越絶書

越絶書巻十五 越絶篇敘外伝記第十九

古の人皇氏の九人の兄弟の世では、蒙水の際【01】、興廃には定めがあり、三皇五帝に承け継いだ。故に多くの者が目で見たものを伝え、徳を信じたという。この時から、天下は大いに服した。三皇以後は、一人で人を統治した。三王に至って、争いの心が生まれ、戦争が起こり、五つの肉体刑を行った。みなそこでことごとく正しい気を持ち、天の河を越えた。孔子は精に感応し、後に強国の秦がその治世を失って、漢が興ることを知った。子貢は斉・晋・越をはかり、呉に入った。孔子は類推し、後に蘇秦が出ることを知った。軒轅と太微は相互に動き、太微は五たび運行した。道中で麒麟を捕らえたのは、周が尽きる証であった。故に『春秋』を作って周を受け継いだ。この時天地はにわかに清明になり、日月は同時に明るくなり、弟子は嬉しそうにして、ともに太平であった。孔子は聖人の仁徳を抱くも苦しみを継承し、少しの土地も所有することなく一人の民も支配しなかった。麒麟を見て涙を流し、民が居場所を得られないのを傷んだ。聖人でなければ、誰がこのように世を痛むことができようか。万代にわたって不滅であり、再び述べることはできない。故に聖人が没すると奥深い言葉は絶えるのである。子貢は「春秋」を見て文を改め質朴を尊び、二つ名があることを譏り、孔子の学問を振興し、また発憤して呉越のことを記し、章句を編纂し、後の賢者に諭した。子貢の遊説は、魯を安泰にし、呉を破り、晋を強くし、越に覇業をなさせ、春秋二百余年の時代は、後の王にかたちを示した。子貢は呉越のことを伝え、【欠字】秦を指した。聖人(孔子)は一隅から出て、弁士(子貢)はその言葉を述べた。聖人の文もまたすぐれており、子貢の辞もまたすぐれていた。故にその文を題してこれを越絶というのである。
問うて言った
「越絶は「太伯」に始まり、「陳恒」で終わるのは、どうしてか」
「論語に、『小道といえども、かならず観るべきものあり』という。つまり太伯は始まりにおいて明知であり、去って賢者を進めることをわかっていた。太伯がことに恨まなかったのは、礼譲の至りである。太伯に始まるのは、賢者を尊重し、呉を偉大とすることを明らかにしたのである。仁はよく勇を生むので、故に「太伯」のあとに「刑平王」が続くのであり、伍子胥の忠・正・信・智を勇としたのは明らかである。智はよく詐を生むので、故に「刑平王」のあとに「呉人」が続くのであり、その務めて蔡を救ったのを善とし、楚を伐ったのを勇とした。范蠡の行為は、危機にありながら傾国を救ったが、道に従い天に従い、国を富ませ民を安んじるに及ぶものはなく、故に「呉人」の後に「計倪」が続くのである。国を富ませ民を安んじるのは、自ら守るに固く【02】、容易く敵に取られる、故に「計倪」のあとに「請糴」が続くのである。ひとたび愚行があり、ゆえにその政に背いた。穀物を請うとは、福禄を求めるということであり、必ず獲るべきである。ゆえに「九術」が続くのである。越は天の心に従い、ついに呉と和親して、呉の内情を知った。朝廷で画策して、強弱を知った。時が至れば、伐てば必ず勝つことができる。故に「兵法」が続くのである。軍隊は凶器であり、挙動が不当であれば、天は災いを与える。この上位の事柄を知ってはじめて軍隊を用いることができる。『易経』で将を卜うと、春秋時代にはに将がおらず、子が父を謀り、臣が主を殺すことは、天地が許容しないところである。悪は甚だ深いので、「陳恒」で終わるのである。
問うて言った
「「易経」で将を占うと、春秋には将はないという。ここに、楚の平王はどのような良いところがあったのか。君は無道であり、臣下は主を仇としたのに、太伯に次ぐのはどうしてか」
言った
「楚の平王を善しとするのではなく、子胥を勇としたのである。臣が賊を伐たず、子が仇に報復しなければ、臣や子とはいえない。故に伍子胥が無道の楚で冤罪となり、困難にあっても死ななかったことを賢としたのである。匹夫の身でありながら一国の民衆の支持を得て、義を合わせて仇に報復し、楚を傾けたのを善しとした。義でなければ行動せず、義でなければ命をかけなかった」
問うて言った
「子胥は楚王の母を辱め、罪無くして呉で死んだ。このような行いは、どうして義といえるのか」
答えて言った
「孔子はもとよりこれを非難した。その仇に復讐したのを賢とし、楚王の母を娶ったのを悪とした。しかし『春秋』の義は、功を量って過ちをおおいかくすものである。これを賢とするのは、肉親に対する親愛のためである。
「子胥はどのように呉と親密であったか」
答えて言った
「子胥は苦境に陥ったため闔廬におして見え、闔廬はこれを甚だ勇とし、仇に報復するのを助け、名誉は甚だ明らかであった。『詩経』に言う
「私に桃をくれるなら、これに李でお返ししよう」
