考察

越絶書巻十五

原文 百歲一賢猶為比肩記陳厥說略其有人以去為姓得衣乃成厥名有米覆之以庚

訳 百年に一人の賢人が、なお並び立っていた。そのことを記述するのに、要となる人がいた。姓は「去」に「衣」を合わせて「袁」であった。その名は「米」を「庚」でおおって「康」であった。

むりやり日本語らしきものにしてみましたが、かなり苦しいです。

 

「百歲一賢猶為比肩」は、百年に一人の賢人が出て、それが肩を並べている?

次の「記陳厥說、略其有人」はそれを記した人がいる…ということなのでしょうが、「略」をどう解釈すればいいのか、わかりませんでした。とりあえず「要」とか訳してみましたが、なんか違う気がします。

「以去為姓得衣乃成厥名有米覆之以庚」ここは、姓が「去」と「衣」の文字を合体させて「袁」、名前が「米」と「庚」の文字を合体させて「康」、上記の、これらの記録を書いた人というのが越絶書の作者とされる「袁康」であった、ということを言ってるらしいです。

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考察

呉越春秋巻第九 勾踐陰謀外伝

「願王請糴以入其意」

『史記』越王句踐世家では「請試嘗之貸粟以卜其事」となっています。

「入」を「卜」に読み替えて「その意を判断して下さい」と訳しています。

Blog,考察

前回の記事で、中国古代の馬は体高130cm程度と書きました。

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2000777

こちらの研究によれば、雲夢睡虎地秦簡における秦の軍馬の体格の基準として5尺2寸という規定があり、それは現代の約134cmにあたるそうです。
そして、実際の遺跡からは134cm程度の馬のほか、125cm程度の馬もみられるということです。

秦馬の研究なので南方の越とは馬の系統も違ってくるでしょうが、中国古代において、あまり大きな馬は一般的ではなかったのではないかと考えられます。

考察

越絶書 巻十五

原文「當明王天下太平~」

ここの「當」は「儻」と同じで「もし」の意です。

考察

呉越春秋巻第九 勾踐陰謀外外伝

祭陵山於會稽祀水澤於江州事鬼神一年國不被災

徐天祜の注では「陵山」は「禹陵の山」となっています。
ただ、ここは「陵山」と「水澤」が対になっているという解釈(張覚『呉越春秋校注』岳麓書社2006)に従い、山神、水神と訳しました。

また、「新訳呉越春秋」(三民書局)所載の原文、および佐藤氏の日本語訳(平凡社東洋文庫)では「二年」となっていますが、私が持っている四部叢刊の影印本は「一年」となっています。