闔閭元年、初めて賢人を任用し有能な者を用いた。恩を施し恵みを行い、仁をもって諸侯に聞こえた。仁が未だ施されず、恩が未だ行われないうちは、国人を恐れてつき従わず、諸侯は信用しなかった。そこで伍子胥を行人として客礼をもってこれを用い、共に国政を謀った。闔閭は子胥に言った
「私は国を強くし覇業と王業をなしたいと思う。どうすればできるだろうか」
伍子胥は膝で進み出て涙を流しながら頓首して言った
「私は楚国の亡虜です。父兄は捨てられ骸骨は葬ることができず、魂は祀ることができず、罪を被り辱めを受けました。呉に来て大王の命に帰しましたとろ、王は幸いにも殺戮を加えられません、どうしてあえて政事に与りましょうか」
闔閭は言った
「あなたがいなければ、私は縶禦の使になることを免れなかった。いま幸いにも一言の教えをうけたまわったので、こうなるに至ったのである。どうして途中で退こうという気持ちをおこすのか」
子胥は言った
「私が聞きますに、謀義の臣は、どうして危うく滅びそうな地にいるだけで足りましょうか。しかし、憂いが除かれ事が定まりますと、必ずや君主の親しむところとはなりません」
闔閭は言った
「そんなことはない。私はあなたでなければ議論を尽くす者はいない。どうして辞退することができるのか。我が国は遠い僻地にあり、見回してみるに東西の地にあり、険阻にして湿潤、また江海の害があり、君主は守るすべがなく、民は依るところがなく、倉庫は設けられていず、田地は開墾されていない。これをどうしたらいいだろうか」
子胥はやや久しくして答えた
「私が聞きますに、治国の道は、君を安んじ民をおさめる、これがその上です」
闔閭は言った
「君を安んじ民を治める、その術はどういうものか」
子胥は言った
「およそ君を安んじ民を治め、覇業を興し王道をなし、近くによって遠きを制するには、必ずまず城郭を作り、守備を設け、米倉を充たし、兵庫を治める、これがその術です」
闔閭は言った
「よろしい。城郭を築いたり倉庫を作るのは、地に因って宜しきに適うようにするのである。どうして天空の気の定めで隣國を威圧するものがあるのか」
子胥は言った
「ございます」
闔閭は言った
「私は計画をあなたに委ねよう」
子胥はそこで土壌を見て水脈を調べさせ、天を象り地にのっとり、大城を造築し、周囲は四十七里であった。陸門は八つあり、天の八風を象り、水門は八つあり、地の八聰に法った。小城を築き、周囲は十里、陸門は三つあり、東面に開いていないのは、越の神霊を断とうとしたのである。閶門を建てたのは、天門を象り閶閭風に通じようとしたのである。蛇門を建てたのは、地の門を象ったのである。闔閭は西のかた楚を破ろうとしていて、楚は西北にあった。故に閶門を建てて天の気を通じた。そのためまたの名を破楚門というのである。東のかた大越を併合しようとし、越は東南にあった。故に蛇門を建て、敵国を制したのである。呉は辰にあって、その位は龍であった。ゆえに小城の南門の上の反り返った軒に二つの鯢鱙を作り、龍の角を象った。越は巳の地にあって、その位は蛇であった。故に南大門の上に木蛇があり、北を向いて首は内側を向き、越が呉に属することを示した。
城郭ができ、倉庫が具わると、闔閭はまた子胥に蓋餘、燭傭を屈せしめ、戦術、騎馬、射御の技を訓練させたが、いまだに用いるものがなく、干将に名剣を二本作るをもとめた。干将は、呉人であり、欧冶子と師を同じくし、ともによく剣を作った。越が先に来て三本の剣を献じ、闔閭はこれを宝とし、そこで剣匠に二本の剣を作らせ、一本は干将といい、二本目は莫耶といった。莫耶は干将の妻であった。干将は剣を作るのに五山の鉄を採り、六合の銅を精製した。天をうかがい地をうかがい、太陽と月が同時に照り、百神が臨みみて、天の気が降りてきたが、金鉄のもとは溶けて沈み流れなかった。ここにおいて干将はその理由がわからなかった。莫耶は言った
「あなたはよく剣を作ることで王に知られています。あなたが剣を作ろうとして三日たつのに、できないのは、お考えがあるのですか」 干将は言った 「私はその理由がわからない」 莫耶は言った 「神仏の化合というものは、人があってはじめてできるものです。今あなたが剣を作るには、人を得てから後にできるのではないですか」
干将は言った
「昔、私の師が冶金をするのに、金鉄の類が溶けず、夫妻がともに冶爐に入って、そののち物を成すことができた。その子孫は山に行って冶金をするのに、麻の帯に香草を佩びて、しかる後あえて山で鑄金した。今私が剣を作ろうとして変化しないのは、このようなことではないのか」
莫邪は言った
「師は身を溶かして鋳造物を成すことを知りました、私たちはなんの難しいことがありましょうか」
そこで干将の妻は髪を切り爪を切って爐の中に投じ、童女童男三百人にふいごで火をおして炭をしかけさせると、金鉄はうるおい、ついに剣をつくることができ、陽を干将といい、陰を莫耶といった。陽は亀甲の文様、陰はちらばったすじ模様があった。干将はその陽をかくし、陰を出してこれを献じた。闔閭は甚だ重んじた。すでに宝剣を得て、たまたま魯の使者の季孫が呉に招かれており、闔閭は掌剣大夫に莫邪を献じさせた。季孫は剣を抜くと、刃に欠けているところがあり大きさは黍粒ぐらいであった。感嘆して言った
「美しい剣だ。中国の軍といえどもこれ以上の物があるだろうか。剣ができたということは、呉の覇業をあらわしている。欠けているところがあれば、滅びる。私はこれを好みはするが、受け取るべきであろうか」
受けずに去った。
闔閭はすでに莫邪を宝とし、また国中に金鈎を作るように命じて言った 「よい鈎を作ることができた物には、百金を褒美として与える」 呉で鈎を作る物は甚だ多かった。そして、ある人は王の手厚い褒美をむさぼり、二子を殺してその血を金に塗り、ついに二つの鉤を作り闔閭に献じ、宮門に至って褒美を求めた。王は言った 「鈎を作る者は多いが、おまえはひとり恩賞を求めてきた、おまえの鈎は他のものとどう異なるのか」 鈎を作る者は言った 「私の作る鈎は、恩賞をむさぼってふたりの子を殺し、血を塗って二つの鈎を作ったのです。」
王はそこでたくさんの鈎を挙げてその者に示し
「どれがそうなのか」
王の鈎は甚だ多く、形態は似ていて、どこにあるか分からなかった。ここにおいて鈎師は鈎に向かって二人の子の名を呼び、
「呉鴻、扈稽、私はここにいる、王はおまえたちの霊妙を知らない」
声が口から絶えると、二つの鈎はともに飛んできて父の胸に付いた。呉王は大いに驚いて言った 「ああ、私はまことにあなたに償おう」 そこで百金を恩賞として与えた。ついに身につけて離さなかった。
六月、軍隊を用いようとし、たまたま楚の白喜が来奔した。呉王は子胥に問うて言った
「白喜というのはどういう人か」
子胥は言った
「白喜は、楚の白州犂の孫です。平王は州犂を誅殺し、喜はそのために出奔しました。私が呉にいると聞いて来たのです」
闔閭は言った
「州犂はどんな罪があったのか」
子胥は言った
「白州犂は楚の左尹で、号して郄宛といいました。平王に事え、平王はこれを寵愛して、常にともに一日中語り、朝になってから食事をしました。費無忌はこれを見てねたみ、よって平王に言いました
『王が宛を寵愛されているのは、国中が知っています。どうして酒の席を設けて宛の家に行き、群臣に宛を厚遇していることを示さないのですか』
平王は言いました
『よろしい』
そこで郄宛の家で酒の席を用意しました。無忌は宛に教えて言いました
『平王は甚だ猛々しく武器を好みます。あなたは必ず先に武器を堂下・門庭に並べなさい』
宛はその言葉を信じ、よってそうしました。平王が往くに及んで大いに驚き、言いました
『宛はどうしたのだ』
無忌は言いました
『ほとんどまさに簒奪され殺される憂いがあります、王は急いでここを去って下さい。何がおこるか分かりません』
平王は大いに怒り、ついに郄宛を誅殺しました。諸侯はこれを聞いて、嘆息しないものはありませんでした。喜は私が呉にいると聞き、ゆえに来たのです。どうかこれに会って下さい」
闔閭は白喜に会って問うて言った
「私の国は辺鄙で、東は浜海に臨んでいる。あなたの親は楚の暴怒、費無忌の讒言にあったとうわさに聞くが、我が国を遠いとせずにここへ来て、私に何を教えようというのか」
喜は言った
「私は楚国から逃げた捕虜です。父は罪無くして、道理に合わず暴虐に誅殺されました。私は大王が伍子胥の困窮を受け入れられたと聞き、千里の道を遠いとせずに来て命に帰すのです。どうか大王は私に死をたまわってください」
闔閭はこれを哀れみ、大夫とし、ともに国事を謀った。
呉の大夫被離は宴席に乗じて伍子胥に問うて言った
「どうして一目見て喜を信じるのですか」
子胥は言った
「私の怨みは喜びと同じだ。あなたは河上の歌を聞きませんでしたか。
『同病相憐れみ、同憂相救う』
驚いて飛び立つ鳥はお互いによりそって集まり、瀬の下を流れる水は、元通りになってともに流れます。胡馬は北風を望んで立ち、越の燕は日に向かって戯れます。いったい誰がその近いところを愛しまず、その思うところを悲しまないでしょうか」
被離は言った
「あなたの言葉は、外面だけを言っています。まさか内に意があって疑いを解決しようと言うのですか」
子胥は言った
「私はそうは思わない」
「私が白喜の人となりを観ますに、鷹のような目つきに虎のような足どり、功を独り占めにしほしいままに殺す性質です。親しんではなりません」
子胥はその言葉に納得せず、これとともに呉王に仕えた。
二年、呉王は先にすでに王僚を殺し、また慶忌が隣國にいるのを憂い、諸侯を合して伐ちに来ることを恐れ、子胥に問うて言った
「昔、専諸が私にしてくれたことは手厚かった。今、公子慶忌が諸侯にはかりごとをめぐらしていると聞き、私は食事をしても旨いと感じず、安心して寝ることもできないので、あなたにまかせたい」
子胥は言った
「私は不忠で善行がないのに、大王と王僚のことを私室の中に図りました。いままたその子を討とうとするのは、天帝の意にあらざることを恐れます」
闔閭は言った
「昔武王が紂王を討ち、そののちに武庚を殺したが、周人は怨む気色がなかった。いまこのように議るのは、どうして天に反しようか」
子胥は言った
「わたしは君王に事え、まさに呉の国統を護ろうとしています。またどうしてこれを恐れるでしょうか。私が重視する人は、細人です。どうか謀に従って下さい」
呉王は言った
「私の憂いは、その敵が万人の力を持つものである。どうして細人に謀ることができようか」
子胥は言った
「細人の謀には、万人の力があるのです」
王は言った
「それは誰か。言ってみよ」
子胥は言った
「姓は要、名は離といいます。私は以前壮士椒丘訢を辱めるのを見ました」
王は言った
「どのように辱めたのか」
胥は言った
「椒丘訢は、東海上の人です。斉王のために呉に使いし、淮の津を過ぎり馬に津で水を飲ませようとしました。津の役人は言いました
『水中には神がいて、馬を見ればすぐに出てきて、その馬を害してしまう。あなたは飲ませてはいけない』
訢は言いました
『壮士に対して、何の神が干渉しようというのか』
そこで従者に津で馬に水を飲ませさせると、水神が果たしてその馬を取り、馬は没しました。椒丘訢は大いに怒って、上着を脱ぎ剣を持ち、水に入って神に決戦を求め、幾日もしてから出てくるとその片目が見えなくなっていました。ついに呉に行き、友人の葬式に出ました。友人の葬式の席において、訢はその水神と戦った武勇を恃み、士大夫を侮り驕りたかぶって不遜な言葉遣いをし、人を侮る気色がありました。要離はこれと対座していましたが、座中の者はその力に驕ることに耐えられませんでした。時に要離は訢をはずかしめて言いました
『私はこう聞いている、勇士の戦いは、日と戦うのに日時計が移るのを待たず、神鬼と戦うのに踵を動かさず、人と戦うのに声を出さず、生きては往き死して還り、その辱めを受けないという。今あなたは神と水中で戦い、馬と御者を失い、また片目に傷害を負った。形は勇を名のるのをそこなっており、勇士の恥じるところだ。そこで敵に命を失わなわずにその生を惜しみ、なおわたしに傲慢な態度をとるのか』
ここにおいて訢はにわかに責めなじられたので、怨みと怒りが同時にわき起こり、日が暮れてから要離を攻めに行こうとしました。ここにおいて要理は葬式の席が終わると家に帰り、その妻に誡めて言いました
『わたしは大家の葬式で勇士椒丘訢を辱めた。後まで残る怨みをもち非常に怒っているので、日が暮れれば必ず来るだろう。決して我が家の門を閉じることがないように』
