越絶書

越絶外傳記呉王占夢第十二

昔、呉王夫差の時、その民は多く、穀物はよく実り、兵器と鎧は堅牢で、その民は戦闘に習熟していた。闔廬【欠落】、行うにふさわしい日があり、発するにふさわしい時があるという子胥の教えを絶った。姑胥の門を通過し、姑胥の台で昼寝をした。目覚めて起きると、その心は怨み嘆き、悔しく思うところがあるようだった。そこで太宰を召してこれを占わせて、言った
「さきに昼寝をし、夢で章明の宮に入った。二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのを見た。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのを見た。二本のすきが吾が宮堂にたてかけてあるのを見た。流水がさかんに流れわが宮の垣を越えるのをみた。前園に横向きに桐が生えていたのを見た。後ろの部屋で鍛工が鼓を両方からささえ持ち小さく震えるのを見た。お前は私のためにこれを詳しく占え、吉であれば吉といい、凶であれば凶といい、私の心の従うところにへつらうことがないように」
太宰嚭は答えて言った
「よろしいことです。大王は軍隊を興して斉を伐って下さい。章明とは、斉を伐って勝ち、天下に名高くなるということです。二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのは、大王の聖気があまりあるということです。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのは、四夷がすでに臣服し、諸侯を朝見させるということです。二本の鋤が宮堂にたてかけてあったのは、田夫を助けるということです。水がさかんに流れ宮堂を越えるのを見たのは、献上物がすでに至り、財があまりあるということです。前園に横向きに桐が生えていたのを見たのは、楽府の巧みな吹奏です。後ろの部屋で鍛工が鼓が小さく震えるのを手伝っているのを見たのは、宮女の鼓楽です」
呉王は大いに喜び、太宰嚭に色とりどりの絹織物四十疋を賜った。王の心は癒えず、王孫駱を召してこれに告げた。答えて言った
「私の智能は浅薄で、方術のことはわからず、大王の夢を占うことはできません。私は、東掖門亭長で越公の弟子の公孫聖を知っております。人となりは、幼くして学を好み、長じては博聞彊識、将来のことに通じておりますので、大王の夢を占うことができます。どうかこれをお召し下さい」
呉王は言った
「わかった」
王孫駱は文書をまわして言った
「今日壬午、左校司馬王孫駱は、命令を受けて東掖門亭長公孫聖に告ぐ。呉王は昼寝をし、目が覚めると心中は怨み嘆き、悔しく思うところがあるようだった。書面が至れば、車を馳せて姑胥の台に来るように」
聖は書面を得て、開けてこれを読み、地に伏して泣き、しばらく起きなかった。その妻大君は傍らより接してこれを起こし、言った
「どういうわけで大げさなのでしょう!主君に見えることを望み、にわかに急ぎの書面を得ることができたのに、泣いて止まないとは」
公孫聖は天を仰いで嘆いていった
「ああ、哀しいことだ。これはもとよりお前の知りうることではない。本日壬午、時は南方にあり、命は蒼天に属し、逃げることはできない。地に伏して泣くのは、自ら惜しむのではなく、ただ呉王のためである。こびへつらって發言すれば、師道は明らかでなくなる。正しい言葉で直諫すれば、身は死して功はない」
大君は言った
「あなたは無理にでも食べて自愛し、愼んでお忘れにならないで下さい」
地に伏して書き、すでに篇綴すると、そこで妻と腕をとって決別し、涕泣すること雨のようであった。車に乗って振り返らず、遂に姑胥の台に至り、呉王に謁見した。呉王は労って言った
「越公の弟子公孫聖よ、私は姑胥の台で昼寝をし、夢の中で章明の宮に入った。門に入ると、二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのを見た。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのを見た。二本のすきが吾が宮堂にたてかけてあるのを見た。流水がさかんに流れわが宮の垣を越えるのを見た。前園に横向きに桐が生えていたのを見た。後ろの部屋で鍛工が鼓が小さく震えるのを手伝っているのを見た。お前は私のためにこれを詳しく占え、吉であれば吉といい、凶であれば凶といい、私の心の従うところにへつらうことがないように」
公孫聖は地に伏し、しばらくして起き上がり、天を仰いで嘆いて言った
「悲しいことだ。船を好ものは溺れ、騎馬を好ものは落馬し、君子は各々好むものを禍とする。へつらって申せば、師道は明らかでなくなり、正しい言葉で強く諫めれば、身は死して功はありません。地に伏して泣いたのは、自らを惜しんだのでなく、大王を悲しんだからです。章とは、戦って勝たず、驚き恐れて逃げることです。明とは明るさから遠ざかり暗さに近づくということです。二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのを見たのは、王がまさに火でものを煮て食べることができないということです。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのを見たのは、大王の身が死し、魂魄が惑うということです。二本のすきが吾が宮堂にたてかけてあるのを見たのは、越人が呉国に侵入し、宗廟を伐ち、社稷を掘り起こすということです。流水がさかんに流れわが宮の垣を越えるのを見たのは、大王の宮堂が虚ろになるということです。
前園に横向きに桐が生えていたのを見たのは、桐は器に用いず、ただ木偶を作り死人と共に葬るということです。後ろの部屋で鍛工が鼓が小さく震えるのを手伝っているのを見たのは、ため息をつくことです。王はみずから行わず、臣下にやらせればよいでしょう」
太宰嚭・王孫駱は恐れ、冠と頭巾を取り、肩脱ぎして謝罪した。呉王は聖の言葉が不祥なのに怒り、そこでその身に自ら災いを受けさせた。そこで力士石番に、鉄杖で聖を伐たせ、これを断って頭を二つにした。聖は天を仰いで嘆いて言った
「天は冤罪をしっているか。直言して正しく諫めれば、身は死んで功績はない。私の家に私を葬らせず、私を山中に掲げていかせよ、後世に声を響かせよう」
呉王は人に秦餘杭の山に掲げていかせ、
「虎狼がその肉を食べ、野火がその骨を焼き、東風が至れば、お前の灰を飛び散らせる、お前はあらためて声を出すのか」
太宰嚭は進み出て再拝して言った
「逆言はすでに滅び、讒諛はすでに滅びましたので、そこで杯を飲み干し、時は行うことができます」
呉王は言った
「わかった」
王孫駱を左校司馬とし、太宰嚭を右校司馬とし、王は騎兵三千を従え、旌旗羽蓋、自ら中軍にいた。斉を伐って大いに勝った。兵を率いて三月去らず、通過して晋を伐った。晋はその軍隊が疲れ、糧食が尽いたのを知り、軍隊を興してこれを撃ち、大いに呉軍を破った。江を渡るとき、流血して屍を浮かせるものは、数えることができなかった。呉王は忍びず、その余兵を率いて、互いに率いて秦餘杭の山に至った。飢えて行軍は糧食に乏しく、視界が不明となった。地に拠って水をのみ、生稲を持ってこれを食べた。左右を顧みて言った
「これは何というのか」
群臣は答えて言った
「これは生稲です」
呉王は言った
「悲しいことだ、これは公孫聖が言った、王がまさに火でものを煮て食べることができないということだ」
太宰嚭は言った
「秦餘杭山の西側の斜面は清淨で、休息できます。大王は速やかに食事をとって行けば、なお十数里あるのみです」
呉王は言った
「私はかつて公孫聖をこの山で殺した。お前は試みに私のために先にこれを呼んでみよ、そこでなおここにいるなら、まさに声が響くであろう」
太宰嚭はそこで山に登って三度呼ぶと、聖は三度応じた。呉王は大いに恐れ、足はただれたようになり、顔は死人のような色になり、言った
「公孫聖が私に国を得させれば、誠に代々使えるであろう」
言葉がいまだ終わらないうちに、越王が追いかけてきた。兵は三度呉を囲み、大夫種は中軍にいた。范蠡は呉王を責めて言った
「王には過ちが五つあります。なんとこれをご存じであろうか。忠臣伍子胥、公孫聖を殺しました。胥の人となりは先見の明があり忠信であったのに、これを両断し江に投げ込みました。聖は正しい言葉で相手を憚らずに諫めたのに、身は死して功はありませんでした。これは大きな過ちの二つではないでしょうか。斉は罪がないのに、空しくまたこれを伐ち、鬼神を祀らせず、社稷を荒廃させ、父子を離散させ、兄弟を別居させました。これは大きな過ちの三つめではないでしょうか。越王句踐は、東の僻地にいるとはいっても、また天皇の位につながり得て、罪がないのに、王は常に茎を刈り取り馬に秣を食べさせ、奴隷のように扱いました。これは大きな過ちの四つ目ではないでしょうか。太宰嚭は他人を謗ってへつらい、王の血筋を断絶したのに、これのいうことを聴いて用いました。これは大きな過ちの五つ目ではないでしょうか。」
呉王は言った
「今日、教えを聞こう」
越王は歩光の剣を持ち、屈盧の矛を杖つき、目をみはって范蠡にいった
「お前はどうしてすみやかにこれを図らないのか」
范蠡は言った
「臣下は敢えて主を殺しません。臣が殺さずに主がもし亡くなるなら、今日へりくだって敬えば、天は微功に報いるでしょう」
越王は呉王に言った
「世に千歳の人はいない、死は一つである。范蠡は左手に鼓を持ち、右手にばちをとりこれを叩き、言った
「上天は青青として、あるいは存しあるいは亡びる。どうして軍士を待って、お前の首を断ち、お前の体を挫くのは、ほんとうに誤っていることではないか」
呉王は言った
「教えを聴きましょう。三寸の帛で私の目を覆ってください、もし死んで知ることになれば、私は伍子胥と公孫聖に会うのを恥じます。知ることがなければ、私は生きるのを恥じます。越王はそこで組みひもをほどいてその目を覆うと、ついに剣に伏して死んだ。越王は太宰嚭を殺し、その妻子を戮したのは、忠信でなかったためである。呉の血筋を断絶した。

