越絶書

越絶請糴内伝第六

昔、越王句踐は呉王夫差と戰い、大いに敗れ、會稽山の上に立てこもり、そこで大夫種に呉と和平を結ぶことを求めさせた。呉はこれを許した。越王は會稽を去り、呉の役人となった。三年して、呉王はこれを帰した。大夫種ははじめて謀って言った
「昔、呉王夫差は義をかえりみず吾が王を辱めました。私種が呉を観ましたところ甚だ富んで財には余裕があり、刑は繁多で法は道理に合わず、民は戦いと守りに習熟し、そのやり方を知らない者はありません。その大臣はよく互いにそしりあい、信頼することはできません。その徳は衰え民はよく善に背きます。かつ呉王はまた安佚を喜び諫言を聴かず、こまごまとした そしりを聴き智が少なく、悪口とへつらいを信じて士を遠ざけ、しばしば人を傷つけてしばしばこれを忘れ、明晰さは少なく人を信じず、すぐに消えてしまう名声をのぞみ、後の患いを顧みません。君王はどうして少しこれを占ってみようとなさらないのですか」
越王は言った
「よろしい。これを占う方法はどのようなものか」
大夫種は答えて言った
「君王は身を卑くし礼を重くし、巧飾のない真心をもって信用となし、呉より穀物を買い入れることを請うて下さい。天がもし呉を見棄てるならば、呉は必ず許諾するでしょう」
ここにおいてすなわち身を卑くし礼を重くし、巧飾のない真心をもって信用となし、呉に請うた。 まさに与えようとすると、申胥が進み出て諫めて言った
「なりません。王の越に於けるは、地を接し境を隣りにし、道は通じ、仇敵の国であり、三江がこれをとりまき、その民は移住するところがなく、呉が越を手に入れるのでなければ、越が必ず呉を手に入れましょう。それに、王が利を手に入れようとしても取るところはなく、これに穀物と財を輸出すれば、財は去って凶がもたらされます。凶がもたらされれば民はお上を怨み、これは外敵を養って国家を貧しくするものです。これに与えるのは徳でなはく、やめるにこしたことはありません。それに越王には范蠡という智臣がおり、勇にして謀に長け、まさに士卒をととのえ、戦具をおさめ、我々の隙を伺っています。私はこう聞いております、越王の謀は、まことに穀物の購入を請うことにあるのではありません。まさにこれで我らを試し、これで君王を占い調べ、親しさを増すことを求め、王の心を安心させようとしているのです。吾が君が悟らずにこれを救うのは、これは越の福です」
呉王は言った
「私は越を卑しめ服従させ、その社稷を有している。句踐はすでに服従して臣となり、わたしの乗り物の役人になり、馬前に後ずさりしている。諸侯に聞知していないものはない。いま越が饑饉で、私がこれに食糧を与えるのだ。私は句踐がかならずあえて謀などしないとわかっている」
申胥は言った
「越は罪なく、わが君王はこれを危うくするも、ついにその命を絶つことなく、またその言葉を聴く、これは天に反することです。忠心からの諫言は耳に逆らい、へつらいの諫言はかえって親しんでいます。今狐と雉が戯ると、狐が体を低く伏せると雉はこれを恐れます。獣でさえいつわりを以てお互い接近するのです。まして人はどうでしょうか」
呉王は言った
「越王句踐に危難があり、私がこれに与える、その徳は明らかでいまだ減少しておらず、句踐はあえて諸侯と私に反するだろうか」
申胥は言った
「私は、聖人に危難があれば、人の奴隷になることを恥じませんが、志気は人に現れると聞いております。今越王は我々のために身を低くして辞を卑くし、服従して臣下となり、その礼を扱うことは過剰で、わが君が悟られないだけで、ゆえにこれに勝ち従わせているのです。私は、狼の子は生まれつき粗野な心を持ち慣らしにくく、仇の人は、親しむべきではないと聞いております。鼠は壁〔に穴を開けたこと〕を忘れても、壁は鼠を忘れないものです。今越人が呉を忘れないでしょうか。私はこう聞いております、優位をぬぐい去れば社稷は 堅固になり、優位におもねれば社稷は危うくなります。わたくし胥は、先王の老臣です、不忠不信であれば、先王の老臣とはなりえません。君王はどうして武王が紂を伐ったことをご覧にならないのですか。今のようでは数年かからずに、鹿や猪が姑胥の台に遊ぶようになるでしょう」
太宰嚭が傍らより答えて言った
「武王は紂の臣ではなかったのか。諸侯を率いてその君を殺したのは、勝ったとはいっても、義といえるだろうか」
申胥は言った
「武王はすでに名を成している」
太宰嚭は言った
「自ら主を殺して名を成すのは、行うに忍びない」
申胥は言った
「美と悪はおたがい入り組むものだ。あるときは甚だ美なるものが亡び、あるときは甚だ悪なものが盛んになるもので、ゆえに前代にそのようなものがいたのだ。あなたはどうしてわが君王をまどわすのか」
太宰嚭は言った
「申胥どのは人臣であるのに、その君に語るのにどうしてくどくどというのか」
申胥は言った
「太宰嚭は人の面前で媚びへつらい親しむことを求め、わが君王につけこみ、幣帛を求め、諸侯を威圧し富を成しています。今私は忠心からわが君王に申し上げているのだ。たとえるなら嬰児を湯浴みさせるようなもので、泣いていうことを聞かないとしても、それはまさに厚い利があるのだ。嚭はむしろわが君の欲にへつらい、後患をかえりみないのか」
呉王は言った
「嚭は止めよ。おまえは寧ろ私の欲に迎合するのか。これは忠臣の道ではない」
太宰嚭は言った
「私は、春の日がまさに至ろうとすれば、百草が時に従うときいております。君王が大事を動かすのであれば、 群臣は力を尽くして謀を助けます」
そこで退いて家に行き、人を使って呉王に申胥のことをひそかに告げさせて言った
「申胥は進んで諫め、外見は親密なようですが、内情は甚だ疎遠で、二心を持っています。君王は常に自らその言動をご覧になっていますが、胥には父子の親愛や、君臣の恵みはありません」
呉王は言った
「申胥は、先王の忠臣で、天下の勇士である。胥は必ずそのようではない。お前は事を以て互いに過つな、私情を以て互いに傷つけるな。私を動かそうとしても、これはお前が行えることではない」
太宰嚭は答えて言った
「私は、父子の親愛は、家を広げて居を別にして、奴隷・馬牛を贈れば、その志はますます親しくなり、もし一銭も与えなければ、その志は疎遠になると聞いております。父子の親愛さえなおこのようなものなの ですから、ましてや士はどうでしょうか。それに知があっても尽くさないのは不忠であり、尽くしても難を顧みるのは不勇であり、下なのに上に命令するのは無法です」
呉王はそこで太宰嚭の言葉を聴き、果たして穀物を与えた。申胥は退いて家に行き、嘆いて言った
「ああ、君王は社稷の危機を図らず、一日だけの説を聴かれた。答えずに、大臣を退け傷つけ、王はこれを用いた。補弼の臣のいうことを聴かず、自分にへつらう輩を信じる、これは命が短いということだ。不信と思う。私は目を国の門にかけ、呉国が大いに負けるのを見たいと願う。越人が侵入し、吾が王はみずから擒となるであろう」
太宰嚭の友人逢同は、太宰嚭に言った
「あなたは申胥を非難している、どうかこれを占わせてほしい」
そこで出かけて申胥に会うと、胥はまさに被離と一緒に座っているところだった。申胥は逢同に言った
「あなたは太宰嚭に仕え、また国の利害を考えずにわが君王を惑わせ、君王はかえりみないで、多くの愚か者の言を聴いている。君王が国を忘れたのは、嚭の罪である。亡びる日は遠くないだろう」
逢同は出て行って、太宰嚭のところへ至り、言った
「今日、あなたのために申胥を占ったところ、胥はその君が胥を用いなければ、後はないと誹謗していました。君王がお目覚めになったらお会いします」
太宰嚭に言った
「あなたが事に勉めて後、呉王の情はあなたにあるのではないですか」
太宰嚭は言った
「智の生ずるところは、貴賤や年齡にあるのではなく、これは相くみする道にあるのだ」
逢同は出て行って呉王に見ると、きまり悪そうに憂いている様子であった。逢同は涙を流して答えなかった。呉王は言った
「嚭は私の忠臣であり、お前は私のために目を遊ばせ耳を長くしている、それを誰が怨むというのか」
逢同は答えて言った
「私には心配事があります。私が言って君がそれを行えば、後の憂いはございません。もし君が行わなければ、私は言ってから死ぬでしょう」
王は言った
「お前は言うがよい、私はそれを聴こう」
「今日行って申胥に会うと、申胥は被離とともに座り、その謀をしていることを恥じており、わが君王を害そうとしているようでした。いま申胥は諫言を進めて 忠義なようですが、しかし内情は至って悪く、その身の内に野狼の心を持っています。君王はこれを親しみますか親しみませんか。これを追いますか追いませんか。これに親しみますか。彼は聖人ですが、一方ではいよいよ恨む心があって止みません。これを追いますか。彼は賢人です、その知がわが君王を害する事ができます。これを殺しますか。これを殺すべきことも、また必ず理由があります」
呉王は言った
「いま申胥のことを図るには、なにもってすればよいか」
逢同は言った
「君王が軍隊を興して斉を伐てば、申胥は必ず諫めて不可と言うでしょうが、王は聴かずに斉を伐てば、必ずお勝ちになります。そうすればこれを図ることができます」
ここにおいて呉王は斉を伐とうとした。申胥を召すと、答えて言った
「私は年老いて、耳は聞こえず、目も見えず、ともに謀ることはできません」
呉王は太宰嚭を召して謀ると、嚭は言った
「よろしいことです、王は軍隊を興して斉を伐ってください。越の存在は疥癬のようなもので、これは何もなすことはできません」
呉王はまた申胥を召して謀ると、申胥は言った
「私は老いて、ともに謀ることはできません」
呉王は申胥に謀を請うこと三度、答えて言った
「私は、愚夫の言を、聖王は採択すると聴いております。私は、越王句踐が呉に疲弊した年、宮殿には五つのかまどがありましたが、食事は何種類もの味を重ねず、妻妾を省き、愛するところと別れず、妻はますを手に 取り、自らはとかきを手に取り、自ら量って食べ、飢えるのをよしとして浪費せず、この人が死ななければ、必ず呉国の害になります。越王句踐は食事をするのに動物を殺さないで滿足し、衣服は真っ白で、黒い服は着ず、布で剣を帯びており、この人が死ななければ、必ず大きな災いになります。越王句踐は寝るのに席を安らかにせず、食べて飽食を求めず、貴きを善しとして道があり、この人が死ななければ必ず越国の宝となります。越王句踐は破れた服を着て新しい服を着ず、恩賞を行い、刑罰をせず、この人が死ななければ、必ず名を成しま す。越が我々に対して存在するのは、なお心腹に〔病が〕積もり集まっているようなもので、発しなければ傷つくことはありませんが、発作が起これば死亡します。斉を赦し、越を憂いとしていただきたい」
呉王は聴かず、果たして軍隊を興して斉を伐ち、大いに勝った。帰ると、申胥を不忠とし、剣を賜って申胥を殺し、被離の髪をそり落とした。申胥はまさに死のうとして、言った
「昔、桀は関龍逢を殺し、紂は王子比干を殺した。いま呉が私を殺すのは、桀紂と三人立ち並んで呉国が亡びることを現すのだ」
王孫駱はこれを聞き、朝になっても参朝しなかった。王は駱を召してこれに問うた
「お前はどうして私を非として朝になっても参朝しないのか」
王孫駱は答えて言った
「私は敢えて非としているのではありません、私は恐れているのです」
呉王は言った
「お前はどうして恐れるのか。私が胥を殺したことを重いとするのか」
王孫駱は答えて言った
「君王は気高く、胥のような下位のものを殺し、群臣と謀りません。私はこのため恐れているのです」
「私はお前のいうことを聴いて胥を殺したのではなく、胥は私に対して謀ったのだ」
王孫駱は言った
「私は、人に君たる者には必ず敢言する臣がおり、上位にある者には必ず敢言する士がいると聞いております。このようであれば、考慮は日々ますます加わり、智はますます生じます。胥は先王の老臣であり、不忠不信であれば、先王の臣たり得ませんでえした」
王は太宰嚭を殺そうと思ったが、王孫駱は答えて言った
「なりません。王がもしこれを殺せば、これは二人の子胥を殺すことになります」
太宰嚭はまた言った
「越のことを図りますに、我が国に対して事をなそうとしていますが、王は心配なさらないでください」
王は言った
「私はお前に国を託している。どうか遅かれ早かれ時をたがえないように」
太宰嚭は答えて言った
「私は四頭立ての馬車をまさに馳せようとするのに、前に行く者を驚かすものは切られ、その道理はかならず正しいと聞いております。このようにすれば、越がことを成すのは難しいでしょう」
王は言った
「お前はこれを制し、これを断じよ」
三年経って、越は軍を興して呉を伐ち、五湖に至った。太宰嚭は歩兵を率いてこれに言った。戦を謝罪する者は五人であった。越王は忍びず、これを赦そうとした。范蠡は言った
「君王がこれを朝廷で謀るも、これを原野に失うのは、いかがなものでしょうか。これを謀ること七年にして、一瞬でこれを棄てることになります。王は赦さないでください、呉はたやすく併合することができます」
越王は言った
「わかった」
軍に居ること三年、呉は自ら疲弊した。太宰嚭は遂に逃亡し、呉王はその禄秩を有するものと賢良とを率いて逃れ去った。越はこれを追い、餘杭山に至り、夫差を擒にし、太宰嚭を殺した。越王は范蠡に言った
「呉王を殺せ」
蠡は言った
「臣下はあえて一国の主を殺さないものです」
「これに刑罰を与えよ」
范蠡は言った
「臣下は敢えて一国の主に刑罰を与えないものです」
越王は自ら呉王に言った
「昔、天が越を呉に賜ったのに、呉は受けなかった。申胥は罪がなかったのに、これを殺した。讒言して自らに媚びる輩を昇進させ、忠信の士を殺した。大いなる過ちが三つあり、滅亡するに至った、あなたはそれを知っているか」
呉王は言った
「知っている」
越王はこれに剣を与え、自らこれを処理させた。呉王はそこで十日して自殺した。越王は卑猶の山に葬り、太宰嚭・逢同と妻子を殺した。