夜になって、椒丘訢は果たしてやってきました。見ると、その門は閉じられておらず、登っていくとその堂には鍵かかかっておらず、入っていくとその部屋は守備されておらず、要離は髪をほどいて横になって寝ており、恐れるところがありませんでした。訢はそこで剣を手にとって要離の髪をつかんで言いました
『あなたには死すべき三つの過ちがある。あなたはこれを知っているか』
要離は言いました
『知らない』
訢は言いました
『あなたは私をおおぜいの前で辱めた、これが一つ目の死である。帰宅して門を閉じなかった、これが二つ目の死である。寝ていて防がなかった、これが三つ目の死である。恨まないでほしい』
要離は言いました
『私には三つの死の過ちはない。あなたには三つの不肖の恥がある。あなたはこれを知っているか』
訢は言いました
『知らない』
要離は言いました
『私はあなたを千人の衆の前で辱めたが、あなたはあえて報復しなかった。これが一つ目の不肖である。門に入るのに咳払いせず、堂に登るのに声を出さなかった、これが二つ目の不肖である。先にあなたの剣を抜いて、手で押さえつけて私の頭髪をつかんでから、あえて大げさな言葉を言った、これが三つ目の不肖である。あなたは三つの不肖がありながら私を脅かしている、どうしていやしくないことがあろうか』
ここにおいて椒丘訢は剣を投げ捨て、嘆いて言った
『私の勇は、人はあえてうかがい見る者はなかった。離は私のさらに上だ、これこそ天下の壮士である』
わたしは、要離はこのようであると聴いております。まことにこれをお聞かせいたします」
王は言った
「どうか宴席を設けてこれを接待してほしい」
子胥はそこで要離に会って言った
「呉王はあなたの高い徳義を聞いている。一度会ってほしい」
そこで子胥とともに呉王に会った。王は言った
「あなたはなにをするのか」
要離は言った
「私は国の東千里の者です。私は細小で力がなく、風に向かえば倒れ、風に背を向ければうつぶせになりますが、大王の命がありましたらあえて力を尽くさないことがあるでしょうか」
呉王は心中で子胥がこの人を進めたことを非とし、やや久しく黙然として言葉を発しなかった。要離はそこで進み出て言った
「大王は慶忌のことを心配しておられますか。わたしは彼を殺すことができます」
王は言った
「慶忌の勇は、世に聞こえている。体力があり勇気と決断力があり、万人でもかなわない。走っている獣に走って追いつき、飛んでいる鳥を手で捕らえ、骨がおどり肉が飛び、膝を打って数百里を走る。私はかつてこれを江に追い、四頭立ての馬車を馳せたが追いつかず、闇に近づいてこれを射たが当たらなかった。今あなたの力はかなわない」
要離は言った
「王にお考えがあれば、私は彼を殺すことができます」
王は言った
「慶忌は、明智の人である。窮地に陥り諸侯に帰したが、諸侯の士より下ではない」
要離は言った
「私が聞くところでは、その妻子の楽しみを安んじ、君に事える義を盡くさないのは、忠ではありません。家室の愛を懐き、君の憂いを除かないのは、義ではありません。私は詐って罪を負い出奔します。どうか王は私の妻子を殺し、私の右手を断ち切って下さい。慶忌は必ず私を信じるでしょう」
王は言った
「わかった」
要離はそこで詐って罪を得て出奔し、呉王はそこでその妻子を捕らえ市で焼き殺した。要離はそこで諸侯のもとへ奔り、恨み言を言い、罪がないことは天下に聞こえた。ついに衛に行き、慶忌に会うことを求めて言った
「闔閭が無道であることは王子はご存じでしょう。いま私の妻子は市で焼き殺され、罪なくして誅せられました。呉国のことは、私はその事情を知っております。どうか、王子の勇によって闔閭をとらえてください。どうして私とともに東に向かい呉に行かないのですか」
慶忌はその謀事を信じた。のち三か月して、士卒を選んで訓練し、ついに呉に行った。まさに江を流れの中央で渡ろうとすると、要離の力は弱いので、風上に座り、風の勢いに乗って矛鈎でその冠をとらえ、風に順って慶忌を刺した。慶忌は顧みてこれを振り払うこと三回、その頭をつかんで水中に入れ、そして膝の上に乗せた。
「ああ、天下の勇士だ、あえて武器の刃を私に向けるとは」
左右の者がこれを殺そうとしたが、慶忌はこれを止めて言った
「これは天下の勇士である。どうして一日に天下の勇士を二人殺すことができようか」
そこで左右に誡めて言った
「呉に還してその忠義を明らかにさせよ」
ここにおいて慶忌は死んだ。
要離は渡って江陵に至り、不憫に思って行かなかった。従者が言った
「あなたはどうして行かないのですか」
要離は言った
「吾が妻子を殺して吾が君に事えるのは仁ではない。新君のために故の君の子を殺すのは、義ではない。その死を重視するのは、貴くなく義ではない。今私が生に執着し行いを棄てるのは義ではない。人に三悪があって世に立つなどと、私は何の面目があって天下の士に顔向けできようか」
言い終えると、ついに身を江に投げたが、いまだ絶命しないうちに、従者がこれを引き上げた。要離は言った
「私はどうして死ぬことができないのか」
従者は言った
「あなたは死なないで、爵禄を待ってください」
要離はそこで自ら手足を断ち、剣に伏して死んだ。
三年、呉はまさに楚を伐とうとしていたが、いまだ行わなかった。伍子胥と白喜はお互いに言った
「我々は王の養うところの士となり、はかりごとをめぐらして国に利があり、故に王は楚を伐とうとし命令を出したが、それにかこつけて軍を興こす意がないのは、どうしてだろうか」
しばらくして、呉王は子胥と白喜に問うて言った
「私は出兵しようと思うが、あなた方二人はどう思うか」
子胥と白喜は答えて言った
「私たちはどうか王の命に従わせて下さい」
呉王は二人とも楚を怨んでいるのを内心でおしはかり、兵を率いて行って楚を破滅させるのみであることを深く恐れた。台に上って南風に向かってうたい、しばらくして溜息をついた。群臣で王の意を悟る者はなかったが、子胥は王の気持ちが定まらないのを深く知り、そこで孫子を王に推薦した。
孫子は名を武といい、呉の人である。よく兵法をなした。奥深いところに退き隠れていたので、世の人はその能力を知らなかった。子胥はよく人を見分けることができたので、孫子が敵の攻撃を防ぎ、敵をそこなうことができるのを知った。そこである日呉王と軍事について論じ、七たび孫子を推薦した。呉王は言った
「子胥は士を進めると言って、自ら納れたいのだ」
そして孫子を召してこれに兵法を問うた。一篇を述べるごとに、王は思わず口で善しと称え、その意は大いに喜び、問うて言った
「兵法を少し試すことができるか」
孫子は言った
「できます。後宮の女で試すことができます」
王は言った
「わかった」
孫子は言った
「大王の寵姫二人を出していただき軍隊長とし、各々一隊を率いさせます」
三百人に皆鎧兜を身につけさせ、剣と盾を手にとり立たせ、軍法を告げ、鼓にしたがって進退し、左右に旋回させ、その禁令を知らせた。 そして命令して言った
「一たび鼓を鳴らしたらみな奮い立ち、二回鳴らしたら武器を手に取り進み、三回鳴らしたら戦型を作るように」
ここにおいて宮女は皆口を覆って笑った。孫子は自らばちを持って鼓を打ち、再三訓令を出し誡め告げたが、宮女はそのまま笑っていた。孫子は女たちを顧みたが、笑い続けて止まなかった。孫子は大いに怒り、両目をたちまち見開き、声は驚いた虎のごとく、髪は冠を突き上げ、首のわきの冠の紐が切れた。顧みて執法に言った
「斧と胴切りの台を持て」
孫子は言った
「約束が明らかでなく、命令が明らかでないのは、将の罪である。すでに約束し、再三訓令を出し誡め告げたのに、卒が拒んで行わないのは、士の過ちである。軍法はどうなっているか」
執法は言った
「斬刑です」
武はそこで隊長二人を切らせようとした。それはすなわち呉王の寵姫であった。呉王は台に登ってまさに二人の愛姫が斬られようとするのを見て、使いを走らせてこれに命令を下して言った
「私はすでに将軍が兵を用いるのを知った。私はこの二姫がいなければ食事も旨くないのだ。どうかこれを斬らないでほしい」
孫子は言った
「私はすでに命を受け将となりました。将の法は軍にあります。君の命令といえども私は受け入れません」
孫子はまた鼓を打ってこれを指揮すると、左右、進退、旋回するにあたり法則どおりで、あえて瞬きすらせず、二隊は寂然としてあえて振り向く者はなかった。ここにおいて呉王に報告して言った
「兵はすでに整いました。どうか王はこれを見てください。ただ用いようとするところ、水火の中に赴かさせても困難はありませんので、天下を平定することができます」
呉王は忽然として喜ばず、言った
「わたしはあなたがよく兵を用いることを知ったが、これで覇となることができるといっても、施行することができないだろう。将軍は家に帰って休め。私は見たいとは思わない」
孫子は言った
「王はただその言だけを好み、その実を用いない」
子胥は諫めていった
「私が聞きますに、兵は凶事であり、むだに試してはなりません。故に軍事を行うものは、誅伐が行われなければ、兵の道が明らかでなくなります。今大王は真心から有能な士を思って、戦争を興して暴虐な楚を誅伐し天下に覇して諸侯を威圧したいとお考えです。孫武のような将でなければ、誰が淮河を渡って泗水を越え、千里を越えて戦うことができる者がおりましょうか」
ここにおいて呉王は大いに喜び、そこで鼓を鳴らして軍を会し、集めて楚を攻めた。孫子は将となり、舒を抜き、呉の亡将二公子蓋餘・燭傭を殺した。郢に入ろうと謀ったが、孫武は言った
「民は疲れております、まだ勝利を期待することはできません」
楚は、呉が孫子・伍子胥・白喜を将としたのを聞き、楚国はこれに苦しみ、群臣は皆怨み、皆費無忌が伍奢・白州犂を讒言して殺したので呉が境界内を侵し、侵寇が絶えないのだと言い、ここにおいて司馬成は子常に言った
「太傅の伍奢、左尹白州犂は、国の者はその罪を知っている者はないが、あなたは王と謀ってこれを誅殺した。誹謗が国に流布し、今日にいたるまでその言が絶えることなく、まことに困惑している。聞くところによると、仁者は、人を殺して謗りを覆い隠すということは、なおしないものだ。今あなたは、人を殺して国に謗りを興している、またおかしいことではないか。費無忌は、楚の讒言する者であり、民はその過ちを知らない。今、無辜の三賢士を殺し、呉に恨みを買い、内には忠臣の心を傷つけ、外には隣國の笑いものとなっている。かつ郄・伍の家は呉に出奔し、呉は新たに伍員・白喜をえて、権勢を握り志を鋭くし、楚を仇としている。故に強敵の兵は日々脅かしてきている。楚国に事があればあなたはすぐに危うくなるだろう。智者は讒言を除いて自らを安んじ、愚者はへつらいを受けて自ら亡びる。今あなたは讒言を受けて、国は危うくなっている」
子常は言った
「これは私の罪である。あえて図らないことがあろうか」
九月、子常は昭王とともに費無忌を誅殺し、ついにその一族を滅ぼした。国人の誹謗はそこで止んだ。
呉王には滕玉という娘があった。楚を伐つのを謀っていたことにより、夫人及び娘と会して蒸魚を食べていたとき、王はさきに半分食べてから娘に与えた。娘は怒って言った
「王は残った魚を食べさせようとして私を辱めた。いつまでも生きていくのに堪えられない」
そして自殺した。闔閭はこれをいたみ、国の西の閶門の外に葬った。池をうがち土を積み、模様のついた石を棺の外囲いにし、内側に木を重ねた。金鼎、玉杯、銀樽、珠を貫いて飾りにした短衣といった宝は、みなこれで娘を葬送した。そして白鶴を呉の市中に舞わせ、万民を従えさせてこれを観させ、また 男女に鶴とともに墓門に入らせ、そこで機関を発動してこれをとじこめ、生者を殺して死者を葬送した。国人はこれを非とした。
湛盧の剣は、闔閭の無道を悪み、そこで去って水路で楚に行った。楚の昭王が眠りから覚めると呉王の湛盧の剣が寝台にあらわれた。昭王はその故が分からず、そこで風湖子を召して、これに問うて言った
「私が眠りから覚めると、宝剣があらわれたが、その名が分からない。これは何という剣だろうか」
風湖子は言った
「これは湛盧の剣です」
昭王は言った
「そうしてそう言えるのか」
風湖子は言った
「私は、呉王が越の献じた宝剣三つを得たと聞いております。一つ目を魚膓といい、二つ目を磐郢といい、三つ目を湛盧といいます。魚膓の剣はすでに呉王僚を殺すのに使われました。磐郢は、これでその死んだ娘を葬送しました。今湛盧が楚にやってきたのです」
