糴内伝」の記述を見ると、越人がどのようにして敵国の賢人と不肖の人を利用したのかを知ることができ【03】、「内経九術」の記述を見れば、人を取る道や災いを福に転じることを知ることができる。「兵法」の記述を見ると、敵の進路を防ぐ方法を知ることができる。「内伝陳成恒」の記述を見ると、古今の互いに勝つ方法を知ることができる。「徳序外伝記」の記述を見ると、忠直の臣が死ぬ理由や、頭のおかしい者が悲しい結果になるのを知ることができる。経伝の八章は、上下が互いに説明し合っている。斉桓公は国を興し盛んになったが、政策の執行は同じであった。管仲は覇業の道に通じており、范蠡は吉凶と終始を審らかにした。夫差は国をよく統治することができなかった【04】。馮同や太宰嚭を見ると、佞臣の行く末を知ることができ、彼らが徳信の者から離れ用いなかったことを哀れむ。内心で子胥が邪な君主を忠実に諌めたのに、却って咎を受けたのを痛む。夫差は子胥を誅殺し、これより滅亡への道が始まったのである。

 

関連記事
【04】原文に欠字「夫差不能□邦之治」

越絶書

越絶書巻十五 越絶篇敘外伝記第十九

古の人皇氏の九人の兄弟の世では、蒙水の際【01】、興廃には定めがあり、三皇五帝に承け継いだ。故に多くの者が目で見たものを伝え、徳を信じたという。この時から、天下は大いに服した。三皇以後は、一人で人を統治した。三王に至って、争いの心が生まれ、戦争が起こり、五つの肉体刑を行った。みなそこでことごとく正しい気を持ち、天の河を越えた。孔子は精に感応し、後に強国の秦がその治世を失って、漢が興ることを知った。子貢は斉・晋・越をはかり、呉に入った。孔子は類推し、後に蘇秦が出ることを知った。軒轅と太微は相互に動き、太微は五たび運行した。道中で麒麟を捕らえたのは、周が尽きる証であった。故に『春秋』を作って周を受け継いだ。この時天地はにわかに清明になり、日月は同時に明るくなり、弟子は嬉しそうにして、ともに太平であった。孔子は聖人の仁徳を抱くも苦しみを継承し、少しの土地も所有することなく一人の民も支配しなかった。麒麟を見て涙を流し、民が居場所を得られないのを傷んだ。聖人でなければ、誰がこのように世を痛むことができようか。万代にわたって不滅であり、再び述べることはできない。故に聖人が没すると奥深い言葉は絶えるのである。子貢は「春秋」を見て文を改め質朴を尊び、二つ名があることを譏り、孔子の学問を振興し、また発憤して呉越のことを記し、章句を編纂し、後の賢者に諭した。子貢の遊説は、魯を安泰にし、呉を破り、晋を強くし、越に覇業をなさせ、春秋二百余年の時代は、後の王にかたちを示した。子貢は呉越のことを伝え、【欠字】秦を指した。聖人(孔子)は一隅から出て、弁士(子貢)はその言葉を述べた。聖人の文もまたすぐれており、子貢の辞もまたすぐれていた。故にその文を題してこれを越絶というのである。
問うて言った
「越絶は「太伯」に始まり、「陳恒」で終わるのは、どうしてか」
「論語に、『小道といえども、かならず観るべきものあり』という。つまり太伯は始まりにおいて明知であり、去って賢者を進めることをわかっていた。太伯がことに恨まなかったのは、礼譲の至りである。太伯に始まるのは、賢者を尊重し、呉を偉大とすることを明らかにしたのである。仁はよく勇を生むので、故に「太伯」のあとに「刑平王」が続くのであり、伍子胥の忠・正・信・智を勇としたのは明らかである。智はよく詐を生むので、故に「刑平王」のあとに「呉人」が続くのであり、その務めて蔡を救ったのを善とし、楚を伐ったのを勇とした。范蠡の行為は、危機にありながら傾国を救ったが、道に従い天に従い、国を富ませ民を安んじるに及ぶものはなく、故に「呉人」の後に「計倪」が続くのである。国を富ませ民を安んじるのは、自ら守るに固く【02】、容易く敵に取られる、故に「計倪」のあとに「請糴」が続くのである。ひとたび愚行があり、ゆえにその政に背いた。穀物を請うとは、福禄を求めるということであり、必ず獲るべきである。ゆえに「九術」が続くのである。越は天の心に従い、ついに呉と和親して、呉の内情を知った。朝廷で画策して、強弱を知った。時が至れば、伐てば必ず勝つことができる。故に「兵法」が続くのである。軍隊は凶器であり、挙動が不当であれば、天は災いを与える。この上位の事柄を知ってはじめて軍隊を用いることができる。『易経』で将を卜うと、春秋時代にはに将がおらず、子が父を謀り、臣が主を殺すことは、天地が許容しないところである。悪は甚だ深いので、「陳恒」で終わるのである。
問うて言った
「「易経」で将を占うと、春秋には将はないという。ここに、楚の平王はどのような良いところがあったのか。君は無道であり、臣下は主を仇としたのに、太伯に次ぐのはどうしてか」
言った
「楚の平王を善しとするのではなく、子胥を勇としたのである。臣が賊を伐たず、子が仇に報復しなければ、臣や子とはいえない。故に伍子胥が無道の楚で冤罪となり、困難にあっても死ななかったことを賢としたのである。匹夫の身でありながら一国の民衆の支持を得て、義を合わせて仇に報復し、楚を傾けたのを善しとした。義でなければ行動せず、義でなければ命をかけなかった」
問うて言った
「子胥は楚王の母を辱め、罪無くして呉で死んだ。このような行いは、どうして義といえるのか」
答えて言った
「孔子はもとよりこれを非難した。その仇に復讐したのを賢とし、楚王の母を娶ったのを悪とした。しかし『春秋』の義は、功を量って過ちをおおいかくすものである。これを賢とするのは、肉親に対する親愛のためである。
「子胥はどのように呉と親密であったか」
答えて言った
「子胥は苦境に陥ったため闔廬におして見え、闔廬はこれを甚だ勇とし、仇に報復するのを助け、名誉は甚だ明らかであった。『詩経』に言う
「私に桃をくれるなら、これに李でお返ししよう」
夫差は愚か者で変わりようがなく、ついにどうにもならなかった。言は用いられず、策は聞き入られず、伍子胥は明らかに呉がまさに滅ぼうとしているのを知った。闔廬の厚恩を受けたので、去って自らを生かすのに忍びず、諫めた功を世に知らしめようとした。ゆえに呉が敗れるのに先んじて殺されたのである。死んだ闔廬にすら背かなかったのに、ましてや在位している夫差に背いただろうか。昔、管仲が生きていたとき覇業が興り、子胥は死んでから名声が成った。周公は一つの概念を尊び、一人に完備していることを求めなかった。外篇にそれぞれ叙述の差があることは、説明されていない。
問うて言った
「子胥は賢人とまではいえない。賢人が通るところは感化されるのに、子胥は剣を賜り、死を免れようとしても、それができただろうか」
「盲者には美しい縫い取りの入った布を示すことができず、聾者には調和した音声を語ることはできない。瞽瞍は変わらず、商均は導かれなかった。湯は夏台に繋がれ、文王は殷に捕らえられた。時の人は舜は不孝であり、尭は慈悲がないと言った。聖人ですら愚か者を喜ばないのだから、ましてや子胥はどうだろうか。まさに楚に苦しみ、呉に悩んだが、信義により去らなかったのに、夫差はどうしてこれを捕らえることがあろうか」
「孔子がこれを批判したのはどうしてか」
「楚に報復するのに、子胥が楚王の母を辱め、夷狄の所行に及んだのを述べたのである。これを批判して呉人と言ったのである」
問うて言った
「句踐はどのような徳があったか」
「覇王の徳があり、賢君であった」
「伝に『人を危うくして自分だけ安全にするようなことを、君子はしなかった。人から奪い自らに与えることを、伯夷は勝っているとはしなかった』という。偽って勝ち、人を滅ぼして覇者となったのに、どうして賢といえるのか」
答えて言った
「これはもとより覇道である。幸いの道もあれば厭うべき誤りもあり、善もあれば悪もある。当時は天子はなく、強者が尊ばれていた。句踐に力を持たせなければ、国はとうに滅んでいた。子胥は信義によって人心得て、范蠡はよく偽って勝った。もし明晰な王がいて天下太平であり、諸侯は和親し、四夷は徳を楽しみ、国境の門を叩き珍宝を貢献し、膝を屈して臣下となることを請うたなら、子胥はどうして楚に苦しんだだろうか。范蠡はほどなく狂者のふりをしたのか。句踐はどうして藁を与えて馬を養ったのか。変乱に遭遇しても、臨機の処置で自らを保全したのは、また賢ではないだろうか。覇業を行うのに賢人ではなても、晋文王はよく時流に応じて筋道に従い、したがって成功できた。故に人が来ない廟では福を受けやすく、危うくなった民は徳を受けやすいとは、このことをいうのである。問うて言った