越絶書

越絶外伝紀策考第七

昔、呉王闔廬がはじめて子胥を得たとき、これを賢人と思い続け、上客となして、言った
「聖人は先に千年のことを知り、後に万世のことを見る。深くその国のことを問うに、代々どうして昏々として、衰え尽きないでいられようか。
あなたはこれを明らかにせよ。私は注意してあなたの言葉を聞こう」
子胥ははいと返事をしたが、答えなかった。王は言った
「あなたはこれを明らかにせよ」
子胥は言った
「答えて明らかにならず、非難を受けるのを恐れます」
王は言った
「どうか一たび言ってほしい、それで直言の士を用いたい。仁者は楽しみ、知者は誠を好む。礼を守るものは幽遠のところを探り、隠れた道理を探す。明らかに私に告げよ」
「言いにくいことです。国は長らえません、王はこれをよくお考えください。存続しているときも傾くのを忘れず、安寧のときも亡ぶのを忘れないでください。私がはじめて国に入ったとき、つつしんで衰亡のしるしを思いますに、まさに覇たる呉と厄災の間にあり、後の王は天命が返って困窮します」
王は言った
「どうしてそう言うのか」
子胥は言った
「後に必ずまさに道を失なうでしょう。王は鳥獣の肉を食らい、坐して死を待つでしょう。へつらいの臣が、まもなく至るでしょう。安寧と危難の兆しは、各々明らかなきまりがあります。虹や牽牛は、女を異にし、黄気が上にあり、青気と黒気が下にあります。太歳は八たび会し、壬子は九を数えます。王相の気は、自ら十一倍です。死は気が無くなることにより、法のとおりに止みます。太子には気が無く、三世代異常となるでしょう。日月の光明は、南斗を通ります。呉越は隣接しており、風俗を同じくし土地を並べ、西は大江に居り、東は大海をよぎり、両国は城を同じくし、門戸は互いに押し合っています。憂いはここにあり、必ずやまさに災いとなるでしょう。越には神山があり、隣にはしがたい。どうか王はこれを定め、私の言葉を洩らさないでください」
呉は子胥に蔡を救わせ、強国の楚を誅し、平王の墓にむち打ち、長い間去らず、その思いは楚に報復しようとしていた。楚はそこでこれを千金で購おうとしたが、誰も止める者はいなかった。ある庶民が子胥に言った
「やめてください。私は于斧で壺漿をかくした者の子、船中で箱に入った飯を開けた者です」
子胥はそこでこれが漁師だと知り、兵を率いて還った。もとより行くことがなければ帰ることもなく、どうして徳があるのに報いないだろうか。漁師が一たび言うと、千金はこれに帰した。このために引き返したのである。。
范蠡は軍を興して就李で戦い、闔閭は飛んできた矢に当たった。子胥は軍を帰したが、心中では呉に対して恥を感じ、被秦號年〔錯簡?〕。夫差が再び諸侯に覇をとなえ、軍を興して越を伐つに至り、子胥を任用した。夫差は驕り高ぶっていたが、越の包囲を解いた。子胥は諫めて誅せられた。太宰の嚭はへつらいの心があり、ついにそれで呉を滅ぼした。夫差は困窮し、匹夫になることを請うた。范蠡は許さず、五湖に滅ぼした。子胥が呉にいましめたのは、賢明と言うべではないか。
昔、呉王夫差は軍を興して越を伐ち、就李で敗戰した。大風が発し狂い、日夜止まなかった。戦車は壊れ馬は失われ、騎士は堕ちて死んだ。大船は陸に上がり、小舟は水に沈んだ。呉王は言った
「私は昼寝をして、夢に井戸が満ち溢れ、越と箒を取り合い、越はまさに我々を掃こうとしているのを見たが、軍は凶であろうか。軍を還した方がよいだろうか。この時越軍は大声を上げ、夫差は越軍の侵入を恐れ、驚き恐れた。子胥は言った
「王はしっかりなさってください、越軍は敗れます。私は、井とは人の飲むところであり、溢れるとは食して余りあることと聞いております。    越は南にあり、火です。呉は北にあり、水です。水は火を制します。王はどうして疑うのですが。風が北より来たり呉を助けます。昔、武王が紂を伐ったとき、彗星が出でて周を奮い立たせました。武王が問うと、太公は言いました『私は、彗星の出現を以て戦い、これを倒せば勝利すると聞いております』私は、天変地異には吉であっても凶であっても、物には互いに勝つものがあると聞いており、これはその証拠です。どうか王は急ぎ行ってください。これま越がまさに凶となり、呉がまさに盛んになろうとしているのです」
子胥は大変まっすぐな人で、よこしまな者と仲間にならなかった。体を棄てて切に諫め、命を捨てて国のためにした。君を愛することは自分の体のごとく、国を憂えることは家のごとくであった。正しいことも間違ったことも恐れずに、直言して休まなかった。君を正しくすることをこいねがい、かえって疎まれた。讒言する人はこれをそしり、身はまさに誅せられようとした。范蠡はこれを聞き、通らないと考えた。
「命数を知って用いず、怖れを知って去らないのは、どうして智といえようか」
胥は聞いて、嘆いて言った
「私は楚に叛き、弓をわきばさんで去り、義はやまなかった。私は先に功があり、あとに戮せられる。私の智が衰えたのではない、先に闔廬に会い、後に夫差に会ったということだ。私は、君に事えることはなお父のごとくであり、愛することが同じで、厳しさが等しいと聞いている。太古以来、いまだ人君が恩を欠いて臣のために仇に報いたのを見たことがない。私は大いなる誉れを得て、功名が顕著になったので、私は天の理数を知っても、ついに去らなかったのだ。先君の功は、なお忘れがたいものであり、私はここで髪を腐らせ歯をなくしたいと願う、どうしてここを去るということがあろうか。范蠡は外側だけを見て、私の内心をしらないのだ。今冤罪に屈するといえども、やはりとどまり死するのである」
子貢は言った
「子胥は忠信を守り、死を生より貴いとした。范蠡は吉凶を審らかにし、去って名声があった。文種は封侯にとどまり、有終の美をかざらなかった。二人の賢人は徳をひとしくしたが、種はひとり栄えなかった」范蠡が知識能力が〔伍子胥と〕ひとしいとは、ここに言われたのである。
伍子胥の父子奢は、楚王の大臣であった。世継ぎのために秦女をめあわせようとしたが、美しかったので、王はひそかにこれを喜び、自ら召したいと思った。奢は忠義を尽くして入りて諫め、朝廷に居て休ます、これを正そうとした。しかし王は諫言を拒み、鞭打ってこれを問い詰め、奢が君を害そうとしているとし、代々の臣を滅ぼした。邪に人を讒言する言葉を聴き、これを捕らえ、二子が来るのを待ってから殺そうとした。尚は孝であったので楚に入り、子胥は勇であり欺き難かった。累世の忠信は、その時に世に入れられず、奢は楚において諫め、胥は呉において死んだ。詩経に「讒言する者は限りがなく、こもごも四方の国を乱す」というのは、このことを言うのである。
太宰は官号であり、嚭は名であり、伯州の孫である。伯州は楚の臣であったが、過ちのために誅せられ、嚭は困窮して呉に奔った。この時呉王闔廬は楚を伐ち、ことごとく楚の仇を召してこれを近づけた。伯嚭の人となりは見る聞く話すにすぐれ、耳目が通達し、諸事で知らないことはなかった。その時勢にもとづいて自らを呉に納れ、楚を伐つ利を語った。闔廬はこれを用いて楚を伐ち、子胥・孫武と嚭に軍隊を率いて郢に入らせて、大いに功があった。還ると、呉王は嚭を太宰とし、位は高く権勢を誇り、国権を専らにした。まもなく闔廬が卒し、嚭は夫差が内に柱石の堅固さがなく、外に止まるところを知らぬ激しい勢いがないのを見て、へつらいの心で自ら売り込み、独断の利を操り、夫差はついにこれに従った。そして忠臣は口を閉じて一言も言うことができなかった。嚭は過ぎたことを知っても将来のことを知らず、夫差は死ぬに至り、早くに誅さなかったことを悔やんだ。伝に「清を見て濁を知り、曲を見て直を知る、君主が士を選ぶのは、それぞれその徳をあらわしている」という。夫差は浅はかで劣っており、このために嚭に専権を与え、伍胥はこのために惑ったとは、このことを言うのである。
范蠡はその始め楚にいた。宛橐あるいは伍戸の虚に生まれた。髪を結んだ童子だったときに、ひとたび気が違ってはひとたびはっきりしたので、時の人はみな狂っていると思った。しかしひとり聖賢の明があるだけで、人はともに語るものがなかった。自分のことを盲人のように見ず、人の言をは聾者のように聞かなかったためである。大夫種はその県に入ると、賢者がいると知ったが、いまだその所在をみつけられず、邑中に求めたが、邑人の中には得られなかった。狂夫に賢士が多く、賤しい者の中に君子がいると考え、広くこれを求めた。蠡を得て喜び、そこで官属を従え、治世の術を問おうとした。蠡は衣冠をきちんとして、しばらくして出てきた。立ち居振る舞いはおだやかであり、君子の様子があった。終日語り、口早に霸王の道を述べた。考えが合い、胡・越のことについて互いに従った。ともに霸王の兆しが東南に出るのを見て、その官位を棄て、ともに約束して行って臣になろうとした。少し失うものはあったが、成すところは大きかった。車環は呉に止まった。つねに子胥を任じており、二人は子胥がいればその言葉を申し述べることができないと考えた。種は言った
「いままさにこれをどうしたものだろうか」
蠡は言った
「我々にたいして、どんな国が登用できないというのでしょうか」
呉を去って越に行くと、句踐はこれを賢人であるとした。種はみずから内をただし、蠡は治するに外に出て、内は乱れて患うことなく、外は得ないものはなかった。臣下と主君は心を同じくし、ついに越国を覇とした。種はよく始めを図り、蠡はよく終わりを慮った。越は二人の賢人によって、国は安寧となった。始めて災変があっても、蠡がその賢明さを専らにしたのは、賢と言うべきであり、進退をよくした。

越絶書

越絶外傳記范伯第八

昔、范蠡はその始め楚にいて、范伯といった。自ら衰えて賤しく、いままで代々の俸禄を得たことがないといい、故に自ら粗末な生活をしていた。飲食すれば天下の無味でもうまいとし、居れば天下の賤しい場所に安んじていた。また髪を振り乱して狂人をよそおい、世にしたしまなかった。大夫種に言った
「夏禹、殷湯、周文王は三皇の苗裔であり、五覇は五帝の子孫です。天の運行は代を経て、千年に一度至ります。黄帝の年間に、辰が執となり巳が破となり、霸王の気は、地の門に現れました。 子胥はこのために弓をさしはさんで呉王におして見えたのです」
そこで大夫種と約束して呉に入った。このとき馮同は相共にこれに誡め、伍子胥がいるので、自らともにその言葉を申し述べることができない。越王は常に一日中ともに語っていた。大夫石買は、国にいて権力があり、口がうまく、進み出て言った
「器量自慢の女は不貞で、自らの才を誇る男は信用できません。客で諸侯を歴訪し、河津を渡り、縁もないのに自ら至ったものは、ほとんど真に賢人ではありません。和氏の璧であれば、求める者は値段を争わず、すぐれた馬の能力は、険しい道を難としません。〔欠落〕の邦、諸侯を歴訪して売り込むところがなく、知ったふりをする輩は、ただ大王はこれをお察し下さい」
そこで范蠡は退いて語らず、楚越の間に遊んだ。大夫種は進み出て言った
「昔、市中の盜賊が自ら晋に売り込み、晋はこれを用いて楚に勝ちました。伊尹は鼎を背負って殷に入り、ついに湯王を助けて天下を取りました。智能の士は、遠近を基準に採用するものではなく、これを言いますに、帝王の完備を要求する者は滅びるのです。易に『高く世俗を超越している人材には、必ず何かにつけて悪く言われる患いがある。この上なく智慧がある者の明察は、必ず大衆の議論を破る』といいます。大功を成す者は世の習わしにこだわらず、大道を論じる者は大衆に迎合しません。ただ大王はこれをお察し下さい」
これより石買はますます疎んじられた。その後兵を遠地に率いさせ、ついに軍士に殺された。この時句踐は兵士を失い、會稽山に立てこもり、あらためて種・蠡の策を用い、存続することができた。むかし虞舜は言った
「思うに先のことに学んで行う、これは良薬のようなものである」
王は言った
「石買は昔のことは知ってもこれからのことは知らない。私に賢人を棄てさせようとした」
後についに二人を師とし、ついに呉王を擒にした。
子貢は言った
「一言を薦めれあげれば、身に及ぼすことができる。一人の賢人を任じれば、名を顕すことができる。賢人を傷つければ国を失い、能力を覆い隠せば災いがある。徳に背けいて恩を忘れれば、かえって傷つくことになる。人の善を壊せば子孫の繁栄はなく、人の成功をそこなえば天誅が行われる。むかし子胥を冤罪とし死刑にしたとき、由重が子胥を呉に讒言した。呉はうわべではこれを重んじたが、罪なくして誅した。伝に「千金を失っても、一人の心を失うなかれ」というのは、このことを言うのである。

 