昭王は言った
「湛盧が呉を去った理由は何か」
風湖子は言った 「私が聞きますに、越王元常が欧冶子に剣五本を作らせ、薛燭に示しました。燭は答えて言いました『魚膓の剣は模様が逆で順序だってなく、身につけることはできません。臣が君を殺し、子が親を殺します』故に闔閭はこれで王僚を殺したのです。もう一つは名を磐郢といい、またの名を豪曹といいます。不法の物であり、人に益はありません、故にこれで死を葬送したのです。もう一つは湛盧といい、良質の五種類の金属、太陽の精があり、霊気が寄託し、これを出せば神妙があり、これを身につければ威があり、敵の攻撃を挫き防ぐことができます。しかし人君に理に逆らう謀があれば、その剣は出て行き、故に無道を去って有道に就くのです。今呉王は無道で、君を殺し楚を攻めようと謀っています。故に湛盧は楚にやってきたのです」
昭王は言った
「その値はどれくらいか」
「私が聞きますに、この剣が越に在ったとき、客にその値をつける者がいました。市を有する郷が三十、駿馬千匹、一万戸の都が二つ、これはそのうちの一つです。薛燭は答えて言いました『赤菫の山はすでに合して雲無く、若耶の渓は深くて測れない、群神は天に上り欧冶子は死んだ。城を傾け金を量り、珠玉を河に満たしても、なおこの宝を得ることはできない、まして市のある郷・駿馬千匹・万戸の都で、どうして足りると言えようか』」
昭王は大いに喜び、ついにこれを宝とした。
闔閭は楚が湛盧の剣を得たと聞くと、これによって怒り、ついに孫武・伍胥・白喜に楚を伐たせた。子胥はひそかに楚に言いふらさせた
「楚が子期を用いて将と為せば、我々はこれを殺し、子常が兵を用いるならば我々は去る」
楚はこれを聞いて、そこで子常を用い、子期を退けた。呉は六と潜の二邑を抜いた。
五年、呉王は越が楚を伐つのに従わなかったので、南に向かって越を伐った。越王元常は言った
「呉は過日の盟を信じず、貢ぎ物を献じる国を棄て、その交わり親しんだ者を滅ぼすのだ」
六年、楚の昭王は公子襄瓦に呉を伐たせ、潜・六の役に報いた。呉は伍胥・孫武にこれを撃たせ、豫章に囲んだ。呉王は言った
「私は危機に乗じて楚の都に入り、その郢を破りたいと思う。郢に入らなければ、二人に何の功があろうか」
ここにおいて楚の軍を豫章に囲み、大いにこれを破り、ついに巣を囲み、これに勝ち、楚の公子繁を捕らえ、帰って質とした。
九年、呉王は子胥・孫武に言った
「はじめあなたは郢を落とすことはできないと言った。今は果たしてどうだろうか」
二将は言った
「戦うのに、仮の勝利で相手を威圧するのは、常勝の道ではありません」
王は言った
「どういうことか」
二将は言った
「楚国の軍隊は、天下の強敵です。今私がこれと勝敗を争えば、十死に一生でしょう。そして王が郢に入るのは天意によります。我々はあえて必ずしも勝てるとは考えません」
呉王は言った
「私はまた楚を伐ちたいと思うが、どうすればよいだろうか」
伍胥と孫武は言った
「囊瓦は貪欲で諸侯に対して過ちが多く、唐と蔡はこれを恨んでいます。王が必ずこれを伐てば、唐・蔡を得るでしょう」
「何を怨んでいるのか」
二将は言った
「昔、蔡の昭公が楚に朝したとき、美しい皮衣を二枚、善い珮を二枚持っていて、各々一枚を昭王に献じ、王はこれを身につけて朝に臨み、昭公は自ら一枚を身につけました。子常がこれを欲しがりましたが、昭公は与えませんでした。子常は三年これを留め、国に帰らせませんでした。唐の成公が楚に朝し、二頭の美しい毛並みの馬を持っており、子常はこれを欲しがりましたが、公は与えませんでした。また三年これを留めました。唐の人は互いに謀り、成公の従者より馬を請い、それで成公を購おうとしました。従者に酒を飲ませてこれを酔わせ、馬を盗んで子常に献じました。常はそこで成公を帰国させました。群臣は誹謗して言いました 『君は一頭の馬のせいで、三年囚われた。馬を盗んだ功績を賞めてもらいたい』ここにおいて成公は常に楚に報復しようと思うようになり、君臣はその事を口にして絶えることがありませんでした。蔡人がこれを聞き、固く請うて子常に皮衣と珮を献じ、蔡侯は帰ることができました。晋に行き告訴し、子の元と太子を質とし、楚を伐つことを請いました。故に唐・蔡を得れば楚を伐つことができると申し上げたのです」
呉王はここにおいて使者に唐・蔡に言わせた
「楚は無道をなし、忠良を虐殺し、諸侯を侵食し、二君を困らせ辱めた。私は兵を挙げて楚を伐ちたいと思う。どうか二君に謀ってもらいたい」
唐侯はその子の乾を呉に質とさせ、三国は謀を合わせて楚を伐った。兵を淮水の湾曲部に置き、豫章より楚と漢水をさし挟んで陣をはった。子常はついに漢水を渡って陣をはり、子別山から大別山に至り、三たび戦って利がなく、自ら進むことができないことを知り、逃げようと思った。史皇は言った
「今、子常は理由なく王とともに忠臣三人を殺した。天の禍が来たり下ったのは、王が招いたのである」
子常は答えなかった。
十月、楚〔と呉〕の両軍は柏挙に陣をはった。闔閭の弟の夫槩は朝早く起きて闔閭に請うて言った
「子常は不仁で、貪欲で恩知らずであり、その臣下は決死の覚悟はありません。これを追えば、必ず撃破できます」
闔閭は許さなかった。夫槩は言った
「いわゆる『臣がその志を行うのに命令を待たない』とは、このことを言うのだ」
ついにその部隊五千人を率いて子常を撃った。〔子常は〕大いに敗走し、鄭に奔った。楚軍は大いに乱れ、呉軍はこれに乗じてついに楚軍を破った。楚人がまだ漢水をわたらないとき、たまたま楚人は食事をしていた。呉はそこで追撃してこれを破った。雍滞で五たび戦い、ただちに郢に至った。王は呉の侵寇に迫られ、出でて必ずまさに逃げようとし、妹の季羋と河水・濉水の間に出で、楚の大夫尹固は王と同じ舟に乗って逃げた。呉軍はついに郢に入城し、昭王を探した。王は濉を渡り長江を渡り、雲中に入った。暮れに宿っていると、群盗がこれを襲い、戈で王の頭に撃ちかかり、大夫尹固は王をかばって背でこれを受け、肩に当たった。王は恐れて鄖に奔った。大夫鍾建が季羋を背負って従った。鄖公辛は昭王を得て大いに喜び、これを還そうとした。その弟懐は怒って言った
「昭王は我々の仇です」
これを殺そうとし、その兄辛に言った
「昔平王は我々の父を殺しました。我々がその父を殺すのもまたよいではありませんか」
辛は言った
「君がその臣を討って、あえてこれを仇とするものがあろうか。人の禍に乗じるのは、仁ではない。宗廟を滅ぼし祀を廃するのは、孝ではない。行動して令名がないのは、智ではない」
懐は怒って許さなかった。辛はひそかにその弟の巣と謀って、王とともに隨に奔った。呉軍はこれを追って、隨君に言った
「周の子孫で漢水のほとりに在る者は、楚がこれを滅ぼした。天がその禍に報い、楚に罰を加えたというのに、君はどうしてこれをかばうのですか。周室になんの罪があって、その賊をかくまうのですか。昭王をさし出せば、重大な恩惠があろう」
隨君は昭王と呉王とを占うと不吉であった。そこで呉王に辞して言った
「隨は僻地の小国であり、楚に親しく、楚はまことに我らを保全しており、同盟があって今に至るまで変わっておりません。もし今危難にあってこれを棄てるというなら〔どうして君に事えることができましょうか。〕いまもし穏やかに対処なさるなら、楚は敢えて命令を聴かないことがありましょうか」
呉軍はその言葉をよしとし、そこで退いた。この時、大夫子期は昭王とともに逃げていたが、ひそかに呉軍と取引し、昭王を逃そうとした。昭王はこれを聞き、免れることができると、子期の心臓の前の皮膚を割き、その血で隨君と盟約して去った。
呉王は郢に入ってとどまった。伍胥は昭王を捕らえられなかったので、そこで平王の墓を掘りその屍を出し、これを鞭打つこと三百回、左足で腹を踏みつけ、右手でその目を抉り、これを責めて言った
「誰がおまえに邪悪なへつらいの口を用いさせ、吾が父兄を殺させたのか。どうして無実の罪でないことがあろうか」
そこで闔閭に昭王の夫人をめとらせ、伍胥・孫武・白喜もまた子常・司馬成の妻をめとり、楚の君臣を辱めた。 ついに軍を率いて鄭を撃った。
鄭の定公は前に太子建を殺して子胥を苦しめた。これより鄭の獻公は大いに恐れ、そこで国中に命令して言った
「呉軍を還すことができる者があれば、私はともに国を分かちて治めよう」
漁師の子が応募して言った
「私はこれを還すことができます。一尺の武器も一斗の食糧も用いず、一本の櫂を得て道中を歌って行けばすなわち還ります」
公はそこで漁師の子に櫂を与えた。子胥の軍がまさに至ろうとすると、道で櫂をたたいて歌って言った
「蘆中の人」
このようにすること二回であった。 子胥はこれを聞いて愕然として大いに驚いて言った
「何者か」
尋ねて言った
「あなたは誰だ」
言った
「漁師の子です。我々の国君は恐れて国に命令しました『呉軍を還すことができるものがいれば、これを国を分かちて治めよう』と。私は父があなたと途で出会ったことを思い、いまあなたに鄭の国を許すことを請います」
子胥は言った
「悲しいことだ、私はあなたの父の恩を受けていまに至った。上天は蒼蒼として、どうして忘れようか」
そこで鄭国を許して軍を還し、楚をまもった。楚の昭王の所在を探すのが日々厳しくなった。
申包胥は逃げて山中にいてこれを聞き、そこで人をつかわして子胥に言わせた
「あなたの仇に報いることはなんと甚だしいことか。あなたはもともと平王の臣であり、北面してこれに事えた。今屍を辱めて、どうして道が極まるであろうか」
子胥は言った
「私に代わって申包胥に告げて言うように、『日は暮れて道は遠い、ゆえに私は常理に逆らって事を行ったのだ』と」
申包胥は〔伍子胥を説得することが〕できないとわかり、そこで秦に行き、楚を助けることを求めた。昼に馳せて夜に趨り、踵と足の裏が裂け、衣裳を裂き膝を包み、秦の庭で鶴のようにかかって立ち哭すこと七日七夜、声が絶えることがなかった。秦の桓公は素より酒色のおぼれて、国事をかえりみなかった。申包胥は泣きやんで、歌って言った
「呉は無道で、大豚・長蛇のようであり、中国を侵食し、天下を手に入れようとし、まさに楚より始めました。わが君は脱出して草沢におり、私を来させて急を告げさせたのです」
哀公は大いに驚いて言った
「楚にはこのような賢臣がいるのに、呉はなおこれを滅ぼそうとしている。私にはこのような臣はいない。滅びるのに日はかからないだろう」
無衣の詩をうたって言った
「どうして衣がないというのか、あなたと綿入れを同じくしよう。王はここに軍隊を興し、仇を同じくしよう」
包胥は言った
「私は、徳にもとれば厭くことなしと聞いております。王は隣国国境の患を憂えませんように。呉の情勢が定まらないうちに、王は楚の地の一部分を取ってください。もし楚がついに滅びれば、秦には何の利がありましょうか。すなわちまた君の土地もなくなりましょう。どうか王は神霊をもってこれを存続させてください。代々王にお仕えいたします」
秦哀公はこれに辞させて言った
「私は命を聞きましょう。あなたはしばらく館で休んでください。まさに相談して報告しましょう」
包胥は言った
「わが君がいま草野にいて居場所がないというのに、私がどうして安逸の場所におられましょうか」
また庭に立って塀に寄りかかって泣き、日夜声が絶えず、水も飲まなかった。秦哀公は彼のために涙を流し、そこで兵を出してこれを送った。
十年、秦の軍が未だ出動しないうちに、越王元常は、闔閭がこれを檇李に破ったのを恨んで、兵を興して呉を伐った。呉が楚にいたので、越は機に乗じてこれを襲ったのである。
六月、申包胥は秦軍を率いて到着した。秦は公子子蒲・子虎に戦車五百乗を率いて楚を救って呉を撃たせた。二人は言った
「我々はいまだ呉の戦法戦術を知らない」
楚軍を先に呉と戦わせ、そしてこれと合流し大いに夫槩を破った。
七月、楚の司馬子成・公子子蒲は呉王と互いに守り、ひそかに兵を率いて唐を伐ち、これを滅ぼした。子胥は久しく楚に留まって昭王を探して去らなかった。夫槩の軍は敗れて退却した。
九月、ひそかに帰り、自ら立って呉王となった。闔閭はこれを聞き、そこで楚軍を捨て置き夫槩を殺そうとした。夫槩は楚に奔り、昭王は夫槩を棠渓に封じた。闔閭はついに帰った。子胥・孫武・白喜は留まり、楚軍と淮澨に破った。楚軍もまた呉軍を破った。楚の子期はまさに呉軍を焼こうとした。子西は言った
「我が国の父兄が戦って骨を草野にさらしている。これを回収できないのにこれを焼いてもいいものだろうか」