「子胥。范蠡はどういう人か」
「子胥は勇敢で知恵があり、正義であり信義がある。范蠡は知恵があり明晰で、どちらも賢人である。問うて言った
「子胥は死に、范蠡は去った。二人の行動は違うのに、どちらも賢人だというのは、どういうことか」
「論語に『力をつくして任務にあたり、できないときはやめる」とある。正しい筋道で君主に仕えるということを言っている。范蠡は単身越に入り、主君を覇業に至らせたが、合わないところがあったので、故に去ったのである」
問うて言った
「合わないのにどうして死ななかったのか」答えて言った
「去るか留まるかは、君主に事える義である。義には死ぬということはなく、子胥が死んだのは、恩を闔閭に深く受けたからである。いま范蠡が等しく重んじられたとするのは、甚だ明らかではない」
問うて言った
「恩を受けて死ぬのは、よい死に方である。臣下が君主に仕えるのは、妻が夫に事えるような物であるのに、どうして去ったのか」
論語に、『(季桓子が)三日朝廷に出てこなかったので、孔子は去ってしまった』という。行とは、去るという意味である。伝に「孔子が魯を去ったのは、祭祀の台の上に肉がなかったためである。曾子が妻と別れたのは、あかざを十分に蒸さなかったためである」とある。微子が去ったこと、比干が死んだことは、孔子はどちらも仁と称えている。行いが異なるといっても、その義は同じである」
「死と生、失敗と成功が、同じとはどういうことか」
「論語に、『身を殺して仁をなすことがある』という。子胥はその信を重んじ、范蠡はその義を尊んだ。信は中より出て、義は外より出る。微子が去ったのは、殷を傷んだからである。比干が死んだのは、紂に忠誠を尽くしたからである。箕子が逃げたのは、綱紀を正したのである。みな忠信の極みで有り、互いに表裏となっている。問うて言った
「二人はどちらがすぐれているか」
答えて言った
「同じだと思われる。しかし子胥は何事もせずに自ら無道の楚から逃れることができ、先王の旧恩を忘れず、主のために身を滅ぼした。適合すれば、覇業を成すことができる。適合しなければ、去るのならすぐ去るべきで、死ぬならすぐに死ぬべきである。范蠡は不明な世に遭遇し、髪を振り乱し狂人を装い、正しくなければ行わず、明主がなければとどまらなかった。表情に現れれば称え、道を害さなかった。推し量ればしばしば的中、財産を増やした。偽りの手段を用いて句踐を覇者とし、合わなければ去った。三度遷って位を避け、名声は海内に聞こえた。越を去って斉に行き、老いて西陶に身を置いた。次男は楚で犯罪を犯し、予想が当たって死んだ。二人の行いは始めから終わりまですぐれていた。子胥は人をしのいでいるというべきではないか」
問うて言った
「子胥は楚の宮殿を伐ち、その子を射たが、殺さなかったのは、どうしてか」
「及ばなかったからである。楚の世継ぎは雲夢山に逃走した。子胥の軍は平王の墓に鞭打ち、昭王は大夫申包胥を使わし秦に行かせ救援を求めさせた。于斧の漁師の子は子胥に諫言し、子胥はたまたま秦の救援が至ったので、そこで兵を率いて還った。越は無道の楚で疲労しているのを見て、軍隊を興して呉を伐った。子胥はやむを得ず、これを就李に迎え撃ったのである」
問うて言った
「墓を暴いて死体に鞭打ったのはどのように言い表せるか」
「子が仇を討ち、臣下が賊を討伐するのは、その至誠が天を感動させ、是正が行きすぎるものだ。子育てをしている犬は虎に哺乳し、禍福を計らなかった。立派な道義は誅殺されず、主要な悪を誅殺するのである。子胥が墓を暴き死体に鞭打ったのは追及されない。このように子胥の呉越を記述したのは、類似の事柄によって、後世に明らかに伝えようとしたのである。善を著して誠とし、悪を譏って戒めとした。句踐以来、更始の元号に至るまで五百余年たち、呉越が互いに攻撃する事態がまた現れている。百年に一人賢人が現れ、なお比肩するようであった。その事を記述するのに、要にある人がいた。姓は「去」に「衣」を合わせて「袁」であった。その名は「米」の上に「庚」をかぶせて「康」であった。禹は来たりて東征し、死んでその境界に葬られた。自ら排斥するのを正しいとせず、類似の出来事に託して自ら明らかにした。精気を描写して愚行を露わにし、類似の事柄で略述し、後世の人に告げるのを待った。文が集まり辞が定まったのは、国の賢人によるものである。国の賢人の姓は「口」を「天」がうけて「呉」であった。楚の相の屈原は、これと名が同じであった。古今に明らかにであり、徳は顔淵に並ぶ。当時、人々と与することができず、隠匿して自らゆったりとした。申酉の年に、道を懐いて人生を終えた。友人が見棄てなかったのは、まるで孔子が麒麟を得たときのようであった。その意を見て、その文をなげいた、ああ、悲しいことだ。故きを温ね新しきを知り、子胥のことを述べ著すことにより、未来と今のことを教えた。累世にわたり次々に見られるうちに、論者は実情を得られなくなり、そこに達するものはいなくなってしまった。春秋のように尭舜を詳しく述べ、周文王を重視している。これを天地に比較し、五経に著した。徳は日月に等しく、智は陰陽に比肩した。『詩経』の「伐柯」は、自分を他人に喩えたのである。後から生まれた者は敬うべきだが、思うに年のよるものではない。作者は口を姓とし、万事を語った。「口」の下を「天」が承けたのは、徳が高明ということである。屈原とは名を同じくし、その意は相応じていた。百年に一人賢人が出るので、賢人がまた生まれたのである。古今のことに明るいのは、知識が広いということである。徳は顔淵匹敵し、はかることはできない。当時は用いられることはなく、口を閉じてで精神をとざし、ふかく自ら誠を実現した。孔子が麒麟を見て、道が困難である知ったときのようであった。姓の文字の中に「去」があるのは、世俗と容れることができないということである。「衣」をつければ名前が完成するのは、賢人がこれを着て明らかにすることができたということである。名の文字の中に「米」があるのは、八政の珍宝ということである。「庚」に「米」をかぶせて「康」というのは、戦争が食糧を断つということである。ああ、悲しいことだ、与するのを肯んじる者はなかった。屈原は境界から離れ、南楚に放浪し、自ら湘水に沈み、范蠡が所有した。

 

【01】原文「維先古九頭之世蒙水之際興敗有數承三繼五」、「蒙水之際」は意味が取れないのでそのまま書いています。
【02】原文「故於自守」錢培名によれば「故」は「固」の誤り。ここではそれに従う。(「越絶書校釋」李步嘉校釋 中華書局2013)

国語

 呉王夫差は兵をおこして越を伐ち、越王句踐は兵をおこしてこれを浙江に迎え撃った。大夫種はそこで謀を献じて言った
「いったい呉と越とは、ただ天が授けるところです。王は戦をなさってはいけません。 いったい申胥と華登は呉国の士に軍事を習わせ、未だ嘗て挫けたことはありません。いったい、一人がよく弓を射れば、百人がゆがけとゆごてを身につけます。勝利はいまだ確かなものではありません。いったい謀とは必ず事がなるのを予見し、しかるのちこれを行わなくてはなりません。生命を投げ出すべきではありません。王は軍をととのえ、誓約の辞をなし和平を行い、呉の民を喜ばせ、呉王の心を広く大きくするにこしたことはありません。私がこれを天に占ってみますと、天がもし呉を棄てるなら、必ずや我々の和平を許し、我々を恐れるに足らないとして、まさに必ず心広く緩やかにして諸侯に覇たるの心をもつでしょう。すでにその民が疲れてから、天が食物を奪い、そしてその余りを受ければ、呉の天命はなくなりましょう」
 越王は許諾し、そこで諸稽郢に命じて呉との和平を行わせ、言った