越絶書

越絶外伝記宝剣第十三

昔、越王句踐は宝剣を五本持っていて、天下に聞こえていた。客によく剣を見るものがあり、名を薛燭といった。王は召してこれに問うて言った
「私は宝剣を五本持っている、どうかこれを示させてほしい」
薛燭は答えて言った
「愚かな理は言うに足りませんが、大王が請われるならやむを得ません」
そこで担当者を召し、王は毫曹を持ってこさせた。薛燭は答えて言った
「毫曹は宝剣ではありません。宝剣というものは、五色が並び見えて、互いに勝ることがないものです。毫曹はすでに名をほしいままにしていますが、宝剣ではありません」
王は言った
「巨闕をもってこい」
薛燭は言った
「宝剣ではありません。宝剣は、金錫と銅が分離しないものです。今、巨闕はすでに分離しているので、宝剣ではありません」
王は言った
「しかし巨闕がはじめてできたとき、私が露壇の上に座っていると、宮人で四頭立ての白鹿の馬車で過ぎる者があり、車が走って鹿が驚き、私は剣を引き抜いてこれを指すと、馬車は上に飛び上がり、その切断したことがわからなかった。銅の釜を穿ち、鉄の鬲を断つと、中がみな決壊して穀物の粒のようであり、故に巨闕というのである」
王は純鈞を持ってくると、薛燭はこれを聞き、忘れたように心を喪った。しばらくして、悟ったように恐れた。階を下りて深く思い、服を簡素にして坐してこれを見た。手を振って払い上げると、その光華は芙蓉が咲き始めたようだった。その釽を見ると、爛々として星が並んでいるようだった。その光彩を見ると、こんこんとため池から水が溢れるようだった。その断面を見ると、ごつごつとして細かな石のようだった。その素材を見ると、光り輝いて氷が熔けるようだった。
「これがいわゆる純鈞ですか」
「そうだ。客にこれに値段を付けるものがいて、市が立つ郷が二つ、駿馬千頭、千戸の都が二つの価値があるとしたが、よいだろうか」
薛燭は答えて言った
「いけません。この剣が作られたとき、赤堇の山は、破壞して錫が出ました。若耶の渓は、枯れて銅が出ました。雨師は水で洗い流し、雷公はふいごを撃ち、蛟龍は炉を叩き、天帝は炭を装備しました。太一が下を見ると、天の精霊がこれに下りてきました。欧冶子はそこで天の精神により、その技巧を尽くし、大型の剣を三つ、小型の剣を二つ作りました。一つめを湛盧といい、二つめを純鈞といい、三つめを勝邪といい、四つめを魚腸といい、五つめを巨闕といいました。呉王闔廬の時、勝邪・魚腸・湛盧を得ました。闔廬は無道で、子女が死ぬと、生きている者を殺してこれを葬送しました。湛盧の剣はこれを水のように去り、秦に行き楚を過ぎり、楚王が寝ていると、呉王湛盧の剣を得、まさにさきがけてこれを標記し保存しようとしました。秦王は聞いてこれを求めたが得られず、軍隊を興して楚を撃ち、言いました
「私に湛盧の剣を与えれば、軍隊を返してお前の国から去ろう」
楚王は与えませんでした。時に闔廬もまた魚腸の剣で呉王僚を刺し、腸夷の甲を着ていたのを三度突き刺ささせました。闔廬は専諸を焼き魚の料理人とし、剣を引き抜いてこれを刺し、ついに王僚を弑殺しました。これは小さく敵國に試しただけで、いまだ大きく天下に用いてはおりません。いま、赤堇の山はすでに合し、若耶の渓谷は深く、はかることはできません。群神は降らず、欧冶子はすぐに死にました。また国力を傾けて金を量り、珠玉を河に満たしても、なおこの一物を得ることはできません。市が立つ郷が二つ、駿馬千頭、千戸の都が二つあっても、どうして言うに足りましょうか」
楚王は風胡子を召してこれに問うて言った
「私は、呉に干将があり、越に欧冶子があり、この二人は世に優れて生まれ、天下に未だかつてないほどで、真心は上は天に通じ、下には節義を守る士であると聞いている。私は国の貴重な宝を贈ってみなあなたに奉り、呉王にたよってこの二人に鉄剣を作らせることを請いたいと願うが、よいだろうか」
風胡子は言った
「よろしいでしょう」
そこで風胡子を呉に行かせ、欧冶子と干将に会わせ、これに鉄剣を作らせた。欧冶子と干将は茨山を開鑿し、その渓谷を排水し、鉄鉱石を取り、三本の鉄剣を作った。一つめを龍淵といい、二つめを泰阿といい、三つめを工布といった。できあがると、風胡子はこれを楚王に献上した。楚王はこの三つの剣の光彩があって美しい様子を見て、大いに風胡子をよろこんで、これに問うて言った
「この三剣は何をかたどったものなのか。その名は何というのか」
風胡子は答えて言った
「一つめを龍淵、二つめを泰阿、三つめを工布といいます」
楚王は言った
「龍淵、泰阿、工布とはどういう意味か」
風胡子は答えて言った
「龍淵を知りたいのなら、その形状を見ると、高山に登り、深淵に臨むようです。泰阿を知りたいのなら、その切り口をみると、高大で整っており、流水の波のようです。工布を知りたいのなら、切り口は紋様のところから起り、背面に至って止んでおり、珠玉が襟に止めていないようで、紋様は流水が絶えないようです」
晋鄭王は聞いてこれを求めたが得られず、軍隊を興して楚の城を囲み、三年包囲を解かなかった。倉の穀物は尽き、倉庫に武器と鎧はなくなった。左右の群臣・賢士を制御することができなかった。ここで楚王はこれを聞き、泰阿の剣を引き抜き、城に登ってこれで指図した。三軍は敗れ、士卒は道に迷い、流血千里、猛獣はおどろき恐れ、江水は波を上げず、晋鄭王の頭は真っ白になった。楚王はここで大いに喜び、言った
「この剣の威力か、私の力か」
風胡子は答えて言った
「剣の威力であり、それは大王の神霊によるものです」。
楚王は言った
「剣とは、鉄であるにすぎないのに、もとよりこのような精気を持つことができるのか」
風胡子は答えて言った
「その時々で使うべきものがあります。軒轅・神農・赫胥の時は、石を武器とし、樹木を断って宮室を作り、死ねば龍のごとく隠れました。黄帝の時に至ると、玉を武器とし、樹木を伐採して宮室を作り、地を開鑿しました。玉もまた神のものでありますが、たまたま聖主が使うことができたのであり、死ねば龍のごとく隠れました。禹を穴に葬ったとき、銅で武器を作り、伊闕を開鑿し、龍門に通じ、江水を切って河水を導き、東に向かって東海に注ぎました。天下があまねく平和となり、宮室を修築したのは、どうして聖主の力でないことがありましょうか。この時代になって、鉄の武器を作り、三軍を威服しました。天下はこれを聞き、あえて服さないものはいません。これはまた鉄の武器の神性であり、大王が聖徳をお持ちになっているということです」
楚王は言った
「私は教えを聞こう」