子期は言った
「国が滅び人々が失われ、生者と使者がここかしこにいるのに、またどうして生者を殺すのに死者をおしむことがあろうか。死者がもしこれを知れば、必ずまさに煙に乗じて起き上がり我々を助けようとするだろう。もしこれを知らなければ、どうして草中の骨を惜しんで呉国を滅ぼそうか」
ついに焼いて戦い、呉軍は大いに敗れた。子胥らは言い合った
「彼ら楚は我々の残兵を破ったといっても、いまだ我々を損なうものではない」
孫武は言った
「呉の盾と戈で西方の楚を破り、昭王を逐い、荊平王の墓を屠り、その屍をそこないさらした。またすでに十分ではないか」
子胥は言った。
「霸王より以来、いまだ人臣でこのように仇に報復した者はいない。去りましょう」
呉軍が去って後、昭王は国に帰った。楽士扈子は楚王が讒言を信じて伍奢・白州犂を殺し、侵寇が国境に絶えず、平王の墓を掘りかえされ屍を辱められ妻を姦淫され楚の君臣を辱められるに至ったのを非とした。また昭王が困迫し、ほとんど天下に大いに卑しめられ、そしてすでに恥じていることを傷んだ。そこで琴を引き寄せて楚のために『窮劫の曲』を作り、君の災厄に苦しんで暢達に至ったことを傷んだ。その詞にいわく
「王よ、王よ、どうしてに功業に背き、宗廟を顧みず賤しい者の讒言を聴き、無忌を任用し多く殺すところ、白氏の一族を討ち平らげてあらかた滅ぼし、二子は東に奔って呉越に行き、呉王は悲しみ傷んで、憂い悲しんでいる二人を助け、涙を流し兵を挙げてまさに西伐しようとし、伍胥・白喜・孫武は決行した。三度戦って郢を破り王は逃げだし、兵を留めてほしいままに戦車を走らせ楚の宮殿を擒にし、楚王の骨は発掘され、腐乱した屍を鞭打たれたという恥は、雪ぎがたい。ほとんど宗廟を危うくし、社稷は滅び、荘王はどんな罪があって国がほとんど絶えるというのか。卿士は悲しみ民はいたみ、呉軍は去ったといえども怖れはやまない。どうか王はさらにいたんで忠節の士をやすんじ、告げ口をするものに悪口を言わせないようにしてください」
昭王は涙を流し、深く琴曲の意味を知り、扈子は遂にまた彈くことはなかった。
子胥らは溧陽を過ぎ、瀬の上でため息をついていった
「私はかつてここで飢えて一人の女子に食事を乞うた。女子は私に食べさせ、ついに水に投じて亡くなった。まさに百金を以て報いたいのだが、その家を知らない。そこで金を水中に投じて去った。 しばらくして、一人の老婆が泣きながらやってきた。人が尋ねて言った
「何を悲しんで泣いているのか」
老婆は言った
「私には娘があり、家にいて三十にして嫁いでいませんでした。先年、ここで綿を撃っていると、一人の道で困窮した君子に会い、そこでこれに食事をさせ、事が漏れるのを恐れて自ら瀬水に投身しました。今伍君がいらっしゃったと聞きましたが、その償いを得ることができず、自ら空しく 死んだのを傷み、このために悲しんでいるのです」
人は言った
「子胥は百金を報いようとしたが、その家を知らなかったので、金を水中に投じて去った」
老婆は遂に金を取って帰った。
子胥は呉に帰り、呉王は三師がまさに到着しようとしてると聞き、魚をさばいてなますを作った。まさに到着しようとする日、時が過ぎても到着せず、魚は臭った。しばらくして子胥が到着し、闔閭はなますを出して食べさせたところ、その臭いを感じなかった。王はまたふたたびこれを作り、その味はもとのごとくであった。呉人がなますを作るようになったのは、闔閭が始めてからである。
諸将はすでに楚より還り、そこで閶門の名をあらためて破楚門といった。また斉を伐とうと謀り、斉子は娘を呉に質とさせた。呉王はそこで太子波のために斉女を娶らせた。娘は若く、斉を思って日夜号泣し、そのために病気になった。闔閭はそこで北門を建てて望斉門と名付け、娘をその上に行って遊ばせた。娘の思いは止まず、病はますますひどくなり、死ぬに至った。娘は言った
「もし死者に知ることができるなら、必ず私を虞山の嶺に葬って、斉を望ませてください」
闔閭はこれを傷み、まさにその言葉の通りにし、虞山の嶺に葬った。この時、太子もまた病気になって死んだ。闔閭は諸公子で太子に立てるべき者を選ぼうと謀ったが、いまだどうするか定まらなかった。波の子夫差は日夜伍胥に告げて言った
「王は太子を立てようとしている。私でなければ、だれがまさに立つべきであろうか。この計はあなたにかかっている」
子胥は言った
「太子はいまだ定まっていません。私が宮廷に入れば決まるでしょう」
闔閭はしばらくして、子胥を召して太子を立てることを謀った。子胥は言った
「私は、祭祀は血統が絶えたあとに廃れ、跡取りがあると興ると聞いております。いま太子が亡くなり、早くも侍御を失いました。今王は太子を立てようとしておられますが、波の子夫差よりまさるものはありません」
「あれは愚かで不仁である。呉国を受け継いで統率できないのではないかと心配だ」
子胥は言った
「夫差は信たるに人を愛するをもってし、節を守るに正しく、礼義にあつい。父が死んで子が代わるのは、経の名文にあります」
闔閭は言った
「私はあなたに従おう」
夫差を立てて太子とし、太子に兵を駐屯させ楚を守備して留めさせた。自らは宮室に統治し、射台を安里に建て、華池は平昌にあり、南城宮は長楽にあった。闔閭は出入りして遊び臥し、秋冬は城中で統治し春夏は城外で統治した。姑蘇台を造り、朝に䱉山で食事し、昼は蘇台に遊び、鴎陂で射て、游台で馬を走らせ、楽石城で遊興し、長洲に犬を走らせた。これは闔閭の覇業の時に定まった。ここにおいて太子が定まり、そこで楚を伐って軍隊を破り番を抜いた。楚は呉軍がまた来るのを恐れて郢を去り、蔿若に徒った。ちょうどこのとき、呉は子胥・白喜・孫武の謀を以て、西の強国楚を破り、北の斉・晋を威圧し、南の越を伐った。
呉越春秋闔閭内伝第四
呉越春秋夫差内伝第五
十一年、夫差は斉を伐った。斉は大夫高氏を使わして呉軍に謝罪させて言った
「斉は国に孤立し、倉庫は空で、人民は離散しています。斉は呉を強大な輔けとしていますが、いまだ行って危急を告げていないのに、呉に伐たれようとしています。どうか国人を郊外で平伏させ、あえて戦争の辞を述べさせないでください。呉が斉を哀れんで常軌を逸しないことを思います」
呉軍はすぐに還った。
十二年、夫差はまた北方の斉を伐った。越王はこれを聞き、衆を率いて呉に朝見し、貴重な財宝を厚く太宰嚭に献じた。嚭は喜んで越の賂を受け、越を愛し信じること殊に甚だしく、日夜呉王に語り、王は嚭の計を信じて用いた。伍胥は大いに懼れて言った
「これは天が我々を見棄てるのだ」
そこで進んで諫めて言った
「越の存在は体内の病です。先にその病を除かずに、今うわべだけの言葉や偽りを信じて斉を手に入れようとしています。斉を破るのは譬えるなら岩石だらけの農地を手に入れるようなもので、苗を植えることはできません。どうか王は斉を赦して越を先にしてください。そうしなければ、悔やんでも及ばないでしょう」
呉王は聴かず、子胥を斉に使わして戦いの期日を述べさせた。
子胥はその子に言った
「私はしばしば王を諌めたが、王は私を用いず、いま呉の滅びるのを見ようとしている。お前が私とともに死ねば、死んでも何にもならない」
そこでその子を斉の鮑氏に託して還った。太宰嚭はすでに子胥と溝ができていたので、これを讒言して言った
「子胥は強暴な斉のために一心に諫めています。どうか王はこれをすこし手厚くなさいませ」
王は言った
「わかっている」
いまだ軍隊を興さないうちに、たまたま魯は子貢を呉に訪れさせた。
十三年、斉の大夫陳成恒は簡公を弑逆しようとしたが、ひそかに高氏・国氏・鮑氏・晏氏を恐れ、そこで先に軍隊を興して魯を伐ち、魯君はこれを憂えた。孔子はこれを患い、門人を召してこれに言った
「諸侯がお互い伐ちあっているのは、私は常にこれを恥としている。魯は、父母の国であり、墳墓はここにある。今斉はまさにこれを伐とうとしている。おまえたちは一たび出でようと思わないか」
子路がいとまごいして出ようとしたが、孔子はこれを止めた。子張・子石が行くことを請うたが孔子は許さなかった。子貢がいとまごいをして出ようとすると、孔子はこれを使わした。 子貢は北方の斉に行き、成恒に会い、そこで言った
「魯は、伐ちがたい国ですのに、君が伐つのは誤りです」
成恒は言った
「魯はどうして伐ちがたいのか」
子貢は言った
「その城壁は薄く低く、その池は狭く浅く、その君は不仁で、大臣は役に立たず、士は戦争を憎んでおり、戦うべきではありません。あなたは呉を伐つにこしたことはありません。呉の城は厚く高く、池は広く深く、鎧は堅固で士は選び抜かれており、兵器は十分で弓は強力で、賢明な大夫にこれを守らせています。これは攻めやすい国です」
成恒は怒って色をなして言った
「あなたが難しいとするものは、人が易しいとするものだ。あなたが易しいとするものは、人が難しいとするものだ。あなたがそれで私に教えるのはどうしてか」
子貢は言った
「私は、あなたが三たび封じられたが三たび成功しなかったのは、大臣が聴かなかったためと聞いております。今あなたは魯を破って斉を広げようとし、魯を破って自らを高めようとしていますが、あなたの功はこれとかかわりありません。上は〔主君の心を〕驕り高ぶらせ、下は群臣を好き勝手にさせては、大事を成そうとしても、難しいでしょう。そのうえ、上が驕り高ぶれば法を破り、臣が驕り高ぶれば争います。これではあなたは上は主君と間隙があり、下は大臣と相い争うことになります。このようであればあなたが斉に立つのは、危うきこと積み重ねた卵のようなものです。ゆえに呉を伐つにこしたことはないと言ったのです。それに呉王は剛猛で猛々しく、よくその命令を行うことができ、人民は戦いと守りに習熟し、法律や禁令に明るく、斉が敵対すれば擒となることは必定です。今あなたが四境の兵をことごとく用い、大臣を出兵させ鎧兜を身につけさせれば、人民は外に死し、大臣は内に空です。これはあなたには上に強敵の臣がなく、下に人民の士がないのであり、主君を孤立させ斉を制するのはあなたでしょう」
陳恒は言った
「よろしい。だがわが兵はすでに魯の城下にあり、私が去って呉に行けば大臣はまさに私の心に疑いを懐くだろう。これをどうすればいいか」
子貢は言った
「あなたは軍隊を按じて伐たないで下さい。どうか、あなたのために南方に行き、呉王に見えさせてください、これに魯を救って呉を伐たせ、あなたはそこで軍隊を率いてこれを迎え撃って下さい」
陳恒は許諾した。子貢は南に行き呉王に言った
「私は王は世継ぎを絶やさず、覇者は敵を強くしないと聞いております。千鈞の重量も、銖を加えれば秤の目盛りが動きます。いま万乗の斉は千乗の魯を我がものとし、呉と強さを争っています。私はひそかに君のためにこれを恐れています。そのうえ、魯を救えば名を上げることになり、斉を伐つのは大きな利があります。義は亡びそうな魯を保存し、暴虐な斉を害して強国の晋を威圧することにあることは、王は疑われないでしょう」
呉王は言った
「よろしい。だが私はかつて越と戦い、會稽山に立てこもらせ、呉に入臣させたが、すぐにはこれを誅さず、三年して帰国させた。越君は賢主で、身を苦しめ労働をし、昼夜兼行して、内はその政をただし、外は諸侯に事え、必ずまさに私に報復しようという気持ちでいるだろう。あなたは私が越を伐つのを待て、そのあとであなたのいうことを聞こう」
子貢は言った
「なりません。越の強さは魯以上ではなく、呉の強さは斉以上ではありません。越を伐つことで私の言うことを聴かないなら、斉もまたすでに魯を我がものとしてしまうでしょう。かつ小国の越を恐れて強国の斉をにくむのは、勇ではありません。小利を見て大害を忘れるのは、智ではありません。私は、仁者は人を苦しめずにその徳を広め、智者は時機を失わずその功を挙げ、王者は世継ぎを絶やさず、その義を立てると聞いております。越を恐れるのがこのようであれば、私はまことに東に行き越王に会い、出兵させて下吏に従えさせましょう」
呉王は大いに喜んだ。 子貢は東に行き越王に会おうとした。王はこれを聞き、道を掃除して郊外で出迎え、自ら車を御して宿舎に至り、問うて言った
「ここは辺鄙な狹い国、蛮夷の民であるのに、大夫はどうして涙を流して恥じともしない様子でここに至ったのですか」 子貢は言った
「あなたがおられるので来ました」
越王句踐は再拝して頭を地面につけて言った
「私は、禍と福は隣り合わせだと聞いている。今大夫が哀れむのは、私にとっての福である。私は敢えてその説を問わないことがあろうか」