「わが君句踐は、いやしい臣である郢をして、あきらかに玉帛を並べ礼を行うことをせず、ひそかに身分の低い執事に告げさせて申しますには、『昔、越国は禍にあって天王に対し罪を得ました。天王はみずからおみ足を趨らせ、心をもって句踐をしりぞけ、そしてまたこれを宥しました。君王は越にとって、死人を起こして白骨を肉とするものです。私はあえて天災を忘れず、あえて君王の大いなる恵みを忘れるでしょうか。いま句踐は、禍を重ねて善いところがなく、野にあって礼を知らない人であり、あえて天王の大いなる徳を忘れ、国境のつまらぬ争いを怨み、もって罪を下執事に重ねることを得ましょうか。句踐は、二三の家臣をひきい、みずから重罪に帰して、辺境で額づきましょう。いま君王にはわかっていただけず、さかんに怒って兵をあつめ、まさに越国を残伐しようとしておられます。越国はもとより呉に貢ぎ物をたてまつる邑です。君王はむちをもってこれを使わずに、かたじけなくも軍士に敵の侵攻を防御する号令をさせられました。句踐は盟を請い、一介の嫡女はちりとりとほうきをとり王の後宮に備わり、一介の嫡男はたらいを奉って諸御に従いましょう。春秋に貢ぎ物をたてまつり、王府に怠ることはありません。天王はどうして意をかたじけなくしてこれをおさえとどめましょうか。また諸侯を統べる礼でございます。諺に、狐がかくし、狐があばく、これは成功することはない、といいます。今天王はすでに越国に領地を与えて諸侯とし、明らかに天下に聞こえさせたのに、またこれを刈り滅ぼそうというのなら、天王の成功はないでしょう。四方の諸侯といえども、なんの事実によって呉につかえるでしょうか 』あえてわたくしに辞を尽くさせます、ただ天王は利をえらんで便宜をおしはかっていただきたい」
 呉王夫差はそこで諸大夫に告げて言った
「私はまさに斉を伐つという大志があるので、私は越を許そうと思う、なんじは私の考えに逆らってはならない。もし越がすでに改めたなら、私はまた何を求めるだろうか。もし改めなければ、斉を伐ってから兵を整えて帰り、越を伐つ」
 申胥が諫めて言った
「許してはなりません。そもそも越は、本当に越に対して忠信し友好的ではなく、また我が軍隊の強さを恐れているのでもありません。大夫種は、勇にして謀に長け、まさに呉国を股や掌の上で転がしも弄んで、その志をとげるでしょう。もとより君王が威をたっとび勝ちを好むのを知っていて、ゆえにその辞を控えめにし、王の志をほしいままにし、諸夏の国に淫楽し、みずから傷つけさせようとするのです。我々の武具と武器をなまくらにし、民を離れ去らせて、日ごとに憔悴させ、しかるのちにたやすく我々の余りを手に入れようとするのです。越王は信を好み民を愛し、四方はこれに帰し、穀物は時にあたって実り、日々さかんに進みます。我々がなお戦うべきときに、小蛇をくだかなければ、大蛇となってまさにどうするべきでしょうか」
呉王は言った
「大夫はどうして越を盛んだとするのか。越など大げさに考えるに足るだろうか。もし越がなければ、私はどうして春秋にわが軍士を輝かせようか」
そして越に和平を許した。まさに盟おうとするにあたり、越はまた諸稽郢をつかわし辞退して言った
「盟をもって有益とすると、前回の会盟の時にすすった血が未だ乾いておらず、信を結ぶに足ります。盟をもって無益とすると、君王は武器と武具の威光を臨み使うのをやめて、どうして鬼神を重んじ自らを軽んずるのですか」
呉王はそこでこれを許し、講和するのみで盟わなかった。
 呉王夫差はすでに越の和平を許し、そこで大いに軍隊に命じ、まさに斉を伐とうとした。申胥は進んで諫めて言った
「昔、天は越を呉に賜りましたが、しかし王は受けませんでした。天命はくつがえることがあり、いま越王句踐は恐懼してその謀を改め、その誤った命令をすて、その租税を軽くし、民のほしいものを施し、民の悪むものを取り去り、自らは倹約し、万民を豊かにし、民は栄えて多く、軍備は多くなっています。越は呉にとって、人の腹と胸に病気があるようなものです。越王は呉を敗ることを忘れず、その心は憂い悲しみ、兵士を訓練し我々の隙を伺っています。いま王は越のことを図られずに、斉・魯を憂いておられます。斉・魯はもろもろの病気にたとえれば、疥癬です。どうして江・淮を渡って、我々とこの地を争うことなどできましょうか。まさにかならず越は呉の土地を保有しようとしているのです。王はどうして人を鏡とし、水に映る形を鏡としないようにされないのですか。
 昔、楚の霊王は君主としての道に外れ、その臣下が諫めても受け入れず、そして台を章華の上に築き、穿って石郭をつくり、漢水を塞いで帝舜の墓を象り、楚国を疲弊させ、陳・蔡をうかがい、方城の内をおさめず、諸夏をわたり東国を征服しようと図り、三年沮・汾において呉越を征服しようとしました。その民は飢えと疲れのわざわいに忍びず、三軍は王に乾谿で反乱をおこしました。王は自らただ一人で行き、山林の中を不安に思ってさまよい、三日目にやっと掃除係の疇に出会いました。王はこれを呼んで言いました、『わたしは三日食べていない』疇は走り進み出て、王はそのももを枕にし地べたに寝ました。王が眠ると、疇は土塊を王の枕にし逃げ去ってしまいました。王は目が覚めると疇の姿が見えないので、匍匐してまさに棘の門に入ろうとしましたが、棘の門では入れなかったので、そこで芋尹の申亥氏が王を入れました。王は首をくくり、申亥は王を背負って帰り、その室の土に埋めました。この記録は、どうして諸侯の耳からにわかに忘れられましょうか。今王はすでに鯀・禹の功績を変えて、台やうてなを作り、汀や池を深くし、民を姑蘇に疲れさせ、天は我々の食物を奪い、都鄙は餓えを重ねています。今王はまさに天に従わず斉を伐とうとしていますが、呉の民は離反し、体は傾くところがあり、たとえるなら群れている獣のようなもので、一匹矢を負えば、百の群れが皆逃げてしまい、王は撤兵する道がなくなるでしょう。越人は必ず呉に来襲し、王がこれを悔いたとしてもどうして間に合うことがありましょうか」
王は聞かなかった。十二年、遂に斉を伐ち、斉人と艾陵で戦い、斉の軍は敗れ呉人に功があった。
 呉王夫差はすでに斉人に艾陵で勝ち、行人の奚斯に斉に言い訳をさせた
「私は粗末な呉国の兵をひきいて、汶水のほとりに沿っていき、あえて左右の斉の民に暴掠をしなかったのは、ただよしみがあったからです。いま大夫国子は多くの人民を動員し、呉国の軍隊を犯し動かしました。天がもし罪あることを知らなければ、どうして我が国に勝たせましょうか」
呉王は斉の討伐より還ると、申胥を責めて言った
「昔わが先王は、徳を身につけ聖明であり天に達した。たとえるなら、農夫が二人組になり四方のよもぎを刈り取るようなもので、楚を破って名を立てたのは、大夫の力である。今大夫は老い、また自ら心安らかにせず、家にいて呉国に悪をなそうとし、外に出ればすなわち我が国の民にわざわいをなし、百の法をみだし、妖言をもって呉国にわざわいをなしている。今天は呉に善をもたらし、斉の軍は降服した。私はどうして自らを立派だと考えようか。先王の鍾鼓をまことに用いて霊験があったのである。あえて大夫に告げよう」
申胥は剣を置いて答えて言った
「むかし、わが先王には代々補弼の臣があって、よく疑わしきをただし悪を計り、大難に陥ることはありませんでした。今、王は老人を棄て、子供と一緖に謀り、『私が命令して従わないものはない』とおっしゃいます。従わないものがないというのは、すなわち道に違うということです。従わないものがないというのは、滅びの階段です。そもそも、天が見棄てるところは、必ずしばしばその小喜を近づけ、その大憂を遠ざけるものです。王がもし斉に対する志をかなえられず、王の心を悟るならば、呉国はなお代々続くでしょう。わが先君が楚に勝ちましたのは、かならず取るところがあったからであり、楚に敗れたのは、必ず棄てるところがあったからです。もってまことにたすけて十分な地位を保って失わずそして終わり、しばしば傾きを救うのに時を失いませんでした。今、王は取るところがないのに、天の恵みがしばしば至っています。これは呉の命が短いということです。私は気の病になったと称し王がみずから越の擒になるのを見るに忍びません。どうか先に死なせてください」
遂に自殺した。まさに死のうとするときに、言った
「私の目を東門に懸けよ、越人が侵入し、呉国の滅びるのを見てやろう」
王は怒って言った
「私は大夫が見られないようにしてやる」
そこで申胥の屍を取り、皮の袋に入れ、これを江に投げ込ませた。
 呉王夫差はすでに申胥を殺し、穀物が実らなかったが、軍を起こして北征した。深い運河を穿ち、宋・魯の間に通じ、北は沂水におよび、西は済水におよび、晋の定公と黄池で会盟した。ここにおいて、越王句踐は范蠡・舌庸に命じ、軍を率いて海にそって淮水をさかのぼり、呉の帰路を断ち、王子友を姑熊夷に破った。越王句踐は江をさかのぼり中軍を率いて呉を襲い、その郭に入り、姑蘇を焼き、大舟を取った。呉と晋は会盟の長を争って未だ定まらなかったところ、国境の早馬が至り、越の反乱を告げた。呉王は恐れて、大夫を集め謀って言った