越絶内伝陳成恒第九

昔、陳成恒は斉の簡公の相となり、乱をなそうとしたが、斉国の鮑氏・晏氏をおそれ、ゆえにその軍をあらためて魯を伐った。魯君はこれを憂えた。孔子はこれを患い、門人を召してこれに言った
「諸侯がお互い伐ちあっているのは、なおこれを恥とする。いま魯は、父母の国であり、墳墓はここにある。今斉はまさにこれを伐とうとしている。一たび出でずにいられようか」
顔淵がいとまごいして出ようとしたが、孔子はこれを止めた。子路がいとまごいして出ようとしたが、孔子はこれを止めた。子貢がいとまごいをして出ようとすると、孔子はこれを使わした。子貢は斉に行き、陳成恒に会って言った
「魯は、伐ちがたい国です。これを伐つのは誤りです」
陳成恒は言った
「魯が伐ちがたいとは、どうしてか」
子貢は言った
「その城壁は薄く低く、池は狭く浅く、その君は愚かで不仁、大臣は偽りばかりで役に立たず、士民は戦争と聞けば憎んでおり、これは戦うべきではありません。あなたは呉を伐つにこしたことはありません。呉の城は高く厚く、池は広く深く、鎧は堅固で新しく、士は選び抜かれて糧食は十分にあり、重器や精巧な弩がそこにはあり、また賢明な大夫に守らせています。この国は伐ちやすいです。あなたは呉を伐つにこしたことはありません」
成恒は怒って色をなして言った
「あなたが難しいとするものは、人が易しいとするものだ。あなたが易しいとするものは、人が難しいとするものだ。あなたがそれで私に教えるのはどうしてか」
子貢は答えて言った
「私は、憂いが内にあるものは強いものを攻め、憂いが外にあるものは弱いものを攻めると聞いております。今、君は内に憂いておられます。私は、あなたは三度封じられそうになったが三度成功しなかったのは、大臣に聴かない者があったからと聞いております。今、君が魯を破って斉の領土を広げれば、魯を破って大臣を尊くしますが、君の功は認められないでしょう。これでは、君が上は主君の心を驕慢にし、下は群臣を身勝手にすることになり、大事を成したいと思っても、難しいでしょう。かつ、上が驕慢なら法を破り、臣下が驕慢なら争います。これでは君は上は主君にさけられ下は大臣と互いに争うことになります。このようであれば、もし君が斉に立っても、重ねた卵より危ういでしょう。私は故に呉を伐つにこしたことはないと言ったのです。かつ、呉王は剛猛で猛々しくその命令を行い、人民は戦いと守りに習熟し、将は法を明らかにしており、斉が敵対すれば擒となることは必定です。今あなたが四境の兵をことごとく撰び、大臣を出兵させ鎧兜を身につけさせれば、人民は外に死し、大臣は内に空です。これはあなたには上に強力な臣の敵がなく、下に人民の士がないのであり、主君を孤立させて斉を制するのは君でしょう」
陳恒は言った
「よろしい。そうだとしても私が軍はすでに魯の城下におり、もし去って呉に行けば、大臣はまさに私を疑う心を持つであろう、これをどうすればいいか」
子貢は言った
「あなたは軍隊を按じて伐たないで下さい。どうか私に呉王に会わせ、これに魯を救って斉を伐たせてください、あなたはこで兵を率いてこれを迎え撃って下さい」
陳成恒は許諾したので、そこで呉に行った。子貢は南方に行き呉王に見え、呉王に言った
「私はこう聞いております、王者は世継ぎを絶やさず、覇者は敵を強くせず、千鈞の重量も、銖を加えれば秤の目盛りが動きます。今、万乗の斉は、千乗の魯をわがものとし、呉と境界を争っており、私はまことに君のために恐れます。かつ魯を救うのは、名を顕すことであり、斉を伐つのは大いなる利があります。義は亡びそうな魯を存続させることにあり、勇は強大な斉を害し、威を晋国に伸ばすにあることは、王者は疑いません」
呉王は言った
「そうはいっても、私はかつて越と戦い、これを會稽山の上に立てこもらせた。越君は賢主であり、身を苦しめ労働をし、昼夜兼行して、内はその政をただし、外は諸侯に事え、必ずまさに私に報復しようという気持ちでいるだろう。あなたは私が越を伐って帰るのを待て」
子貢は言った
「なりません。越の強さは魯を下回らず、呉の強さは斉以上ではありません。君が越を伐って帰れば、すぐに斉もまた魯を我がものとするでしょう。いま君は越を存続させ滅ぼさず、四方の隣國に親しむに仁をもってし、暴虐を救って斉を苦しめ、威を晋国伸ばすに武を以てし、魯を救い、周室を絶やすことなく、諸侯に明らかにするに義をもってして下さい。このようにすれば、私が見るところ、野蛮国と隣り合わせの地まで溢れ、必ず九夷を率いて朝し、すなわち王業が達成されます。かつ大国の呉が小国の越を恐れるのがこのようであれば、どうか私に東方へ行き越王に見え、これに精鋭な軍を出動させ下吏に従えさせて下さい。これは君が実際は越を空にして、名は諸侯を従え【斉を】伐つことになります」
呉王は大いに喜び、そこで子貢を行かせた。子貢は東に向かい越王に見え、越王はこれを聞き、道を掃除して郊外で出迎え県にいたり、自ら子貢を車に乗せて宿舎にいたり問うて言った
「ここは辺鄙な狭い国、蛮夷の民です。大夫は何を求めて意外にもったいなくも、ここに至ったのですか」
子貢は言った
「君をあわれみ、故に来ました」
越王句踐は頭を地面につけて再拝して言った
「私は禍と福は隣り合わせだと聞いている。今大夫が私をあわれむのは、私にとっての福である。あえてその説を聞きとげよう」
子貢は言った
「私は今呉王に見え、盧を救って斉を伐つことを告げました。その心は和らいでいるが、その志は越を恐れており、言いました『かつて越と戦い、これを會稽山の上に立てこもらせた。越君は賢主であり、身を苦しめ労働をし、昼夜兼行して、内はその政をただし、外は諸侯に事え、必ずまさに私に報復しようという気持ちでいるだろう。あなたは私が越を伐って帰るのを待て、それからあなたのいうことを聴こう』かつ人に報復する心がないのに人にこれをを疑わせるものは、稚拙です。人に報復する心があるのに人にこれを知らせるのは、危ういことです。事が未だおこらないのに聞かせるのは危険です。三者は、事を行うのに大いに避けるべきです」
越王句踐は地に頭をつけて再拝して言った
「昔、私は不幸にも若くして父を失い、内にに自らの度量をはからず、呉人と戦い軍は敗れ身は辱められ、父の恥をあとに残しました。逃げ出して会稽山の上に立てこもり、下は海を守り、ただ魚やすっぽんを見ています。いま大夫は恥とせずに自らこれに見え、また玉声を出して私に教えようとしています。私は父の賜り物をさいわいに、敢えて教えを奉らないことがありましょうか」
子貢は言った
「私はこう聞いております、主は人を任じてその能力を埋もれさせませんが、行いの正しい人が賢人を推挙しても世に受け入れられません。故に財を扱い利を分かつには仁者を使い危難を乗り切り困難をふせぐには勇者を使い、衆を用いて民を治めるには賢者を用い、天下を正し諸侯を定めるには聖人を使います。私がひそかに下吏の心を撰びますに、軍隊が強くても弱者を併合することができず、勢いが上位にあっても悪い命令をその下に行う、そのような君がどれだけいるでしょうか。私はひそかに自ら成功して王となることができる方を撰びましたが、このような臣がどれだけいるでしょうか。今、呉王は斉を伐つ志があるので、君は重宝を惜しむことなく、その心を喜ばせ、辞を卑くすることをきらわず、その礼を尊べば、斉を伐つことは必定です。彼らが戦って勝たなければ、君の福です。彼らが戦って勝たなければ、必ず残りの兵を率いて晋に臨むでしょう。どうか私に、北にむかい晋君に会い、共にこれを攻めさせてくだされば、呉を弱めることは必定です。その騎士・鋭兵が斉に疲れ、重宝・はたかざりが晋に尽きれば、君はその疲れを制し、これは呉を滅ぼすこと必定です」
越王句踐は地に頭をつけて再拝して言った
「昔、その民の多くを分ちて我が国を残伐し、わが民を殺し、わが人民を屠り、わが宗廟を平らげ、国はいばらだらけの廃墟となり、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。今、私が呉王を怨むことは、骨髄に深い。私が呉王に事えることは子が父を畏れ、弟が兄を敬うようなもので、これは私のうわべの言葉です。大夫の教えの賜りがありましたので、私は敢えて疑いましょうか。どうかついにこう言わせてください、私の身は寝台に安座することなく、口はうまいものを食べず、目は好ましい色を見ず、耳は鐘鼓の音を聞かないことは、すでに三年になります。唇を焦がし喉を乾かし、苦心して力をつとめ、上は群臣に事え、下は人民を養い、願わくば一たび後と呉と天下の兵を中原の野で交え、呉王と襟をただして腕を交えて呉越の士を奮い立たせ、次々と連なって死に、士民は流離し、肝脳地に塗れる、これが私の大願です。このようなことは成すことはできませんでした。今、内に自ら我が国を量るに,呉を傷つけるのに不足であり、外には諸侯に事えることができません。私は国を空位にして、策略や武力をやめ、容貌を変え、姓名を易え、箒とちりとりを手に取り、牛馬を養い、臣として呉王に事えたいと思いました。私は腰と首が切り離され、手足がばらばらになり、四肢が散らばりならび、郷邑の笑いものになるとしても、気持ちは定まっています。大夫の教えを賜り、これは亡国を保存し死人を興すことです。私は前王の賜り物を賴み、敢えて令を待たないことがありましょうか」
子貢は言った
「呉王の人となりは、功名を貪り利害を知りません」
越王は誠実に席を離れ、言った
「そのことはあなたの掌中にあります」
「君のために呉王の人となりをみますと、賢くて強く下の者に意をほしいままにし、下の者は逆らうことができず、しばしば戦って、士卒は耐えることができません。太宰嚭の人となりは智にして愚、強にして弱、たくみなうまい言葉でその身を入れ、よくいつわりをなしてその君に事え、その前を知りその後を知らず、君の過ちに順って自分を安んじ、これは国をそこなう吏、君を滅ぼす臣です」
越王は大いに喜んだ。子貢は去りて行き、王はこれに金百鎰と宝剣を一本、良馬二を与えたが、子貢は受けず、ついに行った。呉に至り、呉王に報告して言った
「つつしんで下吏の言を以て越王に告げましたところ、越王は大いに恐れ、そこで恐れて言いました
『昔、私は不幸にして若くして父親を亡くしました。内に自らの度量をわきまえず、県に罪を得ました。軍は敗れ身は辱められ、逃れ去って會稽山の上に立てこもり、国は茨の茂る空しい地となり、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。大王の恩賜を頼み、俎とたかつきを奉り祭祀を修めることができました。大王の恩賜は、死んでも敢えて忘れることはありません。どうしてあえて謀など考えるでしょうか』その心は大いに恐れ、まさに使者を来させようとしているようです」
子貢が至って五日、越の使者が果たしてやってきて、言った
「東海の役臣私句踐は使者臣種に、あえて大王の下吏をうやまい左右の側近に問わせます、『昔、私は不幸にして若くして父親を亡くしました。内に自らの度量をわきまえず、県に罪を得ました。軍は敗れ身は辱められ、逃れ去って會稽山の上に立てこもり、国は茨の茂る空しい地となり、私自身は魚やすっぽんの餌になりました。大王の恩賜を頼み、俎とたかつきを奉り祭祀を修めることができました。大王の恩賜は、死んでも敢えて忘れることはありません。今ひそかに大王は大義を興し、強きを誅し弱きを救い、暴虐な斉を苦しめ、周室を安んじようとしていると聞き、故に越の賤臣文種に前王の所蔵の器、鎧二十そろい、屈盧の矛、歩光の剣で、軍吏を祝賀させます。大王がまさに大義を興そうというのなら、我が国は小国ではありますが、悉く四方の中から撰び、卒三千を出し、下吏に従いましょう。私はどうか自ら堅固な鎧を着て鋭利な武器を手に取り、矢石を受けさせて下さい」
呉王は大いに喜び、そこで子貢を召してこれに告げて言った
「越の使者が果たしてやってきて、卒三千人を出し、その君もまたこれに従い、渡しと斉を伐ちたいと請うてきたが、いいだろうか」
子貢は言った
「なりません。人の国を空にし、人の衆を悉く徴発し、その君を従えるのは、不仁です。君は貢物を受け、その軍隊を許可し、その君が従うのは辞退なさって下さい」
呉王は許諾した。子貢は去って晋に行き、晋君に言った
「私はこう聞いております、思慮が先に定まっていなければ急な事態に対応することができず、軍備が先に備わっていなければ敵に勝つことはできません。今、斉と呉はまさに戦おうとしており、勝てば必ずその軍を率いて晋に臨んでくるでしょう」
晋君は大いに恐れて言った
「どうしたらいいだろうか」
子貢は言った
「軍備を整え卒を休ませて呉をお待ちください、彼らが戦って勝たなければ、越がこれを乱すことは必定です」
晋君は許諾した。子貢は去って魯に行った。呉王は果たして九郡の兵を興して、斉を艾陵で大いに戦い、大いに斉軍を破り、七将をとらえ、陣をしいて帰らなかった。果たして晋人と互いに黄池のほとりで遭遇した。呉と晋は強さを争い、晋人はこれを撃ち、大いに呉軍を破った。呉を伐つこと三年、東方で覇をとなえた。故に子貢が一度出るや、魯を存続させ、斉を乱し、呉を破り、晋を強くし、越に覇をとなえさせたというのは、このことである。