越絶書

越絶巻第十二

越絶内経九術第十四
昔、越王句踐は大夫種に問うて言った
「私は呉を伐ちたいと思うが、どのようにしたら成功を収めることができるだろうか」
大夫種は答えて言った
「呉を伐つには九つの術があります」
「九術とは何か」
答えて言った
「一つ目は、天地を敬い、鬼神に仕えることです。二つ目は、多くの財幣をその君に贈ることです。三つ目は、穀物や藁を高値で買い取り、その国を空にすることです。四つ目は、これに美女を贈り、その志を疲れさせることです。五つ目は、これに巧みな職人を贈り、宮室や高台を建てさせ、その財を尽かせてその力を疲弊させることです。六つ目は、へつらう臣下を送り、伐ちやすくすることです。七つ目は、諫める臣下を阻み、これを自殺させることです。八つ目は、自国の家を富ませ武器を備えることです。九つ目は、鎧や武器を堅固にして研ぎ、その疲弊に乗じることです。ゆえに九つの術を患えることなく、口を戒めて伝えないことで、天下を取るのは難しくないと言われています。ましてや呉は」
越王は言った
「よろしい」
ここで桐の欄干を作り、それは白璧をつらね、黄金をちりばめ、龍蛇が行くようなものであった。そこで大夫種にこれを呉に献上させて、言った
「東海の役臣である私句踐、使者の臣種は、あえて下吏を敬い、左右に問わせていただきます。天下の力に頼って、ひそかに小殿を作りましたが、余った材があるので、再拝してこれを大王に献じます」
呉王は大いに喜んだ。申胥は諫めて言った
「いけません。王は受け取らないでください。昔、桀は霊門を建て、紂は鹿台を建てましたが、陰陽が調和せず、五穀は育つ時期がなく、天与の災があり、国は空虚となり、ついにこれによって亡びました。大王がこれを受ければ、この後必ず災いがあるでしょう」
呉王は聴かず、ついにこれを受けて姑胥台を建てた。三年材を集め、五年かかって完成した。高く二百里を見渡せた。行く人は道中で死に、巷では泣いた。越はそこで美女西施・鄭旦を着飾らせて、大夫種にこれを呉王に献じさせて言った
「昔、越王句踐にはひそかに天が遣わした西施・鄭旦がおましたが、越国は落ちくぼんで貧窮なので、あえてこれに当たることができず、下臣種に再拝してこれを大王に献じさせます。呉王は大いに喜んだ。申胥は言った
「いけません。王は受け取らないでください。私は、五色は人の目を見えなくし、五音は人の耳を聞こえなくすると聞いております。桀は湯を侮って滅び、紂は周の文王を侮って亡びました。大王がこれを受け取れば、後でかならず災いとなります。私は、越王句踐は昼間は書物を書いて倦かず、夜には終日読み、決死の臣下数万を集めていると聞いております。この人は死ななければ、必ずその願いを遂げるでしょう。私は、越王句踐は誠を勉め仁を行い、諫言を聴き、賢士を登用していると聞いております。この人は死ななければ、必ず名声を得るでしょう。私は、越王句踐は冬は皮衣をはおり、夏は葛布をはおっていると聞いております。この人は死ななければ、必ず利害をなすでしょう。私は、賢士は国の宝であり、美女は国の災いであると聞いております。夏は末喜によって滅び、殷は妲己によって滅び、周は褒姒によって滅びました」
呉王は聴かず、ついにその女を受け取り、申胥が不忠をなしたという理由でこれを殺した。越はそこで軍隊を興して呉を伐ち、大いにこれを秦餘杭山に破り、呉を滅ぼし、夫差を虜にし、太宰嚭をその妻子と共に殺した。

越絶巻第十二 越絶外伝記軍気第十五
聖人が軍隊を行うには、上は天と徳を合し、下は地と明を合し、中は人と心を合する。義が合すればすなわち動き、よいところを合わせればすなわち取るのである。小人であればそのようなことはなく、強さで弱さを押しつぶし、利を他人の危難から取り、逆らうことと順うことを知らず、間違ったことに心を喜ばすのである。故に聖人だけが気が変じる事情を知り、それによって勝負の道に明るいのである。およそ気には五色がある。青・黄・赤・白・黒である。色にはそのために五つの変化がある。人気が変ずれば、軍の上に気があり、五色が合い連なって、天と互いに接するのである。これは天応であり、攻めることはできず、これを攻めても残るものはない。気の盛んなものは、これを攻めても勝てない。軍の上方に赤色の気があるのは、天と直に接し、攻める者は自分を殺すことになる。軍の上方に青い気の盛んに明るいものがあるのは、【欠】に従い、その本が広く末端が鋭いのは、これは逆兵の気であり、いまだ攻めることができず、衰え去ってはじめて攻めることができる。軍の上方に青い気の盛んに明るいものがあるのは、【欠】に従い、その本が広く末端が鋭いのは、これは逆兵の気であり、いまだ攻めることができず、衰え去ってはじめて攻めることができる。青気が上にあるのは、謀が定まらない。青気が右にあるのは、将は弱いが兵は多い。青気が後ろにあるのは、将は勇猛だが糧食は少なく、始めが大きく後が小さい。青気が左にあるのは、将は若く卒が多く、兵は少なく軍は疲れる。青気が前にあるのは、将が暴虐で、その軍は必ず来る。赤気が軍の上方にあるのは、将の謀略が未だ定まっていない。その気の本が広く末端が鋭くて来たるものは、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。赤気が右にあるのは、将軍が勇猛だが兵は少なく、卒は強く、必ず将を殺して投降する。赤気が後ろにあるのは、将が弱く、卒は強く、敵が少なく、これを攻めれば将を殺し、その軍を降伏させられる。赤気が右にあるのは、将は勇猛で、敵は多く、兵卒は強い。赤気が前にあるのは、将は勇猛だが兵は少なく、糧食は多いが卒は少なく、謀をしてやって来ない。黄気が軍の上方にあるのは、将の謀略が未だ定まっていない。その本は広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。黄気が右にあるのは、将は智慧があり賢明で、兵は多くて強く、糧食は足りて降すことができない。黄気が後方にあるのは、将が知性があり勇猛で、卒は強いが少なく、糧食が少ない。黄気が左にあるのは、将が弱く卒が少なく、兵が少なく糧食がなく、これを攻めれば必ず損傷を与える。黄気が前方にあるのは、将は勇猛で知性があり、卒が多く強く、糧食は足りて多くあり、攻めることはできない。白気が軍の上方にあるのは、将は賢知で賢明であり、卒は猛々しく勇猛で強い。その気の本が広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。白気が右にあるのは、将は勇猛で卒は強く、兵は多く糧食は少ない。白気が後方にあるのは、将は仁にして賢明で、卒は少なく兵は多く、糧食は少なく軍は損傷を受ける。白気が左にあるのは、将は勇猛で強く、卒は多く糧食は少なく、降すことができる。白気が前にあるのは、将は弱く卒は無く、糧食は少なく、これを攻めれば降すことができる。黒気が軍の上方にあるのは、将の謀が未だ定まっていない。その気の本は広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、去ってはじめて攻めることができる。黒気が右にあるのは、将は弱く卒は少なく、兵は無く、糧食は尽きて軍は損傷し、攻めずに自ら降すことができる。黒気が後方にあるのは、将が勇猛で卒は強いが、兵は少なく糧食は無く、これを攻めれば将を殺し、軍は亡びる。黒気が左にあるのは、将は知性があり勇猛だが、卒は少なく兵は少なく、これを攻めれば将を殺し、その軍は自ら降る。黒気が前にあるのは、将は明智だが卒は少なく糧食は尽き、攻めずに自ら降すことができる。
ゆえに明将は気の変化の形を知っている。気が軍の上方に在れば、その謀は未だ定まっていない。それが右にあり低いのは、右方に伏兵の謀をしようとしている。その気が前方にあり低いのは、前に陣を伏そうとしている。その気が後方にあり低いのは、走兵の陣をなそうとしている。その気が上るのは、兵を撤退させようとしている。その気が左にあり低いのは、左に陣をしこうとしている。その気がその軍と隔たっているのは、邑に入ろうとしている。右のことは、子胥が気を見て敵を取る常道であり、その法則はこのようなものだ。軍に気がなければ、廟堂で計算して、強弱を知る。一、五、九月は西に向かえば吉、北に向かえば敗亡なので、東に向かってはならない。二、六、十月であれば南に向かうのが吉、北に向かえば敗亡なので、北に向かってはならない。三、七、十一月であれば、東に向かえば吉、西に向かえば敗亡なので、西に向かってはならない。四、八、十二月であれば、北に向かえば吉、南へ向かへば敗亡なので、南に向かってはならない。これはその兵を用いる際の日月の運数であり、吉に向かい凶を避けるのである。挙兵するには太歳の供物を撃ってはならず、それは卯の方角ある。始めそれぞれの利を出し、その四時によって日を制するとは、このことをいうのである。
韓の故の治所は、今の京兆郡であり、星宿は角・亢である。
鄭の故の治所は、星宿は角、亢である。
燕の故の治所は、今の上漁陽・右北平・遼東・莫郡であり、星宿は尾・箕である。
越の故の治所は、今の大越山の北であり、星宿は南斗である。
呉の故の治所は西江であり、星宿は都牛・須女である。
斉の故の治所は臨淄であり、今の済北・平原・北海郡・菑川・遼東・城陽であり、星宿は虚・危である。
衛の故の治所は濮陽であり、いまの広陽・韓郡であり、星宿は営室・壁である。
魯の故の治所は泰山・東温・周固水であり、今の魏東であり、星宿は奎・婁である。
梁の故の治所は、今の済陰・山陽・済北・東郡であり、星宿は畢である。
晋の故の治所は、今の代郡・常山・中山・河間・広平郡であり、星宿は觜である。
秦の故の治所の雍は今の内史であり、巴郡・漢中・隴西・定襄・太原・安邑は、星宿は東井である。
周の故の治所は雒であり、今の河南郡であり、星宿は柳・七星・張である。
楚の故の治所は郢であり、今の南郡・南陽・汝南・淮陽・六安・九江・廬江・豫章・長沙であり、星宿は翼・軫である。
趙の故の治所は邯鄲であり、今の遼東・隴西・北地・上郡・雁門・北郡・清河であり、星宿は参である。