夫差は愚か者で変わりようがなく、ついにどうにもならなかった。言は用いられず、策は聞き入られず、伍子胥は明らかに呉がまさに滅ぼうとしているのを知った。闔廬の厚恩を受けたので、去って自らを生かすのに忍びず、諫めた功を世に知らしめようとした。ゆえに呉が敗れるのに先んじて殺されたのである。死んだ闔廬にすら背かなかったのに、ましてや在位している夫差に背いただろうか。昔、管仲が生きていたとき覇業が興り、子胥は死んでから名声が成った。周公は一つの概念を尊び、一人に完備していることを求めなかった。外篇にそれぞれ叙述の差があることは、説明されていない。
問うて言った
「子胥は賢人とまではいえない。賢人が通るところは感化されるのに、子胥は剣を賜り、死を免れようとしても、それができただろうか」
「盲者には美しい縫い取りの入った布を示すことができず、聾者には調和した音声を語ることはできない。瞽瞍は変わらず、商均は導かれなかった。湯は夏台に繋がれ、文王は殷に捕らえられた。時の人は舜は不孝であり、尭は慈悲がないと言った。聖人ですら愚か者を喜ばないのだから、ましてや子胥はどうだろうか。まさに楚に苦しみ、呉に悩んだが、信義により去らなかったのに、夫差はどうしてこれを捕らえることがあろうか」
「孔子がこれを批判したのはどうしてか」
「楚に報復するのに、子胥が楚王の母を辱め、夷狄の所行に及んだのを述べたのである。これを批判して呉人と言ったのである」
問うて言った
「句踐はどのような徳があったか」
「覇王の徳があり、賢君であった」
「「伝に、『人を危うくして自らを安んずることは、君子がしないことだ、人から奪って自らに与えることは、伯夷が褒めないことだ』という。偽りを行って勝ち、人を滅ぼして覇者となったのに、賢君だというのはどういうことか」
答えて言った
「これはもとより覇道である。幸いの道もあれば厭うべき誤ちもあり、善もあれば悪もある。当時は天子はなく、強者が尊ばれていた。句踐に権力を持たせなければ、国はとうに滅んでいた。子胥は信義によって人心を得て、范蠡はよく偽って勝った。もし明晰な王がいて天下太平であり、諸侯は和親し、四夷は徳を楽しみ、国境の門を叩き珍宝を貢献し、膝を屈して臣下となることを請うたなら、子胥はどうして楚に苦しんだだろうか。范蠡はほどなく狂人のふりをしたのか。句踐はどうして切り藁を集めて馬を養ったのか。変乱に遭遇して、臨機の処置で自らを保全したのは、なんと賢明ではないだろうか。覇業を行う者が賢人であるわけではなく、晋の文公はよく時宜に順応し、したがってこれができた。ゆえに空になった社は福をなしやすく、危うくなった民は徳をなしやすいとは、このことをいうのである。
問うて言った
「子胥・范蠡はどういう人か」
「子胥は勇敢で知恵があり、正義であり信義がある。范蠡は知恵があり明晰で、どちらも賢人である」
問うて言った
「子胥は死に、范蠡は去った。二人の行動は違うのに、どちらも賢人だというのは、どういうことか」
「論語に『力をつくして任務にあたり、できないときはやめる」とあり、君主に仕えるのは道理もってするということだ。范蠡は単身越に入り、覇者を主としたが、合わないところがあったので、故に去ったのである」
問うて言った
「合わないのにどうして死ななかったのか」答えて言った
「去るか留まるかは、君主に事える義である。義は死ぬことではない。子胥が死んだのは、恩を深く受けたからである。いま范蠡が等しく重んじられたとするのは、不明瞭なこと甚だしい」
問うて言った
「恩を受けて死ぬのは、よい死に方である。臣下が君主に仕えるのは、妻が夫に仕えるようなものであるのに、どうして去ったのか」
論語に、『(季桓子が)三日朝廷に出てこなかったので、孔子は行ってしまった』という。行とは、去るという意味である。伝に「孔子が魯を去ったのは、祭祀の台の上に肉がなかったためである。曾子が妻と別れたのは、あかざを十分に蒸さなかったためである」とある。微子が去ったこと、比干が死んだことは、孔子はどちらも仁と称えている。行いが異なるといっても、その義は同じである」
「死と生、失敗と成功が、同じとはどういうことか」
「論語に、『身を殺して仁をなすことがある』という。子胥はその信を重んじ、范蠡はその義を貴んだ。信は中より出て、義は外より出る。微子が去ったのは、殷の道を傷んだからである。比干が死んだのは、紂に忠誠を尽くしたからである。箕子が逃げたのは、綱紀を正したのである。みな忠信の極みで有り、互いに表裏となっている。問うて言った
「二人はどちらがすぐれているか」
答えて言った