「越は無道をなし、その同盟に背いた。いま、我々の道のりは遠い。会盟せずに還るのと、会盟して晋の順次を先にするのと、どちらに利があるだろうか」
王孫雄は言った
「危急のことに年次は関係ありません、私があえて先に答えましょう。二者とも利はありません。会盟せずに帰れば、越の評判が明らかとなり、民は恐れて逃げ、道は遠く行くところはありません。斉、宋、徐、夷は『呉はすでに敗れた』と言って、運河をさしはさんで我々を横から撃ち、我々は命がないでしょう。会盟して晋を先にすれば、晋はすでに諸侯の権力を握って我々に臨み、その志をとげて天子にまみえるでしょう。我々はこれを待つことができず、ここから去るのも忍びません。もし越の評判がますます明らかになれば、吾が民は恐れて反乱を起こすでしょう。必ず会盟してこれに先んじるべきです。」
王はそこで王孫雄に歩み寄り言った
「これに先んじるには、これを図るにどうしたらいいだろうか」
王孫雄は言った
「王はお疑いになりませんように、我々の道のりは遠いですが、かならず二つの命令がないなら、事をなしとげることができます。」
王孫雄は進みでで、顧みて諸大夫に会釈して言った
「危事に安んずることができず、死事に生きることができないのは、知恵をたっとぶことではありません。民が死を悪んで富貴を欲し、長生きして死にたいと思うのは、我々と同じです。しかし、彼らはその国に近いので転じて退くことができますが、我々の道は遠いので、転じて退くことができません。彼らはどうしてよく我々と争って死ぬことがありましょうか。君に事えて勇にして謀あるのをいま用いて、今夕かならず晋に挑戰して民心を広大にするべきです。どうか王は、士卒を勉励し、その群勢を奮い立たせ、これを励ますのに高位と財宝をもってし、刑罰を具えて励まない者を辱め、各々にその死を軽んじるようにさせれば、彼らはまさに戦わずして我々を先にし、我々はすでに諸侯の盟主となり、歳の収穫がないことで諸侯の貢賦を責めることなく、諸侯を先に帰せば、諸侯は必ず喜びます。すでにみなその国境に入れば、王は安らかにその志を寛くし、一日急ぎ一日ゆっくりとし、安らかに王の志を行い、この民を江淮の間に封じればすなわちよく呉に至ることができます」
呉王は許諾した。
呉王は日暮れに命令して馬にかいばを与え士に食べさせ、夜半に武器を取り甲を身につけ、馬の舌を縛り火を竈から出し、卒百人を並べて徹行を百行つくり、行頭にみな官帥がいて、鐸を抱きほこを供え、肥胡の幡を立て文犀の楯を奉じ、十行に一嬖大夫がいて、旌を立て鼓を提げ、兵書を脇に挟んで太鼓のばちを執り、十旌に一將軍がいて、常を戴せ鼓並べ立て、兵書を脇に挟んで太鼓のばちを執り、一万人で方陣を作った。皆白い常に白い旂、白い甲に白羽の矢で、これを望むと茅のようであった。王はみずから鉞を執り、白旗を載せて中陳をひきいて立った。左軍もまたこのようであった;みな赤い常に赤い旟、丹の甲に朱羽の矢で、これを望むと火のようであった。右軍もまたこのようであった;黒い常に黒い旗、烏の羽の矢で、これを望むと墨のようであった。鎧を身につけた兵士三万をなし、勢いをもって攻め、鶏の鳴き声がすると定まり、すでに陣をつくり、晋軍からの距離は一里であった。未明に、王はばちを執り、みずから鐘鼓・丁寧・錞于を鳴らし鐸を振るうと、勇者も臆病者もことごとく応じ、三軍はみなかまびすしく叫んで兵を整え、その声は天地を動かした。晋の軍は大いに驚き出ず、軍をめぐらし塁をつくり、そこで董褐に事情を問わせて、言った
「両君は戦いを止めてよしみを交えるのに正午を期限としたのに、いま大国は順序をこえて、我が軍塁に至りました。順序を乱されたわけを伺いたい」
呉王はみずから答えて言った
「天子の命があり、周室は衰えて、貢献の入るものはなく、上帝鬼神は告祭することができず、姫姓のたすけはなく、徒歩や駅伝の馬車でやってきて私に告げるのが日夜続いている。匍匐して晋君のところにやってくると、君は今周の王室が平安でないのを憂うのではなく、晋の民が多いことを安んじ恃み、戎翟楚秦を征伐するのに用いず、長幼の節にしたがわず、力をもって一、二の同姓の兄弟の国を征伐した。私は吾が先君の爵の順位を守ろうとし、先君の爵を超えることはできないし、先君に及ばないこともできない。今、会合の日が迫り、事を成すことができずに諸侯の笑いものになることを恐れるのである。私が君に事え晋を盟主にするのも今日のことであり、君に事えることができず呉を盟主にするのも今日のことである。使者のいるところは遠くないので、私はみずから命を籬の外で聞こう。」
董褐がまさに帰ろうとすると、王は軍の左方の部隊を呼んで言った
「少司馬茲と王の士五人を連れてきて王の前に座らせよ」
そこでみな進み出てみずから首をはね、客に報いた。
 董褐はすでに晋君に命を伝え、そこでこれを趙鞅に告げて言った
「私は、呉王の顔色が大いに心配事があるように見えました。心配事が小さいものなら、寵愛する妾や嫡子が死んだのであり国の大難ではないでしょう。心配事が大きいものなら、越が呉に侵入したということです。まさに暴れようとしており、戦うべきではありません。あなたは呉を先にするのを許し、危機を待つことがないようしてください。しかし、いたずらにこれを許すべきではありません」
趙鞅は許諾した。
 晋はそこで、董褐に復命させて言った
「わが君は未だ軍隊を示してみずから見えません、そこでわたくし褐に復命させて申し上げます。君の言葉によれば、『周室はすでに衰え、諸侯は天子に対する礼を失っている。どうか亀甲で占いをし文武の諸侯を天子に奉らせたい』ということでした。私は天子の近くにいて、罪を逃れることができません。天子の責める言葉が日々至り、言われますには『昔呉の伯父は季節を外すことなく必ず諸侯を率いて私一人を顧みた。いま伯父は蛮荊に備え、礼を前人のように続けられない』ということでした。そこで私に命じて礼をもって周公を助け、一、二の兄弟の国に見え、君の憂いをやませようとしました。今君は東海をおおって王となり、僭号は天子に聞こえています。君は短くても超えるべきでない礼という垣根があるのに、みずからこれを越えました。まして蛮荊であればどうして周室に義がありましょうか。命圭に命があり、もとより呉伯というのであり、呉王とはいいません。諸侯はこのことをもってあえて呉に事えないのです。諸侯に二君はなく、周に二王はありません。君がもし天子を卑しめてその不祥を犯すことがなく、呉公と名のるなら、わたしはあえて君が長子・弟の順序を命じるのに従って許諾しないことがありましょうか」
 呉王は許諾し、そこで退いて帳の中に入って会盟した。呉公が先に血をすすり、晋侯がこれに次いだ。呉王はすでに会盟した。越の評判はますます明らかになり、斉・宋が自分を害するのを恐れ、そこで王孫雄に命じて先に勇獲と歩兵を率いさせ、宋を通り過ぎる客となり、その北の郭を焼き、これを通り過ぎた。
呉王夫差はすでに黄池より退いた。そして王孫苟に、周に功績を告げさせて言った
「昔、楚人は不道をなし、王事を承けつつしまず、我が一・二の兄弟の国を退けました。我が先君の闔廬は、赦さず忍びず、鎧を着て剣を帯び、剣を抜き、鐸を振り、楚の昭王を中原の桕挙に逐いました。天は呉に善をほどこし、楚の軍は敗れ、王はその国を去りました。呉はついに郢に至り、王は百官を統べ、その社稷の祭を奉ったが、その父子昆弟はそれをよしとせず、夫槩王が反乱を起こしたので、呉に復帰しました。いま斉侯仼は楚の敗北を鑑みず、また王事を承けつつしまず、我が一・二の兄弟の国を退けました。夫差は赦さず忍びず、鎧を着て剣を帯び、剣を抜き、鐸を振り、汶水に沿って博を伐ち、雨具を身につけて艾陵に相望むと、天はその善をほどこし、斉の軍は敗れました。夫差はどうしてみずから功多しとするでしょうか、文王・武王がまことに善を施したのです。帰国して収穫が熟さないうちに、私は江水に沿って淮水をさかのぼり、溝をうがち川を深くし、商・魯の間に出て、兄弟の国に達しました。夫差はよく功を成しましたので、あえて苟をして下執事に告げさせます」
 周王は答えて言った