越絶書

越絶外伝記地伝第十

昔、越の先君無余は、禹の子孫で、別れて越に封じられ、禹の塚を守った。問うに、天地の道、万物のおきては、その根本を失うことがない。神農は百草・水土の甘苦を嘗め、黄帝は衣裳を作り、后稷は農業を興し、器械を作り、人事は備わった。桑麻の畝を作り肥やしをやり、五穀を播くのには、必ず手足をもってする。大越の海浜の民は、ひとり鳥田をもってし、それには大小の差があり、進退するに行列を作り、自ら使おうとすることはなかったのは、その理由はどうしてか。
いわく、禹はその始め、民を憂いて洪水から救い、大越に至り、茅山に登り、大いに集めて計り、徳のある者に爵位を与え、侯のある者を封じ、茅山の名を改めて會稽といった。その王位に就いてからは、大越を巡狩し、老人に会い、詩書を納め、人物を計り調べ、斗升を均一にした。病のため死に、會稽に葬られた。葦の槨に桐の棺、墓穴を穿つこと七尺、上は漏れることなく、下は水につかることがなかった。壇の高さは三尺、土の階段が三段あり、広さは一畝であった。禹がここに至ったのは、また理由があり、また覆釜のためであった。覆釜とは、州土であり、徳を満たすものであった。禹は美としてここに至ったのである。禹は晩年になり、たそがれになったと知り、書をそのふもとに求め、白馬を祭った。禹井とは、井は法である。思うに禹の葬儀は法度をもってし、人民を煩わさなかった。
無余ははじめ大越に封じられ、秦餘望の南に都をおき、千余年たって句踐に至った。句踐は治所を山北に移し、拡張して東海を属し、内外越は別に封じられてこれを分けた。そこにいて幾ばくもなく、自ら賢聖を求めた。孔子は弟子七十人を従え、先王の雅びやかな琴を捧げ持ち、礼を治め行って奏上に赴いた。句踐はそこで自ら賜夷の鎧を着て、歩光の剣を帯び、物盧の矛を持ち、決死の士三百人を出し、陣を関下に作った。孔子はしばらくしてはるか越に至った。越王は言った。
「はい、夫子は何をもってこれを教えるのですか」
孔子は答えて言った
「私は五帝三王の道を述べることができます、故に雅やかな琴を捧げ持って大王のところに至ったのです」
句踐は嘆息して嘆いて言った
「越の性質はもろく愚かであり、川を行き来し山におり、船を車としかいを馬として、往くのはつむじ風のごとく、去れば追いがたく、精鋭な兵は死をいとわないのが、越の定まった性質です。夫子が異とすれば不可です」
ここにおいて孔子は辞退し、弟子も〔句踐に〕従うことはできなかった。
越王夫鐔から無余までは、長久であり、世系は記録することはできなかった。夫鐔の子は允常である。允常の子は句踐であり、大いに覇をとなえ王と称し、瑯琊にうつって都をおいた。句踐の子は与夷で、そのとき覇をとなえた。与夷の子は子翁で、そのとき覇をとなえた。子翁の子は不揚で、その時覇をとなえた。不揚の子は無疆で、そのとき覇をとなえ、楚を伐ったが、威王は無疆を滅ぼした。無疆の子は之侯で、ひそかに自立して君長となった。之侯の子は尊で、そのとき君長となった。尊の子は親で、人々の信望を失い、楚はこれを伐ち、南山に逃走した。親から句踐に至るまでは、全部で八君、瑯琊に都をおくこと二百二十四年であった。無疆以前は、覇をとなえ、王と称した。之侯以降は微弱となり、君長と称した。
句踐小城とは、山陰城のことである。周囲は二里二百二十三歩、陸門が四つ、水門が一つあった。今の倉庫はその宮殿の台のところにある。周囲は六百二十歩、柱の長さは三丈五尺三寸、といの高さは一丈六尺であった。宮殿には百の扉があり、高さは一丈二尺五寸であった。大城の周囲は二十里七十二歩、北面は築いていなかった。そして呉を滅ぼし、治所を姑胥台に移した。山陰大城は、范蠡が築いて治所を置いたところである。今伝わっているところではこれを蠡城という。陸門が三つ、水門が三つあり、西北に城壁が途切れており、それもまた理由があった。始建国の時に至り、蠡城は消滅した。
稷山は、句踐の斎戒した台である。
亀山は、句踐が建てた怪游台である。東南に司馬門があり、よって亀を照らした。また天の気を仰ぎ望み、天の怪を見た。高さは四十六丈五尺二寸、五百三十二歩、今の東武里である。一名を怪山という。怪山は、むかし一夜にして自らやってきたので、民はこれを怪しみ、故に怪山といった。
駕台は、周囲が六百歩、今の安城里である。
離台は、周囲が五百六十歩、今の淮陽里丘である。
美人宮は、周囲が五百九十歩、陸門が二つ、水門が一つ、今の北壇利里丘土城であり、句踐が美女西施・鄭旦を教習した宮台である。女は苧蘿山の出身で、呉に献じようとしたが、自ら東の果ての田舎であることを思い、女が田舎じみているのを恐れ、故に大道の近くにあったのである。県を去ること五里である。
楽野は、越の狩り場であり、大いに楽しんだので、ゆえに楽野と言った。その山上の石室は、句踐が休んで謀をしたところである。県を去ること七里である。
中宿台馬丘は、周囲が六百歩、今の高平里丘である。
東郭外の南小城は、句踐の氷室である。県を去ること三里である。
句踐が出入りするには、稷山で斎戒し、田里より行き、北郭門より去った。亀を亀山で照らし、さらに駕臺へ行き、離丘に馳せ、美人宮に遊び、中宿で音楽に興じ、馬丘を過ぎた。楽野の道に弓を射て、犬を若耶に走らせ、石室で休息して謀り、冰廚で食事をした。功績をしるし士をはかり選び、そののちやがて昌土台を作り、その姿をかくし、その情を隠した。一説にいう、氷室は、食事を備えるところである。
浦陽は句踐の軍が破れて兵を失い、ここに悶えた。県を去ること五十里である。
夫山は、句踐が糧食を絶やし、困窮したところである。その山上の大冢は、句踐の庶子の冢である。県を去ること十五里である。
句踐は呉と浙江のほとりで戦い、石買は将となった。老人、壮年は諫言を進めて言った
「石買は、人は皆怨みとなし、家は皆仇となし、貪欲で利を好み、心が狭く、長期的な策がありません。王がもしこれを用いれば、国は必ずや長続きしません」
王は聞かず、ついにこれを遣わした。石買は出発し、行って浙江のほとりに至ると、無罪の者を斬殺し、威を専らにし軍中を服従させようとし、将帥を動揺させ、ひとりその権力を専らにした。兵士は恐れて、人は安心できなかった。
兵法にいう、「人を見るに嬰児のごとくすれば、共に深い谷に赴くことができる」
兵士は腐敗したが、石買は気づかず、なお法を厳しく刑を重くした。子胥はひとり越を討ち取れるきざしを見て、変じて奇謀をなし、或いは北に向かい或いは南に向かい、夜に火を挙げ鼓を打ち、昼に疑兵を陣した。越軍は潰滅し、命令は行われず、背反して乖離した。帰ってその王に報じると、王は買を殺し、その軍に告げ、叫び声は呉に聞こえた。呉王は恐懼したが、子胥はひそかに喜んだ。
「越軍は敗れます。私は、狐がまさに殺されようすると、唇を噛んで歯を吸うと聞いております。今越の句踐はすでに敗れております。君王は意を安んじてください、越はたやすく併合することができます。人を使わして越を訪れさせると、越軍は降服することを請うたが、子胥は許さなかった。越は会稽山の上に立てこもり、呉は退いてこれを囲んだ。句踐は嘆息して文種・范蠡の計を用い、死を転じて覇業をなした。一人の身に、吉凶はかわるがわる至る。盛衰存亡は、臣を用いることにかかっている。天下を治める道は万事、重要なのは賢人を得ることにある。越が会稽山に立てこもった日、呉と和平を行い、呉は兵を引いて去った。句踐はまさに下ろうとして、西方の浙江に至り、命令を待って呉に入った、故に鶏鳴墟という。その入臣の辞に言う
「亡臣私句踐は、かならず兵士を率いて、呉に入り奴隷となります。民はお使ください、土地は保有してください」
呉王はこれを許した。子胥は大いに怒り、目は夜光のごとく、声は吼える虎のようであった。
「このたび越が戰わずに降伏したのは、天が呉に賜ったのだというのに、天に逆らうというのか。私は君王が急ぎこれを制裁していただきたい」
陽城里は、范蠡の城である。西の方角は水路へ至り、水門が一つ、陸門が二つあった。
北陽里城は、大夫種の城である。土を西山から取ってこれに加えた。直径は百九十四歩である。或いは南安といった。
富陽里は、外越が義を賜ったところである。里門に居住させ、練塘田を褒め称えた。
安城里高庫は、句踐が呉を伐ち、夫差を擒にし、勝利をもたらした兵器を思い、倉庫を築きこれを高く積み上げた。周囲は二百三十歩、今の安城里である。呉王は聴かず、ついにこれを浙江で赦したというのがこのことである。
故の禹の宗廟は、小城南門外の大城内にある。禹稷は廟の西にあり、今の南里である。
独山大冢は、句踐が自ら塚を作った。瑯琊に遷都し、塚は完成しなかった。県を去ること九里である。
麻林山は、一名多山という。句踐が呉を伐とうとし、麻を植えて弓の弦をつくり、斉人にこれを守らせた。越は斉人を「多」といい、ゆえに麻林多といい、呉を防いだ。山下の田地で功臣を封じた。県を去ること一十二里である。
会稽山上城は、句踐が呉と戦い、大いに敗れ、その中に立てこもった。その下には目魚池があり、その利益は税がかからなかった。
会稽山北城は、子胥の駐屯兵が城を守ったのがこれである。
若耶大冢は、句踐が移した先君夫鐔の墳墓である。県を去ること二十五里である。
葛山は、句踐が呉に疲弊し、葛を植え、越の女に葛布を織らせ、呉王夫差に献じた。県を去ること七里である。
姑中山は、越の銅官の山であり、越人はこれを銅姑瀆といった。長さは二百五十歩、県を去ること二十五里である。に犬山という。その高みに犬亭がある。県を去ること二十五里である。
白鹿山は、犬山の南にあり、県を去ること二十九里である。
雞山・豕山は、句踐が鶏と豚を飼い、まさに呉を伐とうとして、士に食べさせたのである。雞山は錫山の南にあり、県を去ること五十里である。豕山は民山の西にあり、県を去ること六十三里である。洹江からは越に属す。おそらく豕山は餘暨界中にある。
練塘は、句踐の時に錫山から採取して炭を作り、「炭聚」といい、すなわち炭瀆より練塘に至り、各々このことによって名づけたのである。県を去ること五十里である。
木客大冢は、句踐の父允常の墳墓である。
初めて瑯琊に移ったとき、やぐら船の卒二千八百人に松とこのてがしわを伐採させていかだを作らせた、ゆえに木客という。県を去ること十五里である。一説に、句踐が良い木材を伐採し、文様を刻んでで呉に献じた、故に木客という。
官瀆は、句踐の工官である。県を去ること十四里である。
苦竹城は、句踐が呉を伐って還り、范蠡の子を封じたところである。その地は辺鄙で、直径は六十歩である。民に田地を作らせ、塘の長さは一千五百三十三歩である。そこの墳墓を土山いった。范蠡は苦心して勤め功が厚く、ゆえにその子をここに封じたのである。県を去ること十八里である。
北郭外路南溪北城は、句踐が鼓鍾宮を築いたところである。県を去ること七里である。その邑には龔・銭の姓の者が住んでいた。
舟室は、句踐の造船所である。県を去ること五十里である。
民西大冢は、句踐の客の秦伊というよく亀を照らした者の墳墓である。よって冢を名づけて秦伊山といった。
射浦は、句踐が兵を教習したところである。今、射浦は県を去ること五里である。射卒の陳音が死んで、民西に葬り、故に陳音山と言った。
種山は、句踐が大夫種を葬ったところである。櫓舟の卒二千人に、三本の墓道を作らせ、これを三つの峰の下に葬った。
種はまさに死のうとするとき、自ら記した
「後に賢者があり、百年たって至る。私を三峰の下に置け、自ら後世に現れるであろう」
句踐はこれを葬り、祭って三賢人に伝えた。
巫里は、句踐が巫師を移住させ一つの聚落を作ったところである。県を去ること二十五里である。その亭と祠は今の和公群社稷墟である。
巫山は、越■■、神巫の官であり、死ぬとその上に葬られた。県を去ること十三里ばかりである。
六山は、句踐が銅を鋳たところである。銅を鋳て熔けないと、これを東阪に埋めた。その上には竹の鞭がとれた。句踐は使者を遣わし竹を南社に取っていたが、種を六山に移し、装飾して竹の鞭を作り、これを呉に献じた。県を去ること三十五里である。
江東中に葬られた神巫は、越の神巫の無杜の子孫である。死ぬと、句踐は中江にこれを葬った。巫は神がかりであり、転覆させて呉人の舟に禍を与えようとした。県を去ること三十里である。
石塘は、越が軍船を妨害したところである。塘は広さ六十五歩、長さ三百五十三歩、県を去ること四十里である。
防塢は、越がそれによって呉軍を防いだ。県を去ること四十里である。
杭塢は、句踐の船があった。二百石の長さで、卒七千人を動員し、これを会夷に渡した。
県を去ること四十里である。
塗山は、禹が妻を娶った山である。県を去ること五十里である。
朱餘は、越の塩官である。越人は塩を「餘」といった。県を去ること三十五里である。
句踐はすでに越を滅ぼしてから、呉人に呉塘を作らせた。東西は千歩で、名づけるのに頭文字を避けた。後にこのために名づけて塘と言った。
独婦山は、句踐がまさに呉を伐とうとしたとき、寡婦を移して独山上に至らせ、決死の士に示し、心を一つにさせることができた。県を去ること四十里である。後人の説では、おそらく句踐が軍士を遊ばせたのであろう。
馬嗥は、呉が越を伐ったとき、道中で大風に遭い、車は壊れ馬は失われ、騎士は堕ちて死に、一匹の馬が鳴き叫んだ、そのことは呉史に見られる。
浙江南路西城は、范蠡が兵を集めた城である。その陵は堅く守ることができ、故にこれを固陵と言った。なぜそうなったかというと、大きな軍船が置いてあったからである。
山陰古故陸道は、東郭を出て、直瀆より陽春亭に直通した。山陰故水道は、東郭を出て、郡より陽春亭に至った。県を去ること五十里である。
語児郷は、昔の越の国境内にあり、名を就李と言った。呉は越の地に力を及ぼして戦場とし、柴辟亭に至った。
女陽亭は、句踐が呉に奴隷として入ったとき、夫人が従い、道中で娘をこの亭で産み、李鄉で養育した。句踐が呉に勝つと、名を女陽と改め、就李を改めて語児郷とした。
呉王夫差は越を伐ち、その国を保有し、句踐は降伏して奴隷となった。三年して、呉王はまた句踐を越に帰して封じ、東西は百里、北方は呉に臣事し、東を右とし、西を左とした。大越のもとの境界は、浙江から就李に、南は姑末・写干に至った。
覲鄉の北に武原がある。武原は、今の海塩である。姑末は、今の大末である。写干は、今は豫章に属す。
無餘が初めて越に封じられて以来、伝え聞くところ越王の子孫は、丹陽皋鄉にいて、姓を梅と変えた。梅里がこれである。
秦の立国より以来、秦元王に至るまで年を記さなかった。元王は立つこと二十年、平王は立つこと二十三年、恵文王は立つこと二十七年、武王は立つこと四年、昭襄王もまた立つこと五十六年にして、周赧王を滅ぼし、王を周はここに絶えた。孝文王は立つこと一年、荘襄王は号を太上皇帝とあらため、立つこと三年、秦始皇帝は立つこと三十七年、号して趙政といい、政は、趙の外孫であった。胡亥は立つこと二年、子嬰は立つこと二年であった。秦元王から子嬰に至るまで、凡そ十人の王がいて、百七十年であった。漢の高帝はこれを滅ぼし、咸陽に治所を置き、天下を一つにした。
政は将軍魏舎・内史教に韓を伐たせ、韓王安をとらえた。政は将軍王賁に魏を攻めさせ、魏王歇をとらえた。政は将軍王渉に趙を攻めさせ、趙王尚をとらえた。政は将軍王賁に楚を攻めさせ、楚王成をとらえた。政は将軍史敖に燕を攻めさせ、燕王喜をとらえた。政は将軍王渉に斉を攻めさせ、斉王建をとらえた。政は号をあらためて秦始皇帝とし、その三十七年に、東遊して会稽に行き、道中で牛渚を渡り、東安に向かった。東安は、今の富春である。丹陽、溧陽、鄣故、餘杭軻亭を通り南方に向かった。東方の槿頭に向かい、道中諸暨・大越を渡った。正月甲戌に大越に至り、舎都亭に留まった。錢塘浙江から「岑石」を採った。石の長さは一丈四尺、南北面の広さは六尺、東面の広さは四尺、西面 の広さは一尺六寸、文を刻んで越棟山上に立て、そこへの道は九つの曲がり角があり、県を去ること二十一里であった。この時、大越の民を移して餘杭伊攻□故鄣に置いた。そこで天下の有罪の吏民を移し、海南の元の大越のあったところに置き、東海の外越に備えた。そして大越の名をあらためて山陰と言った。すでに去り、諸暨・錢塘に向かい、そして呉に向かった。姑蘇台に登った、そして矢を射て宅亭・賈亭北にとどまった。その年に霊に至ったが、射ずに去った。曲阿・句容に向かい、牛渚を渡り、西に向かって咸陽に至り、崩御した。