子貢は言った
「私はいま呉王に会って、魯を救って斉を伐つことを告げましたが、その心は越を恐れています。それに、人に報復する志がないのに人にこれを疑わせるのは、稚拙です。人に報復する意があるのに人にこれを報せるのはあやういことです。事が未だ起こらないのにこれを漏れ聞こえさせるのは危険です。この三つは、事を行うのに大いに避けるべきです」
越王は再拝して言った
「私は若くして父を失い、内に自らの度量をはからず、呉人と戦い軍は敗れ身は辱められ、逃亡して上は會稽山に立てこもり、下は海浜を守り、ただ魚やすっぽんを見ています。今大夫はかたじけなくもあわれんで自らこれに見え、また玉声を発して私に教えようとしています。私は天の賜り物をさいわいに敢えて教えを受けないことがありましょうか」
子貢は言った
「私は聞いております、明主は人を任じてその能力を埋もれさせませんが、行いの正しい人が賢人を推挙しても世に受け入れられません。故に財を扱い利を分かつには仁者を使い、禍を乗り切り困難をしのぐには勇者を使い、智を用いて国を図るには賢者を使い、天下を正し諸侯を定めるには聖人を使います。軍隊が強いのにその威勢を行うことができず、上位に立つ者がその政令を下の者に施すことができない、そのような国君がどれだけいるか、むずかしくなるでしょう。私はひそかに自らともに成功し王となることができる方を選びましたが、このようなものがどれだけいるでしょうか。今呉王は斉・晋を伐つ意思がありますから、君は貴重な宝を惜しむことなくその心を喜ばせ、辞を卑くすることをいとわずその礼を尽くしてください。そして斉を伐って、斉が必ず勝ち、呉がかたなければ、君の福です。彼らが戦って勝てば、必ずその兵をひきいて晋に臨むでしょう。騎士鋭兵は斉との戦いに疲れ、重宝車騎羽毛は晉との戦いで尽き、君はその残余を制するでしょう」
越王は再拝して言った
「昔呉王はその民の多くを分ちて吾が国をそこない、わが民を殺し、わが人民をいやしみ、わが宗廟を平らげ、国はいばらだらけの廃墟となり、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。私の呉を怨むことは骨髄に深く、私が呉に事えることは子が父を畏れ弟が兄を敬うようなものです。これは私の死言です。いま大夫の教えの賜りがありましたので、私は敢えて内情をお知らせしました。私の身は重ねた敷物に安座することなく、口はうまいものを味わわず、目は美しい色を見ず、耳は雅やかな音を聞かないことすでに三年です。唇を焦がし舌を乾かし、身を苦しめ力をつとめ、上は群臣に事え、下は人民を養い、願わくば一たび呉と天下の平原の野で交戦し、身と腕を正して呉越の士を奮い立たせ、踵を継いで次々と死に、肝脳地にまみれるのが、私の願いです。これを思うこと三年、成すことはできませんでした。今、内に我が国を量るに、呉を傷つけるのに不足であり、外は諸侯に事えることができず、国を空位にして群臣を捨て、容貌を変え姓名を易え、ちりとりと箒を手に取り、牛馬を養い呉王に事えたいと願いました。私は腰と首が切り離され、手足がばらばらになり、四肢が散らばりならび、郷邑の笑いものになるとわかっていても、気持ちは定まっています。今大夫の教えを賜り、亡国を保存し、死人を起こし、私は天の恩賜を頼み、どうして敢えて令を待たないことがありましょうか」
子貢は言った
「呉王の人となりは、功名をむさぼりあえて利害を知りません」
越王は誠実に席を離れた。子貢は言った
「私が呉王を観ますに、しばしば戦いをして、士卒に恩なく、大臣は内に引退し、人を讒言することがますます多いです。子胥の人となりは誠意があり潔く、外に明るく時期を知っていたが、自らの死を以て君主の過ちを隠すことはできませんでした。直言するに君への忠義をもってし、正しい行いをするのに国のためにもってしましたが、その身は死しても聴かれませんでした。太宰嚭の人となりは智にして愚、強にして弱、たくみなうまい言葉でその身を入れ、よくいつわりをなしてその君に事え、その前を知りその後を知らず、君の過ちに順って自分を安んじ、これは国をそこない君をそこなう佞臣です」
越王は大いに喜んだ。子貢は越を去り、越王はこれに金百鎰と宝剣を一本、良馬二を与えたが、子貢は受けなかった。
呉にいたり、呉王に言った
「私が下吏の言を以て越王に告げましたところ、越王は大いに恐れて言いました『昔私は不幸にも若くして父親を亡くし、内に自らの度量をわきまえず、呉に罪を得ました。軍は敗れ身は辱められ、逃げ隠れて會稽山の上に立てこもり、国は荒れ果てうち捨てられ、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。大王の恩賜を頼み、俎とたかつきを奉り祭祀を修めることができましたことは、死んでも敢えて忘れることはありません。どうして敢えてはかりごとなどするでしょう』その心は大いに恐れ、まさに使者を来させて王に謝罪させようとしています」
子貢が館におること五日、越の使者が果たしてやってきて、言った
「東海の役臣句踐の使者臣種はあえて大王の下吏をうやまい、少しく左右の側近にお聞かせします『昔私は不幸にして若くして父親を亡くし、内に自らの度量をわきまえず、罪を上国に得て、軍は敗れ身は辱められ、會稽に逃げ隠れましたが、大王の恩賜を頼 み、祭祀を奉ずるを得ましたことは、死んでも忘れません。今ひそかに大王は大義を興し、強きを誅し弱きを救い、暴虐な斉を苦しめ、周室を安んじると聞き、故に賤臣である文種に前王が所蔵していた鎧二十そろい、屈盧の矛、歩光の剣を奉らせ、軍吏を祝賀します。もしまさに大義を興そうというのなら、我が国は小国ではありますが、どうか悉く四方の内の士卒三千人は下吏に従わせて下さい。どうか自らは堅固な鎧を着て鋭利な武器を手に取り、先に矢石を受けさせて下さい。君臣死しても怨むところはありません』」
呉王は大いに喜び、そこで子貢を召して言った
「越の使者が果たしてやってきて、士卒三千人を出して、その君はこれに従い、私とともに斉を伐ちたいと請うてきた。これを許してよいだろうか」
子貢は言った
「なりません。人の国を空にし、人の衆を悉く徴発し、その君を従えるのは、不仁です。貢物を受け、その軍隊を許可し、その君が従うのは辞退なさって下さい。それならよろしいでしょう」
呉王は許諾した。子貢は晋に去って定公に会って言った
「私は、思慮があらかじめ定まっていなければ急な事態に対応することができず、軍備があらかじめ備わっていなければ敵に勝つことはできないと聞いております。いま呉と斉はまさに戦おうとしています。戦って勝たなければ越がこれを乱すのは必定です。ともに戦って勝てば、必ずその兵を率いて晋に臨んでくるでしょう。君はこれどうなさますか」
定公は言った
「どうやってこれを待てばよいだろうか」
子貢は言った
「軍備を整え卒を待ち伏せさせてこれをお待ちください」
晋君はこれを許した。子貢が魯に帰ると、呉王は果たして九郡の兵を率いてまさに斉と戦おうとした。道は胥門より出て、そこで姑胥の台を過ぎると、にわかに昼間に姑胥の台で仮寝をし、夢を見た。目が覚めて起きるに及び、その心は静かに憂い嘆いていた。そこで太宰嚭に命じて告げて言った
「私は昼寝をして夢を見て、起きると心静かに憂い嘆いていた。どうかこれを占い、心配することないといえないだろうか。夢で章明宮に入り、二つの鬲があり穀物を蒸していたが火は炊かれておらず、二頭の黒犬が一頭は南に吠え一頭は北に吠え、二本のすきが吾が宮の垣に立っており、流水はさかんに流れ吾が宮を越え、後ろの部屋には鼓が鳴り響き狭く長く鍜工があり、前園には横にあおぎりが生えていた。お前は私のためにこれを占え」
太宰嚭は言った
「すばらしいです、王の軍を興して斉を伐つことは。私は聞いております、章とは徳の高いことです。明とは敵を破り名声が聞こえ、功があきらかなことです。二つのかなえが穀物を蒸しているのに火が炊かれていなかったのは、大王の聖なる徳気があまりあるということです、二頭の黒犬が一頭は南に吠え一頭は北に吠えていたのは、四夷がすでに服し諸侯が朝することです。二本の鋤が宮殿の垣に立っていたのは、農夫が実りをなし、田夫が耕すことです。水がさかんに流れ宮堂を越えるのは、隣国が貢献する財があまりあると言うことです。後房が狭く長く鼓が鳴り響き金細工があるということは、宮女が悦楽し、琴瑟が調和するということです。前園にあおぎりが横に生えていたのは、楽府の鼓の音です」
呉王は大いに喜んだが、その心は癒えず、王孫駱を召してこれに問うて言った
「私はにわかに昼の夢を見た、私のためにこれを述べよ」
王孫駱は言った
「私は道に賤しく浅はかであり、たいしたことはできません。今王のご覧になった夢を私は占うことができません。知人に東掖門の亭長で長城公の弟の公孫聖というものがおります。聖のひととなりは、若くして好んで遊び、長じては好んで学び、博覧強記、鬼神の情状を知っています。どうか王はこれに問うてください」
王はそこで王孫駱を往かせて公孫聖に請わせて言った
「呉王は姑胥の台で昼寝をし、にわかに夢を見て、目が覚めると憂い嘆いていた。あなたはこれを占い、急いで姑胥の台に行くように」
公孫聖は血に伏して泣き、しばらくしてから起き上がった。その妻は傍らより聖に言った
「あなたはなんと賤しいたちなのでしょう。主君に見えることを望み、にわかに急ぎ召されることができたのに、雨のように泣くとは」
公孫聖は天を仰ぎ嘆いて言った
「悲しいことだ、おまえはわかっていないのだ。今日は壬午で、時は南方に加わり、命は上天に属し、逃亡することはできない。ただ自ら哀れむだけでなはない。まことに呉王を傷むのだ」
妻は言った
「あなたは道を王に薦めてください、道があればまさに行われ、上は王を諌め、下は自身を慎み深くするべきです。今急に召されたと聞いて、憂い惑いて混乱するとは、賢人がよいとするべきところではありません」
公孫聖は言った
「愚かなことよ、女子の言うことだ。私は道を受けること十年、身を隠して害を避け、寿命をつなぎたいと思っていたが、不意ににわかに急に召され、人生の半ばにして自ら自分を捨てることになった、故にお前と離れるのを悲しむのだ」
遂に去って姑胥台に行った。呉王は言った
「私はまさに北方の斉・魯を伐とうとし、道中に胥門を出て、姑胥の台を過ぎると、にわかに昼の夢をみた。お前はこれを占い吉凶を述べよ」
公孫聖は言った
「私が言わなければ、身と名は全うできるでしょう。これを言えば、必ず王の前で百片に切り刻まれるでしょう。しかし忠臣はその体を顧みないものです」
そこで天を仰いで歎いて言った
「私は、船を好むものは必ず溺れ、戦を好むものは必ず亡びると聞いております。私は直言を好み、命を顧みません。どうか王はこれをわかってください。私は聞いております、章とは戦って勝たず、敗走して慌てふためくことです。明とは明るさから遠ざかり暗さに近づくということです。門に入り鼎で穀物を蒸しているのに火が炊かれていないのを見たのは、大王が火でものを煮て食べることができないということです。二頭の黒犬が南に吠え北に吠えていたのは、黒は陰るということ、北は隠れるということです。鋤が宮の垣に立っていたのは、越軍が呉国に入り宗廟を伐ち社稷を掘り起こすということです。流水が広々と流れ宮堂を越えていたのは、宮が空虚だということです。後ろの部屋で鼓が鳴り響き狭く長くなっていたのは、坐してため息をつくということです。前園にあおぎりが横に生えていたのは、あおぎりの中心が空虚で、器に用いることができず、ただ木偶を作り死人と共に葬ることです。どうか大王は軍をとどめて徳を修め、斉を伐たないで下さい、そうすれば災いを消し去ることができるでしょう。下吏の太宰嚭・王孫駱をつかわし、冠と頭巾を脱ぎ肩脱ぎして裸足になり、地に頭をつけて句踐に謝罪させれば、国は安泰となり、ご自身は死ななくてすむでしょう」
呉王はこれを聞き、面白くなさそうにして怒りを発し、そして言った
「私は天が生んだものであり、神が使わしたものである」
力士の石番をかえりみて、鉄槌でこれを撃ち殺させた。聖はそこで頭を仰向けて天に向かって言った
「ああ、天は私が無実の罪だということを知っていようか。忠義であったのに罪を得て、身は無罪なのに死して葬られる。私が思うに直言する者は、互いに寄り添って柱となるは及ばず、私の体を運び深山にいたれば、後世まで相連なって音声をなすであろう」