「苟、伯父はなんじに命じて来させ、先王の礼を継いで私一人に献じた。私はこれを喜ばしく思う。昔、周室は天が禍を降らせたのに逢い、民の不祥に遭った。私の心はどうして憂えないことがあろうか。ただ天下が安らかに治まらないというだけではない。今、伯父は「力を合わせて徳を同じくする」という。伯父がもしそのようにするならば、私一人かねて汝の大いなる福を受け、伯父は多く年を重ねて善く生涯を終えることができよう。伯父は徳をとること広大である」
 呉王夫差は黄池より還って、民を休めて警戒しなかった。越の大夫種はそこで謀を唱えて言った
「私が思いますに、呉王は遂に我々の地に侵入しそうでしたが、今軍を休めて警戒せず、我々を忘れています。我々は怠ってはなりません。昔、私は天に占ってみましたが、今呉の民はすでに疲れ、大いに不作でしきりに餓え、市には赤米すらなく、穀物倉は空で、その民は必ず移って東海の浜でがまの間で蛤を食べるでしょう。天の占いはすでに見えており、人事もまた見えているので、私は占いをすてます。王は今軍隊を起こして会戦し、その利を奪い、かれらに過ちを悔いさせないようにしてください。呉の辺鄙遠方の者は、帰郷してしまっていまだ都には至りませんが、呉王は戦わないことを恥じて必ずや遠方の兵が集まるのを待たずに、国都の軍だけで我々と戦おうとするでしょう。もし我々にしたがって戦えば、我々は遂にその地に足を踏み入れ、集まってきた呉の辺境の兵もまた会戦することができません。我々は禦児の兵を用いてこれに臨みましょう。呉王がもし怒って戦うなら幸いにも出奔させることができ、戦わないならば和平を結んで、王は安んじて厚く名を取り、ここを去ることができます。越王は言った
「よろしい」
そこで軍隊を大いに警戒させてまさに呉を伐とうとした。
 楚の申包胥が越に使者としてやってきた。越王句踐はこれに問うて言った
「呉国は不道をなし、我々の社稷宗廟を壊して平原とし、祖先のまつりを絶やすことを求めている。私はこれと天のまことを求め、車馬将兵はすでに具わったが、これを用いることができない。戦うにはどのように用いたらいいのか教えてほしい」
包胥は謙って言った
「わかりません」
王が強くこれに問うと、そこで答えて言った
「呉は善い国です。広く諸侯から貢ぎ物と年貢をおさめさせることができます。あえて君王がこれと戦う方法をお聞きしましょう」
王は言った
「私の近辺では、觴に入れた酒、豆に入れた肉、簞に入れた飯は、未だ嘗てあえて分け与えないことはない。飲食は旨いものにせず、音楽を聞くのにも声を尽くさず、呉に報復しようとしている。これをもって戦いたい」
包胥は言った
「善いには善いが、いまだ戦うことはできません」
王は言った
「越国の中で、病気にかかった者がいれば、私はこれを見舞う。死んだ者がいれば、私はこれを葬る。長老を敬い、幼い者慈しみ、孤児を養育し、病気の者を見舞い、呉に報復しようとしている。これをもって戦いたい」
包胥は言った  
「善いには善いが、いまだ戦うことはできません」
王は言った
「越国の中で、私は民に寛容にしてこれを子のようにあつかい、真心を尽くして恵んでこれに善を施し、私は法令を修め、刑をゆるやかにし、民の欲するところを施し、民の悪むところを除き、その善を称えてその悪をかばい、呉に報復しようとしている。これをもって戦いたい」
包胥は言った
「善いには善いが、いまだ戦うことはできません」
王は言った
「越国の中で、私は裕福な者を安んじ、貧しい者には与え、その不足を救い、その余剰に税をかけ、裕福な者も貧しい者も皆利益を得られるようにし、呉に報復しようとしている。これをもって戦いたい」
包胥は言った
「善いには善いが、いまだ戦うことはできません」
王は言った
「越国の南は楚であり、西は晋であり、北は斉である。春秋に皮幣玉帛子女を貢いで来朝して服従すること、未だ嘗て絶やしたことはなく、呉に報復しようとしている。これをもって戦いたい。
包胥は言った
「よろしいでしょう、これに加えることはありません。しかし、なおいまだ戦うことはできません。戦というものは、知を第一とし、仁がそれに次ぎ、勇が それに次ぎます。知でなければ、民の中ほどを知ることはできず、天下の多寡をはかることはできません。仁でなければ、三軍と餓えと疲れのわざわいを共にすることができません。勇でなければ疑いを断って大計を発することができません」
王は言った
「わかった」
越王句踐はそこで五大夫を召して言った
「呉は不道をなし、我々の社稷をそこない平原となし、祖先の祀りができないようにした。私はこれにたいし天の恵みを求めようと思う。ただ、車馬や武器、兵士は既に具わっているが、これを行うことができない。私が王孫包胥に問うたところ、既に私に告げた。あえて諸大夫に問うが、戦いはどうしたらできるだろうか。句踐が願うに、諸大夫がこれを言うのに、みなまことをもって告げてほしい。わたしにおもねらないように、私は大事を行おうとしているのである」
そこで大夫舌庸が進み出て答えて言った
「恩賞をつまびらかにすれば、戦えるでしょうか」
王は言った
「よく通じている」
大夫苦成が進み出ていった
「罰をつまびらかにすれば、戦えるでしょうか」
王は言った
「厳格勇猛である」
大夫種が進み出ていった
「旗をつまびらかにすれば、戦えるでしょうか」
王は言った
「よくわきまえている」
大夫蠡が進み出ていった
「守備をつまびらかにすれば、戦えるでしょうか」
王は言った
「攻め入られることはない」
大夫皐如が進み出ていった
「鍾鼓の進退の音声をつまびらかにすれば、戦えるでしょうか」
王は言った
「戦うことができる」
王はそこで官吏に命じて大いに国に命令して言わせた
「いやしくも軍役にたえるものは、みな国門の外に至れ」
王はそこで国に命令して言った
「国人で告げようとするものは来たりて告げよ、私に告げて欺き詐るところがあればまさに戮せられて利はない。五日に及ばないうちに必ずこれをつまびらかにせよ、五日を過ぎれば戦術は行われない」
王はそこで入って夫人に命じ、王は屏に背を向けて立ち、夫人は屏に向かって立った。王は言った
「今日より以後、内政は出ることがなく外政は入ることがない。内に恥があればお前の責任であり、外に恥があれば私の責任である。私がお前に合うのはこれでおわりだ」
王はついに出て、夫人は王を送り、屏より出ず、左の門を閉じてこれを土で塞ぎ、簪をとって一つの座席だけ設けて座り、掃除をしなかった。王はひさしに背を向けて立ち、大夫はひさしに向かって立った。王は言った  
「領地が公平でなく、土地が開墾されず、国に内に恥があればお前の責任であり、軍士が死を恐れ、外に恥があれば私の責任である。今日より以後、国政は出ることがなく軍政は入ることがない。私がお前に合うのはこれでおわりだ」 王はついに出て、大夫は王を送り、ひさしより出ず、左の門を閉じてこれを土で塞ぎ、一つの座席だけ設けて座り、掃除をしなかった。王はそこで壇列に行き、鼓を鳴らして軍隊のところに行き、罪のあるものを斬ってとなえて言った
「このように環瑱をもって賄賂にし軍を乱すことがないように」 明くる日、宿営をうつし罪のあるものを斬ってとなえて言った 「このように隊伍の命令に従わないことがないように」
明くる日、宿営をうつし罪のあるものを斬ってとなえて言った
「このように王の命令を用いないことがないように」
明くる日、宿営をうつし禦児にいたり罪のあるものを斬ってとなえて言った
「このように淫逸でつつしまないことがないように」
王はそこで官吏に命じて、大いに軍にとなえて言った
「年老いた父母がいて、兄弟のないものは告げよ」
王はみずからこれに命じて言った
「私は大事を成そうとしている。あなたに年老いた父母があり、あなたが私のために死んだら、あなたの父母はまさに溝に転落することになるだろう。あなたが私のために礼を尽くしたことはすでに手厚い。あなたは帰って父母の生涯を全うせよ。今後もし事があれば私はあなたとともにこれを図ろう。」
明くる日、軍にとなえて言った
「兄弟が四、五人いて、皆ここにいる者は告げよ」
王はみずからこれに命じて言った
「わたしは大事をなそうとしている。あなたが兄弟四、五人いて、みなここにいれば、事がもし勝たなければ、滅亡してしまう。あなたのなかで帰ろうとする者を一人選べ」
明くる日、軍にとなえて言った
「目がくらむ病があるものは告げよ」
王はみずからこれに命じて言った
「わたしは大事をなそうとしている。あなたが目のくらむ病があれば帰って止まれ。今後もし事があれば私はあなたとともにこれを図ろう。」
明くる日、軍にとなえて言った