越絶書

越絶外伝計倪第十一

昔、越王句踐は近くは強国の呉に侵攻され、遠くは諸侯に恥じ、武器と鎧は散って無くなり、国はまさに滅亡しようとし、そこで諸臣を集めてこれと誓った
「私は呉を伐とうと思うが、いかにして功を上げられるだろうか」
群臣は黙って答えるものは無かった。王は言った
「主が憂えれば臣は恥じ、主が辱められれば臣は死ぬ。どうして大夫らは簡単に会えるのに使うのが難しいのか」
計倪は官位が低く年が若く、後ろにいたが、首を挙げて起ち、言った
「危ういことです。大夫が簡単に会えるのに使うのが難しいのではありません、これは大王が臣を使えないということです」
王は言った
「どうしてか」
計倪は言った
「官位財幣は王の軽んずるところであり、死は士の重んずるところです。王が軽んじるところを惜しんでいるのに、士の重んずるところを攻めるとは、どうして難しくないでしょうか」
王は自ら会釈をして計倪を進めてこれに問うた。計倪は答えて言った
「仁義は治の門であり、士民は君主の根本です。門を開いて根元を固め、身を正すにこしたことはありません。身を正す道は、謹んで左右の者を選ぶことです。左右の者が選ばれれば、甚だ主は日々ますます賢となり、選ばなければ、甚だ主は日々不肖となります。これら二つは本質を重んじ次第に浸透してきます。どうか君王は衆より公選し、左右の物をよく鍛え、君子至誠の士でなければ、ともに家にいることがないようにしてください。邪な気をだんだんと生じなくさせ、仁義の行いはいとぐちがあれば、人はその能力を知り、官はその治を知ります。爵賞刑罰は、一切が君より出れば、臣下はあえて誹ったり賞めたりを言わず、功のない者はあえて政治に干渉しません。故に明主が人を用いるには、誰の縁故かによらず、その先祖が誰かを問わず、採用するのは一つの方法によります。これは昔、周の文王・斉の桓公が自ら賢人を任じ、太公・管仲が人を知るのに明るかったということです。今はそうでないので、私はそのために危ういと言ったのです」
越王は顔色を変えて言った
「私は、斉の桓公は淫泆であったのに、諸侯を九回会盟して諸侯をただしたのは、思うに管仲の力だと聞いている。私が愚かだといっても、思うにその原因は大夫にある」
計倪は答えて言った
「斉桓公はの管仲の罪を除き、重責に任じ、易えるに至りました。これは下の南陽蒼句です。太公は九十にして功がなく、磻溪の餓えた人にすぎませんでした。聖主はその恥を計らず、賢者としました。一たび仲父に告げ、二たび仲父に告げ、これは王に至ることはできますが、ただし覇業はどうして道に足るでしょう。桓公は仲父をたたえ、文王は太公をたたえました。この二人のことをおしはかりますと、それまでは少しの功労や大声を上げる功労もありませんでしたが、弓矢の怨みを忘れ、上卿の位を授けました。伝に、能力は三公にあたる、といいます。今、臣を置いて尊ばず、賢人を用いないのは、たとえるなら門戸がかたどって設けられ、依って相欺くようなものであり、智者の恥じるところ、賢者の恥じるところです。君王はこれをお察しください」
越王は言った
「誠実な者はその言葉を隠すことができない。大夫はすでにここにいるのだ、どうしてその言葉を待つことがあろうか」
計倪は答えて言った
「私は、智者はでたらめを言って功労を成さず、賢者は始めには動きがたくても、終わりには成功する、と聞いております。伝に『易経で謙遜して誤った質問に答え、威勢を抑え、兵権を人に示してはならない』といいます。賞罰は君主によるとは、このことをいうのです。故に賢君が臣を用いるには、すぐれた者に責務をおさめ、これに職を施してその功をなし、遠くに使いさせ、その誠実を明らかにします。ひそかに秘密を告げ、その誠実を知ります。これとともに事を話し合い、その智を観ます。これに酒を飲ませ、その態度を観ます。士の選抜が整備され、不肖の者は居場所がなくなります」
越王は大いに恥じ、そこで池を壊して塹壕を埋め、穀倉を開いて貧しい者に貸与し、そして群臣に自ら病気の者を見舞わせ、自ら死者の葬儀を弔問し、僻地を苦しめず、有徳の者を尊んだ。民と苦楽を同じくし、河や泉を遮り、ひとり飽食しているのでないことを示した。これを行うこと六年、士民は心を一つにし、謀らなくても言葉を同じくし、呼ばなくても自ら来て、皆呉を伐とうとした。遂に大いに功があって、諸侯に覇をとなえた。孔子が「寛容であれば人民を得る」と言ったのは、このことである。勇があって外に見えていれば、必ず仁が内にあるものである。子胥は就李に戦い、闔廬は傷つき、軍は敗れて帰った。この時の死傷者は計り数えることができず、そうなったのは、疲労のためでやむを得なかった。子胥は内心で憂えた
「人臣として、上は主を保全することができず、下は人民に兵刃の災難を被らせた」
自責して内心で傷ついていたが、理解できるものはいなかった。ゆえに自ら死者や負傷者を運び、子胥の手を尽くさない者はなく、涙を流して伐って死にたいと思った。三年自戒し、妻子に親しまず、飢えても飽食せず、寒くてもあやぎぬを重ねず、越に心を集中し、その敵に報復しようとした。越公に師事し、その言葉を記録した。天の兆しを印したのは、牽牛と南斗であった。さかんに怒り、天とともに起った。令を発して民に告げると、民の帰することは父母に対するようで、子胥の言葉があれば、ただ後れるのを恐れた。軍隊と人民が心を同じくし、天意を得た。越はそこで軍隊を興し、西江で戦った。二国は強さを争い、いまだどちらが存続してどちらが亡びるかわからなかった。子胥は時勢の変化を知り、擬兵を用い、両翼をなし、夜に火をかかげ互いに呼応した。句踐は大いに恐れ、兵をととのえて帰し降伏しようとした。兵を進めて越を会稽填山に囲んだ。子胥の妙策はすばらしいと言うべきもので、守って戦うこと数年、句踐は和平を行った。伍子胥は諫め、これを容認しなかった。太宰嚭はこれを許し、兵を引いて還った。夫差は嚭のいうことを聞いて、仇を殺さなかった。軍隊を十万興しても、適わないのと同じであった。聖人はこれを譏り、このため春秋はその文を採用しなかった。故に伝に曰く、「子胥は賢者であったが、なお就李で恥をかいた」とは、このことをいうのである。哀しいことだ、夫差が伍子胥を信じずに、太宰嚭を任用したのは、これは晋に禍した驪姬、周を滅ぼした褒姒に比するもので、図画では非常に妖艶であるが、人理には極めて道を外れるものである。傾城傾国は、ここに後の王に明らかに示し、麗しくなまめかしい姿は、前史に戒めを求めるべきである。古人は、「苦い薬は病に効き、苦言は行いに利く」と言った。思いを隠して安寧のときも危険を思い、日々謹むのである。易に曰く「進むを知って退くを知らず、存するを知って亡ぼすを知らず、得るを知って喪うを知らず」また曰く、「進退存亡の正しさを失わないのは、ただ聖人だけである」これによって言うと、進むには退くの義があり、存するには滅ぶの兆しがあり、得るには喪うの理がある。これを愛すること父母のごとく、これを仰ぐこと日月のごとく、これを敬うこと神明のごとく、これを恐れること雷のごとく、これで幸いを長く望むことができ、禍乱はおこらない。

越絶書

越絶外傳記呉王占夢第十二

昔、呉王夫差の時、その民は多く、穀物はよく実り、兵器と鎧は堅牢で、その民は戦闘に習熟していた。闔廬【欠落】、行うにふさわしい日があり、発するにふさわしい時があるという子胥の教えを絶った。姑胥の門を通過し、姑胥の台で昼寝をした。目覚めて起きると、その心は怨み嘆き、悔しく思うところがあるようだった。そこで太宰を召してこれを占わせて、言った
「さきに昼寝をし、夢で章明の宮に入った。二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのを見た。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのを見た。二本のすきが吾が宮堂にたてかけてあるのを見た。流水がさかんに流れわが宮の垣を越えるのをみた。前園に横向きに桐が生えていたのを見た。後ろの部屋で鍛工が鼓を両方からささえ持ち小さく震えるのを見た。お前は私のためにこれを詳しく占え、吉であれば吉といい、凶であれば凶といい、私の心の従うところにへつらうことがないように」
太宰嚭は答えて言った
「よろしいことです。大王は軍隊を興して斉を伐って下さい。章明とは、斉を伐って勝ち、天下に名高くなるということです。二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのは、大王の聖気があまりあるということです。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのは、四夷がすでに臣服し、諸侯を朝見させるということです。二本の鋤が宮堂にたてかけてあったのは、田夫を助けるということです。水がさかんに流れ宮堂を越えるのを見たのは、献上物がすでに至り、財があまりあるということです。前園に横向きに桐が生えていたのを見たのは、楽府の巧みな吹奏です。後ろの部屋で鍛工が鼓が小さく震えるのを手伝っているのを見たのは、宮女の鼓楽です」
呉王は大いに喜び、太宰嚭に色とりどりの絹織物四十疋を賜った。王の心は癒えず、王孫駱を召してこれに告げた。答えて言った
「私の智能は浅薄で、方術のことはわからず、大王の夢を占うことはできません。私は、東掖門亭長で越公の弟子の公孫聖を知っております。人となりは、幼くして学を好み、長じては博聞彊識、将来のことに通じておりますので、大王の夢を占うことができます。どうかこれをお召し下さい」
呉王は言った
「わかった」
王孫駱は文書をまわして言った
「今日壬午、左校司馬王孫駱は、命令を受けて東掖門亭長公孫聖に告ぐ。呉王は昼寝をし、目が覚めると心中は怨み嘆き、悔しく思うところがあるようだった。書面が至れば、車を馳せて姑胥の台に来るように」
聖は書面を得て、開けてこれを読み、地に伏して泣き、しばらく起きなかった。その妻大君は傍らより接してこれを起こし、言った
「どういうわけで大げさなのでしょう!主君に見えることを望み、にわかに急ぎの書面を得ることができたのに、泣いて止まないとは」
公孫聖は天を仰いで嘆いていった
「ああ、哀しいことだ。これはもとよりお前の知りうることではない。本日壬午、時は南方にあり、命は蒼天に属し、逃げることはできない。地に伏して泣くのは、自ら惜しむのではなく、ただ呉王のためである。こびへつらって發言すれば、師道は明らかでなくなる。正しい言葉で直諫すれば、身は死して功はない」
大君は言った
「あなたは無理にでも食べて自愛し、愼んでお忘れにならないで下さい」
地に伏して書き、すでに篇綴すると、そこで妻と腕をとって決別し、涕泣すること雨のようであった。車に乗って振り返らず、遂に姑胥の台に至り、呉王に謁見した。呉王は労って言った
「越公の弟子公孫聖よ、私は姑胥の台で昼寝をし、夢の中で章明の宮に入った。門に入ると、二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのを見た。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのを見た。二本のすきが吾が宮堂にたてかけてあるのを見た。流水がさかんに流れわが宮の垣を越えるのを見た。前園に横向きに桐が生えていたのを見た。後ろの部屋で鍛工が鼓が小さく震えるのを手伝っているのを見た。お前は私のためにこれを詳しく占え、吉であれば吉といい、凶であれば凶といい、私の心の従うところにへつらうことがないように」
公孫聖は地に伏し、しばらくして起き上がり、天を仰いで嘆いて言った
「悲しいことだ。船を好ものは溺れ、騎馬を好ものは落馬し、君子は各々好むものを禍とする。へつらって申せば、師道は明らかでなくなり、正しい言葉で強く諫めれば、身は死して功はありません。地に伏して泣いたのは、自らを惜しんだのでなく、大王を悲しんだからです。章とは、戦って勝たず、驚き恐れて逃げることです。明とは明るさから遠ざかり暗さに近づくということです。二つの鬲があり火を炊いていたが穀物を蒸していないのを見たのは、王がまさに火でものを煮て食べることができないということです。二頭の黒犬が一頭は北に吠え一頭は南に吠えていたのを見たのは、大王の身が死し、魂魄が惑うということです。二本のすきが吾が宮堂にたてかけてあるのを見たのは、越人が呉国に侵入し、宗廟を伐ち、社稷を掘り起こすということです。流水がさかんに流れわが宮の垣を越えるのを見たのは、大王の宮堂が虚ろになるということです。
前園に横向きに桐が生えていたのを見たのは、桐は器に用いず、ただ木偶を作り死人と共に葬るということです。後ろの部屋で鍛工が鼓が小さく震えるのを手伝っているのを見たのは、ため息をつくことです。王はみずから行わず、臣下にやらせればよいでしょう」
太宰嚭・王孫駱は恐れ、冠と頭巾を取り、肩脱ぎして謝罪した。呉王は聖の言葉が不祥なのに怒り、そこでその身に自ら災いを受けさせた。そこで力士石番に、鉄杖で聖を伐たせ、これを断って頭を二つにした。聖は天を仰いで嘆いて言った
「天は冤罪をしっているか。直言して正しく諫めれば、身は死んで功績はない。私の家に私を葬らせず、私を山中に掲げていかせよ、後世に声を響かせよう」
呉王は人に秦餘杭の山に掲げていかせ、
「虎狼がその肉を食べ、野火がその骨を焼き、東風が至れば、お前の灰を飛び散らせる、お前はあらためて声を出すのか」
太宰嚭は進み出て再拝して言った
「逆言はすでに滅び、讒諛はすでに滅びましたので、そこで杯を飲み干し、時は行うことができます」
呉王は言った
「わかった」
王孫駱を左校司馬とし、太宰嚭を右校司馬とし、王は騎兵三千を従え、旌旗羽蓋、自ら中軍にいた。斉を伐って大いに勝った。兵を率いて三月去らず、通過して晋を伐った。晋はその軍隊が疲れ、糧食が尽いたのを知り、軍隊を興してこれを撃ち、大いに呉軍を破った。江を渡るとき、流血して屍を浮かせるものは、数えることができなかった。呉王は忍びず、その余兵を率いて、互いに率いて秦餘杭の山に至った。飢えて行軍は糧食に乏しく、視界が不明となった。地に拠って水をのみ、生稲を持ってこれを食べた。左右を顧みて言った
「これは何というのか」
群臣は答えて言った
「これは生稲です」
呉王は言った
「悲しいことだ、これは公孫聖が言った、王がまさに火でものを煮て食べることができないということだ」
太宰嚭は言った
「秦餘杭山の西側の斜面は清淨で、休息できます。大王は速やかに食事をとって行けば、なお十数里あるのみです」
呉王は言った
「私はかつて公孫聖をこの山で殺した。お前は試みに私のために先にこれを呼んでみよ、そこでなおここにいるなら、まさに声が響くであろう」
太宰嚭はそこで山に登って三度呼ぶと、聖は三度応じた。呉王は大いに恐れ、足はただれたようになり、顔は死人のような色になり、言った
「公孫聖が私に国を得させれば、誠に代々使えるであろう」
言葉がいまだ終わらないうちに、越王が追いかけてきた。兵は三度呉を囲み、大夫種は中軍にいた。范蠡は呉王を責めて言った
「王には過ちが五つあります。なんとこれをご存じであろうか。忠臣伍子胥、公孫聖を殺しました。胥の人となりは先見の明があり忠信であったのに、これを両断し江に投げ込みました。聖は正しい言葉で相手を憚らずに諫めたのに、身は死して功はありませんでした。これは大きな過ちの二つではないでしょうか。斉は罪がないのに、空しくまたこれを伐ち、鬼神を祀らせず、社稷を荒廃させ、父子を離散させ、兄弟を別居させました。これは大きな過ちの三つめではないでしょうか。越王句踐は、東の僻地にいるとはいっても、また天皇の位につながり得て、罪がないのに、王は常に茎を刈り取り馬に秣を食べさせ、奴隷のように扱いました。これは大きな過ちの四つ目ではないでしょうか。太宰嚭は他人を謗ってへつらい、王の血筋を断絶したのに、これのいうことを聴いて用いました。これは大きな過ちの五つ目ではないでしょうか。」
呉王は言った
「今日、教えを聞こう」
越王は歩光の剣を持ち、屈盧の矛を杖つき、目をみはって范蠡にいった
「お前はどうしてすみやかにこれを図らないのか」
范蠡は言った
「臣下は敢えて主を殺しません。臣が殺さずに主がもし亡くなるなら、今日へりくだって敬えば、天は微功に報いるでしょう」
越王は呉王に言った
「世に千歳の人はいない、死は一つである。范蠡は左手に鼓を持ち、右手にばちをとりこれを叩き、言った
「上天は青青として、あるいは存しあるいは亡びる。どうして軍士を待って、お前の首を断ち、お前の体を挫くのは、ほんとうに誤っていることではないか」
呉王は言った
「教えを聴きましょう。三寸の帛で私の目を覆ってください、もし死んで知ることになれば、私は伍子胥と公孫聖に会うのを恥じます。知ることがなければ、私は生きるのを恥じます。越王はそこで組みひもをほどいてその目を覆うと、ついに剣に伏して死んだ。越王は太宰嚭を殺し、その妻子を戮したのは、忠信でなかったためである。呉の血筋を断絶した。