 

越絶書

越絶書巻十三

越絶外伝枕中第十六
昔、越王句踐は范子に問うて言った
「昔の賢主・聖王の政治は、何を左とし何を右としたのか、何を退けて何を取ったのか」
范子は答えて言った
「私は、聖主の政治は、道を左にし術を右とし、末を退け実を取ったと聞いております」
越王は言った
「道とは何か、術とは何か、末とは何か、実とは何か」
范子は答えて言った
「道とは、天地に先んじて生じましたが、老いを知らず、万物をつぶさに作り上げ、技を誇示しません。故にこれを道と言います。道は気を生じ、気は陰を生じ、陰は陽を生じ、陽は天地を生じます。天地ができ、しかるのちに寒暑・乾燥湿潤・日月・星座・四季ができ、万物が備わりました。術とは、天意です。盛夏の時は、万物が成長します。聖人は天の心に拠り、天の喜びを助け、万物の成長を楽しみます。ゆえに舜は五絃の琴を弾き、南風の詩を歌って、天下は治まったのです。その楽は天下と同じだと言えます。このときに、功徳をほめたたえる歌が作られました。いわゆる末とは、名のことです。もとより名が実際より過ぎれば、人民は心を寄せて親しまず、賢士は用いず、外は諸侯に進入されるので、聖主はこのようなことはしません。いわゆる実とは、穀【欠字】であり、人心を得て、賢士を任じます。この四つは、国の宝です。越王は言った
「私が自ら倹約し、士にへり下って賢人を求め、名を実より過ぎさせるないということは、私が行うことができる。多く穀物を蓄え、人民を富ませるのは、天の降水乾燥によるものであり、一人でどうにかできることあろうか。どうやって備えろというのか。」
范子は言った
「百里之神、千里之君、湯執其中和【錯簡】伊尹を挙げ、天下の勇猛ですぐれた士を集め、卒兵を訓練し、諸侯を率いて桀を伐ち、天下のために道をそこなった者を退け、万民は皆歌ってこれに服従しました。これはいわゆる中和を執るということです」
越王は言った
「中和のもたらすものはすばらしい。私は賢主・聖王に及ばないが、中和を執ってこれを行いたい」
今、諸侯の地は、或いは多く或いは少なく、強弱には優劣があり、戦争はにわかに起こる。どうやってこれに対処すればよいか」
范子は言った
「人の身を守ることを知る者は、天下に王となることができます。人の身を守ることを知らなければ、天下を失います」
越王は言った
「人の身を守るとはどういうことか」
范子は言った
「天は万物を生みこれに生きることを教えます。人は穀物を得れば死なず、穀物は人を生かすことも、人を殺すこともできます。ゆえに人身というのです」
越王は言った
「よろしい。今、私は穀物を保とうと思うが、どうしたらよいだろうか」
范子は言った
「保とうと思うなら、必ず野に親しみ、様々な地方の生産の多少を観察して備えます」
越王は言った
「少ないのは、その貴賤によるとわかるが、また対応しているのか」
范子は言った
「八穀の貴賤の法則は、必ず天の三表を見てから、決めます」
越王は言った
「三表とはなにか」
范子は言った
「水の勢は金に勝り、陰気は蓄積し大いに盛んになり、水は金に拠って死に、故に金の中に水があります。このような場合は、実りは大いに不作で、八穀は皆高騰します。金の勢は木に勝り、陽気は蓄積し盛んになり、金は木によって死に、故に木の中に火があります。このような場合は、実りは大いに豊作で、八穀は皆安価になります。金、木、水、火は交互に勝り、この天の三表は、察しないわけにいきません。三表を知ることができれば、国の宝となり得ます。三表を知らなければ、之君千里之神萬里之君【錯簡】故に天下の君は、号を発し令を施行するのに、必ず四時に従うのです。四時が正しくなければ、陰陽は調和せず、寒暑は常態を失います。このようでは、実りは悪く、五穀は実りません。聖主は令を施行するのに、必ず四時を審らかにする、これはもっとも謹んで行うべき事です」
越王は言った
「これは私が行うことができる。どうか穀物の上下貴賤をはかることを知り、他にこれを貸して内に自ら充実したいものだが、このためにはどうすればいいだろうか」
范子は言った
「八穀の価格が下がるのを知るには、これまでの実りを知るように、明らかです。陰陽の消息を審らかに見極め、市場の回転を観察するに、雌雄が互いに追いかけ、天の法則はそこで終わります。越王は言った
「何を執行すれば繁栄するのか、何をすれば亡びるのか」
范子は言った
「偏りのないように執行すれば繁栄し、奢侈を行えば亡びます」
越王は言った
「私はその説を聞きたい」
范子は言った
「私は、昔の賢主・聖君は、中和を執行しその終始をたずねれば、地位は安泰で万物は定まった、その終始をたずねなけれは、尊い地位は傾き、万物は散じると聞いております。文王・武王の業績、桀・紂の足跡から、知ることができます。昔、天子や諸侯に至るまで、自滅して亡んだのは、しだいに美食の消費に浸り、音楽や女色の類に耽溺し、珍しい貴重な宝器をに心を惹かれたため、その国は空虚となったのです。その士民を苦しめ、しばしの楽しみをなし、人民は悲しみの心を懐き、瓦解して背いた、桀・紂はこうでした。身は死して国は滅び、天下の笑いものになりました。これは奢侈を行うと亡びるという例です。湯は七十里の地を有していました。三表を励み行うのは、国の宝と言うべきです。三表を知らなければ、身は死して道に棄てられます    越王は范子に問うて言った
「春に物寂しく、夏に寒く、秋に栄え、冬に発するのは、人の治でそうできるものか、天道であるか」
范子は言った
「天道は三千五百年に、ひとたび治まりひとたび乱れ、終わってはまた始まり、環に端がないようであり、これは天の常道です。四季の順序が乱れ、寒暑が常態を失うと、民を治めるのもこのようになるのです。ゆえに天が万物を生むとき、聖人はこれを名づけて春というのです。春に成長しないと、ことさらにに天は再度春としないのです。春は、夏の父です。故に春には発生し、夏には成長し、秋には成熟して刈り取り、冬には成取り入れて貯蔵します。春に物寂しく生まれないのは、王の徳が極まっていないからです。夏に寒く成長しないのは、臣下が王命を奉らないのです。秋に柔和でまた繁茂するのは、百官の統治が思い切りが悪いからです。冬に暖かく発するのは、倉庫を開放して功績のない者に賞を与えるからです。こういった四時のことは、国のいましめです」
越王は言った
「寒暑が時期に合わないのは、統治が人のせいであるということは、知ることができた。どうか実りの善し悪し、穀物の貴賤はどうやって決まるのか聞かせてほしい」
范子は言った
「陰陽が誤れば、凶作になります。人が治を失えば、乱世になります。一たび乱れては一たびた治まるのは、天道の自然のなりゆきです。八穀もまた一たび値下がりし一たび高騰し、極まってまた反復します。乱れて三千年経つと、必ず聖王が現れると言います。八穀の貴賤も交互にしのぎ合うのです。ゆえに死が生を凌ぐのは、逆であり、穀物は大いに高騰します。生が死を凌ぐのは、順であり、穀物は大いに暴落します」
越王は言った
「よろしい」
越王は范子に問うて言った
「私は、人がその魂魄を失うのは死であり、その魂魄を得るのが生だと聞いている。物には皆これがあるのか、それとも人だけだろうか」
范子は言った
「人にはこれがあり、万物もまた同様です。天地の間で、人はもっとも貴いものです。物の生では、穀物が高貴なもので、人を生かすのであり、魂魄と異なることはないことは、あらかじめ知ることができます」
越王は言った
「その善悪は聞くことができるか」
范子は言った
「八穀の貴賤、上下、衰え極まるのを知るには、必ずその魂魄を観察し、動静を見て、宿るところを見ると、万に一つも間違えません」
問うて言った
「何を魂魄というのか」
答えて言った