「同じだと思われる。しかし子胥は何事もせずに自ら無道の楚から逃れることができ、先王の旧恩を忘れず、主のために身を滅ぼした。適合すれば、覇業を成すことができる。適合しなければ、去るのならすぐ去るべきで、死ぬならすぐに死ぬべきである。范蠡は不明な世に遭遇し、髪を振り乱し狂人を装い、正しくなければ行わず、明主がなければとどまらなかった。表情に現れれば称え、道を害さなかった。推し量ればしばしば的中、財産を増やした。偽りの手段を用いて句踐を覇者とし、合わなければ去った。三度遷って位を避け、名声は海内に聞こえた。越を去って斉に行き、老いて西陶に身を置いた。次男は楚で犯罪を犯し、予想が当たって死んだ。二人の行いは始めから終わりまですぐれていた。子胥は人をしのいでいるというべきではないか」
問うて言った
「子胥は楚の宮殿を伐ち、その子を射たが、殺さなかったのは、どうしてか」
「及ばなかったからである。楚の世継ぎは雲夢山に逃走した。子胥の軍は平王の墓に鞭打ち、昭王は大夫申包胥を使わし秦に行かせ救援を求めさせた。于斧の漁師の子は子胥に諫言し、子胥はたまたま秦の救援が至ったので、そこで兵を率いて還った。越は無道の楚で疲労しているのを見て、軍隊を興して呉を伐った。子胥はやむを得ず、これを就李に迎え撃ったのである」
問うて言った
「墓を暴いて死体に鞭打ったのはどのように言い表せるか」
「子が仇を討ち、臣下が賊を討伐するのは、その至誠が天を感動させ、是正が行きすぎるものだ。子育てをしている犬は虎に哺乳し、禍福を計らなかった。立派な道義は誅殺されず、主要な悪を誅殺するのである。子胥が墓を暴き死体に鞭打ったのは追及されない。このように子胥の呉越を記述したのは、類似の事柄によって、後世に明らかに伝えようとしたのである。善を著して誠とし、悪を譏って戒めとした。句踐以来、更始の元号に至るまで五百余年たち、呉越が互いに攻撃する事態がまた現れている。百年に一人賢人が現れ、なお比肩するようであった。その事を記述するのに、要にある人がいた。姓は「去」に「衣」を合わせて「袁」であった。その名は「米」の上に「庚」をかぶせて「康」であった。禹は来たりて東征し、死んでその境界に葬られた。自ら排斥するのを正しいとせず、類似の出来事に託して自ら明らかにした。精気を描写して愚行を露わにし、類似の事柄で略述し、後世の人に告げるのを待った。文が集まり辞が定まったのは、国の賢人によるものである。国の賢人の姓は「口」を「天」がうけて「呉」であった。楚の相の屈原は、これと名が同じであった。古今に明らかにであり、徳は顔淵に並ぶ。当時、人々と与することができず、隠匿して自らゆったりとした。申酉の年に、道を懐いて人生を終えた。友人が見棄てなかったのは、まるで孔子が麒麟を得たときのようであった。その意を見て、その文をなげいた、ああ、悲しいことだ。故きを温ね新しきを知り、子胥のことを述べ著すことにより、未来と今のことを教えた。累世にわたり次々に見られるうちに、論者は実情を得られなくなり、そこに達するものはいなくなってしまった。春秋のように尭舜を詳しく述べ、周文王を重視している。これを天地に比較し、五経に著した。徳は日月に等しく、智は陰陽に比肩した。『詩経』の「伐柯」は、自分を他人に喩えたのである。後から生まれた者は敬うべきだが、思うに年のよるものではない。作者は口を姓とし、万事を語った。「口」の下を「天」が承けたのは、徳が高明ということである。屈原とは名を同じくし、その意は相応じていた。百年に一人賢人が出るので、賢人がまた生まれたのである。古今のことに明るいのは、知識が広いということである。徳は顔淵匹敵し、はかることはできない。当時は用いられることはなく、口を閉じてで精神をとざし、ふかく自ら誠を実現した。孔子が麒麟を見て、道が困難である知ったときのようであった。姓の文字の中に「去」があるのは、世俗と容れることができないということである。「衣」をつければ名前が完成するのは、賢人がこれを着て明らかにすることができたということである。名の文字の中に「米」があるのは、八政の珍宝ということである。「庚」に「米」をかぶせて「康」というのは、戦争が食糧を断つということである。ああ、悲しいことだ、与するのを肯んじる者はなかった。屈原は境界から離れ、南楚に放浪し、自ら湘水に沈み、范蠡が所有した。

 

【01】原文「維先古九頭之世蒙水之際興敗有數承三繼五」、「蒙水之際」は意味が取れないのでそのまま書いています。
【02】原文「故於自守」錢培名によれば「故」は「固」の誤り。ここではそれに従う。(「越絶書校釋」李步嘉校釋 中華書局2013)

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冬コミは抽選漏れとなりましたので、次回参加イベントは2014年2月のCOMITIA107になります。新刊を予定しています。
どうぞよろしくお願いします。

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