ここにおいて呉王は門人にこれを蒸丘に運ばせた。
「山犬や狼がお前の肉を食い、野火がお前の肉を焼き、東風がしばしば至ってお前の骸骨を飛び散らし、肉が糜爛すれば、どうやって声を響かせられるというのか」
太宰嚭は足早に進み出て言った
「大王のお喜びをお祝いいたします。災いはすでに消滅しました。ですから杯をあげて、戦争をすることができます」
呉王はそこで太宰嚭を右校司馬に、王孫駱を左校にし、さらに句踐の軍を従えて斉を伐った。伍子胥ははこれを聞き、諫めて言った
「私は、十万の兵が、千里を行軍すれば、人民の費用、国家の支出は、一日に数千金かかると聞いております。士民の死を思わずに一日の勝ちを争うのは、私が思うに国を危うくし身を滅ぼすこと甚だしい。かつ賊とともにいてその災いを知らず、外にまた怨恨を求め、他国に幸せを求めているのは、瘡を治して心臓や腹の病を捨ておくようなもので、発すればまさに死ぬでしょう。瘡は皮膚の病であり、患うには足りません。今斉は千里の外へだんだんと低くなっており、さらに楚・趙との境界を越えており、斉の病は瘡であるのみです。越の病は、心腹のものです。発しなくても傷つき、動けば死にます。どうか君王は越を定めた後に斉のことを図ってください。私の言は定まりました、あえて忠を尽くさないでしょうか。私はいま年老いて、耳目は聞こえず、狂って道理がわからない心で、国に益することができません。ひそかに『金匱』第八を観ますに、傷つくことになるでしょう」
呉王は言った
「どのように言っているのか」
子胥は言った
「今年の七月、辛亥の夜明けに、大王は事を始めます。辛は、歳星の位置であり、亥は、陰前の辰です。壬子に合するのは歳前の合であり、武力を行使するのに利があり、武を行えば必ず勝利します。しかし徳は斗と合し丑を撃ちます。丑は、辛の本です。大吉は白虎と辛に臨み、功曹は太常と亥に臨むところ、大吉は辛を得て九醜となり、また白虎と並び重なります。人がもしこれをもって事を始めれば、先に小さな勝利を得ても、後で必ず大敗します。天地はわざわいをなし、災禍は遠くないでしょう」
呉王は聴かず、ついに九月に太宰嚭に斉を伐たせた。軍が北郊に臨むと、呉王は嚭に言った
「行け、功が有った者を忘れることなく、罪有る者を赦すことなく、民を愛し士を養い、いたわること赤子のごとくせよ。智者と謀り、仁者と交友せよ」
太宰嚭は命を受け、遂に行った。呉王は大夫被離を召して問うて言った
「お前は常に子胥と心を同じくし志を合わせ、思いを併せて謀を一つにしている。私が軍隊を興して斉を伐つと、子胥はただ何と言ったか」
被離は言った
「子胥は前王に誠を尽くしたいと思い、自ら老いて狂い耳目は聞こえず、今の世で行うところを知らず、呉国に益することはないと言っています」
呉王は遂に斉を伐ち、斉は呉と艾陵のかたわらで戦った。斉軍は敗績した。呉王はすでに勝ち、そこで行人をつかわし斉と講和しようとして言った
「呉王は、斉に水没するおそれがあると聞き、軍を率いてやってきて見ると、斉は軍隊をがまの中に興しており、呉は安んじる方法がわからず、陣を設営して備えたのであり、斉軍を頗る傷つけようと思っているのではない。どうか和親を結んで去りたい」
斉王は言った
「私はこの北辺にいて、境を出ようとするつもりはありません。今、呉は江淮を渡り千里を越えて我々の土地にやってきて、我々の民を殺しましたが、幸いに上帝の哀れみがあり、国はなお亡びるには至っていません。今、王が譲るのに和親を以てするならば、あえて命のごとくしないことがありましょうか」
呉と斉はついに盟して去った。呉王は帰り、そこで子胥を責めて言った
「私の前王は徳名を行い、上帝に達した。功をほどこし力を用い、お前のために西方に国境をつらね楚に敵対した。今前王はたとえるなら農夫が四方のよもぎを刈るようなもので、名を荊蛮に立てたのは、これはまた大夫の力である。いま大夫は老いぼれて自ら満足せず、変を生じ偽りをおこし、怨み憎んで出でて、出でればわが兵士民衆をとがめ、わが法度を乱し、災いをもってわが軍を挫いた。天が哀れみを降したおかげで、斉軍は降服を受け入れた。私は敢えてその功績を自らに帰するだろうか、それは前王の残した徳であり、神霊の与える幸いである。お前は呉に対してなんの力があるのか」
伍子胥は腕まくりをして大いに怒り、剣をほどいて答えて言った
「むかし、わが前王に服従しない臣がいれば、疑わしきをだだし計って、大難に陥りませんでした。いま王は患うところを放棄し、外にこの子供の謀を憂えないの は、覇王の事業ではありません。天はいまだ呉を見棄ててはいませんが、必ずその小喜に向かわせ、その大憂を近づけています。王がもし目を覚ませば、呉国は世々続くでしょう。もし目を覚まさなければ、呉国の命運がこのように短くなるでしょう。私は狂疾を病んだと称して王が擒となるのを見るに忍びません。私がもし先に死んだら、私の目を門に懸け、呉国が亡びるのを見られるようにしてください」
呉王は聴かず、殿上に坐していると、ひとり呉王だけが四人が庭に向かって互いに背を向けて寄りかかっているのを見た。王が怪しんでこれを見ていると、群臣は問うて言った
「王は何を見ているのですか」
王は言った
「私は四人が互いに背中を向けて寄りかかっており、人の言葉を聞くと四つに分かれて走ったのを見た」
子胥は言った
「王の言葉のごとくであれば、まさに人民を失おうとしているのです」
呉王は怒って言った
「お前の言葉は不祥だ」
子胥は言った
「ただ不祥だというのではなく、王もまた亡びるでしょう」
のち五日して、呉王はまた殿上に座り、二人の人が相対し、北向きの人が南向きの人を殺すのを見た。王は群臣に問うた
「見たか」
〔群臣は〕言った
「何も見えません」
子胥は言った
「王は何を見たのですか」
王は言った
「先日四人を見たが、今日もまた二人が相対して、北向きの人が南向きの人を殺すのを見た」
子胥は言った
「私は聞いております、四人が走るのは叛くということです。北向きの人が南向きの人を殺すのは、臣下が君を殺すということです」
王は答えなかった。
呉王は文台の上に酒席を設け、群臣はことごとくおり、太宰嚭は政を執り行い、越王が侍り坐し、子胥はここにいた。王は言った
「私はこう聞いている、君は有功の臣を賤しまず、父は有力の子を憎まず、と。今太宰嚭は私のために功があったのでこれに最上の爵位を与えよう。越王は情け深く真心があり、私に仕えている。私はふたたびその国土を増し、討伐を助けた功をつぐなおう。皆はどう思うか」
群臣は祝賀して言った
「大王は自ら至徳を行い、公平無私な心で士を養い、群臣はみな仕え、危難を見れば争って死ぬでしょう。名声は顕著となり、威は四海を奮わせます。功が有るものは賞を受け、滅びた国もまた存在します。覇者の功績、王の事業は、ことごとく群臣に及んでいます」
ここにおいて子胥は地にうずくまって涙を流して言った
「ああ、哀しいことだ、このような沈黙に遭うとは。忠臣は口をおおい、讒言する者が側にいる。政は敗れ道は壞れ、疑いとへつらいは極まりなく、邪説や偽の言葉は、曲がっているものをまっすぐであるとし、讒言する者をゆるし忠臣を攻め、まさに呉国は滅びようとしている。宗廟はすでに壊れ、社稷は祭られず、城郭は荒れ果て、宮殿には茨が生じている」
呉王は大いに怒って言った
「老臣は多く偽りをなし、呉の災いである。そして権力を専らにし威をほしいままにし、ひとり吾が国を傾けようとしている。私は前王がお前を信任していた故に、いまだ法を行うに忍びない。今退いて自らよく考え、呉を妨げる謀をしないように」
子胥は言った
「今私が不忠不信であったら、前王の臣たりえませんでした。私はあえて身をおしまず、吾が国が滅びるのを恐れます。昔、桀は関龍逢を殺し、紂は王子比干を殺しました。今、大王が私を誅殺するのは、桀紂と三つに立ち並ぶことです。王はどうか励んでください、私はおいとましましょう」
子胥は帰って、被離に言った
「私は鄭・楚の境界に弓を引き矢を射て、江淮を渡って自らここに至った。前王は私の計を聴き従い、楚を破り父兄が虐げられた仇を取り、前王の恩に報いたいと思ってここに至ったのである。私は自らを惜しんではいないが、災いがまさにあなたに及ぼうとしている」
被離は言った
「いまだ諫めて聴かれないのに、自殺するのはなんの益があるのか。逃げるのはどうですか」
子胥は言った
「逃げて私はどこへ行くというのか」
呉王は子胥が怨んでいるのを聞いて、人を使わして属鏤の剣を賜らせた。子胥は剣を受け取ると裸足になり裳をかかげて、堂から中庭へ下りていき、天を仰いで怒りを叫んで言った
「私ははじめお前の父の忠臣となり呉に立たせ、謀を設けて楚を破り、南方の強力な越を征服し、威は諸侯に及び、覇王の功があった。今、お前は私の言を用いず、かえって私に剣を賜った。私が今日死ねば、呉の宮殿は廃墟となり、庭には蔓草が生じ、越人がお前の社稷を掘り起こすだろう。どうして私を忘られようか。昔、前王はお前を立てようとは思わなかったが、私は死をかけてこれを争い、ついにお前の願いをかなえ、公子は多く私を怨んだ。私はひとり呉に功があったのに、今私が国を定めた恩を忘れて、かえって私に死を賜うとは、どうしてまちがいでないことがあろうか」
呉王はこれを聞き、大いに怒って言った
「お前は不忠不信で、私のために斉に使いしたとき、お前の子を斉の鮑氏に託した。私を疎んじる心があるのだ」
急ぎ自裁せしめた。
「私はお前が何も見えないようにしてやろう」
子胥は剣を手に取り、天を仰いで嘆いて言った
「私が死んでから後、世は必ず私を忠臣となすであろう。上は配夏・殷の世に並び、また龍逢・比干と友となれるであろう」
ついに剣に伏して死んだ。呉王は子胥の屍を取り、革袋の容器に入れ、これを江の中に投じ、言った
「胥よ、お前がひとたび死んで後、何を知ることができようか」
そしてその頭を断ち、高楼の上に置いて、これに言った
「日月がお前の肉を焼き、つむじ風がお前の目に吹き付け、炎の光がお前の骨を焼き、魚とすっぽんがお前の肉を食らい、お前の骨が変じて灰となれば、何を見ることができようか」
そこでその体を棄てて江中に投じた。子胥はそこで流れにしたがって波を立て、潮流によって行き来し、激しく揺るがして岸を崩した。ここにおいて、呉王は被離に言った
「お前は子胥と私の欠点を論じた」
そこで被離の髪をそり落としてこれを刑した。王孫駱はこれを聞いて参朝しなかった。王は召して問うて言った
「お前はどうして私を非として参朝しないのか」
駱は言った
「私は恐れているだけです」
〔呉王は〕言った
「お前は私が子胥を殺したのを重いとするのか」
駱は言った
「大王の気は高く、子胥の位は下であり、王はこれを誅しました。私の命がどうして子胥と異なることがありましょうか。私はこのために恐れているのです」
王は言った
「太宰嚭の言うことを聴いて子胥を殺したのではない。子胥は私に対して図ったのだ」
駱は言った
「私は、人に君たる物には必ず敢えて諫める臣がおり、上位にある者にはかならず敢えて言う友人がいると聞いております。子胥は先王の老臣です。不忠不信であれば、 前王の臣たりえましょうか」
王は心の中で悲しんで子胥を殺したことを悔い
「太宰嚭が子胥を讒言したのではないだろうか」
そしてこれを殺そうとしたが、駱は言った
「なりません。王がもし嚭を殺せば、これは二人の子胥となります」
そこで誅さなかった。
十四年、夫差はすでに申胥を殺し、連年穀物が実らず、民は多く怨んだ。呉王はまた斉を伐ち、商・魯の間に闌溝を掘り、北は蘄に属し、西は済に属した。魯・晋と黄池のほとりで合して攻めようとし、群臣がまた諫めるのを恐れて、国中に命令して言った
「私は斉を伐つ、あえて諫める者は死刑にする」
太子友は子胥が忠義なのに用いられず、太宰嚭がへつらって政を専らにしているのを知り、ただしてこれに言おうとしたが、とがめに遭うのを恐れ、そこで遠回しに諫めて王を励ませようとした。清い朝、弾丸を懐きはじき弓を持ち、後園より服と履き物を濡らして来た。呉王は怪しんでこれに問うた
「お前はどうして服と履き物を濡らし、体はこのようなのか」
太子友は言った
