左伝哀公元年①
『春秋左氏伝』の哀公元年(B.C.494)に、有名な夫椒の戦い→会稽の恥、あたりの記述があります。
もうすぐツイッターで訳してる『越語上』をサイトにもアップできると思うので、そのあたりと比較しながら少しずつ読んでいけたらと思います。
呉王夫差敗越于夫椒、報檇李也、遂入越、越子以甲楯五千、保于會稽、
呉王夫差は越を夫椒に破り、檇李の戦いに報復した。ついに越に入ると、越子は武裝した兵五千を率いて、会稽山にたてこもった。
「保于會稽」について、杜注が「上會稽山也」としていて、音義が「上時掌反」となってるので、「上」は「のぼる、その場所へ行く」ということで、句踐は兵五千人を率いて会稽山に立てこもったという解釈をしています。
『國語』「越語上」ではこのように書かれています。
越王句踐棲于會稽之上、乃號令于三軍曰
越王句踐は会稽山の上に立てこもり、三軍に号令して言った
左伝が「保」で國語が「棲」となってますが、韋昭の注によれば「山處曰棲会稽山名」となっていて、やはり「会稽山の上に立てこもった」という解釈をしています。ただ、もとの文はどちらも「会稽」となっていて「会稽山」とは書いてないですね。
ぼちぼち読んでいきたいと思います。続きはまた。