「筋力が軍事にたえるに足らず、志と行いが命を聴くに足りない者は帰って、告げることがないように」
明くる日、軍を遷して上下が親しみ和したところで、罪ある者を斬ってとなえて言った
「このように志と行いが果敢でないことがないように」
ここにおいて、人々は死の覚悟を決めた。王はそこで官吏に命じて軍にとなえて言った
「おまえたちが、帰れといって帰らず、止まれといって止まらず、進めといって進まず、退けといって退かず、左に向けといって左に向かわず、右に向けといって右に向かわないなら、その身は斬られ妻子は売られることになる」
ここにおいて呉王は軍隊を起こして江北に陣をはり、越王は江南に陣をはった。越王はそこでその軍を二つに分け、左右軍とし、その私卒君子六千人をもって中軍とした。明くる日江で舟戦をしようと、日暮れになってから左軍に枚を銜えさせて江をさかのぼって五里のところで待たせた。また右軍にも枚を銜えさせて江を渡って五里のところ待たせた。夜中に左軍と右軍に江を渡り鼓を鳴らして江の中央で待たせた。呉軍はこれを聞いて大いに驚き、言った
「越人は分けて二軍をつくり、我々の軍を夾撃しようとしている」
そこで夜明けを待たずに、またその軍を中分し、越を防ごうとした。越王はそこで中軍に枚を銜えさせて口をつぐませ、鼓を鳴らさず、騷がずにこれを襲撃させたので、呉軍は大いに敗れた。越の左軍と右軍はついに江を渡りこれを追いかけ、またこれを大いに没で敗り、また郭外でこれを敗って、三度戦って三度敗れ、呉に至った。越軍はついに呉国に入り、王宮を囲んだ。呉王は恐れて、人を使わして和平をさせようとして、言った
「以前、私が先に越君に裁きを委ね、君は私に告げて和平を請い、男女は服従しました。私は越の先君との友好をいかんとすることもなく、天の不祥を恐れ、あえて祭祀を絶たず、君に和平を許して、今に至りました。今私は不道で、罪を君王に得て、君王はみずから私の国にかたじけなくなさいました。私はあえて和平を請い、男女は服従して奴隷になりましょう」
越王は言った
「昔、天が越を呉に賜ったのに、呉は受けなかった。今天が呉を越に賜ったというのに、私が天の命を聴かずにあなたの言うことを聴くことがあろうか」
そこで和平を許さなかった。よって人を使わして呉王に告げさせて言った
「天は呉を越に賜った。わたしはあえて受けないということはしない。民の生きるのは長くはないので、王は死なないように。民の地上に生きるのは仮住まいであるので、どれくらいの時があろうか。私は王を甬句東に送り届け、そこの夫婦三百人はただ王の安心する者ばかりなので、王は生涯をそこで終えなさい」
夫差は辞退して言った
「天はすでに禍を呉国に降し、前後ではなく、私自身に当たり、実に宗廟社稷を失いました。およそ呉の土地人民は、越がすでにこれを所有しています。私はどうして天下を視ることができましょうか」
夫差はまさに死のうとするとき、人をして子胥に告げさせて言った
「死者が知らなければそれでおわるが、もし知るならば、私はなんの面目があって員にまみえようか」
ついに自殺した。越は呉を滅ぼした。上方の中国を征服して、宋・鄭・魯・衛・陳・蔡の珪璧を執る君主が皆入朝した。ただよくその群臣に下り、その謀を成した故である。

国語

越王句踐は会稽山の上に立てこもり、三軍に号令して言った
「およそわが父兄昆弟及び国の同姓の若者で、よく私を助けて謀って呉を退ける者は、私はこれとともに越国の政治を行おう」
大夫種は進み出て答えて言った
「私はこう聞いております、商人は夏ならば皮をたくわえ、冬ならばほそぬのをたくわえ、日照りならば舟をたくわえ、水害ならば車をたくわえて、不足を待ちます。四方の憂いがないといえども、謀臣と爪牙の士は、養い撰ばないわけにはいきません。たとえば蓑笠のようなものは、雨が降れば必ずこれを求めるのです。今君王は会稽山の上に立てこもり、しかるのちに謀臣を求めるのは、遅いのではないですか」
句踐は言った
「いやしくもあなたの言葉を聞くことができたら、どうして遅いということがあろうか」
その手を取ってこれとともに謀った。ついにこれを使わして呉と和平させて言った
「我が君句踐は、使者とする者がおりませんので、下臣の種をつかわして、あえて声を天王に届けず、下執事にひそかに申し上げますに、『私の軍隊は、君が自ら討伐する屈辱には値しません。願わくば、金玉子女をもって、君の屈辱にたいし賂させてください。どうか、句踐の娘は王にささげ、大夫の娘は大夫にささげ、士の娘は士にささげ、越国の宝器はことごとく従い、我が君が越国の兵を率いて君の軍に従い、たた君がこれを用いるようにさせてください。もし越国の罪をゆるせないとされるならば、まさに宗廟を焼き、妻子を繋ぎ、金玉を江に沈め、鎧を着た兵士五千人は、決死の覚悟をするので、必ず一対一になります。これは鎧を着けた兵士万人が君にお仕えすることになります。すなわち君王の愛するところを傷つけるのではないでしょうか。この人を殺すのと、安らかにこの国を得るのとでは、どちらが有利でしょうか」
夫差はまさにこれと和平するのを許そうとしたが、子胥が諫めて言った
「なりません。呉は越にとって、仇敵の国です。三本の江がこれをとりまき、民は移るところがなく、呉があれば越はなく、越があれば呉はなく、これは変えることができません。私はこう聞いております、陸人は陸に居り、水人は水に居る。中国では、我々がこれを攻めて勝っても、その地に居ることはできず、その車に乗ることはできません。越国は、我々がこれを攻めて勝てばその地に居ることができ、その舟に乗ることができます。この利は、失うべきではありません。君は必ずこれを滅ぼしなさい。この利を失えば、悔やんでもまた及ばないでしょう」
越人は美女八人を着飾らせて太宰嚭に納めて、言った
「あなたがもし越国の罪を許されるなら、またこれより美しい者を差し上げましょう」
太宰嚭は諫めて言った
「私はこう聞いております、古の国を伐つ者は、これを服従させるのみでした。今すでに服従しています。これ以上何を求めるのですか」
夫差はこれと和平をして去った。 句踐は国人に申し開きをして言った
「私はその力の不足を知らず、大国と仇を結び、人民の骨を中原に曝した、これはすなわち私の罪である。どうか私にあらためさせてほしい」
ここにおいて、死者を葬り、怪我人を見舞い、生きている者を養い、憂いがあれば弔問し、喜びがあれば祝賀し、往く者を送り、来る者を迎え、民の悪むところを除去し、民の不足を補った。その後夫差にへりくだって仕え、士三百人を呉に宦とし、自分自身は夫差の車の先払いとなった。句踐の地は南は句無に至り、北は禦児に至り、東は鄞に至り、西は姑篾に至り、広さは百里であった。そしてその父兄昆弟を召致してこれに誓って言った
「私は、古の賢君に四方の民が帰順するのは、水が下方に帰するようなものであったと聞いている。いま私はそうすることができないが、お前たち夫婦をひきいて人口を増やしたいと思う」
若者が老婦を娶ることなく、老人が若い妻を娶ることないように命じ、女子が十七歳で嫁がなければその父母を有罪とし、男が二十歳で娶らなければその父母を有罪とした。出産しそうなものは告げると、官が医者にこれを養護させ、男を産めば壺二杯の酒と一匹の犬、女を産めば壺二杯の酒と一匹の豚を与え、三人産めば官がこれに乳母を与え、二人産めば官がこれに食糧を与えた。嫡子が死ねばその父に三年賦役を免除し、庶子が死ねば三ヶ月免除した。かならず哭泣してこれを埋葬すること、我が子のようであった。孤児・寡婦・病人・貧病の者には、その子を仕官させた。道理に通じた者は、その住居を清め、その衣服を美しくし、食べ物を十分に与え、これに義を磨き研がせた。四方の士が来ると必ず廟でこれを礼遇した。句踐は粥と油を船に載せて行き、国内の少年の游ぶものは、食べないものはなく、飲まないものはなく、必ずその名を問うた。自分自身が播いたものしか食べず、夫人が織ったものしか着ず、十年国から税を取らず、民は三年の食を蓄えた。 国の父兄は請うて言った
「昔、夫差は我が君を諸侯の国に辱めました。今、越国もまた節度があるのですから、どうかこれに報復させて下さい」
句踐は辞退して言った
「昔の戦いは、あなたたちの罪ではなく、私の罪である。私のような者のために、どうして恥を知ることがあろうか。どうかしばらく戦うことがないように」
父兄はまた請うて言った