「後園に行って遊び、秋蝉の声を聞き、行ってこれを見ますと、秋蝉は高い木に登り、清露を飲もうとしており、風にしたがって振り乱れ、哀れな鳴き声を長く上げ、自ら安全と思っており、蜥蜴が枝を越えて枝に沿って腰を引きをけづめをそばだててその形態を傾けているのを知りませんでした。とかげは集中して進み、利があることだけを考えていましたが、雀が緑林に満ち枝の影を徘徊し、歩幅を短くし軽々としてこっそりと進み、とかげをついばもうとしているのを知りませんでした。雀はただ蜥蜴のおいしさをうかがうのを知っているだけで、私が弾を差し挟んで高く投げつけ、飛ぶ玉をさまよわせ、その背に集まるのを知りませんでした。今、私は心を空にして気持ちがただ雀にあり、穴が側にあるのを知らず、穴の中は暗くてはっきりせず、深い井戸に落ちてしまったのです。故に体と履き物が濡れているのです。ほとんど王に笑われるところです」
王は言った
「天下の愚でこれに過ぎる者はない。ただ前の利を貪り後の患いを見ないとは」
太子は言った
「天下の愚でさらに甚だしいものがございます。魯は周公の子孫を受け継ぎ、公子の教えがあり、仁を守り徳を懐き、隣國を欲することはありませんでした。しかし斉は兵を挙げてこれを伐ち、民の命をおしまず、ただ獲得するだけでした。斉はただ挙兵し魯を伐ちましたが、呉が国内の士を集め、府庫の財をつくし、軍を野にさらして千里を行軍し、これを攻めるのを知りませんでした。呉はただ国境を越えて我々に背く国を征伐することを知るだけで、越王が死士を選んで三江の口を出て五湖の中に入り、わが呉国を屠りわが呉の宮殿を滅ぼすのを知りませんでした。天下の危うきはこれに過ぎるものはありません」
呉王は太子の諫めを聞かず、ついに北方の斉を伐った。越王は呉王が斉を伐ったと聞き、范蠡・洩庸に軍を率いて海に従い江に通じ、呉の退路を断たせた。太子友を始熊夷に破り、江を通り転じて呉を破り、ついに呉国に入り姑胥台を焼き、大舟を取った。呉は斉軍を艾陵のほとりで破り、軍を還して晋に臨み、定公と長を争い、いまだ合意しないうちに、国境の早馬がきた。
呉王夫差は大いに恐れ、諸侯を合して謀って言った
「我々の道は遠い。會盟しないのと前進するのとどちらが利があるだろうか。
王孫駱は言った
「前進するにこしたことはありません。そうすれば諸侯の權力を握り、その志を求めることができるでしょう。どうか王は士に告げて、その命令を明らかにし、これを励ますのに好意をもってし、これを辱めるのに従わないことをもってし、おのおのその死力を尽くすようにさせてください」
夫差は日暮れに馬に飼い葉を与え士に食べさせた。武器を取り鎧を身につけ、馬をおさえて牧を銜え、火を竈から出し、闇中を行軍した。呉軍はみな模様のついた犀皮の長盾、扁諸の剣を持ち、方陣を作って行軍した。中軍は皆白い衣裳に白い旄、白い鎧に白羽の矢で、これを見ると茅のようであった。王はみずから鉞を握り旗を戴き陣をひきいて立った。左軍はみな赤い衣裳に赤い旄、丹の鎧に朱羽の矢で、これを見ると火のようであった。右軍はみな黒い衣裳に黒い車、黒い鎧に烏の羽の矢で、 を見ると墨のようであった。鎧を身につけた兵士が三万六千、鶏が鳴くころに定まり、すでに陣をつくり、晋軍からの距離は一里であった。空がまだ明けないうちに、王はみずから金鼓を鳴らし、三軍はかまびすしく叫んで兵を整え、その声は天地を動かした。晋は大いに驚き出でず、反復して防いで塁を堅くした。そこで童褐に軍に請わせて言った
「両軍は戦いを止めてよしみを交えるのに正午を期限とした。いま大国は順序を越えて、我々の軍塁に至りました。敢えてその理由をうかがいたい」
呉王はみずから答えて言った
「天子の命があり、周室は衰えて、諸侯に貢献を約するも、王府に入るものはなく、上帝鬼神は告祭することができず、姫姓の助けはなく、おそれて使者をつかわして来たり告げさせ、その冠と車蓋は道に絶えることがない。始め、周は晋に頼って、夷狄を軽んじていた。晋がいまこのように反したのを見て、我々はそこで匍匐して晋君の下へやってくると、君は長弟の序列を肯んぜず、いたずらに強さを争っている。私は進んで敢えて去らず、君が盟の長に命じなければ、諸侯の笑いものとなろう。私が君に事えるのも今日のことであり、君に事えることができないのも今日のことである。あえて使者の往来を煩わせ、私はみずから命を籬の外で聞こう」
童褐がまさに帰ろうとすると、呉王は左足を踏んで褐と決別した。報告して、諸侯・大夫と晋定公の前に列座した。すでに晋君に命を伝えたので、そこで趙鞅に告げて言った
「私が呉王の顔色を見ますと、大きな心配事があるようでした。小さな心配ならば、寵愛している妾や嫡子が死んだのであり、そうでなければ呉国に災難があったのでしょう。大きな心配事なら、越人が侵入したのに帰れないということでしょう。その意は憂い傷んでおり、進むも退くも災難に対して軽く、ともに戦うことはできません。主君はこれに前の決め事を許し、長幼の順序を争って国を危うくなさらないべきです。しかしいたずらにこれを許すべきではありません。必ず呉王がその信を守ることを明らかにしてください」
趙鞅は許諾した。宮中に入って定公に謁見して言った
「周における姫姓は、呉は先輩長老であり、盟の長とすべきであり、そうして国礼を尽くして下さい」
定公は許諾し、童褐に命じて復命させた。ここにおいて呉王は晋の義を恥かしく思い、そこで帳の中に退いて会盟した。二国の君臣が並び、呉王は公と称して前になり、晋は侯としてこれに次いだ。群臣は盟を終えた。
呉王はすでに晋にたいし長となって帰ったが、いまだ黄池を越えていなかった。越は呉王が久しく留まっていまだ帰らないのを聞き、兵士をことごとく発しまさに章山を越え三江をわたりこれを伐とうとした。呉はまた斉・宋が害をなすのを恐れて、王孫駱に命じ功労を周に告げさせて言った
「昔、楚は天子への貢物をささげず、兄弟の国を避けて遠ざけました。我々の先君闔閭はその悪行を忍びず、剣を帯びつるぎを抜き、楚の昭王と互いに中原に争いました。天はその善をほどこし、楚の軍は敗績しました。いま斉は楚にかんがみず、王命をうやまわず、兄弟の国を遠ざけました。夫差はその悪行を忍びず、鎧を着て剣を帯び、ただちに艾陵に至ると、天は呉に幸いし、斉軍は鋒を還して退きました。夫差はどうしてみずから功多しとするでしょうか、これは文王・武王の徳が助けたのです。呉に帰っていまだ收穫が熟さないうちに、ついに江に沿って淮をさかのぼり、溝を開鑿し川を深くし、商・魯の間に出て、帰って天子の執事に告げます」
周王は答えて言った
「伯父はお前に来させた。盟国は、私一人が依るものである。伯父がもし私一人を助けるのならば、かねて永らくの福を受け、周室は何を憂うことがあろうか」
そこで弓弩と王の胙を賜い、おくりなを加えた。呉王は黄池より帰って、民を休めて軍を解散した。
二十年、越王は軍隊を興して呉を伐った。呉は越と檇李に戦い、呉軍は大いに敗れ、軍は散じて死者は数えることができないほどだった。越は追って呉を破った。呉王は行き詰まって急ぎ王孫駱に稽首して和平を請わせたが、その様子は越が呉に使者に來たようであった。越王は答えて言った
「むかし、天が越を呉に賜ったのに、呉は受けなかった。今、天が呉を越に賜わったのだ、逆らうことができようか。私は句章・甬東の地を献じ、私は君と二人の君主とさせてほしい」
呉王は言った
「我々は周室にあって、周は前王を一杯の飯の分だけ礼遇しました。もし越王が周室の義を忘れず、我々を付属の国とさせるならば、それはまた私の願いでもあります。行人は列国の義を成そうと請います、ただ君王はこれをお考え下さい」
大夫種は言った
「呉は無道をなしましたが、今幸いにこれを擒としました。どうか王は命を断ってください」
越王は言った
「私はまさにお前の社稷を壊し、宗廟を壊そう」
呉王は黙った。和平を請い、七たび来て帰ったが、越王はゆるさなかった。
二十三年十月、越王はまた呉を伐った。呉国は困窮して戦わず、士卒は分散して城門は守られず、ついに呉を屠った。呉王は群臣を率いて逃げ去り、日夜走ること三日三晩、秦餘杭山に達した。胸中には憂いがあり、見るものはぼんやりとし、歩みは狂人のようで、腹は減り口は渇き、顧みて生稲を得てこれを食べ、地に伏して水を飲んだ。左右の者を顧みて言った
「これは何という名か」
答えて言った
「これは生稲でございます」
呉王は言った
「これは公孫聖が言ったところの、火でものを煮て食べることができず、敗走してあわてふためくということだ」
王孫駱は言った
「十分に食べたら行きましょう、先には胥山があり、西の坂の中は隠れとどまることができます」
王は行き、しばらくして、生瓜のすでに熟しているのを得たので、取ってこれを食べた。左右の者に言った
「どうして冬に瓜がなっているのか、道に近い人が食べないのはどうしてか」
左右の者は言った
「糞種の物といいまして、人は食べません」
呉王は言った
「どうして糞種というのか」
左右の者は言った
「盛夏の時、人が生瓜を食べ、道ばたで大便をすると、実がまた秋霜に生じますが、これを嫌い、食べないのです」
呉王は嘆いていった
「子胥の言うところの朝食である」
太宰嚭に言った
「私は公孫聖を頃して胥山の頂に投じた。私は天下の恥となることを恐れ、私の足は進むことができず、心をむけることができない。
太宰嚭は言った
「死と生、失敗と成功は、もとより避けられましょうか」
王は言った
「しかしかつて知るところはなかったであろうか。お前が試しに前方にこれを呼んでみよ。聖がいればまさにすぐに応答があるはずだ」
呉王は秦餘杭山に止まり呼んで言った
「公孫聖」
三度呼ぶと、聖は山中より応えて言った枹
「公孫聖」
三度呼んで三度応えた。呉王は天を仰いで叫んで言った
「私はどうして帰ることができようか。私は代々国を得れば聖に事えよう」
しばらくして越軍が至り、三度呉を圍んだ。范蠡は中軍にいて、左手で鼓をひっさげ、右手でばちをとり、これを打ち鳴らした。呉王はその矢に書して種・蠡の軍に射て、辞して言った
「私はすばしこい兎が死ぬと良犬は煮られると聞いております。敵国がもし滅べば、謀臣は必ず亡びます。今呉は病んでおります。大夫はどう考慮されますか」
大夫種と相国蠡は急いで攻めた。大夫種は矢に書してこれを射て言った
「天は青々として、あるいは存しあるいは亡ぶ。越君勾践の下臣種はあえてこれを申し上げる;昔、天が越を呉に賜ったのに、呉は受けようとしなかった、これは天の反するところです。勾践は天を敬って功があり、すでに国に帰ることができました。今、天は越の功に報い〔呉を越に賜ったので〕、敬してこれを受け、敢えて〔天の恩惠を〕忘れません。かつ呉には大いなる過ちが六つあり、それで国が滅びたのです。王はそれをご存じですか。忠臣伍子胥が真心を込めて諫めたのに、その身は死した、これが大いなる過ちの一つ目です。公孫聖が直言を説いたのに功がなかった、これが大いなる過ちの二つ目です。太宰嚭は愚かで口がうまく、言葉は軽薄で他人の悪口を言ってへつらい、出まかせの言葉が口をついて出たのに、聴いてこれを用いた、これが大いなる過ちの三つ目です。斉晋は反逆の行いがなく、分を越えたおごりの過ちがなかったが、呉は二国を伐ち、君臣を辱め、社稷を破壞した、これが大いなる過ちの四つ目です。かつ、呉と越は音を同じくし律を共にし、上は星宿を合し、下は一つの理を共にするのに、呉は侵伐した、これが大いなる過ちの五つ目です。昔越王は自ら呉の前王を傷つけ、その罪はこれより大きいということはなく、幸いにこれを伐ったが、天命に従わずその仇を放っておき、後に大患となった、これが大いなる過ちの六つ目です。越王はつつしんで上は青天をおさめ、あえて命のごとくしないことがありましょうか」
大夫種は越王に言った
「仲冬の気は定まり、天はまさに殺戮しようとしています。天の殺意を行わなければ、かえってその災いを受けます」
越王は拝して言った
「わかった。今、呉王のことを図るに、どうしたらよいだろうか」
大夫種は言った
「君は五勝の衣を着て、歩先の剣を帯び、屈盧の矛を持ち、目をいからし声を大にして、これを捕らえてください」
越王は言った
「わかった」
そこで大夫種の言うとおり呉王に辞して言った。
「まことに今日に命を聞け」
言ってしばらくしても呉王は自殺しなかった。越王はまた使者をやって言った
「どうして王が恥を忍んで厚顔無恥なのか。世に万世の君なく、生死は同じである。今あなたはなお栄誉を残しているのに、どうして必ずわが兵士に王に刃を向けさせるのか。呉王はなお自殺することを肯んぜなかった。句踐は文種と范蠡に言った
「二人はどうしてこれを誅殺しないのか」
文種と范蠡は言った
