制作状況やら創作にまつわるいろいろとか

文献の最近のブログ記事

ツイッターで訳していた、越絶巻第一 越絶荊平王内伝第二をアップしました。

越絶書というのは序文にも書かれていましたが、もともといろんな編者の作を寄せ集めた感があります。

巻の数え方もどうもすっきりしなくて、巻一が越絶荊平王内伝第二、巻二が越絶外伝記呉地伝第三になってます。
さらに版本によって「越絶書巻一」が「越絶巻第一」になってたり、「越絶荊平王内伝第二」が「越絶」がつなくてただの「荊平王内伝第二」と表記されてたり。最初の「外傳本事」を巻一に含めているものと、巻一には含めずに単に「越絶書」としているものがあったりして、あまり整理されていないようです。

「荊平王内伝」の次の「外伝記呉地伝」は、おなじ呉のことなのに一方が内伝で一方は外伝なのですね。あまり洗練された文献とは言えなさそうです。

 



2014年3月10日

Twitterでの越絶訳

Twitterで訳していた越絶荊平王内伝第二が、最後まで訳し終わりました。

近日中に、サイトのほうも更新したいと思います。

明日からは外伝記呉地伝に入る予定です。



2014年3月 5日

越語上

Twitterで少しずつ訳していた『國語』の「越語上」を、最後まで訳し終わったので、サイトにアップしました。
まだ、いろいろと見直す箇所があるかもしれません。気づいたら随時修正を入れていきたいと思います。

先に訳した「呉語」も、「越語上」と同様に句踐が夫差に敗れるところから始まっています。
しかし、「越語上」との整合性はあまりなく…

これから読んでいこうとしている「越語下」も、范蠡との問答が延々と続いていたりして、「上」と「下」の連続性はあまりないです。

 



2014年3月 4日

左伝哀公元年②

つづき

使大夫種因呉大宰嚭以行成。呉子將許之。

大夫種をつかわして呉の大宰嚭をつうじて和平を行おうとした。呉子はまさにこれを許そうとした。

 

左伝では、大夫種が和平の使者となった、そのさい呉の太宰伯嚭を通じて和平を行おうとした、ということが書かれています。

これが「越語上」では伯嚭に美女を贈った云々というのが加わってくる。

 

山に立てこもっていたのに美女を贈るというのはどうにも違和感を感じます。
おそらく美女を贈ったというのはあとからくっつけられたエピソードで、伯嚭を「女に目がくらんだだめなやつ」とする価値観が、後世になってだんだんできあがっていき、それにあわせて付け加えられたのではないかと思います。



2014年3月 3日

左伝哀公元年①

『春秋左氏伝』の哀公元年(B.C.494)に、有名な夫椒の戦い→会稽の恥、あたりの記述があります。

もうすぐツイッターで訳してる『越語上』をサイトにもアップできると思うので、そのあたりと比較しながら少しずつ読んでいけたらと思います。

 

呉王夫差敗越于夫椒、報檇李也、遂入越、越子以甲楯五千、保于會稽、

呉王夫差は越を夫椒に破り、檇李の戦いに報復した。ついに越に入ると、越子は武裝した兵五千を率いて、会稽山にたてこもった。

 

「保于會稽」について、杜注が「上會稽山也」としていて、音義が「上時掌反」となってるので、「上」は「のぼる、その場所へ行く」ということで、句踐は兵五千人を率いて会稽山に立てこもったという解釈をしています。

 

『國語』「越語上」ではこのように書かれています。

 

越王句踐棲于會稽之上、乃號令于三軍曰

越王句踐は会稽山の上に立てこもり、三軍に号令して言った

 

左伝が「保」で國語が「棲」となってますが、韋昭の注によれば「山處曰棲会稽山名」となっていて、やはり「会稽山の上に立てこもった」という解釈をしています。ただ、もとの文はどちらも「会稽」となっていて「会稽山」とは書いてないですね。

 

ぼちぼち読んでいきたいと思います。続きはまた。

 



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