「魂とは袋であり、魄とは、生気の源です。もとより神は、出入りするのに門は関係なく、天上地下に固定することなく、現れるところにしるしが自ら存在し、故にこれを名づけて神というのです。神は生気の精をつかさどり、魂は死気の居所をつかさどります。魄は賤をつかさどり、魂は貴をつかさどり、故にまさに安静にして不動なのです。魂は、盛夏に運行し、故に万物はこれを得て自ら繁栄するのです。神は気の精力をつかさどり、貴をつかさどって雲と空を行き、故に盛夏の時には運行せず、つまり神気は枯れて物を成長させないのです。故に死が生を凌ぐと、収穫は大いに凶作になります。生が死を凌ぐと、収穫は大いに豊作になります。故にその魂魄をみれば、収穫の善し悪しがわかります」
越王は范子に問うて言った
「私は、陰陽のおさまりは、力を同じくせずに功をなし、気を同じくせずに物が生じると聞いているが、それを知ることができるだろうか。どうか考えを聞かせてほしい」
范子は言った
「私は、陰陽の気は居場所を同じくせずに、万物が生じると聞いております。冬の三ヶ月の時期は、草木はすでに死滅し、万物は各々隠れ方を異にしております。ゆえに陽気はこれを避けて地下に隠れ、内で力をため、陰気に外で功を成さしめます。夏の三ヶ月の盛暑の時期は、万物は成長し、陰気はこれを避けて地下に隠れ、内に力をたますが、万物は親しみ信用しています。これは、気を同じくせず物が生じるということです。陽は生をつかさどり、万物は夏の三ヶ月に、大きな熱気が至らなければ、万物は成長することができません。陰気は殺をつかさどり、冬の三ヶ月に、地にもぐって内に隠れなければ、根が生長することができず、つまり春に発生することはありません。ゆえに一つの季節が常規を失えば、四季の序列は運行しなくなります」
越王は言った
「よろしい。私はすでに陰陽のことを聞いたが、穀物の貴賤について、それを知ることができるだろうか」
范子は言った
「陽は貴をつかさどり、陰は賤をつかさどります。故に寒くあるべきときに寒くなければ、穀物はこのために暴騰します。暖かくあるべき時に暖かくなければ、穀物はこのために暴落します。たとえるなら形と影、声と響きが互いに聞こえるようなもので、どうして繰り返さないことがありえましょうか。故に秋冬は陽気を貴くして陰気に影響し、陰気が極まるとまた貴くなります。春夏は陰気を賤しくして陽気に影響し、陽気が極まると元に戻りません」
越王は言った
「よろしい」
丹砂で帛に書き、これを枕の中に置き、国宝とした。
五日が過ぎ、呉に苦しめられ、范子に請うて言った
「私は国を守るのに術がなく、万物に背き、ほとんど国が滅び社稷が危うくなり、他国に批判され、足を定めて立つことが無い。身を捨てて出でて死し、呉の仇に報いようと思うが、このためにはどうすればいいだろうか」
范子は言った
「私は、聖主はこのために行えないことを為し、人が自分を謗ることを憎まないと聞いております。賞賛するに足る徳を為しても、人が自分を称えるのを徳としません。舜は歴山で徳を修め、天下は服従しました。舜にその修めたものを捨てさせ、天下の利を求めさせれば、おそらくその身を全うできなかったでしょう。昔、神農が天下を治めるのに、つとめてこれに利を与えるのみで、報いを望みませんでした。天下の財を貪らず、天下はともにこれを富ませました。その知恵と能力が自ら人よりすぐれているゆえんであり、天下はともにこれを尊びました。故に富貴というのは、天下が配置するところで、奪うことはできないのです。今、王は地を貪り財を貪り、戦を開いて刀は血に塗れ、倒れた死体は流血し、それによって世に名を顕そうとしているのは、なんと誤っているのではないでしょうか」
越王は言った
「上は神農に及ばず、下は尭舜に及ばず、いまあなたは至聖の道を私に説いたが、誠に私の及ぶところではない。かつ、私はこう聞いている、父が辱められれば子は死し、君主が辱められれば臣下は死す。今私は自らすでに呉に辱められた。一切の非常手段を行って、呉に復讐したい。どうかあなたは私に代わってこれを図ってほしい」
范子は言った
「君主が辱められれば死ぬのは、もとより義にかなっています。ただちに死にます。士人を降し国を興すことを求めるのは、聖人の計です。かつ天下を拡張し、万乗の主を尊び、人民の住居を安泰にさせ、その業を楽にさせるのは、ただ軍隊だけです。軍隊の要は人にあり、人の要は穀物にあります。故に民が多ければ君主は安泰で、穀物が多ければ軍隊は強いのです。王がもしこの二つを備えたら、しかる後これを図ることができます。」
越王は言った
「私は国を富ませ軍隊を強くしたいが、土地は狭く民は少ない。どうすればいいだろうか」
范子は言った
「陽は上で動いて天文を形成し、陰は下で動いて地理を形成します。開閉の要点を審らかに観察すれば、富むことができます。まず天門と地戸の開閉を知りたいのなら、その方法は、天は高さ五寸とし、天から一寸六分減らして地を作ります。謹んで八穀を調べて、はじめ天に出現するのは、天文が開き、地戸が閉まることを言っており、陽気は下方の地戸に入ることはできません。ゆえに気は移り動き、上下・陰陽はともに断絶し、八穀は成長せず、大いに高騰し必ずその年に応じて価格が上がり、これは天変が現れる符牒です。謹んで八穀を調べて、はじめ地に入るのは、これは地戸が閉まることを言います。陰陽がともに合わさり、八穀は大いに成長し、その年は大いに価格が下り、来年は大いに飢える、これは地変が現れるしるしです。謹んで八穀を調べて、はじめ人の天地の間に現れるのは、穀物の買値はかたよりなく、よく成熟し、災害がありません。故に天が先にとなえてしるしがあらわれると、地は応じてしるしがあらわれます。聖人は上は天を知り、下は地を知り、中は人を知りますが、これは天地の治まりは、このために天の図を作ることを言います」
越王はすでに呉に勝って三日、国に帰ろうとしたがいまだ到着せず、休息して、自らを強いとし、大夫種に問うて言った
「聖人の術は、これに何を加えるのだろうか」
大夫種は言った
「そのようなものではありません。王は徳は范子が言うこと得ましたが、これは天地の符が国に応じ、聖人の心を蔵したのです。しかし范子が予見する策は、いまだ敢えて王のために言っておりません」
越王は顔色を変え、憂いの表情が見られた。王は徳は范子が言うこと得ましたが、これは天地の符が国に応じ、聖人の心を蔵したのです。しかし范子が予見する策は、いまだ敢えて王のために言っておりません」
越王は顔色を変え、憂いの表情が見られた。范子を招き、称えて言った
「わたしがあなたの計を用い、幸いに呉に勝つことができたのは、ことごとくあなたの力である。私は、あなたが陰陽の進退に明るく、未だに形ができていないものを予知し、過去を推して先を導き、後の千年のことを知る。それを聞くことができるだろうか。私は虚心に注意して、風下で聴こう」
范子は言った
「陰陽の進退とは、前後がはっきりしないものです。いまだ形ができていないものを予見して、生殺与奪の柄を持ち、王が四海を制しておられるのは、国の重宝です。王がもしこのことを洩らさないなら、私は王のためにこれを言わせていただきたい」
越王は言った
「あなたが幸いにも私に教えるなら、どうかこれとともに自らしまい込ませてほしい、死に至るまで敢えて忘れまい」
范子は言った
「陰陽の進退は、もとより天道の自然なことであり、怪しむには足りません。陰気が浅いところに入ればその年はよくなり、陽気が深いところに入ればその年は悪くなります。奥深く微妙ですが、未だ形のできていないものを予知します。故に聖人はものを見て疑わず、時機を知るといいますが、これはもとより聖人の伝えないところです。尭・舜・禹・湯は、みな予見の功労がありましたので、凶作の年であっても民は困窮しませんでした」
越王は言った
「よろしい」
丹沙で帛に書き、これを枕の中に置き、国の宝とした。范子はすでに越王に告げると、志を立てて海に入った。これが天地の図といわれていることである。