越絶書

越絶外伝記宝剣第十三

昔、越王句踐は宝剣を五本持っていて、天下に聞こえていた。客によく剣を見るものがあり、名を薛燭といった。王は召してこれに問うて言った
「私は宝剣を五本持っている、どうかこれを示させてほしい」
薛燭は答えて言った
「愚かな理は言うに足りませんが、大王が請われるならやむを得ません」
そこで担当者を召し、王は毫曹を持ってこさせた。薛燭は答えて言った
「毫曹は宝剣ではありません。宝剣というものは、五色が並び見えて、互いに勝ることがないものです。毫曹はすでに名をほしいままにしていますが、宝剣ではありません」
王は言った
「巨闕をもってこい」
薛燭は言った
「宝剣ではありません。宝剣は、金錫と銅が分離しないものです。今、巨闕はすでに分離しているので、宝剣ではありません」
王は言った
「しかし巨闕がはじめてできたとき、私が露壇の上に座っていると、宮人で四頭立ての白鹿の馬車で過ぎる者があり、車が走って鹿が驚き、私は剣を引き抜いてこれを指すと、馬車は上に飛び上がり、その切断したことがわからなかった。銅の釜を穿ち、鉄の鬲を断つと、中がみな決壊して穀物の粒のようであり、故に巨闕というのである」
王は純鈞を持ってくると、薛燭はこれを聞き、忘れたように心を喪った。しばらくして、悟ったように恐れた。階を下りて深く思い、服を簡素にして坐してこれを見た。手を振って払い上げると、その光華は芙蓉が咲き始めたようだった。その釽を見ると、爛々として星が並んでいるようだった。その光彩を見ると、こんこんとため池から水が溢れるようだった。その断面を見ると、ごつごつとして細かな石のようだった。その素材を見ると、光り輝いて氷が熔けるようだった。
「これがいわゆる純鈞ですか」
「そうだ。客にこれに値段を付けるものがいて、市が立つ郷が二つ、駿馬千頭、千戸の都が二つの価値があるとしたが、よいだろうか」
薛燭は答えて言った
「いけません。この剣が作られたとき、赤堇の山は、破壞して錫が出ました。若耶の渓は、枯れて銅が出ました。雨師は水で洗い流し、雷公はふいごを撃ち、蛟龍は炉を叩き、天帝は炭を装備しました。太一が下を見ると、天の精霊がこれに下りてきました。欧冶子はそこで天の精神により、その技巧を尽くし、大型の剣を三つ、小型の剣を二つ作りました。一つめを湛盧といい、二つめを純鈞といい、三つめを勝邪といい、四つめを魚腸といい、五つめを巨闕といいました。呉王闔廬の時、勝邪・魚腸・湛盧を得ました。闔廬は無道で、子女が死ぬと、生きている者を殺してこれを葬送しました。湛盧の剣はこれを水のように去り、秦に行き楚を過ぎり、楚王が寝ていると、呉王湛盧の剣を得、まさにさきがけてこれを標記し保存しようとしました。秦王は聞いてこれを求めたが得られず、軍隊を興して楚を撃ち、言いました
「私に湛盧の剣を与えれば、軍隊を返してお前の国から去ろう」
楚王は与えませんでした。時に闔廬もまた魚腸の剣で呉王僚を刺し、腸夷の甲を着ていたのを三度突き刺ささせました。闔廬は専諸を焼き魚の料理人とし、剣を引き抜いてこれを刺し、ついに王僚を弑殺しました。これは小さく敵國に試しただけで、いまだ大きく天下に用いてはおりません。いま、赤堇の山はすでに合し、若耶の渓谷は深く、はかることはできません。群神は降らず、欧冶子はすぐに死にました。また国力を傾けて金を量り、珠玉を河に満たしても、なおこの一物を得ることはできません。市が立つ郷が二つ、駿馬千頭、千戸の都が二つあっても、どうして言うに足りましょうか」
楚王は風胡子を召してこれに問うて言った
「私は、呉に干将があり、越に欧冶子があり、この二人は世に優れて生まれ、天下に未だかつてないほどで、真心は上は天に通じ、下には節義を守る士であると聞いている。私は国の貴重な宝を贈ってみなあなたに奉り、呉王にたよってこの二人に鉄剣を作らせることを請いたいと願うが、よいだろうか」
風胡子は言った
「よろしいでしょう」
そこで風胡子を呉に行かせ、欧冶子と干将に会わせ、これに鉄剣を作らせた。欧冶子と干将は茨山を開鑿し、その渓谷を排水し、鉄鉱石を取り、三本の鉄剣を作った。一つめを龍淵といい、二つめを泰阿といい、三つめを工布といった。できあがると、風胡子はこれを楚王に献上した。楚王はこの三つの剣の光彩があって美しい様子を見て、大いに風胡子をよろこんで、これに問うて言った
「この三剣は何をかたどったものなのか。その名は何というのか」
風胡子は答えて言った
「一つめを龍淵、二つめを泰阿、三つめを工布といいます」
楚王は言った
「龍淵、泰阿、工布とはどういう意味か」
風胡子は答えて言った
「龍淵を知りたいのなら、その形状を見ると、高山に登り、深淵に臨むようです。泰阿を知りたいのなら、その切り口をみると、高大で整っており、流水の波のようです。工布を知りたいのなら、切り口は紋様のところから起り、背面に至って止んでおり、珠玉が襟に止めていないようで、紋様は流水が絶えないようです」
晋鄭王は聞いてこれを求めたが得られず、軍隊を興して楚の城を囲み、三年包囲を解かなかった。倉の穀物は尽き、倉庫に武器と鎧はなくなった。左右の群臣・賢士を制御することができなかった。ここで楚王はこれを聞き、泰阿の剣を引き抜き、城に登ってこれで指図した。三軍は敗れ、士卒は道に迷い、流血千里、猛獣はおどろき恐れ、江水は波を上げず、晋鄭王の頭は真っ白になった。楚王はここで大いに喜び、言った
「この剣の威力か、私の力か」
風胡子は答えて言った
「剣の威力であり、それは大王の神霊によるものです」。
楚王は言った
「剣とは、鉄であるにすぎないのに、もとよりこのような精気を持つことができるのか」
風胡子は答えて言った
「その時々で使うべきものがあります。軒轅・神農・赫胥の時は、石を武器とし、樹木を断って宮室を作り、死ねば龍のごとく隠れました。黄帝の時に至ると、玉を武器とし、樹木を伐採して宮室を作り、地を開鑿しました。玉もまた神のものでありますが、たまたま聖主が使うことができたのであり、死ねば龍のごとく隠れました。禹を穴に葬ったとき、銅で武器を作り、伊闕を開鑿し、龍門に通じ、江水を切って河水を導き、東に向かって東海に注ぎました。天下があまねく平和となり、宮室を修築したのは、どうして聖主の力でないことがありましょうか。この時代になって、鉄の武器を作り、三軍を威服しました。天下はこれを聞き、あえて服さないものはいません。これはまた鉄の武器の神性であり、大王が聖徳をお持ちになっているということです」
楚王は言った
「私は教えを聞こう」

越絶書

越絶巻第十二

越絶内経九術第十四
昔、越王句踐は大夫種に問うて言った
「私は呉を伐ちたいと思うが、どのようにしたら成功を収めることができるだろうか」
大夫種は答えて言った
「呉を伐つには九つの術があります」
「九術とは何か」
答えて言った
「一つ目は、天地を敬い、鬼神に仕えることです。二つ目は、多くの財幣をその君に贈ることです。三つ目は、穀物や藁を高値で買い取り、その国を空にすることです。四つ目は、これに美女を贈り、その志を疲れさせることです。五つ目は、これに巧みな職人を贈り、宮室や高台を建てさせ、その財を尽かせてその力を疲弊させることです。六つ目は、へつらう臣下を送り、伐ちやすくすることです。七つ目は、諫める臣下を阻み、これを自殺させることです。八つ目は、自国の家を富ませ武器を備えることです。九つ目は、鎧や武器を堅固にして研ぎ、その疲弊に乗じることです。ゆえに九つの術を患えることなく、口を戒めて伝えないことで、天下を取るのは難しくないと言われています。ましてや呉は」
越王は言った
「よろしい」
ここで桐の欄干を作り、それは白璧をつらね、黄金をちりばめ、龍蛇が行くようなものであった。そこで大夫種にこれを呉に献上させて、言った
「東海の役臣である私句踐、使者の臣種は、あえて下吏を敬い、左右に問わせていただきます。天下の力に頼って、ひそかに小殿を作りましたが、余った材があるので、再拝してこれを大王に献じます」
呉王は大いに喜んだ。申胥は諫めて言った
「いけません。王は受け取らないでください。昔、桀は霊門を建て、紂は鹿台を建てましたが、陰陽が調和せず、五穀は育つ時期がなく、天与の災があり、国は空虚となり、ついにこれによって亡びました。大王がこれを受ければ、この後必ず災いがあるでしょう」
呉王は聴かず、ついにこれを受けて姑胥台を建てた。三年材を集め、五年かかって完成した。高く二百里を見渡せた。行く人は道中で死に、巷では泣いた。越はそこで美女西施・鄭旦を着飾らせて、大夫種にこれを呉王に献じさせて言った
「昔、越王句踐にはひそかに天が遣わした西施・鄭旦がおましたが、越国は落ちくぼんで貧窮なので、あえてこれに当たることができず、下臣種に再拝してこれを大王に献じさせます。呉王は大いに喜んだ。申胥は言った
「いけません。王は受け取らないでください。私は、五色は人の目を見えなくし、五音は人の耳を聞こえなくすると聞いております。桀は湯を侮って滅び、紂は周の文王を侮って亡びました。大王がこれを受け取れば、後でかならず災いとなります。私は、越王句踐は昼間は書物を書いて倦かず、夜には終日読み、決死の臣下数万を集めていると聞いております。この人は死ななければ、必ずその願いを遂げるでしょう。私は、越王句踐は誠を勉め仁を行い、諫言を聴き、賢士を登用していると聞いております。この人は死ななければ、必ず名声を得るでしょう。私は、越王句踐は冬は皮衣をはおり、夏は葛布をはおっていると聞いております。この人は死ななければ、必ず利害をなすでしょう。私は、賢士は国の宝であり、美女は国の災いであると聞いております。夏は末喜によって滅び、殷は妲己によって滅び、周は褒姒によって滅びました」
呉王は聴かず、ついにその女を受け取り、申胥が不忠をなしたという理由でこれを殺した。越はそこで軍隊を興して呉を伐ち、大いにこれを秦餘杭山に破り、呉を滅ぼし、夫差を虜にし、太宰嚭をその妻子と共に殺した。

越絶巻第十二 越絶外伝記軍気第十五
聖人が軍隊を行うには、上は天と徳を合し、下は地と明を合し、中は人と心を合する。義が合すればすなわち動き、よいところを合わせればすなわち取るのである。小人であればそのようなことはなく、強さで弱さを押しつぶし、利を他人の危難から取り、逆らうことと順うことを知らず、間違ったことに心を喜ばすのである。故に聖人だけが気が変じる事情を知り、それによって勝負の道に明るいのである。およそ気には五色がある。青・黄・赤・白・黒である。色にはそのために五つの変化がある。人気が変ずれば、軍の上に気があり、五色が合い連なって、天と互いに接するのである。これは天応であり、攻めることはできず、これを攻めても残るものはない。気の盛んなものは、これを攻めても勝てない。軍の上方に赤色の気があるのは、天と直に接し、攻める者は自分を殺すことになる。軍の上方に青い気の盛んに明るいものがあるのは、【欠】に従い、その本が広く末端が鋭いのは、これは逆兵の気であり、いまだ攻めることができず、衰え去ってはじめて攻めることができる。軍の上方に青い気の盛んに明るいものがあるのは、【欠】に従い、その本が広く末端が鋭いのは、これは逆兵の気であり、いまだ攻めることができず、衰え去ってはじめて攻めることができる。青気が上にあるのは、謀が定まらない。青気が右にあるのは、将は弱いが兵は多い。青気が後ろにあるのは、将は勇猛だが糧食は少なく、始めが大きく後が小さい。青気が左にあるのは、将は若く卒が多く、兵は少なく軍は疲れる。青気が前にあるのは、将が暴虐で、その軍は必ず来る。赤気が軍の上方にあるのは、将の謀略が未だ定まっていない。その気の本が広く末端が鋭くて来たるものは、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。赤気が右にあるのは、将軍が勇猛だが兵は少なく、卒は強く、必ず将を殺して投降する。赤気が後ろにあるのは、将が弱く、卒は強く、敵が少なく、これを攻めれば将を殺し、その軍を降伏させられる。赤気が右にあるのは、将は勇猛で、敵は多く、兵卒は強い。赤気が前にあるのは、将は勇猛だが兵は少なく、糧食は多いが卒は少なく、謀をしてやって来ない。黄気が軍の上方にあるのは、将の謀略が未だ定まっていない。その本は広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。黄気が右にあるのは、将は智慧があり賢明で、兵は多くて強く、糧食は足りて降すことができない。黄気が後方にあるのは、将が知性があり勇猛で、卒は強いが少なく、糧食が少ない。黄気が左にあるのは、将が弱く卒が少なく、兵が少なく糧食がなく、これを攻めれば必ず損傷を与える。黄気が前方にあるのは、将は勇猛で知性があり、卒が多く強く、糧食は足りて多くあり、攻めることはできない。白気が軍の上方にあるのは、将は賢知で賢明であり、卒は猛々しく勇猛で強い。その気の本が広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、衰え去ってはじめて攻めることができる。白気が右にあるのは、将は勇猛で卒は強く、兵は多く糧食は少ない。白気が後方にあるのは、将は仁にして賢明で、卒は少なく兵は多く、糧食は少なく軍は損傷を受ける。白気が左にあるのは、将は勇猛で強く、卒は多く糧食は少なく、降すことができる。白気が前にあるのは、将は弱く卒は無く、糧食は少なく、これを攻めれば降すことができる。黒気が軍の上方にあるのは、将の謀が未だ定まっていない。その気の本は広く末端が鋭くて来る者は、逆兵の気であり、去ってはじめて攻めることができる。黒気が右にあるのは、将は弱く卒は少なく、兵は無く、糧食は尽きて軍は損傷し、攻めずに自ら降すことができる。黒気が後方にあるのは、将が勇猛で卒は強いが、兵は少なく糧食は無く、これを攻めれば将を殺し、軍は亡びる。黒気が左にあるのは、将は知性があり勇猛だが、卒は少なく兵は少なく、これを攻めれば将を殺し、その軍は自ら降る。黒気が前にあるのは、将は明智だが卒は少なく糧食は尽き、攻めずに自ら降すことができる。
ゆえに明将は気の変化の形を知っている。気が軍の上方に在れば、その謀は未だ定まっていない。それが右にあり低いのは、右方に伏兵の謀をしようとしている。その気が前方にあり低いのは、前に陣を伏そうとしている。その気が後方にあり低いのは、走兵の陣をなそうとしている。その気が上るのは、兵を撤退させようとしている。その気が左にあり低いのは、左に陣をしこうとしている。その気がその軍と隔たっているのは、邑に入ろうとしている。右のことは、子胥が気を見て敵を取る常道であり、その法則はこのようなものだ。軍に気がなければ、廟堂で計算して、強弱を知る。一、五、九月は西に向かえば吉、北に向かえば敗亡なので、東に向かってはならない。二、六、十月であれば南に向かうのが吉、北に向かえば敗亡なので、北に向かってはならない。三、七、十一月であれば、東に向かえば吉、西に向かえば敗亡なので、西に向かってはならない。四、八、十二月であれば、北に向かえば吉、南へ向かへば敗亡なので、南に向かってはならない。これはその兵を用いる際の日月の運数であり、吉に向かい凶を避けるのである。挙兵するには太歳の供物を撃ってはならず、それは卯の方角ある。始めそれぞれの利を出し、その四時によって日を制するとは、このことをいうのである。
韓の故の治所は、今の京兆郡であり、星宿は角・亢である。
鄭の故の治所は、星宿は角、亢である。
燕の故の治所は、今の上漁陽・右北平・遼東・莫郡であり、星宿は尾・箕である。
越の故の治所は、今の大越山の北であり、星宿は南斗である。
呉の故の治所は西江であり、星宿は都牛・須女である。
斉の故の治所は臨淄であり、今の済北・平原・北海郡・菑川・遼東・城陽であり、星宿は虚・危である。
衛の故の治所は濮陽であり、いまの広陽・韓郡であり、星宿は営室・壁である。
魯の故の治所は泰山・東温・周固水であり、今の魏東であり、星宿は奎・婁である。
梁の故の治所は、今の済陰・山陽・済北・東郡であり、星宿は畢である。
晋の故の治所は、今の代郡・常山・中山・河間・広平郡であり、星宿は觜である。
秦の故の治所の雍は今の内史であり、巴郡・漢中・隴西・定襄・太原・安邑は、星宿は東井である。
周の故の治所は雒であり、今の河南郡であり、星宿は柳・七星・張である。
楚の故の治所は郢であり、今の南郡・南陽・汝南・淮陽・六安・九江・廬江・豫章・長沙であり、星宿は翼・軫である。
趙の故の治所は邯鄲であり、今の遼東・隴西・北地・上郡・雁門・北郡・清河であり、星宿は参である。