「越の四封の内は、我が君を親しむこと、父母のごときです。子は父母の敵に報いることを思い、臣は君の敵に報いることを思い、あえて力を尽くさない者はありません。どうかまた戦わせてください」
句踐はすでにこれを許し、その衆を召致してこれに誓って言った
「私が聞くところ、古の賢君はその衆が足りないのを憂えず、その志と行いに恥が少ないことを憂えたという。今、夫差の水犀の鎧を着る兵士は十万三千人、その志と行いに恥が少ないことを憂えず、その衆の足りないことを憂えている。今私はまさに天を助けて呉を滅ぼそうとしている。私は匹夫の勇を欲せず、ともに進みともに退くことを欲する。進めば恩賞を思い、退けば刑を思う、このようにすれば常に賞を得るだろう。進んで命令に従わず、退いて恥を知らず、このようにすれば常に刑罰を受けるだろう。果たして行うと、国人はみな勤めて、父はその子を励まし、兄はその弟を励まし、婦人はその夫を励まして言った
「だれがこの君のために死なないことができようか」
こうしたために、呉を囿に破り、またこれを没に破り、またこれを郭外に破った。夫差は和平を行って言った
「私の兵は、君にわざわざ戦っていただく屈辱に足りません、どうか金玉子女をもって君の屈辱に賂させて下さい」
句踐は答えて言った
「昔、天が越を呉に与えたのに、呉は受けなかった。今、天は呉を越に与えた。越は天の命を聴かずに、あなたのいうことを聴くことができようか。どうか、王は甬江・句章の東の地に送り届けさせて下さい、私と君は二人の君主となりましょう」
夫差は答えて言った
「私はあなたより一杯の飯のぶんだけ年長です。あなたがもし周室のことを忘れず、我が国を軒下に庇って下さるなら、それはまた私の願いです。君がもし、『わたしはあなたの社稷をそこない、あなたの宗廟を滅ぼす』と言われるなら、わたしを死なせて下さい。私は何の面目があって天下に視ることができるでしょうか。越君は軍をとどめて下さい」
ついに呉を滅ぼした。
 

国語

越語下第二十一

越王句踐は即位して三年、呉を伐とうとした。范蠡は進み出でて諫めて言った
「国家のことには、満ちたりた状態を保つこと、危うきを安らかにすること、節制することがあります」
王は言った
「三つのことを為すにはどうしたらいいか」
范蠡は答えて言った
「満ちるている状態を保つのは天にのっとり、危うきを安らかにするのは人にのっとり、節制するのは地にのっとります。王が問わなければ、私はあえて答えません。天道は満ちても溢れず、盛んでも驕らず、手柄があってもその功を誇りません。聖人は時にしたがって行動します、これを守時といいます。天時が起こらなければ攻めません、人事が起こらなければ動きません。いま君王はいまだ満ちていないのに溢れた気持ちになり、いまだ盛んでないのに驕りたかぶり、労せずしてその功を誇っています。天の時がまだ来ていないのに先に呉を攻め、人事が起こっていないのに動き始めようとする、これは天に背き人に合わないことです。王がもしこれを行えば、まさに国家は害せられ王の身は損なわれるでしょう」
王は聴かなかった。范蠡は進み出て諫めて言った
「勇は礼譲に背き、兵は凶器、争いは最後の手段です。陰謀して礼譲に背き、好んで凶器を用い、先に人を伐てば、人に害せられるところになります。淫佚のことは、上帝が禁じていることです。先にこれを行うのは、利がありません」
王は言った
「陰謀淫佚などない、私はすでに決斷した」
果たして軍を興し呉と五湖に戦ったが、勝たず、会稽山に立てこもった。王は范蠡を召してこれに問うて言った
「私はあなたの言をもちいず、このようなことになってしまった。どうしたらいいだろうか」
范蠡は答えて言った
「辞を卑くして礼を貴び、珍宝や美女楽士を贈り、呉王を貴んで天王と呼ぶことです。このようにしても呉が許さなければ、ご自分の身をもって利をはかってください」
王は言った
「わかった」
そこで大夫種に、呉との和平を行わせて言った
「どうか、士の娘は士にめあわせ、大夫の娘は大夫にめあわせ、一緖に国家の宝器をおさめさせてください」
呉人は許さなかった。 大夫種は帰ってきて、再び行き、言った
「どうか我が国の鍵をお渡しし国家を帰属させ、身をもって従わせて下さい。君王はこれをほしいままになさってください」
呉人は許諾した。 王は言った
「蠡よ、私のために国を守ってくれ」
范蠡は答えて言った
「四封の内、人民のことは、蠡は種に及びません。四封の外、敵国をはかること、臨機の決断のことは、種はまた蠡に及びません」
王は言った
「わかった」
大夫種に国を守らせ、范蠡とともに呉に入り臣となった。
三年して、呉人はこれを解放した。 国に帰って、王は范蠡に問うて言った
「節制するにはどうしたらよいか」
范蠡は答えて言った
「節制は地にのっとります。ただ地だけが万物を包括して一つにし、その大事を失いません。万物を生み、禽獣を包み込んで養い、しかる後にその名を受け、その利を兼ねます。美悪をみな成し、人を養います。時が至らなければ強いて生じることはできず、事がきわまらなければ、強いて成すことはできません。落ち着いて動かずにいて、天下をはかり、来る者を待ってこれを正し、時の正しいところに因って定めます。男の農業と女の紡織の功を共同にし、民の害を除き、天の禍を避け、田野が開け、倉庫は充ち、民は盛んになります。その衆をむなしくして乱れる兆しを無くします。天時がまさに還ろうとすれば、人事にもまさに隙が生じ、必ずや天地の永久不変の制度を知って、そして天下の立派な利益をえることができます。人事に隙がなく天時が還らなければ、民をいつくしんで教えを守り、これを待ちます」
王は言った
「私の国家は、蠡の国家である。蠡はこれを図れ」
范蠡は答えて言った
「四封の内、人民のこと、春夏秋の三時の務めを励まし業を楽しませること、民の功を乱さず、天の時に逆らわず、五穀がやわらぎ実り、民が増え、君臣の上下がともにその志を得ることは、蠡は種にかないません。四封の外、敵国をはかること、臨機の決断のことは、陰陽の恒に因り、天地の常に順い、柔にして屈せず、強にして剛でなく、懐柔爵賞と斬伐黜奪の行いは常法に因り、生殺は天地の法に因ります。天は人の善悪に因って禍福をもたらし、聖人は天の現象にのっとります。人は自らこれを生じ、天地はその吉凶の象を見て、聖人はその吉凶によってこれを成します。このゆえに戦っても敵は報復せず、地を取っても敵に取り返されま せん。戦は外で勝ち、福は内に生じ、力を用いること甚だ少なくても、名声は明らかになることは、種もまた蠡にかないません」
王は言った
「わかった」
大夫種に国を治めさせた。
四年して、王は范蠡を召してこれに問うて言った
「先王が世を終え、私が位に就いた。私はもとより年が若く、未だ恒に変わらず守り遵うところがなく、外に出ては狩りにおぼれ、内に入っては酒におぼれ、私は人民のことを図らず、ただ舟と車で遊んでいた。上天は越に禍を降し、呉のほしいままに帰した。呉人は私に対しても、また甚だ苦しめられるものであった。私はあなたとこれを謀ろうと思うが、よいだろうか」
范蠡は答えて言った
「まだできません。私はこう聞いております、上帝がまだ成さないのなら、時が帰ってくるのを待ち、強いて求める者は不祥です。時を得て成さなければ、かえってその禍を受け、徳を失い名を滅ぼし、流浪し走って死亡します。天は奪うことがあり、与える事があり、与えないことがあります。王は急いで図らないでください。呉は、君王の呉です。王がもし急いでこれを図るなら、その事はいまだどうなるかわかりません」
王は言った
「わかった」
また一年して、王は范蠡を召して言った
「私はあなたと呉のことを謀ったが、あなたは『まだできない』と言った。今呉王は音楽と女色にふけり、民衆のことを忘れ、民の功を乱し、天の時に逆らい、讒言を信じ芸人を喜び、輔を悪み弼を遠ざけ、聖人は出ず、忠臣は倦怠し、皆意を曲げてたがいに迎合し、主は相非難することなく、上下はこもごもなおざりになっている。呉を伐ってもいいだろうか」
范蠡は答えて言った
「人事は至りましたが、天がまだ応じておりません。王はしばらくこれを待って下さい」
王は言った
「わかった」
また一年して、王は范蠡を召してこれに問うて言った
「私があなたと呉のことを謀ると、あなたは『まだできない』と言った。いま申胥はたびたびその王を諌めたが、王は怒ってこれを殺した。呉を伐ってもいいだろうか」
范蠡は答えて言った