越絶書

越絶書巻十四 越絶外伝春申君第十七
むかし、楚の考烈王の相春申君に李園という吏がいた。園の妹の女環は言った
私は王が老いて跡継ぎがないと聞いております。私を春申君に会わせて下さい。私が春申君に会うことができたら、ただちに王に会うことができるでしょう」
園は言った
「春申君は、貴人であり、大国の輔佐である。私はなにを口実として敢えてこのことを言おうか」
女環は言った
「すぐに私に会わなくても、あなたは春申君の才人に謁見を求め、『遠方の客がきたので、どうか帰ってこれを接待させてください』と告げてください。彼は必ずあなたに『お前の家どんな遠方の客が来たのか』と問うでしょう。そこで答えて言ってください『私には妹がいますが、魯の相はこれを聴き、使者をよこしてこれを私に求めさせましたので、才人は私に告げさせたのです』彼は必ずこう問うでしょう『お前の妹は何ができるのか』答えて言ってください『鼓を演奏することができ、書を読み、一つの経書に通じています』彼は必ず私に会うでしょう」
園は言った
「わかった」
次の日、春申君の才人に告げた
「遠方からの客が来たので、どうか帰ってこれを接待させてください」
春申君は果たして問うた
「お前の家にどんな遠方の客が来たのか」
答えて言った
「私には妹がおりますが、魯の相がこれを聞き、使者を遣わしてこれを求めてきたのです」
春申君は言った
「何ができるのか」
答えて言った
「鼓を演奏することができ、書を読み、一つの経書に通じています」
春申君は言った
「会うことはできるだろうか。明日、離れで待たせておけ」
園は言った
「わかりました」
帰ると、女環に告げて言った
「私が春申君に告げると、私に明日の夕べ離れで待つことを許された」
女環は言った
「あなたは先に飲食を供してこれを接待したほうがよいでしょう」
春申君が到着すると、園は人を走らせ女環を呼びに行かせ、黄昏に、女環がやってきた。
大いに気ままに酒を飲み、女環は鼓や琴を奏で、曲が未だ終わらないうちに、春申君は大いに喜び、留まって泊まった。翌日、女環は春申君に言った
「私は、王は老いて跡継ぎがなく、国をあなたに委ねたと聞いております。あなたは外で荒淫し、政治を顧みません。もし王にこれをお聞かせすれば、あなたは上には王の期待に背き、私の兄を用いて下には夫人を裏切ることになります、これはいかがなものでしょう。この口を漏らされないように、君は部下を召してこれを戒めてください」
春申君は所属の官吏を召して言った
「私が女淫したことを聞かせないように」
皆言った
「わかりました」
女環と通じ、いまだ一月経たないうちに、女環は春申君に言った
「私は、王は老いて跡継ぎがないと聞いております。いま、あなたの子を懐妊して一月になります。私を王に会わせ、幸いに男子を産めば、あなたは王の祖父となります。どうして輔佐のままでいられましょうか。あなたはこのことを慎重にお考えください」
春申君は言った
「わかった」
五日してこれを語った
「国中に美しい女があり、人相を見ますと、跡継ぎをもうけることができます」
考烈王は言った
「わかった」
そこでこれを召した。考烈王は喜び、これを娶った。十月して、男子を産んだ。十年して、烈王は死に、幽王があとを継いで立った。女環は園を春申君の輔佐とした。これを輔佐して三年、そののち園に告げた。
「呉に春申君を封じ、東の辺境に備えさせてください」
園は言った
「わかった」
そこで春申君を呉に封じた。幽王の後は懐王であり、張儀にこれを詐って殺させた。懐王の子は頃襄王であり、秦の始皇帝は王翦にこれを滅ぼさせた。
 
 
 
 
越絶徳序外伝記第十八
昔、越王句踐は會稽で危機に陥り、嘆いて言った
「私は覇者となれない」
妻子を殺し、競い戦って死のうとした。范蠡は答えて言った
「危ういことです、王はもくろみを失し、その悪むところを惜しんでいます。かつ呉王には賢人は近づかず、不肖の輩は去りません。もし言葉を卑くして領土をこれに譲るとしたら、天がもし彼を見棄てるならば、彼は必ず許可するでしょう」
句踐はさとり、言った
「なんとその通りではないか」
ついに范蠡のいうことを聞いて勝った。越王句踐は呉を平定すると、春には三江を祭り、秋には五湖を祭った。その時期にもとづいてこのために祠を建て、これを来世に伝え、これを長い年月伝えた。隣國は徳を好んで、やってきて満足した。范蠡は自ら反省するのは盲人のようで、人を責めないことは聾者のようであった。天関を渡り、天機を渡り、後方には天一を身につけ、前方には神光を帯びた。このときいわれていたことは、范蠡が国を去ったのは甚だ密かに行われ、王がすでにこれを失うと、ついにまた出会うことは難しかった。ここで徐州に出兵し、周室に朝貢をした。元王はこのために中興し、句踐を号して州伯とした。思うに専ら句踐の功績によるものであり、王室の力ではなかった。この時越は覇道を行い、沛を宋に帰し、浮陵は楚に付し、臨沂・開陽は魯に復帰させた。中原の国々の侵伐はこれによって衰え止んだ。誠意が内に行われ、威が外に発せられ、越がその功を専らにしたので、ゆえにこれを越絶というのである。故に伝に「桓公は妾腹であることに苦しみ、よく悟り知った。句踐は會稽で捕らわれ、それによって覇業をなすことができた」という。尭・舜は聖人ではあったが、狼を任じて統治をすることはできなかった。管仲はよく人を知り、桓公はよく賢人を任じた。范蠡は災禍を慮ることに長け、句踐はよくこれを行った。臣下と君主がこのようであれば、覇業を成さないことなどあり得るだろうか。易に「君臣が心を同じくすれば、その利は金属断つ」というのは、このことである。
呉越のことは煩雑で文章はわかりにくかったので、聖人はこれを省略した。賢者は意を垂れ、深くその辞を省み、これを見て愚を知った。夫差は狂って道理がわからず、子胥を賊殺した。句踐は至賢だったが、文種はどうして誅殺されたのか。范蠡が恐懼して、五湖に逃亡したのは、どんな解釈があるだろうか。呉は子胥の賢なること知っていてもなお愚かにもこれを誅殺した。伝に「人がまさに死のうとするとき、酒肉の味を聞くことを憎み、国がまさに滅びようとするとき、忠臣の気を聞くことを憎む」という。身が死すと医療は行われず、国が滅ぶと謀は行われず、かえって自らに災いを招く。思うに木、土、水、火は気のありかが同じではないというのは、このことを言うのである。
文種は立派な功績を挙たが、その後誤って自ら誇るようになった。句踐は文種が仁のある人だと知っていたが、信用できることを知らなかった。種は呉のために越に通じて言った
「君子は窮地にあるものを陥れたり、降服したものを滅ぼしたりはしません」
忠告を句踐は非とし、顔色に現れた。范蠡は心中で句踐の意向を知り、その事を筮竹で、その言葉卜占で吉凶を占った。占いの結果は災厄をあらわしていた。范蠡は利と害を見て、五湖に去った。思うにその道を知ると、富貴を得ることは少なくなり卑賤を得るということを言っているのである。易に「きざしを知ることは神明のわざと言えようか、道は害にならないことを下策とする」、伝に「始まりを知って終わりを知らなければ、その道は必ず厳しいものとなる」とは、このことを言うのである。子胥は剣を賜ってまさに自殺しようとして、嘆いて言った
「ああ、多くの曲がったことが正しいことをまげてしまい、私一人ではもとより自分だけで立っていることはできない。私は弓矢をかかえて鄭・楚の間を逃れ、自ら私が虐げられた仇に復讐したいと思い、そこで先王の功績に報いることができると思ったが、自らこのようなことになったのである。私が先に栄誉を得て、後に殺されるのは、智が衰えたからではなく、先に賢明な君主に会い、のちに腹黒い君主に会ったからで、君主が変わったというだけである。不遇の時にあって、また何を言えるだろうか。この私の命は、亡びてどこに行こうというのか。早く死んで、吾が先王に從って地下に行くにこしたことはない、それがわたしの思いである」
呉王は子胥を殺そうとし、馮同にこれを召し出させた。子胥は馮同をみて、呉王のために来たことを知った。言葉を洩らして言った
「王は補弼の臣を近づけずに多くの豚の言葉を近づけたので、このために私の命が短くなったのである。私の頭を高所に置け、必ずや越人が呉に侵入し、吾が王がみずから擒となるのを見るであろう。私を深い江へ捨てよ、それもまたどうしようもないことだ」
子胥が死んだ後、呉王はこれを聞き、妖言だとして、子胥をひどく咎め、王は人を使わして子胥を大江の川口に捨てさせた。勇士が子胥の体を持ち上げると、遺体から響きが起こり、憤りを発して馳せ上り、その気は走る馬のようであった。威は万物を凌ぎ、魂を大海に帰した。勇士が呆然としている間、音のしるしは常に聞こえていた。後世、伍子胥は水中の仙人になったと称え述べられた。子胥は弓を持って楚を去り、ただ夫子だけがその道を知っていた。〔欠字〕今になってこれを明らかにし、、人に知られていない文を明らかにした。深くそのしるしを述べ、しるしを戒めとした。斉人は伍子胥の娘を帰し、その子孫はまた重用された。それぞれ一篇をなすが、文辞は詳しくなく、経伝は外伝となり、補って同類のものを表現するのである。もとより聖人はかすかなもの見てあきらかなものを知り、始めを見て終わりを知るのである。このことから考えるとと、夫子が王とならなかったことがわかる。つつしんでありがたい恵みを受け、昔のことを述べた。夫子は経を作るのに、歴史書をとりあつめ、憤懣をもらさず、あわせて事後も述べ、広く見て記述を受け継いだのである。その意は周道がやぶれなければ、春秋は作られなかったとするものである。思うに夫子が春秋を作ったのは、魯の紀年を用い、大義を立て、精微な言葉をつづり、五経六芸は、これを手本とした。意を越に集中し、曲直を見た。その本末を書き連ね、その根本のきまりを抜き出し、章句の区切りには、各々終始があった。呉越の抗争の際に、夫差がよくなかったいうのは、このことからいうのである。故に「太伯」の記述を見ると、聖賢の職分を知ることができ、「荊平王」の記述を見ると、忠信から勇への変化を知ることができ、「呉人」の記述を見ると、陰謀の慮を知ることができ、「計倪」の記述を見ると、陰陽の消長のきまりを知ることができ、「兵法」の記述を見ると、敵の進路を防ぐ方法を知ることができる。「陳成恒」の記述を見ると、古今の互いに勝つ方法を知ることができる。「徳序」の記述を見ると、忠臣が死ぬ場合や、頭のおかしい者が専ら悲しい結果になるのを知ることができる。経の八章は、上下が互いに明らかにし合っている。斉の桓公が国を興し盛んになったしたのは、操を固く守ることと同じであった。管仲は覇業の道に通じており、范蠡は吉凶と終始を審らかにした。夫差は国をよく統治することができなかった。