 

越絶書

越絶書巻十三

越絶外伝枕中第十六
昔、越王句踐は范子に問うて言った
「昔の賢主・聖王の政治は、何を左とし何を右としたのか、何を退けて何を取ったのか」
范子は答えて言った
「私は、聖主の政治は、道を左にし術を右とし、末を退け実を取ったと聞いております」
越王は言った
「道とは何か、術とは何か、末とは何か、実とは何か」
范子は答えて言った
「道とは、天地に先んじて生じましたが、老いを知らず、万物をつぶさに作り上げ、技を誇示しません。故にこれを道と言います。道は気を生じ、気は陰を生じ、陰は陽を生じ、陽は天地を生じます。天地ができ、しかるのちに寒暑・乾燥湿潤・日月・星座・四季ができ、万物が備わりました。術とは、天意です。盛夏の時は、万物が成長します。聖人は天の心に拠り、天の喜びを助け、万物の成長を楽しみます。ゆえに舜は五絃の琴を弾き、南風の詩を歌って、天下は治まったのです。その楽は天下と同じだと言えます。このときに、功徳をほめたたえる歌が作られました。いわゆる末とは、名のことです。もとより名が実際より過ぎれば、人民は心を寄せて親しまず、賢士は用いず、外は諸侯に進入されるので、聖主はこのようなことはしません。いわゆる実とは、穀【欠字】であり、人心を得て、賢士を任じます。この四つは、国の宝です。越王は言った
「私が自ら倹約し、士にへり下って賢人を求め、名を実より過ぎさせるないということは、私が行うことができる。多く穀物を蓄え、人民を富ませるのは、天の降水乾燥によるものであり、一人でどうにかできることあろうか。どうやって備えろというのか。」
范子は言った
「百里之神、千里之君、湯執其中和【錯簡】伊尹を挙げ、天下の勇猛ですぐれた士を集め、卒兵を訓練し、諸侯を率いて桀を伐ち、天下のために道をそこなった者を退け、万民は皆歌ってこれに服従しました。これはいわゆる中和を執るということです」
越王は言った
「中和のもたらすものはすばらしい。私は賢主・聖王に及ばないが、中和を執ってこれを行いたい」
今、諸侯の地は、或いは多く或いは少なく、強弱には優劣があり、戦争はにわかに起こる。どうやってこれに対処すればよいか」
范子は言った
「人の身を守ることを知る者は、天下に王となることができます。人の身を守ることを知らなければ、天下を失います」
越王は言った
「人の身を守るとはどういうことか」
范子は言った
「天は万物を生みこれに生きることを教えます。人は穀物を得れば死なず、穀物は人を生かすことも、人を殺すこともできます。ゆえに人身というのです」
越王は言った
「よろしい。今、私は穀物を保とうと思うが、どうしたらよいだろうか」
范子は言った
「保とうと思うなら、必ず野に親しみ、様々な地方の生産の多少を観察して備えます」
越王は言った
「少ないのは、その貴賤によるとわかるが、また対応しているのか」
范子は言った
「八穀の貴賤の法則は、必ず天の三表を見てから、決めます」
越王は言った
「三表とはなにか」
范子は言った
「水の勢は金に勝り、陰気は蓄積し大いに盛んになり、水は金に拠って死に、故に金の中に水があります。このような場合は、実りは大いに不作で、八穀は皆高騰します。金の勢は木に勝り、陽気は蓄積し盛んになり、金は木によって死に、故に木の中に火があります。このような場合は、実りは大いに豊作で、八穀は皆安価になります。金、木、水、火は交互に勝り、この天の三表は、察しないわけにいきません。三表を知ることができれば、国の宝となり得ます。三表を知らなければ、之君千里之神萬里之君【錯簡】故に天下の君は、号を発し令を施行するのに、必ず四時に従うのです。四時が正しくなければ、陰陽は調和せず、寒暑は常態を失います。このようでは、実りは悪く、五穀は実りません。聖主は令を施行するのに、必ず四時を審らかにする、これはもっとも謹んで行うべき事です」
越王は言った
「これは私が行うことができる。どうか穀物の上下貴賤をはかることを知り、他にこれを貸して内に自ら充実したいものだが、このためにはどうすればいいだろうか」
范子は言った
「八穀の価格が下がるのを知るには、これまでの実りを知るように、明らかです。陰陽の消息を審らかに見極め、市場の回転を観察するに、雌雄が互いに追いかけ、天の法則はそこで終わります。越王は言った
「何を執行すれば繁栄するのか、何をすれば亡びるのか」
范子は言った
「偏りのないように執行すれば繁栄し、奢侈を行えば亡びます」
越王は言った
「私はその説を聞きたい」
范子は言った
「私は、昔の賢主・聖君は、中和を執行しその終始をたずねれば、地位は安泰で万物は定まった、その終始をたずねなけれは、尊い地位は傾き、万物は散じると聞いております。文王・武王の業績、桀・紂の足跡から、知ることができます。昔、天子や諸侯に至るまで、自滅して亡んだのは、しだいに美食の消費に浸り、音楽や女色の類に耽溺し、珍しい貴重な宝器をに心を惹かれたため、その国は空虚となったのです。その士民を苦しめ、しばしの楽しみをなし、人民は悲しみの心を懐き、瓦解して背いた、桀・紂はこうでした。身は死して国は滅び、天下の笑いものになりました。これは奢侈を行うと亡びるという例です。湯は七十里の地を有していました。三表を励み行うのは、国の宝と言うべきです。三表を知らなければ、身は死して道に棄てられます    越王は范子に問うて言った
「春に物寂しく、夏に寒く、秋に栄え、冬に発するのは、人の治でそうできるものか、天道であるか」
范子は言った
「天道は三千五百年に、ひとたび治まりひとたび乱れ、終わってはまた始まり、環に端がないようであり、これは天の常道です。四季の順序が乱れ、寒暑が常態を失うと、民を治めるのもこのようになるのです。ゆえに天が万物を生むとき、聖人はこれを名づけて春というのです。春に成長しないと、ことさらにに天は再度春としないのです。春は、夏の父です。故に春には発生し、夏には成長し、秋には成熟して刈り取り、冬には成取り入れて貯蔵します。春に物寂しく生まれないのは、王の徳が極まっていないからです。夏に寒く成長しないのは、臣下が王命を奉らないのです。秋に柔和でまた繁茂するのは、百官の統治が思い切りが悪いからです。冬に暖かく発するのは、倉庫を開放して功績のない者に賞を与えるからです。こういった四時のことは、国のいましめです」
越王は言った
「寒暑が時期に合わないのは、統治が人のせいであるということは、知ることができた。どうか実りの善し悪し、穀物の貴賤はどうやって決まるのか聞かせてほしい」
范子は言った
「陰陽が誤れば、凶作になります。人が治を失えば、乱世になります。一たび乱れては一たびた治まるのは、天道の自然のなりゆきです。八穀もまた一たび値下がりし一たび高騰し、極まってまた反復します。乱れて三千年経つと、必ず聖王が現れると言います。八穀の貴賤も交互にしのぎ合うのです。ゆえに死が生を凌ぐのは、逆であり、穀物は大いに高騰します。生が死を凌ぐのは、順であり、穀物は大いに暴落します」
越王は言った
「よろしい」
越王は范子に問うて言った
「私は、人がその魂魄を失うのは死であり、その魂魄を得るのが生だと聞いている。物には皆これがあるのか、それとも人だけだろうか」
范子は言った
「人にはこれがあり、万物もまた同様です。天地の間で、人はもっとも貴いものです。物の生では、穀物が高貴なもので、人を生かすのであり、魂魄と異なることはないことは、あらかじめ知ることができます」
越王は言った
「その善悪は聞くことができるか」
范子は言った
「八穀の貴賤、上下、衰え極まるのを知るには、必ずその魂魄を観察し、動静を見て、宿るところを見ると、万に一つも間違えません」
問うて言った
「何を魂魄というのか」
答えて言った
「魂とは袋であり、魄とは、生気の源です。もとより神は、出入りするのに門は関係なく、天上地下に固定することなく、現れるところにしるしが自ら存在し、故にこれを名づけて神というのです。神は生気の精をつかさどり、魂は死気の居所をつかさどります。魄は賤をつかさどり、魂は貴をつかさどり、故にまさに安静にして不動なのです。魂は、盛夏に運行し、故に万物はこれを得て自ら繁栄するのです。神は気の精力をつかさどり、貴をつかさどって雲と空を行き、故に盛夏の時には運行せず、つまり神気は枯れて物を成長させないのです。故に死が生を凌ぐと、収穫は大いに凶作になります。生が死を凌ぐと、収穫は大いに豊作になります。故にその魂魄をみれば、収穫の善し悪しがわかります」
越王は范子に問うて言った
「私は、陰陽のおさまりは、力を同じくせずに功をなし、気を同じくせずに物が生じると聞いているが、それを知ることができるだろうか。どうか考えを聞かせてほしい」
范子は言った
「私は、陰陽の気は居場所を同じくせずに、万物が生じると聞いております。冬の三ヶ月の時期は、草木はすでに死滅し、万物は各々隠れ方を異にしております。ゆえに陽気はこれを避けて地下に隠れ、内で力をため、陰気に外で功を成さしめます。夏の三ヶ月の盛暑の時期は、万物は成長し、陰気はこれを避けて地下に隠れ、内に力をたますが、万物は親しみ信用しています。これは、気を同じくせず物が生じるということです。陽は生をつかさどり、万物は夏の三ヶ月に、大きな熱気が至らなければ、万物は成長することができません。陰気は殺をつかさどり、冬の三ヶ月に、地にもぐって内に隠れなければ、根が生長することができず、つまり春に発生することはありません。ゆえに一つの季節が常規を失えば、四季の序列は運行しなくなります」
越王は言った
「よろしい。私はすでに陰陽のことを聞いたが、穀物の貴賤について、それを知ることができるだろうか」
范子は言った
「陽は貴をつかさどり、陰は賤をつかさどります。故に寒くあるべきときに寒くなければ、穀物はこのために暴騰します。暖かくあるべき時に暖かくなければ、穀物はこのために暴落します。たとえるなら形と影、声と響きが互いに聞こえるようなもので、どうして繰り返さないことがありえましょうか。故に秋冬は陽気を貴くして陰気に影響し、陰気が極まるとまた貴くなります。春夏は陰気を賤しくして陽気に影響し、陽気が極まると元に戻りません」
越王は言った
「よろしい」
丹砂で帛に書き、これを枕の中に置き、国宝とした。
五日が過ぎ、呉に苦しめられ、范子に請うて言った
「私は国を守るのに術がなく、万物に背き、ほとんど国が滅び社稷が危うくなり、他国に批判され、足を定めて立つことが無い。身を捨てて出でて死し、呉の仇に報いようと思うが、このためにはどうすればいいだろうか」
范子は言った
「私は、聖主はこのために行えないことを為し、人が自分を謗ることを憎まないと聞いております。賞賛するに足る徳を為しても、人が自分を称えるのを徳としません。舜は歴山で徳を修め、天下は服従しました。舜にその修めたものを捨てさせ、天下の利を求めさせれば、おそらくその身を全うできなかったでしょう。昔、神農が天下を治めるのに、つとめてこれに利を与えるのみで、報いを望みませんでした。天下の財を貪らず、天下はともにこれを富ませました。その知恵と能力が自ら人よりすぐれているゆえんであり、天下はともにこれを尊びました。故に富貴というのは、天下が配置するところで、奪うことはできないのです。今、王は地を貪り財を貪り、戦を開いて刀は血に塗れ、倒れた死体は流血し、それによって世に名を顕そうとしているのは、なんと誤っているのではないでしょうか」
越王は言った
「上は神農に及ばず、下は尭舜に及ばず、いまあなたは至聖の道を私に説いたが、誠に私の及ぶところではない。かつ、私はこう聞いている、父が辱められれば子は死し、君主が辱められれば臣下は死す。今私は自らすでに呉に辱められた。一切の非常手段を行って、呉に復讐したい。どうかあなたは私に代わってこれを図ってほしい」
范子は言った
「君主が辱められれば死ぬのは、もとより義にかなっています。ただちに死にます。士人を降し国を興すことを求めるのは、聖人の計です。かつ天下を拡張し、万乗の主を尊び、人民の住居を安泰にさせ、その業を楽にさせるのは、ただ軍隊だけです。軍隊の要は人にあり、人の要は穀物にあります。故に民が多ければ君主は安泰で、穀物が多ければ軍隊は強いのです。王がもしこの二つを備えたら、しかる後これを図ることができます。」
越王は言った
「私は国を富ませ軍隊を強くしたいが、土地は狭く民は少ない。どうすればいいだろうか」
范子は言った
「陽は上で動いて天文を形成し、陰は下で動いて地理を形成します。開閉の要点を審らかに観察すれば、富むことができます。まず天門と地戸の開閉を知りたいのなら、その方法は、天は高さ五寸とし、天から一寸六分減らして地を作ります。謹んで八穀を調べて、はじめ天に出現するのは、天文が開き、地戸が閉まることを言っており、陽気は下方の地戸に入ることはできません。ゆえに気は移り動き、上下・陰陽はともに断絶し、八穀は成長せず、大いに高騰し必ずその年に応じて価格が上がり、これは天変が現れる符牒です。謹んで八穀を調べて、はじめ地に入るのは、これは地戸が閉まることを言います。陰陽がともに合わさり、八穀は大いに成長し、その年は大いに価格が下り、来年は大いに飢える、これは地変が現れるしるしです。謹んで八穀を調べて、はじめ人の天地の間に現れるのは、穀物の買値はかたよりなく、よく成熟し、災害がありません。故に天が先にとなえてしるしがあらわれると、地は応じてしるしがあらわれます。聖人は上は天を知り、下は地を知り、中は人を知りますが、これは天地の治まりは、このために天の図を作ることを言います」
越王はすでに呉に勝って三日、国に帰ろうとしたがいまだ到着せず、休息して、自らを強いとし、大夫種に問うて言った
「聖人の術は、これに何を加えるのだろうか」
大夫種は言った
「そのようなものではありません。王は徳は范子が言うこと得ましたが、これは天地の符が国に応じ、聖人の心を蔵したのです。しかし范子が予見する策は、いまだ敢えて王のために言っておりません」
越王は顔色を変え、憂いの表情が見られた。王は徳は范子が言うこと得ましたが、これは天地の符が国に応じ、聖人の心を蔵したのです。しかし范子が予見する策は、いまだ敢えて王のために言っておりません」
越王は顔色を変え、憂いの表情が見られた。范子を招き、称えて言った
「わたしがあなたの計を用い、幸いに呉に勝つことができたのは、ことごとくあなたの力である。私は、あなたが陰陽の進退に明るく、未だに形ができていないものを予知し、過去を推して先を導き、後の千年のことを知る。それを聞くことができるだろうか。私は虚心に注意して、風下で聴こう」
范子は言った
「陰陽の進退とは、前後がはっきりしないものです。いまだ形ができていないものを予見して、生殺与奪の柄を持ち、王が四海を制しておられるのは、国の重宝です。王がもしこのことを洩らさないなら、私は王のためにこれを言わせていただきたい」
越王は言った
「あなたが幸いにも私に教えるなら、どうかこれとともに自らしまい込ませてほしい、死に至るまで敢えて忘れまい」
范子は言った
「陰陽の進退は、もとより天道の自然なことであり、怪しむには足りません。陰気が浅いところに入ればその年はよくなり、陽気が深いところに入ればその年は悪くなります。奥深く微妙ですが、未だ形のできていないものを予知します。故に聖人はものを見て疑わず、時機を知るといいますが、これはもとより聖人の伝えないところです。尭・舜・禹・湯は、みな予見の功労がありましたので、凶作の年であっても民は困窮しませんでした」
越王は言った
「よろしい」
丹沙で帛に書き、これを枕の中に置き、国の宝とした。范子はすでに越王に告げると、志を立てて海に入った。これが天地の図といわれていることである。