「逆節は生じてきましたが、天地のきざしは未だ見られません、先に征服しようとすれば、事は成功せず、ともにその害を受けるでしょう。王はしばらくこれを待って下さい」
王は言った
「わかった」
また一年して、王は范蠡を召してこれに問うて言った 「私があなたと呉のことを謀ったら、あなたは『まだできない』と言った。今稲蟹が稲を食べ尽くして種が残っていない。呉を伐ってもいいだろうか」
范蠡は答えて言った
「天の応報が至りましたが、人事がまだ極まっておりません。王はしばらくこれを待って下さい」
王は怒って言った
「道理はもとよりこのようなものなのか、みだりに私を欺くのか。私はあなたと人事について語ると、あなたは私に天時がまだ至っていないと応えた。いま天の応報が至ったら、あなたは私に人事がまだ至っていないと応えた。どういうことだ」
范蠡は答えて言った
「王はしばらく怪しまないで下さい。人事は必ずまさに天地と三つ揃って、しかる後に初めて成功するのです。いまその稲蟹の禍が新たにおこって民は恐れ、君臣上下はみなその資材が長期にわたり堪えるに不足だと知り、彼らはまさに力を合わせて死力を尽くしてきますので、呉を伐つのはまだ危険です。王はしばらく馬車を馳せて狩りをしても狩りにおぼれることはなく、宮中の音楽を聴いても酒におぼれることなく、ほしいままに大夫と酒を飲んでも国家の不変の規則を忘れないようにして下さい。かれらはその上はその徳を軽んじ、民はその力を使い尽くし、またこれに怨望させて食を得られないようにすれば、天地の誅伐を致すことができます。王はしばらくこれを待って下さい」
九月になって、王は范蠡を召してこれに問うて言った
「諺に、『飢えて虚しい盛饌を待つのは、粗食の飢を救うこと疾いのに及ばない』という。今年も暮れようとしている、あなたはどうしようというのか」
范蠡は答えて言った
「君の言葉がなくても、もとより私はこれを請おうとしていました。私が聞きますに、時に従う者は火災を消して逃げる人を追うようなものです。逃げてからこれを追っても、ただ追いつかないことを恐れます」
王は言った
「わかった」
ついに軍を興して呉を伐ち、五湖に至った。呉人はこれを聞き、出でて挑戰し、一日に五回反撃してきた。王はこれに我慢できず、応戦することを許そうとした。范蠡は進み出て諫めて言った
「これを朝廷で謀るも、これを原野に失うのは、いかがなものでしょうか。王はしばらくこれを許さないで下さい。私はこう聞いております、時を得て怠ることなかれ、時は再びは来ない、天が与えたものを取らなければ、かえって禍となると。進退は変化するものであり、あとにまさに悔やむことになるでしょう、天節はもとよりこのようなものです。はじめに決めたことを変えませんように」
王は言った
「わかった」
応戦を許さなかった。
范蠡は言った
「私が聞きますに、昔のよく兵を用いる者は、進退を常とし、四季を法とし、天道の至る所を過ぎず、その数を窮めて止めるといいます。天道は明るく、日月を象り、明るいものを法として進取し、かすかなものに則って隠遁し、陽が極まれば陰となり、陰が極まれば陽となり、日が極まると還っていき、月が満ちると欠けます。昔のよく兵を用いる者は、天地の常法に因ってこれとともに行い、後れれば陰を用い、先んずれば陽を用い、近ければ柔を用い、遠ければ剛を用い、後れてかくし覆うことなく、先んじてあらわにすることなく、人を用いるのに常法はなく、往って従うものです。敵が剛強をもって防ぎ、陽節が尽きなければ、野に死ぬことはありません。彼らが攻めてきても我らは固く守って戦ってはいけません。もしこれと戦うなら、必ず天地の禍によって、またその民の飢餓・飽食・苦労・安楽を観て、これを調べます。その陽節が尽きて我々の陰節が充ちてからこれに勝つことができます。ちょうど先んじて人の客になるときは剛強にして甚だ速くすべきであり、彼らの陽節が尽きなければ軽んじても取ることはできません。ちょうど人の主になるときは、おだやかに重く堅固にすべきであり、我々の陰節が尽きなければ柔を用いても敵は迫ることができません。およそ陳の道は、右に設けるのに牝をもってし、左に益すのに牡をもってし、遅速を失うことなく、必ず天道に順い、めぐり廻って限りがありません。今呉が攻めて来るのは、剛強にして甚だ速いものです。王はしばらくこれを待って下さい」
王は言った
「わかった」
ともに戦うことはなかった。
軍に居ること三年、呉軍は自滅した。呉王はその親近の士と大臣を率いて姑蘇台に登り、王孫雄に越との和平を行わせて、言った
「昔、上帝が禍を天に降し、罪を会稽に得ました。今、君王が私を滅ぼされようとするので、私はまた会稽の和を請います」
王は忍びず、これを許そうとした。范蠡は進み出て諫めて言った
「私が聞きますに、聖人の功は、天の時によって功用をなし、時を得て成さなければ、元に戻ってしまいます。天の周期は遠くなく、五年で元に戻ります。小凶であれば近く、大凶であれば遠くなります。先人にこう言う者がいました、『斧の柄を手とる者は、その法は遠くない』と。今君王が決断なさらないのは、会稽の事を忘れたのですか」
王は言った
「わかった」
和平を許さなかった。使者は帰っていき、また戻ってきて、辞はますます卑く、礼はますます尊くしたので、王はまたこれを許そうとした。范蠡は諫めて言った
「誰がわれわれに朝早くから朝廷に出させ、夜遅く朝廷を退出させたのですか、呉ではありませんか。我々と三江五湖の利を争ったのは、呉ではありませんか。十年かけて謀ったものを、一朝にしてこれを棄てるなど、していいものでしょうか。王はしばらくこれを許さないで下さい。事はまさに望みどおりになろうとしています」
王は言った
「私は許したくないのだが、その使者に答えるのが辛い。あなたがこれに答えてくれ 」
范蠡はそこで左手に鼓をひっさげ、右手にばちを持ち、使者に答えた
「昔、上天が禍を越に降し、制を呉に委ねましたが、呉は受けなかった。今、この義を覆し、この禍に報復しようとしている。吾が王が敢えて天の命を聴かず、君王の命を聴くことがあろうか」
王孫雄は言った
「范どの、先人にこう言う者がいました『天を助けて暴虐をしないように、天を助けて暴虐する者は不祥である』と。今我々の稲蟹は種籾を残さず、あなたはまさに天を助けて暴虐をしようとしていて、その不祥であることを嫌がらないのですか」
范蠡は言った
「王孫どの、むかし吾が先君は、もとより周室の子爵にもなれませんでした。ゆえに東海の崖の近くで、おおすっぽん・わに・魚・すっぽんとともにいて、ひきがえると同じ水辺にいました。私はあつかましく人面をしていますが、なお禽獣のようなものです、またどうしてこのような巧弁がわかりましょうか」
王孫雄は言った
「范どの、あなたはまさに天を助けて暴虐をしようとしています。天を助けて暴虐をする者は不祥です。私は王に申し上げたいのです」
范蠡は言った
「王はすでに事を執事の人に委ねられました。あなたは行きなさい、執事の人にあなたに対し罪を得させることのないように」
使者は辞して帰った。范蠡は王に報せず、鼓を打ち軍を興して、使者についていき姑蘇の宮に至り、越の民を傷つけることなく、ついに呉を滅ぼした。
帰って五湖に至り、范蠡は王に辞して言った
「君王は勉励なさって下さい。私は二度と越国には入りません」
王は言った
「私にはあなたは何を言っているのかわからない」
范蠡は答えて言った
「私はこう聞いております、人臣というものは、君が憂えれば臣も苦しみ、君が辱められれば臣は死ぬと。昔君王が会稽で辱めを受けても私が死ななかったのはこのことのためです。人事はすでに成就しました。どうか会稽の罰に従わせて下さい」
王は言った
「あなたの悪をおおいかくさず、あなたの美を褒め称えない者は、その身を越国で終わらせはしない。あなたが私の言うことを聞けば、あなたと国を分かち合おう、私の言うことを聞かなければ、その身は死し、妻子は戮されよう」
范蠡は答えて言った
「私はご命令を聞きましょう。君は法を行ってください、私は志を行いましょう」
ついに小舟に乗って、五湖に浮かび、その最終的な行方を知るものはなかった。王は工人に命じて、上等の金属で范蠡の像を作らせ礼拝し、十日ごとに太夫に礼拝させた。会稽の周囲三百里を范蠡の地とし、言った
「後世の子孫であえて范蠡の地を侵す者があれば、越国で死なせはしない。天地四方の神がこれを征討するだろう」