越絶書

越絶書巻十五 越絶篇敘外伝記第十九

古の人皇氏の九人の兄弟の世では、水におおわれる際、興廃には定めがあり、三皇五帝に承け継いだ。故に多くの者が目で見たものを伝え、徳を信じたという。三王に至って、争いの心が生まれ、戦争が起こり、五つの肉体刑を行った。みなそれによってことごとく正しい気を持ち、天河を越えた。孔子はよく悟り、後に強国の秦がその治世を失って、漢が興ることを知った。子貢は斉・晋・越をはかり、呉に入った。孔子は類似のものを推察し、後に蘇秦が出ることを知った。軒轅と太微は互いに動き、太微は五たび現れた。道中で麒麟を捕らえたのは、周が尽きる証であった。故に春秋を作って周を受け継いだ。この時天地はにわかに清明になり、日月は同時に明るくなり、弟子は嬉しそうにして、ともに太平であった。孔子は聖人の心を懐いていたが苦しみを承け、少しの土地も所有することなく、一人の民も子とすることがなかった。麒麟を見て涙を流し、民を傷んで落ち着かないとのは、聖人でなければどうしてこのように世を痛むことができようか。万代にわたって不滅であり、再び述べることはできない。故に聖人が没すると奥深い言葉は絶えるのである。子貢は「春秋」を見て文を改め質朴を尊び、二字の名を譏り、孔子の学問を振興し、また奮発して呉越のことを記し、章句を編纂し、後の賢者を諭した。子貢の遊説は、魯を安泰にし、呉を破り、晋を強くし、越に覇業をなさせ、春秋二百余年の時代は、後の王にしるしを示した。子貢は呉越のことを伝え、【欠字】秦を指した。聖人は一隅から出て、弁士はその言葉を述べた。聖人の文もまたすぐれており、子貢の辞もまたすぐれていた。故にその文を題してこれを越絶というのである。問うて言った
「越絶は「太伯」に始まり、「陳恒」で終わるのは、どうしてか」
「論語に、『小道といえども、かならず観るべきものあり』という。つまり太伯はそのはじめ、悟って去り賢人を進めた。太伯がことに怨まなかったのは、礼譲の至りである。太伯に始まるのは、仁賢の人であったので、呉を偉大とすることを明らかにしたのである。仁はよく勇を生むので、故に「太伯」のあとに「刑平王」が続くのである。伍子胥の忠・正・信・智を勇としたのは明らかである。智はよく詐りを生むので、故に「刑平王」のあとに「呉人」が続くのである。その務めて蔡を救ったのを善しとし、楚を伐ったのを勇とした。范蠡の行為は、危機にありながら傾国を救ったが、道に従い天に従い、国を富ませ民を安んじるには及ばず、故に「呉人」の後に「計倪」が続くのである。国を富ませ民を安んじるのは、もとより自ら守るのであり、容易く敵に取られる、故に「計倪」のあとに「請糴」が続くのである。ひとたび愚行があり、ゆえにその政治に背いたのである。穀物を請うとは、福禄を求めるということであり、必ず獲るべきである。ゆえに「九術」が続くのである。越は天の心に従い、ついに呉と和親したことから、その事情がわかる。廊廟で画策して、強弱を知る。時が至れば、伐てば必ず勝つことができる。故に「兵法」が続くのである。戦争は、凶器である。振る舞いが正しくなければ、天は災いを与える。これらのことを知れば、兵を用いることができる。「易経」で将を占うと、春秋には将はなく、子が父を謀り、臣が主を殺すのは、天地が為すことを容れないところであるある。悪は甚だ深いので、「陳恒」で終わるのである。
問うて言った
「「易経」で将を占うと、春秋には将はないという。ここに、楚の平王はどのような良いところがあったのか。君は無道であり、臣下は主を仇としたのに、太伯に次ぐのはどうしてか」
言った
「楚の平王を善しとするのではなく、子胥を勇としたのである。臣が賊を伐たず、子が仇に報復しなければ、臣や子とはいえない。故に伍子胥が無道の楚で冤罪となり、苦しんでも死ななかったことを賢としたのである。匹夫の身でありながら一国の民衆の支持を得て、義を合わせて仇に報復し、楚を傾けたのを善しとした。義でなければ行動せず、義でなければ命をかけなかった。問うて言った
「子胥は楚王の母を娶り、罪無くして呉で死んだ。このような行いは、どうして義といえるのか」
答えて言った
「孔子はもとよりこれを貶めた。その仇に復讐したのを賢とし、楚王の母を娶ったのを悪とした。しかし「春秋」の義は、功を量って過ちをおおいかくすものである。これを賢とするのは、肉親に対する親愛のためである。「子胥はどのように呉と親密であったか」
答えて言った
「子胥は苦境に陥ったため闔閭におして見え、闔閭はこれを甚だ勇とし、仇に報復するのを助け、名誉は甚だ明らかであった。『詩経』に言う
「私に桃をくれるなら、これに李でお返ししよう」
夫差は愚か者で変わりようがなく、ついにどうにもならなかった。言は用いられず、策は聞き入られず、伍子胥は明らかに呉がまさに滅ぼうとしているのを知った。闔閭の厚い恩を受けたので、去って自らを生かすのに忍びず、諫めた功を世に知らしめようとした。ゆえに呉が敗れるのに先んじて殺されたのである。死んだ闔閭にすら背かなかったのに、ましてや在位している夫差に背いただろうか。昔、管仲は生きて、覇業を興した。子胥は死んで、名声を成した。周公はすべてを貴び、一人に備えることを求めなかった。及び外篇に各々叙述に差があるのは、〔錯簡?〕」
問うて言った
「子胥は賢人とまではいえない。賢者は行き過ぎるところを導くが、子胥は剣を賜り、死を免れようとしても、できただろうか」
「盲者は美しい縫い取りの入った布を示すことができず、聾者は調和した音声を語ることはできない。瞽瞍は変わらず、商均は導かれなかった。湯は夏台に繋がれ、文王は殷に捕らえられた。時の人は舜は不孝であり、尭は慈悲がないといった。聖人ですら愚か者を喜ばないのだから、ましてや子胥はどうだろうか。楚に苦しみ、呉に悩んだが、信義により去らなかったのに、夫差はどうしてこれを捕らえることがあろうか」
「孔子はこれを貶めたのはどうしてか」
「楚に報復するのに、子胥が楚王の母を妻とし、夷狄の所行に及んだのを述べたのである。
これを貶めて、呉人と言ったのである」
問うて言った
「句踐はどのような徳があったか」
「覇王の徳があり、賢君であった」
++「伝に『人を危うくして自分だけ安全にするようなことを、君子はしなかった。人から奪い自らに与えることを、伯夷は勝っているとはしなかった』という。偽って勝ち、人を滅ぼして覇者となったのに、どうして賢といえるのか」
答えて言った