越絶書

越絶書巻十四 越絶外伝春申君第十七
むかし、楚の考烈王の相春申君に李園という吏がいた。園の妹の女環は言った
私は王が老いて跡継ぎがないと聞いております。私を春申君に会わせて下さい。私が春申君に会うことができたら、ただちに王に会うことができるでしょう」
園は言った
「春申君は、貴人であり、大国の輔佐である。私はなにを口実として敢えてこのことを言おうか」
女環は言った
「すぐに私に会わなくても、あなたは春申君の才人に謁見を求め、『遠方の客がきたので、どうか帰ってこれを接待させてください』と告げてください。彼は必ずあなたに『お前の家どんな遠方の客が来たのか』と問うでしょう。そこで答えて言ってください『私には妹がいますが、魯の相はこれを聴き、使者をよこしてこれを私に求めさせましたので、才人は私に告げさせたのです』彼は必ずこう問うでしょう『お前の妹は何ができるのか』答えて言ってください『鼓を演奏することができ、書を読み、一つの経書に通じています』彼は必ず私に会うでしょう」
園は言った
「わかった」
次の日、春申君の才人に告げた
「遠方からの客が来たので、どうか帰ってこれを接待させてください」
春申君は果たして問うた
「お前の家にどんな遠方の客が来たのか」
答えて言った
「私には妹がおりますが、魯の相がこれを聞き、使者を遣わしてこれを求めてきたのです」
春申君は言った
「何ができるのか」
答えて言った
「鼓を演奏することができ、書を読み、一つの経書に通じています」
春申君は言った
「会うことはできるだろうか。明日、離れで待たせておけ」
園は言った
「わかりました」
帰ると、女環に告げて言った
「私が春申君に告げると、私に明日の夕べ離れで待つことを許された」
女環は言った
「あなたは先に飲食を供してこれを接待したほうがよいでしょう」
春申君が到着すると、園は人を走らせ女環を呼びに行かせ、黄昏に、女環がやってきた。
大いに気ままに酒を飲み、女環は鼓や琴を奏で、曲が未だ終わらないうちに、春申君は大いに喜び、留まって泊まった。翌日、女環は春申君に言った
「私は、王は老いて跡継ぎがなく、国をあなたに委ねたと聞いております。あなたは外で荒淫し、政治を顧みません。もし王にこれをお聞かせすれば、あなたは上には王の期待に背き、私の兄を用いて下には夫人を裏切ることになります、これはいかがなものでしょう。この口を漏らされないように、君は部下を召してこれを戒めてください」
春申君は所属の官吏を召して言った
「私が女淫したことを聞かせないように」
皆言った
「わかりました」
女環と通じ、いまだ一月経たないうちに、女環は春申君に言った
「私は、王は老いて跡継ぎがないと聞いております。いま、あなたの子を懐妊して一月になります。私を王に会わせ、幸いに男子を産めば、あなたは王の祖父となります。どうして輔佐のままでいられましょうか。あなたはこのことを慎重にお考えください」
春申君は言った
「わかった」
五日してこれを語った
「国中に美しい女があり、人相を見ますと、跡継ぎをもうけることができます」
考烈王は言った
「わかった」
そこでこれを召した。考烈王は喜び、これを娶った。十月して、男子を産んだ。十年して、烈王は死に、幽王があとを継いで立った。女環は園を春申君の輔佐とした。これを輔佐して三年、そののち園に告げた。
「呉に春申君を封じ、東の辺境に備えさせてください」
園は言った
「わかった」
そこで春申君を呉に封じた。幽王の後は懐王であり、張儀にこれを詐って殺させた。懐王の子は頃襄王であり、秦の始皇帝は王翦にこれを滅ぼさせた。

 

越絶徳序外伝記第十八
昔、越王句踐は會稽で危機に陥り、嘆いて言った
「私は覇者となれない」
妻子を殺し、競い戦って死のうとした。范蠡は答えて言った
「危ういことです、王はもくろみを失し、その悪むところを惜しんでいます。かつ呉王には賢人は近づかず、不肖の輩は去りません。もし言葉を卑くして領土をこれに譲るとしたら、天がもし彼を見棄てるならば、彼は必ず許可するでしょう」
句踐はさとり、言った
「なんとその通りではないか」
ついに范蠡のいうことを聞いて勝った。越王句踐は呉を平定すると、春には三江を祭り、秋には五湖を祭った。その時期にもとづいてこのために祠を建て、これを来世に伝え、これを長い年月伝えた。隣國は徳を好んで、やってきて満足した。范蠡は自ら反省するのは盲人のようで、人を責めないことは聾者のようであった。天関を渡り、天機を渡り、後方には天一を身につけ、前方には神光を帯びた。このときいわれていたことは、范蠡が国を去ったのは甚だ密かに行われ、王がすでにこれを失うと、ついにまた出会うことは難しかった。ここで徐州に出兵し、周室に朝貢をした。元王はこのために中興し、句踐を号して州伯とした。思うに専ら句踐の功績によるものであり、王室の力ではなかった。この時越は覇道を行い、沛を宋に帰し、浮陵は楚に付し、臨沂・開陽は魯に復帰させた。中原の国々の侵伐はこれによって衰え止んだ。誠意が内に行われ、威が外に発せられ、越がその功を専らにしたので、ゆえにこれを越絶というのである。故に伝に「桓公は妾腹であることに苦しみ、よく悟り知った。句踐は會稽で捕らわれ、それによって覇業をなすことができた」という。尭・舜は聖人ではあったが、狼を任じて統治をすることはできなかった。管仲はよく人を知り、桓公はよく賢人を任じた。范蠡は災禍を慮ることに長け、句踐はよくこれを行った。臣下と君主がこのようであれば、覇業を成さないことなどあり得るだろうか。易に「君臣が心を同じくすれば、その利は金属断つ」というのは、このことである。
呉越のことは煩雑で文章はわかりにくかったので、聖人はこれを省略した。賢者は意を垂れ、深くその辞を省み、これを見て愚を知った。夫差は狂って道理がわからず、子胥を賊殺した。句踐は至賢だったが、文種はどうして誅殺されたのか。范蠡が恐懼して、五湖に逃亡したのは、どんな解釈があるだろうか。呉は子胥の賢なること知っていてもなお愚かにもこれを誅殺した。伝に「人がまさに死のうとするとき、酒肉の味を聞くことを憎み、国がまさに滅びようとするとき、忠臣の気を聞くことを憎む」という。身が死すと医療は行われず、国が滅ぶと謀は行われず、かえって自らに災いを招く。思うに木、土、水、火は気のありかが同じではないというのは、このことを言うのである。
文種は立派な功績を挙たが、その後誤って自ら誇るようになった。句踐は文種が仁のある人だと知っていたが、信用できることを知らなかった。種は呉のために越に通じて言った
「君子は窮地にあるものを陥れたり、降服したものを滅ぼしたりはしません」
忠告を句踐は非とし、顔色に現れた。范蠡は心中で句踐の意向を知り、その事を筮竹で、その言葉卜占で吉凶を占った。占いの結果は災厄をあらわしていた。范蠡は利と害を見て、五湖に去った。思うにその道を知ると、富貴を得ることは少なくなり卑賤を得るということを言っているのである。易に「きざしを知ることは神明のわざと言えようか、道は害にならないことを下策とする」【01】、伝に「始まりを知って終わりを知らなければ、その道は必ず厳しいものとなる」とは、このことを言うのである。子胥は剣を賜ってまさに自殺しようとして、嘆いて言った
「ああ、多くの曲がったことが正しいことをまげてしまい【02】、私一人ではもとより自分だけで立っていることはできない。私は弓矢をかかえて鄭・楚の間を逃れ、自ら私が虐げられた仇に復讐したいと思い、そこで先王の功績に報いることができると思ったが、自らこのようなことになったのである。私が先に栄誉を得て、後に殺されるのは、智が衰えたからではなく、先に賢明な君主に会い、のちに腹黒い君主に会ったからで、君主が変わったというだけである。良い時期にめぐり会えず、また何を言えるだろうか。これは私の運命であり、亡げてどこに行くというのか。早く死んで、吾が先王に從って地下に行くにこしたことはない、それがわたしの思いである」
呉王は子胥を殺そうとし、馮同にこれを召し出させた。子胥は馮同をみて、呉王のために来たことを知った。言葉を洩らして言った
「王は補弼の臣を近づけずに多くの豚の言葉を近づけたので、このために私の命が短くなったのである。私の頭を高所に置け、必ずや越人が呉に侵入し、吾が王がみずから擒となるのを見るであろう。私を深い江へ捨てれば、それでおわりだ」
子胥が死んだ後、呉王はこれを聞き、妖言だとして、子胥をひどく咎め、王は人を使わして子胥を大江の川口に捨てさせた。勇士がこれをとりはからうと、遺体から響きが起こり、憤りを発して疾走し、その気は走る馬のようであった。威は万物を凌ぎ、魂を大海に帰した。はっきりと見えない間でも、音のしるしは常に聞こえていた。後世、伍子胥は水仙になったと称え述べられた。子胥は弓を持って楚を去り、ただ夫子だけがその道を知っていた。〔欠字〕今になってこれを補充し、人に知られていない文を補充した。深くその兆しを述べ、しるしを戒めとした。斉人は伍子胥の娘を帰し、その子孫はまた重用された。それぞれ一篇をなすが、文辞は尽くされず、経伝の外章となり、補って同類のものを表現したのである。もとより聖人はかすかなもの見てあきらかなものを知り、始めを見て終わりを知るのである。このことから考えると、夫子が王とならなかったことがわかる。つつしんでありがたい恵みを受け、昔のことを述べ表した。夫子は経を作るのに、歴史書を総括し、憤懣をもらさず、あわせて事後も述べ、伝説を受け継いだのである。その意は周道がやぶれなければ、春秋は作られなかったとするものである。思うに夫子が春秋を作り、魯の紀年を用い、大義を立て、精微な言葉をつらね、五経六芸は、これを手本とした。意を越に集中し、曲直を見た。その本末を書き連ね、その根本のきまりを抜き出し、章句は区切られ、各々終始があった。呉越の抗争の際に、夫差が矢敗れたいうのは、このことをいうのである。故に「太伯」の記述を見ると、聖賢の職分を知ることができ、「荊平王内伝」の記述を見ると、忠信から勇への変化を知ることができ、「呉人内伝」の記述を見ると、陰謀の慮を知ることができ、「計倪内経」の記述を見ると、陰陽の消長のきまりを知ることができ、「請糴内伝」の記述を見ると、越人がどのようにして敵国の賢人と不肖の人を利用したのかを知ることができ【03】、「内経九術」の記述を見れば、人を取る道や災いを福に転じることを知ることができる。「兵法」の記述を見ると、敵の進路を防ぐ方法を知ることができる。「内伝陳成恒」の記述を見ると、古今の互いに勝つ方法を知ることができる。「徳序外伝記」の記述を見ると、忠直の臣が死ぬ理由や、頭のおかしい者が悲しい結果になるのを知ることができる。経伝の八章は、上下が互いに説明し合っている。斉桓公は国を興し盛んになったが、政策の執行は同じであった。管仲は覇業の道に通じており、范蠡は吉凶と終始を審らかにした。夫差は国をよく統治することができなかった【04】。馮同や太宰嚭を見ると、佞臣の行く末を知ることができ、彼らが徳信の者から離れ用いなかったことを哀れむ。内心で子胥が邪な君主を忠実に諌めたのに、却って咎を受けたのを痛む。夫差は子胥を誅殺し、これより滅亡への道が始まったのである。

 

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【04】原文に欠字「夫差不能□邦之治」