「私たちは、人臣の位ですので、あえて人主に誅殺を加えません。どうか主君は急ぎこれに命じて下さい。天誅はまさに行われるべきであり、久しく留めるべきではありません」
越王はまた目をいからせ、怒って言った
「死は、人が憎むところであるが、憎しみは天に罪がなく、人に負わない。今、君は六つの過ちの罪を抱えているのに、恥を知らず生きることを求めるのは、どうして卑しくないといえようか」
呉王は深くため息をつき、四方を顧みて言った
「わかった」
そこで剣を引き抜いてこれに伏して死んだ。越王は太宰嚭に言った
「お前の臣としてのありようは、不忠で信が無く、国を亡ぼし君を滅ぼした」
そこで嚭を妻子と共に誅した。呉王は剣に伏して死のうとするにあたり、左右を顧みて言った
「私は生きていてすでに恥をさらし、死んでもまた恥をさらす。死者に知らせるならば、私は前君に地下で恥じ、忠臣伍子胥及び公孫聖を見るに忍びない。知らせることがなければ、生者に恥じる。死んだら必ず組みひもを連ねて私の目を覆え。その蔽わないことを恐れるので、どうかまた縫い取りしたあやぎぬ三幅を重ねて光明を掩い、生きているときは私を明るくせず、死んだら私の姿を見ることないようにしてほしい。私はどうするべきか」
越王はそこで呉王を礼をもって秦餘杭山の卑猶に葬った。越王は戦争の功があった軍士に。人ごとに一握りの土を累ねてこれを葬らせた。太宰嚭もまた卑猶の傍らに葬った。
今後の予定、サイト更新など
今後のイベント參加について。
2013年12月 冬コミ 申し込み済み
2014年2月 COMITIA107 申し込み予定
どうぞよろしくお願いします。
サイト更新しています。
http://haou.org/spring_and_autumn/1.html
春秋時代の中国についての解説漫画を描きました。
呉越春秋越王無余外伝第六
越の前君無余は、夏禹の末裔の封君である。禹の父鯀は、帝顓頊のあととりである。鯀は有莘氏の娘を娶り、名を女嬉といった。壮年になっても未だ子を産まなかった。砥山に遊んではとむぎを得てこれを吞むと、人が交わったような気持ちになり、そこで妊娠し、脇腹を割いて高密を生んだ。西羌に家をかまえ、その地は石紐といった。石紐は蜀の西川である。帝堯の時、洪水がみなぎり、天下は水につかり、九州はふさがり、四瀆は塞ぎ閉じた。帝はそこで中国の安らかでないことを憂い、人民の災いを被ることをいたんだ。そこで四嶽に命じ、そこで賢良を挙げ、まさに治水を任せようとしたが、中国から遠方に至るまで、推薦する人がなく、帝は任ずるところがなかった。四嶽はそこで鯀を挙げ、これを堯に推薦した。帝は言った
「鯀は命にそむき、一族をそこなった。不可である」
四嶽は言った
「群臣を比較しますに、鯀に及ぶ者はいません」
堯は採用して治水させたが、命を受けて九年、成果は上がらなかった。帝は怒って言った
「私は鯀を用いることができないと知った」
そこであらためて求めて舜を得て、天子の政を摂行させた。巡狩して鯀の治水が形をなしていないことを見て、そこで鯀を羽山に殺し、鯀は水に投じ、化して黄熊となり、よって羽淵の神となった。舜は四嶽と鯀の子高密(禹)を挙げた、四嶽は禹に言った
「舜は、【鯀が】治水に功がなかったので、なんじを挙げて父の手柄をつがせるのである」
禹は言った
「しかり、小子が敢えてことごとく功績を調べて天意に基づくであろうか、ただ委ねるだけである」
禹は父の功が成らなかったのを傷み、江を巡り、河をさかのぼり、済水をきわめ、淮水を明らかにした。身をつとめて心をいためて行うこと七年、音楽が聞こえても聴かず、門を過ぎっても入らず、冠はひっかけて顧みず、靴が脱げても履かなかった。成果は未だ上がらず、愁えてじっくりと考えた。そこで黄帝の中経暦を案じると、思うに聖人の記したところに曰く『九山の東南の天柱にあり、号は宛委といい、赤帝が門にいる。その嶺の頂は、模様のついた玉をいただき、盤石でおおわれ、金簡に書くのに、青玉を字とし、編綴するのに白銀をもってし、すべてその文に玉の浮き彫りがほどこしてあった』
禹はそこで東方を巡り、衡山の峰に登り、白馬の血をささげて祭ったが、幸いに求むるところはなかった。禹はそこで山に登り天を仰いで嘯き、そこで夢に赤い縫い取りのある服を着た男子を見た。自ら玄夷蒼水の使者と称し、帝が文明(禹)をここに使いさせたと聞き、故に来たりてこれを待っていた。
「まだその時ではないので、まさに期日を告げよう、悲しんでうめくことのないように」
故に覆釜之山に調子を合わせて歌い、東を向いて禹を顧みて言った
「我が山の神書を得んと欲する者は、黄帝の嶺の下で三月斎戒し、庚子に山に登り石を開ければ、金簡の書はある」
禹は退いて三月の間斎戒し、庚子に宛委山に登り、金簡の書をみつけた。金簡の玉字を調べ、通水の理を得た。また嶺に戻り、四種の乗り物に乗って川を行き、霍山から五嶽を巡りとどまった。詩経にいう『まことにかの南山は、禹がこれをおさめた』
ついに長江・黄河・淮水・済水の四つの大河を巡行した。益、夔とともに謀り、行って名山大沢に至り、その神を召してこれに山川の筋道、金や玉があるところ、鳥獣昆虫の類いおよび八方の民俗、異国異域の土地や道のりを問うた。益に箇条書きにしてこれを記させ、故にこれを名付けて山海経といった。禹は三十にして娶らず、塗山に行き至り、時が遅くなり、制度を失するのを恐れ、そこで辞して言った
「私は妻を娶ろう、必ずしるしがあるだろう」
すると白い九尾の狐で禹のところに至ったものがいた。禹は言った「白は、私の服である。その九尾は、王のしるしである。塗山の歌に言う、『配偶者を求めてひとりで行く白狐、九尾は厚くゆたかである。我が家は喜び、来客は王となる。家を成し室を成し、私はかの繁栄に至る。天と人の出会いがここにあれば行う』明らかである」
禹はそこで塗山で娶り、これを女嬌といった。辛、壬、癸、甲の四日間娶り、禹は行った。十月、女嬌は子の啓を生んだ。啓は生まれて父に会えず、日夜呱呱と泣いた。禹は行き、大章に東西を歩かせ、豎亥に南北を測らせ、八極の広きに達し、天地の数をめぐらせた。禹は江を渡り、南方の水理を見ると、黄龍が舟を負い、舟中の人が恐れおどろいたので、禹はそこでわっと笑い出して言った
「私は命を天に受け、力を尽くして万民をねぎらっている。生は天賦であり、死は天命である。お前はどうしてそうするのか」
顔色は変わらず、舟の人に言った
「これは天が私が用いるとしたものである」
龍は尾をひいて舟を捨てて去った。南方へ向かい蒼梧に至って計測していると、縛られた人に会い、禹はその背を撫でて泣いた。益は言った
「この人は法を犯したので、当然このようになるべきです。これを嘆くのはどうしてですか」
禹は言った
「天下に道があれば、民は罪を被らない。天が無道であれば、罪は善人に及ぶ。私は、ひとりの男子が耕さなければ、飢える者が出る、ひとりの女子が桑を採らなければ、寒くなる者が出ると聞いている。私は帝のために水土を統治し、民を守り居を安んじ、その基礎を得させている。今、法をこうむることがこのようであるのは、これは私の徳が薄く、民を教化することができない証拠である。ゆえにこれを嘆いて悲しんでいるのだ」
ここにおいて天下を巡り行き、東は人が行ったところのない遠方に至り、西は積山に及び、南は赤岸を越え、北は寒谷を過ぎた。崑崙を行き来し、玄扈を視察し、地理を筋道立て、金石を名づけた。流砂を西の辺境に除き、弱水を北漢に流した。青泉・赤淵は分かれて洞穴に入った。江を開通して東に至り、碣石に至った。尭は言った
「しかり、もとよりこれを願っていたのだ」
そこで禹を号して伯禹と言い、官を司空と言い、姓姒氏を賜り、州伯を統べ治め、十二部を巡回させた。尭が崩じ、禹は三年の喪に服し、喪に服することが父母に対するようだった。昼夜泣き、呼吸は声にならなかった。禹は位を舜に譲り、舜は大禹を推薦し、官を司徒と改め、内は虞舜の位を輔け、外は九伯として行った。舜が崩じ、位を譲るのに禹を命じた。禹は三年喪に服し、姿はやせ衰え、顔つきは黒くなり、位を商均に譲り、陽山の南、陰阿の北に退去した。万民は商均につかず、追って禹のところに就き、その有樣はおどろいた鳥が天に上り、おどろいた魚が淵にもぐるようなもので、昼に歌い夜に吟じ、高所に登って大声で叫んで言った
「禹が我々を見棄てたら、誰を戴けばいいのか」
禹は三年の服喪を終え、民を哀れみ、やむを得ず、天子の位に就いた。三年で功績を考査し、五年で政治は定まり、天下を巡り行き、大越に帰還した。茅山に登って四方の群臣を朝し、中州の諸侯に見せるに、防風が後れて至ると、斬って衆に示し、天下が悉く禹に属することをしめしたのである。そこで大いに集めて治国の道を計った。内に釜山の州が鎮まった功を美とし、外に聖徳を行って天の心に応じ、ついに茅山の名を改めて會稽の山と言った。そこで国政を伝え、万民を休養し、国を号して夏といった。後に功のある者を封じ、徳のある者に爵を与え、悪行が些細であれば誅さず、功績が微少であれば賞を与えず、天下が徳を仰ぎ慕うことは児が母を思い、子が父に帰するようであった。しかし越に留り群臣が從わないのを恐れ、言った
「私は、その実を食べる者はその枝を傷つけず、その水を飲む者は、その流れを濁さないと聞いている。私は覆釜の書を得て、天下の災害を除き、民を郷里に帰することができた。その徳が明らかなのはかくのごときである、どうして忘れることができようか」
そこで言を聞き入れて諫言を聴き、民を安んじ住居を治めた。山をつぶして木を切り、邑を作って描いてしるしを作り、横木で門を作った。秤を調べ、斗升を均一にし、田地を作って民に示し、法度をなした。鳳凰が樹に棲み、鸞鳥が傍らで巣を作り、麒麟が庭を歩き、百鳥が沢を耕作した。ついにすでに老齢となり老いようとし、嘆いて言った
「私は晩年にいたり、寿命はまさに尽きようとし、ここにおわる」
群臣に命じて言った
「私の死んだあと、私を會稽の山に葬り、葦の槨に桐の棺、墓穴を穿つこと七尺、下は泉に浸かることなく、墳墓の高さは三尺、土の階は三段階にせよ。これを葬ったのちについて、言った「一畝の広さを改めることがないように、思うにここにいるものの安楽は、これを作る者の苦難である」
禹が崩じて後、多くの瑞祥はみな去った。天は禹の徳を美としてその功を労った。百鳥にめぐって民田を作らせ、その大小には差があり、進退するに行列を作り、多くなったり少なくなったりし、往来にはきまりがあった。禹が崩じて、位を伝えて益に與えた。益は喪に服すること三年、禹を思って口にしないことはなかった。喪が終わり、益は禹の子啓を箕山の南に避け、諸侯は益を去って啓に朝し、言った
「わが君は帝禹の子です」
啓はついに天子の位に即き、夏で国を治めた。禹貢の美徳にしたがい、ことごとく九州の土地に五穀を播き、何年も絶えなかった。啓は毎年春秋に使者を使わして禹を越に祭らせ、宗廟を南山の上に建てた。禹以下六世で帝少康が出た。少康は禹の祭祀が途絶えるのを恐れ、そこで庶子を越に封じ、号して無余と言った。余がはじめて封を受けたとき、人民は山に住んでおり、鳥田の利があるとはいっても、租税はやっと宗廟を祭る費用をに足りるぐらいだった。そこでまた丘陵や平地に沿って耕種し、あるいは禽鹿を追って食に当てた。無余は質朴で、宮室の装飾を設けず、民と共に居り、春秋に禹の墓を会稽に祭った。無余から世代を伝えること十余代、末裔の君主は衰え弱り、自立することができず、転じて人民といっしょに庶民となり、禹の祭祀は断絶した。十数年たって、ある人が生まれて言葉を語り、その言葉を鳥禽呼といい、鳥が飲み食い囀るようであった。天を指して禹の墓に向かって言った
「私は無余君の末裔です。私はまさに前君の祭祀を修め、また禹の墓の祭祀を復活し、民のために天に福を請い、鬼神の道に通じようとしています」
人々は喜び、皆禹の祭祀を奉るのを助け、四時に貢ぎものを送り届け、よってともに封じて立て、越君の後を継承した。夏王の祭祀を復活し、鳥田の瑞祥を安んじやわらげ、人民のために命を請うた。これよりのち、しだいに君臣の義がととのい、号して無壬と言った。壬は無䁺を生み、䁺は専心して国を守り、上天の命を失わなかった。無䁺が卒し、或いは夫譚といった。夫譚は元常を生み、常が立ったのは、呉王寿夢・諸樊・闔閭の時であった。越が覇業を興したのは元常からである。
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