「これはもとより覇道である。幸いの道もあれば厭うべき誤りもあり、善もあれば悪もある。当時は天子はなく、強者が尊ばれていた。句踐に力を持たせなければ、国はとうに滅んでいた。子胥は信義によって人心得て、范蠡はよく偽って勝った。もし明晰な王がいて天下太平であり、諸侯は和親し、四夷は徳を楽しみ、国境の門を叩き珍宝を貢献し、膝を屈して臣下となることを請うたなら、子胥はどうして楚に苦しんだだろうか。范蠡はほどなく狂者のふりをしたのか。句踐はどうして藁を与えて馬を養ったのか。変乱に遭遇しても、臨機の処置で自らを保全したのは、また賢ではないだろうか。覇業を行うのに賢人ではなても、晋文王はよく時流に応じて筋道に従い、したがって成功できた。故に人が来ない廟では福を受けやすく、危うくなった民は徳を受けやすいとは、このことをいうのである。問うて言った
「子胥。范蠡はどういう人か」
「子胥は勇敢で知恵があり、正義であり信義がある。范蠡は知恵があり明晰で、どちらも賢人である。問うて言った
「子胥は死に、范蠡は去った。二人の行動は違うのに、どちらも賢人だというのは、どういうことか」
「論語に『力をつくして任務にあたり、できないときはやめる」とある。正しい筋道で君主に仕えるということを言っている。范蠡は単身越に入り、主君を覇業に至らせたが、合わないところがあったので、故に去ったのである」
問うて言った
「合わないのにどうして死ななかったのか」答えて言った
「去るか留まるかは、君主に事える義である。義には死ぬということはなく、子胥が死んだのは、恩を闔閭に深く受けたからである。いま范蠡が等しく重んじられたとするのは、甚だ明らかではない」
問うて言った
「恩を受けて死ぬのは、よい死に方である。臣下が君主に仕えるのは、妻が夫に事えるような物であるのに、どうして去ったのか」
論語に、『(季桓子が)三日朝廷に出てこなかったので、孔子は去ってしまった』という。行とは、去るという意味である。伝に「孔子が魯を去ったのは、祭祀の台の上に肉がなかったためである。曾子が妻と別れたのは、あかざを十分に蒸さなかったためである」とある。微子が去ったこと、比干が死んだことは、孔子はどちらも仁と称えている。行いが異なるといっても、その義は同じである」
「死と生、失敗と成功が、同じとはどういうことか」
「論語に、『身を殺して仁をなすことがある』という。子胥はその信を重んじ、范蠡はその義を尊んだ。信は中より出て、義は外より出る。微子が去ったのは、殷を傷んだからである。比干が死んだのは、紂に忠誠を尽くしたからである。箕子が逃げたのは、綱紀を正したのである。みな忠信の極みで有り、互いに表裏となっている。問うて言った
「二人はどちらがすぐれているか」
答えて言った
「同じだと思われる。しかし子胥は何事もせずに自ら無道の楚から逃れることができ、先王の旧恩を忘れず、主のために身を滅ぼした。適合すれば、覇業を成すことができる。適合しなければ、去るのならすぐ去るべきで、死ぬならすぐに死ぬべきである。范蠡は不明な世に遭遇し、髪を振り乱し狂人を装い、正しくなければ行わず、明主がなければとどまらなかった。表情に現れれば称え、道を害さなかった。推し量ればしばしば的中、財産を増やした。偽りの手段を用いて句踐を覇者とし、合わなければ去った。三度遷って位を避け、名声は海内に聞こえた。越を去って斉に行き、老いて西陶に身を置いた。次男は楚で犯罪を犯し、予想が当たって死んだ。二人の行いは始めから終わりまですぐれていた。子胥は人をしのいでいるというべきではないか」
問うて言った
「子胥は楚の宮殿を伐ち、その子を射たが、殺さなかったのは、どうしてか」
「及ばなかったからである。楚の世継ぎは雲夢山に逃走した。子胥の軍は平王の墓に鞭打ち、昭王は大夫申包胥を使わし秦に行かせ救援を求めさせた。于斧の漁師の子は子胥に諫言し、子胥はたまたま秦の救援が至ったので、そこで兵を率いて還った。越は無道の楚で疲労しているのを見て、軍隊を興して呉を伐った。子胥はやむを得ず、これを就李に迎え撃ったのである」
問うて言った
「墓を暴いて死体に鞭打ったのはどのように言い表せるか」
「子が仇を討ち、臣下が賊を討伐するのは、その至誠が天を感動させ、是正が行きすぎるものだ。子育てをしている犬は虎に哺乳し、禍福を計らなかった。立派な道義は誅殺されず、主要な悪を誅殺するのである。子胥が墓を暴き死体に鞭打ったのは追及されない。このように子胥の呉越を記述したのは、類似の事柄によって、後世に明らかに伝えようとしたのである。善を著して誠とし、悪を譏って戒めとした。句踐以来、更始の元号に至るまで五百余年たち、呉越が互いに攻撃する事態がまた現れている。百年に一人賢人が現れ、なお比肩するようであった。その事を記述するのに、要にある人がいた。姓は「去」に「衣」を合わせて「袁」であった。その名は「米」の上に「庚」をかぶせて「康」であった。禹は来たりて東征し、死んでその境界に葬られた。自ら排斥するのを正しいとせず、類似の出来事に託して自ら明らかにした。精気を描写して愚行を露わにし、類似の事柄で略述し、後世の人に告げるのを待った。文が集まり辞が定まったのは、国の賢人によるものである。国の賢人の姓は「口」を「天」がうけて「呉」であった。楚の相の屈原は、これと名が同じであった。古今に明らかにであり、徳は顔淵に並ぶ。当時、人々と与することができず、隠匿して自らゆったりとした。申酉の年に、道を懐いて人生を終えた。友人が見棄てなかったのは、まるで孔子が麒麟を得たときのようであった。その意を見て、その文をなげいた、ああ、悲しいことだ。故きを温ね新しきを知り、子胥のことを述べ著すことにより、未来と今のことを教えた。累世にわたり次々に見られるうちに、論者は実情を得られなくなり、そこに達するものはいなくなってしまった。春秋のように尭舜を詳しく述べ、周文王を重視している。これを天地に比較し、五経に著した。徳は日月に等しく、智は陰陽に比肩した。『詩経』の「伐柯」は、自分を他人に喩えたのである。後から生まれた者は敬うべきだが、思うに年のよるものではない。作者は口を姓とし、万事を語った。「口」の下を「天」が承けたのは、徳が高明ということである。屈原とは名を同じくし、その意は相応じていた。百年に一人賢人が出るので、賢人がまた生まれたのである。古今のことに明るいのは、知識が広いということである。徳は顔淵匹敵し、はかることはできない。当時は用いられることはなく、口を閉じてで精神をとざし、ふかく自ら誠を実現した。孔子が麒麟を見て、道が困難である知ったときのようであった。姓の文字の中に「去」があるのは、世俗と容れることができないということである。「衣」をつければ名前が完成するのは、賢人がこれを着て明らかにすることができたということである。名の文字の中に「米」があるのは、八政の珍宝ということである。「庚」に「米」をかぶせて「康」というのは、戦争が食糧を断つということである。ああ、悲しいことだ、与するのを肯んじる者はなかった。屈原は境界から離れ、南楚に放浪し、自ら湘水に沈み、范蠡が所有した。